9 / 67
危険な関係
7
しおりを挟む
河井壮夫と私はどこか馬が合った。そこに波が立ったのは河井の一言からだった。
河井が「これからは俺を肥前守と呼べ。俺はお前を出雲守と呼ぶから」と言ったのは二人が幸田小学校5年生となった、昭和37年(1962年)の冬のことだった。河井の豪邸の応接間での出来事だった。
ここに来る前、私と壮夫は野球をしていた。
子供が毎日遊びまわるため固くなった、河井家所有の、水の涸れた田で、今日も、手ごろな長さと太さの古木をバットにし、ゴムボールで私たちは野球をしていた。代官地区の小学校男子の大半が参加していた。が、雪が降り出して、それもかなり大粒の雪になったので、野球は中止となったが、私だけ河井から解放されず河井の家に付き合わされたのだ。
二人は、小さいときからよく遊んだ。家は決して近くは無かった。100m以上離れていた。
どういう経緯で知り合ったのかは覚えていない。しかし、知り合ってからすぐ仲良くなったと思う。
この頃二人はいつも一緒だった。場所は決まって河井の家の庭だった。そこには当時の子どもが満足できる全てがあった。
庭に面した納屋には河井の遊び道具が詰まっていた。納屋の奥に置かれた何個もの樽は玩具入れになっていて、そこには古い、木製の旧式の玩具から最新のセルロイドの玩具まで何でもあった。卓球台もあった。二人の顔が漸く台を越えるようになってから、毎日のように卓球をしたものだ。
庭は広かった。そこには、大小様々な樹木が溢(あふ)れていた。
かくれんぼには最適だった。
走り回る二人は、剪定していた庭師に庭木を折らないように注意しな、とよく声をかけられた。
庭師に限らず、河井の家に出入りする大人は多かった。家の中にも、近くの畑にも……。
河井家は小高い山に面していて、そこもまた遊び場で、また冒険の場だった。そこにも大人が出入りした。彼らは山に育つ筍や栗や野草を盗みに来る者たちだ。河井壮夫を見ると、慌てて逃げていった。彼らだけが、仕事外で出入りする少数の悪者で、後の大人は何らかの仕事で来ている者たちだった。河井家の裕福振りを象徴していた。
納屋には犬もいた。バロという名のコリーだ。
高齢で、テレビ番組で登場した「ラッシー」のようには走り回らなかった。が、背が小さく怖がりだった私にはそれが嬉しかった。
常に腹を空かしていた私には、いつ来ても果実が実っていることも魅力だった。畑には各所に桃、葡萄、柿などいくつもの果樹があり、冬を除けばいつでも季節ごとの果実を採って食べられた。小学校5年生となった、この頃は流石に私も「遠慮」が理解できるようになり、自由にとって食べることはなくなったが……。
二人は河井の母家の端にある、大きな畠に面した応接間にいた。二人が向かい合った、木目の浮き上がった、鮮やかな黒光りのする大きなテーブルには、大皿に収まりつかないほどの、十数本もの実をつけたバナナが一房置かれていた。
当時、バナナは貴重品だった。私は見たことはあるが、食べたことは無かった。
河井の母が運んできた紅茶もあった。それを飲むのも初めてだった。
河井はすぐに飲み始めた。
私は口をつけなかった。
応接間に入ったのもこの時が初めてだった。緊張していた。
河井壮夫の座るソファの後ろには大きなステレオがあった。
河井は陽気に、大きな声でその一部を歌った。
歌手は絶叫していた。河井も絶叫した。
ハリー・ベラフォンテという外国の歌手の「バナナボート」という歌だと壮夫は言った。
歌い終わると、ステレオのレコード針を外すために河井は立ち上がった。
痒いのか頭を掻きながら河井は戻ってきた。そして、ソファに座ると、すぐに河井は言った。
「ここは、昔、幸田村と呼ばれていて、おれんちとおまえんちがここに最初に住んだんだ。クサワケって言って、偉い侍だったんだぞ」
彼は続けた。
「だから、子孫であるおれたちはそれを忘れないように、お互いを昔の名前で呼ぶんだ」
きっと、父親か母親から先祖の話を聞かされたのだろう。まさか、親が壮夫に自分をそう呼べとまでは言わなかっただろうが、先祖に誇れる自分になりなさいぐらいは言われたに違いない。
河井はいいよ、とその時私は思った。
