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忘れ時の
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しおりを挟む 河井壮夫は二期で市長を辞めた。三期目を市民は期待している、当選は間違いない、と支持者は何度も出馬を勧めたが、河井は考えを変えることは無かった。支持者の分析は間違いなかった。教員仲間からも河井は広く支持されていた。
何故、河井が支持されたか。それは彼が「市民が嫌がることをしなかった」からだ。何かをしたからではない。
二期で河井が行ったことは、Y駅周辺の再開発と住民投票条例制定の二つだけだ。そのうちのY駅周辺の再開発は前市長から引き継いだものだから、河井の独自政策で二期の成果と言えるのは住民投票条例しかない。
前市長と違い、河井がイニシアチブをとって市政を行ったといえるのは住民投票条例だけだった。その条例についても彼は提案者に徹した。決定は議会に任せ、提案の内容を変更されても彼は拒否しなかった。それが河井の手法だった。それは議員との関係を良好にした。
住民投票条例は河井の政治に対する考え方の象徴だった。
「市民は市長の政策の全てを支持して任せているわけではない。大方の政策または市民が最も関心のある政策をよかれと思うから、任せているのだ。だから、任せられているから何をしてもいいとはならない。リーダーは自分の政策が市民に受け入れられているか敏感でなければならない。それが明瞭に分かるのは住民投票だけだ。常に政策の決定権は市民にあるのだ」
この主張は大いに市民を喜ばせた。
河井の三期目は確実だった。しかし、二期目の途中で住民投票条例が制定されると三期目の辞退を間髪をいれず公表し、どんなに翻意を促されても、覆ることは無かった。そして、それだけではない。任期を終えると、政治の表舞台からも姿を消した。
その後の河井について、市民に動向が知らされることはなかった。河井の意向だったのだろう、マスコミもそれを尊重して記事にしなかったのだろう。妻に任せていた家業の梨園の経営に尽力している、ネットで通信販売も行い、順調に売り上げを伸ばしている……、とのことが2年後、パソコンに向かう河井の写真と共にタウン紙に載って、初めて多くの市民は彼のその後の動向を知った。
河井らしいと私は思った。
市長になってからの河井の活躍は私の河井に対する気持ちを大きく変化させた。私が抱えた劣等感という私的な感情は完全に意味のないものになっていた。河井は別な超越した人格を持った個人として、厳格に位置していた。ある種の諦観(ていかん)もあったかもしれないが、それを心地よく感じる自分がいた。
その河井壮夫から副読本の件以来の、久方ぶりの電話を受けたのは、私の定年が視野に入った2009年の8月の末だった。
突然の電話に私は再び驚愕し、対応が乱れた。河井から電話を受けるなど考えもしないことだった。一体、副読本のことで彼から電話を受けてから何年経っているだろう。それさえ、すっかり忘れていた。
一応の挨拶を終えると、「副読本のことで話したいことがある」と河井は用件を告げた。私は、また副読本か、と思い、不快になった。副読本を出して、もう8年近くが経過していた。今更、何を話そうというのかと思った。
私が返事に躊躇っていると、河井はゆっくり話し始めた。
「副読本がどうかということではないんだ。君が書いたあの時代のことで、ちょっと考えることがあってね。君に意見を聞きたいんだ。頼む」
どこか切迫した感じがあった。私は同意した。積極的に同意したわけではない。が、河井の突然の電話に何か河井の強い意志を感じたからだ。
子どもの頃、抱えていたわだかまりは、もうなかった。今の河井の姿に興味もあった。
何故、河井が支持されたか。それは彼が「市民が嫌がることをしなかった」からだ。何かをしたからではない。
二期で河井が行ったことは、Y駅周辺の再開発と住民投票条例制定の二つだけだ。そのうちのY駅周辺の再開発は前市長から引き継いだものだから、河井の独自政策で二期の成果と言えるのは住民投票条例しかない。
前市長と違い、河井がイニシアチブをとって市政を行ったといえるのは住民投票条例だけだった。その条例についても彼は提案者に徹した。決定は議会に任せ、提案の内容を変更されても彼は拒否しなかった。それが河井の手法だった。それは議員との関係を良好にした。
住民投票条例は河井の政治に対する考え方の象徴だった。
「市民は市長の政策の全てを支持して任せているわけではない。大方の政策または市民が最も関心のある政策をよかれと思うから、任せているのだ。だから、任せられているから何をしてもいいとはならない。リーダーは自分の政策が市民に受け入れられているか敏感でなければならない。それが明瞭に分かるのは住民投票だけだ。常に政策の決定権は市民にあるのだ」
この主張は大いに市民を喜ばせた。
河井の三期目は確実だった。しかし、二期目の途中で住民投票条例が制定されると三期目の辞退を間髪をいれず公表し、どんなに翻意を促されても、覆ることは無かった。そして、それだけではない。任期を終えると、政治の表舞台からも姿を消した。
その後の河井について、市民に動向が知らされることはなかった。河井の意向だったのだろう、マスコミもそれを尊重して記事にしなかったのだろう。妻に任せていた家業の梨園の経営に尽力している、ネットで通信販売も行い、順調に売り上げを伸ばしている……、とのことが2年後、パソコンに向かう河井の写真と共にタウン紙に載って、初めて多くの市民は彼のその後の動向を知った。
河井らしいと私は思った。
市長になってからの河井の活躍は私の河井に対する気持ちを大きく変化させた。私が抱えた劣等感という私的な感情は完全に意味のないものになっていた。河井は別な超越した人格を持った個人として、厳格に位置していた。ある種の諦観(ていかん)もあったかもしれないが、それを心地よく感じる自分がいた。
その河井壮夫から副読本の件以来の、久方ぶりの電話を受けたのは、私の定年が視野に入った2009年の8月の末だった。
突然の電話に私は再び驚愕し、対応が乱れた。河井から電話を受けるなど考えもしないことだった。一体、副読本のことで彼から電話を受けてから何年経っているだろう。それさえ、すっかり忘れていた。
一応の挨拶を終えると、「副読本のことで話したいことがある」と河井は用件を告げた。私は、また副読本か、と思い、不快になった。副読本を出して、もう8年近くが経過していた。今更、何を話そうというのかと思った。
私が返事に躊躇っていると、河井はゆっくり話し始めた。
「副読本がどうかということではないんだ。君が書いたあの時代のことで、ちょっと考えることがあってね。君に意見を聞きたいんだ。頼む」
どこか切迫した感じがあった。私は同意した。積極的に同意したわけではない。が、河井の突然の電話に何か河井の強い意志を感じたからだ。
子どもの頃、抱えていたわだかまりは、もうなかった。今の河井の姿に興味もあった。
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