愛さずにはいられない

松澤 康廣

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忘れ時の

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 成宮の来園はなつかしさから出たものだった。「遺骨はここにはない」と伝えると、成宮はそれ以上訊くことはなかった。
成宮の話題の大半は24年前のことだった。

昔話も終え、帰る間際に「樫村さんにお会いでき、懐かしい話も出来ました。本当に有難うございました」と言って成宮は立ち上がった。が、不図思いついたのか、成宮はやや間をおいて話を続けた。
「あんなに道の両側一杯に、同じ樹が植えられていましたか、あの時?記憶がないんですよ。それにあの樹木はサルスベリですよね。学校って桜か銀杏が植えられているものとばかり思っていました。特に入り口は桜と決まっていると思っていました」
「華やかに咲いてすぐ散ってしまう桜はこの学園に合わないんですよ。サルスベリは百日紅と別称がある通り、花は地味ですが、枝という枝に花をつけ、長く咲きます。学園の子が地味な人生でいいから、長く咲き続けてほしいとの願いを込めて私が植えました」樫村は当時を想い浮かべながら、ゆっくり言った。
「そうなんですか。感動しました。やっぱり樫村さんは教育者だ。全くその通りです。樫村さんのそのお考え、共感します」
 成宮は何度もうなずきながら言った。

成宮の再訪から半月ほど経った、柔らかな日差が注ぐ日だった。千佳子を知る二人目の人物が現れた。裾(すそ)の広がった、黄色のパンタロンを身に着けた若い女だった。
 樫村が入室すると、女は面接室の長椅子の前に座ったまま、顔だけ樫村に向け、軽く会釈した。そして、すぐに白いハンカチで顔を拭(ぬぐ)った。夏でもないのに、随分と汗をかいている、恰好から判断してもどこかのお嬢さんに、樫村には見えた。駅からここまでの、1kmもない距離で、例え、最後に100m足らずのややきつい坂を上ったとしても、かく汗が多すぎる……。
 樫村も軽く会釈した。
 樫村は長机をはさんで正対した。
「千佳子さんの遺骨がこちらに引き取られたと聞いて、お焼香だけでもあげたいと思い、来ました」と女は言った。現代風な服装の割に化粧は薄かった。
「申し訳ないが、ここにはないんです。今は私の家にあります」
 今年の3月に完成したばかりの家だ。
 樫村の妻は学園の寮母として、樫村と同じ職場で25年働いた。樫村は妻とともに長く寮父として、夫婦で学園内に住み込み学園を支えた。創立以来、創立者親族が名誉職のように園長をつとめていたが、経営上、学園をよく知る人物が園長をつとめるべきとして、5年前、樫村に譲った。妻はやりにくくなったのだろう。夫婦中心で学園が動くというのは、学園にとってどうなんだろう、という一部の理事の意見もあり、妻はそれを理由にして、今年退職した。

 家が必要になった。妻は静かなところがいいと言った。同じ横浜市内だが町田に近い、小高い山を切り開いて、電鉄会社の東急が開発した分譲地に家を建てた。周辺は田畑も多く、分譲地から離れると、野菜の無料販売所がいくつもあるような場所だった。
 かなり広い墓地を持つ、寺院があり、新たに墓地を分譲していたこともそこを選んだ理由の一つだった。
 すぐに購入した。墓石は「先祖代々之墓」と彫るよう注文した。そこに、千佳子が入る。
「今、お墓を作っているところです。完成したら、連絡しますよ」
 女はどの辺ですか、と訊いてきた。樫村は寺院名とその住所を記し、最寄(もよ)りの駅から寺院までの地図を描いて渡した。そして、一番知りたいことを訊いた。
「ところで、志穂の父親のことなのですが?志穂は千佳子の娘なんですが、知っておられますよね」
「知っています。千佳子さんの研究会のみんなで可愛がっていました。ただ、私が千佳子さんを知ったのは半年くらい前で、千佳子さんの研究会に数回参加したぐらいなんです。父親のことは私たちも聞きませんでしたから、皆知らないと思います」
「千佳子の周りに男性はいたのでしょうか?」と樫村は訊いた。女は即座に言った。
「今はいません。研究会は会員が10人くらいで、皆私くらいの年齢の女性です」
「今はいません、ということは過去にはいた?」
「私をこの研究会に誘ってくれた大学の先輩の話ならできますが……。本当かどうか分からない話ですけど」
「全く情報がないのです。どうぞお聞かせください」
 女は話し始めた。
「志穂さんの父親は、千佳子さんが偽装夫婦として、一緒に生活していた男ではないかというのが可能性の一つです。男だけでアパートを借りるのは、活動家にとっては厳しいんです。どうしても、出入りが激しくなるので、警戒されるんです。そこで、夫婦を装うんです。実際、千佳子さんがそういう生活をしていたかは分かりません。でも、千佳子さんが全学連でいたビラの内容なんですが、女性解放の一つの例として、この偽装のことが書かれていて、それが、実に具体的で生々しいんです。経験しなければ分からない……という感じで。私も読んでそう思いました。あと、もう一つ可能性があることとして、千佳子さんはキャバレーに勤めていたことがあるんです。性差別の根源を経験しなければって千佳子さんは言っていたそうです。そこで、出会った男と……という可能性はあるのではないか。千佳子さんが父親のことを話さないので、どうしても、不本位なことを考える。申し訳ないですが……」
 聞くに堪えない。
 樫村は悲しくなった。千佳子の不明の父、千佳子の自殺した母、どこのだれかも分からない志穂の父、内ゲバで殺された志穂の母、千佳子。二世代にわたる継承しがたい過去。だから、志穂を取り巻く過去の闇は消した。しかし、千佳子もそうしたのだ。何かを変えなければ、と樫村は思った。
「あまりにも可哀そうです」突然、女は泣き始めた。
「新聞も警察も、まるで千佳子さんが殺されたのは当然のように扱った。千佳子さんは組織に属しているけど、組織を批判していたんです。千佳子さんが組織の殺人に関係したわけでもなく、およそ、殺される理由などないのに……。マスコミが志穂ちゃんのことを取り上げないのも、悪意を感じる……」
 確かに、志穂のことが報道されないことについては樫村も不思議に思った。しかし、そのおかげで、新戸籍を作りやすくなった。マイナスではなかった。有難いくらいだ……。
「死がこんなふうに軽く扱われるってどういうことなんでしょう。理不尽ってこういうことをいうんではないですか」
 女は話せば話すほど早口になった。
「千佳子さんは本当に立派だった。千佳子さんの素晴らしいところはただ婦人解放のために戦ったからではないんです。自分自身の内なる差別を徹底的に追及するその姿勢です。それと、真の婦人解放は、女のためだけではない。差別をしている男の解放のためでもある、って主張しているんです。それなのに、こんな殺され方をして……」
この女性の様子から見て、これ以上情報を手に入れるのは無理だな、と樫村は思った。
「あなたを勧誘した先輩の女性から話を聞くことは出来ませんか?」
 樫村は話題を変えた。
「無理です。こんなことがあって、みんな去った。先輩は運動から完全に手を引いて、何もなかったように、就職活動をしています。連絡しない方がいいと思います。所詮しょせん、お嬢さんの火遊びだったんです」

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