河井家は江戸時代に代官を務めていたので、彼の家のまわりは代官地区と今も呼ばれている。御殿のような大きな家で、この応接間だけで、我が家と変わらない広さだ。いや、広い。
河井は優雅に紅茶を飲み、分かりもしない外国の流行歌の流れる豪邸で生活している。肥前守がどういう身分かは知らないが、きっと偉いんだろう。そう呼んでも壮夫には違和感はない。いや、相応しい……。
その時から、私は彼を肥前守と呼んだ。自然に出た。彼も私を出雲守と呼んだ。
私は呼ばれて、嬉しく思ったことは一度もない。それでも、本人の前であからさまに嫌がらなかったのは、そう河井が呼ぶのは二人でいる時か、他の子がいても気づかれないような場面でだけだったからだ。
もし、他の友達が知りうる場面でそう呼んだら、いくら気の弱い私でも、きっと「絶交だ」と大きな声で言ったに違いない。そのくらい、嫌だった。
今から考えれば、そう言うべきだった。
そう言わなかったから、あれほど仲のよかった関係が壊れていってしまったのだ。しかし、その頃は壊れることなど想像もできなかった。
河井が「これからは俺を肥前守と呼べ。俺はお前を出雲守と呼ぶから」と言ったのは二人が幸田小学校5年生となった、昭和37年(1962年)の冬のことだった。河井の豪邸の応接間での出来事だった。
ここに来る前、私と壮夫は野球をしていた。
子供が毎日遊びまわるため固くなった、河井家所有の、水の涸れた田で、今日も、手ごろな長さと太さの古木をバットにし、ゴムボールで私たちは野球をしていた。代官地区の小学校男子の大半が参加していた。が、雪が降り出して、それもかなり大粒の雪になったので、野球は中止となったが、私だけ河井から解放されず河井の家に付き合わされたのだ。
二人は、小さいときからよく遊んだ。家は決して近くは無かった。100m以上離れていた。
どういう経緯で知り合ったのかは覚えていない。しかし、知り合ってからすぐ仲良くなったと思う。
この頃二人はいつも一緒だった。場所は決まって河井の家の庭だった。そこには当時の子どもが満足できる全てがあった。
庭に面した納屋には河井の遊び道具が詰まっていた。納屋の奥に置かれた何個もの樽は玩具入れになっていて、そこには古い、木製の旧式の玩具から最新のセルロイドの玩具まで何でもあった。卓球台もあった。二人の顔が漸く台を越えるようになってから、毎日のように卓球をしたものだ。
庭は広かった。そこには、大小様々な樹木が溢(あふ)れていた。
かくれんぼには最適だった。
走り回る二人は、剪定していた庭師に庭木を折らないように注意しな、とよく声をかけられた。
庭師に限らず、河井の家に出入りする大人は多かった。家の中にも、近くの畑にも……。
河井家は小高い山に面していて、そこもまた遊び場で、また冒険の場だった。そこにも大人が出入りした。彼らは山に育つ筍や栗や野草を盗みに来る者たちだ。河井壮夫を見ると、慌てて逃げていった。彼らだけが、仕事外で出入りする少数の悪者で、後の大人は何らかの仕事で来ている者たちだった。河井家の裕福振りを象徴していた。
納屋には犬もいた。バロという名のコリーだ。
高齢で、テレビ番組で登場した「ラッシー」のようには走り回らなかった。が、背が小さく怖がりだった私にはそれが嬉しかった。
常に腹を空かしていた私には、いつ来ても果実が実っていることも魅力だった。畑には各所に桃、葡萄、柿などいくつもの果樹があり、冬を除けばいつでも季節ごとの果実を採って食べられた。小学校5年生となった、この頃は流石に私も「遠慮」が理解できるようになり、自由にとって食べることはなくなったが……。
二人は河井の母家の端にある、大きな畠に面した応接間にいた。二人が向かい合った、木目の浮き上がった、鮮やかな黒光りのする大きなテーブルには、大皿に収まりつかないほどの、十数本もの実をつけたバナナが一房置かれていた。
当時、バナナは貴重品だった。私は見たことはあるが、食べたことは無かった。
河井の母が運んできた紅茶もあった。それを飲むのも初めてだった。
河井はすぐに飲み始めた。
私は口をつけなかった。
応接間に入ったのもこの時が初めてだった。緊張していた。
河井壮夫の座るソファの後ろには大きなステレオがあった。
河井は陽気に、大きな声でその一部を歌った。
歌手は絶叫していた。河井も絶叫した。
ハリー・ベラフォンテという外国の歌手の「バナナボート」という歌だと壮夫は言った。
歌い終わると、ステレオのレコード針を外すために河井は立ち上がった。
痒いのか頭を掻きながら河井は戻ってきた。そして、ソファに座ると、すぐに河井は言った。
「ここは、昔、幸田村と呼ばれていて、おれんちとおまえんちがここに最初に住んだんだ。クサワケって言って、偉い侍だったんだぞ」
彼は続けた。
「だから、子孫であるおれたちはそれを忘れないように、お互いを昔の名前で呼ぶんだ」
きっと、父親か母親から先祖の話を聞かされたのだろう。まさか、親が壮夫に自分をそう呼べとまでは言わなかっただろうが、先祖に誇れる自分になりなさいぐらいは言われたに違いない。
河井はいいよ、とその時私は思った。
河井家は江戸時代に代官を務めていたので、彼の家のまわりは代官地区と今も呼ばれている。御殿のような大きな家で、この応接間だけで、我が家と変わらない広さだ。いや、広い。
河井は優雅に紅茶を飲み、分かりもしない外国の流行歌の流れる豪邸で生活している。肥前守がどういう身分かは知らないが、きっと偉いんだろう。そう呼んでも壮夫には違和感はない。いや、相応しい……。
その時から、私は彼を肥前守と呼んだ。自然に出た。彼も私を出雲守と呼んだ。
私は呼ばれて、嬉しく思ったことは一度もない。それでも、本人の前であからさまに嫌がらなかったのは、そう河井が呼ぶのは二人でいる時か、他の子がいても気づかれないような場面でだけだったからだ。
もし、他の友達が知りうる場面でそう呼んだら、いくら気の弱い私でも、きっと「絶交だ」と大きな声で言ったに違いない。そのくらい、嫌だった。
今から考えれば、そう言うべきだった。
そう言わなかったから、あれほど仲のよかった関係が壊れていってしまったのだ。しかし、その頃は壊れることなど想像もできなかった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

幼馴染が家出したので、僕と同居生活することになったのだが。
四乃森ゆいな
青春
とある事情で一人暮らしをしている僕──和泉湊はある日、幼馴染でクラスメイト、更には『女神様』と崇められている美少女、真城美桜を拾うことに……?
どうやら何か事情があるらしく、頑なに喋ろうとしない美桜。普段は無愛想で、人との距離感が異常に遠い彼女だが、何故か僕にだけは世話焼きになり……挙句には、
「私と同棲してください!」
「要求が増えてますよ!」
意味のわからない同棲宣言をされてしまう。
とりあえず同居するという形で、居候することになった美桜は、家事から僕の宿題を見たりと、高校生らしい生活をしていくこととなる。
中学生の頃から疎遠気味だったために、空いていた互いの時間が徐々に埋まっていき、お互いに知らない自分を曝け出していく中──女神様は何でもない『日常』を、僕の隣で歩んでいく。
無愛想だけど僕にだけ本性をみせる女神様 × ワケあり陰キャぼっちの幼馴染が送る、半同棲な同居生活ラブコメ。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
学校一の美人から恋人にならないと迷惑系Vtuberになると脅された。俺を切り捨てた幼馴染を確実に見返せるけど……迷惑系Vtuberて何それ?
ただ巻き芳賀
青春
学校一の美人、姫川菜乃。
栗色でゆるふわな髪に整った目鼻立ち、声質は少し強いのに優し気な雰囲気の女子だ。
その彼女に脅された。
「恋人にならないと、迷惑系Vtuberになるわよ?」
今日は、大好きな幼馴染みから彼氏ができたと知らされて、心底落ち込んでいた。
でもこれで、確実に幼馴染みを見返すことができる!
しかしだ。迷惑系Vtuberってなんだ??
訳が分からない……。それ、俺困るの?
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる