愛さずにはいられない

松澤 康廣

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危険な関係

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 明応2年(1493年)の伊豆討ち入り以降、伊勢盛時もりとき(北条早雲)は支配地と家来を急速に増やしていた。

 家来には、鈴木一族のような紀州出身者も多かった。
 鈴木一族は伊豆の江梨えなしに居住し、大型の船をあやつり、物資を売りさばく商人だ。しかし、時には各地の支配者と結託し、支配者の要望に従い、敵地の漁村を襲ったり、上陸して敵となった者たちとも戦った。襲われる住民の側から見れば、無法者の海賊であるが、支配者にとって、この者たちを味方にするか敵にするかは重大だった。
 伊豆に進出した伊勢殿が直ちに江梨の鈴木双信を訪ね、加勢を懇願したのも、その力を頼ってのことだった。双信もまた、伊勢殿に関心があった。伊勢殿が足利幕府の直属の家来であることが魅力だった。伊勢殿に近づくことは大きな利益をもたらすに違いないと思った。      
 双信は歓待した。
 私利私欲での歓待だった。が、双信は、一瞬にして、家来として仕えることを決意した。それほどの器量を伊勢殿に感じた。
 双信だけではない。伊勢殿にはそうした新参の期待組が多く集まり、われ先に手柄を立てようとする、熱気にあふれていた。

 移住者には年貢も労役もない、勿論もちろん永遠にではないが、ゆとりができるまでは課役かえきすべてなし、だから、当面は自分の生活のことだけ考えればいい、未だ人が住まない地に住み、開発に尽力し、そして生活できるようになり、そのうち役を果たしてくれるならそれでよい、それが伊勢殿の望みである。
伊豆江梨えなしの豪商、鈴木双信そうしんの家来、関口太兵衛が出した条件は魅力溢れるものだった。
 明応の大地震がもたらした様々な辛苦に今も皆苦しんでいる。逃れる道があるなら、直ぐにも飛びつきたい、そう思って聴いているに違いなかった。
 表情をみれば、よく分かる。
 三郎にしても、その思いは同じだった。

 更に、話は続く。
 相模は地に恵まれ、平地が多く、紀州の厳しい自然環境と比べれば別天地であること、にも関わらず未開拓地が多いこと、相模は長く戦乱が続いていたが、伊勢殿が平定して、安心して開拓が出来るということ、開拓地には既に開拓する者がいて、その者たちが新たな参加者を待っている状態であること、だから、移住者は歓迎される、そして、開拓に必要な知恵も出してくれるから心配もない……。
 関口太兵衛の弁舌は滑らかだった。
 彼はしきりに鼻に手をやった。できもので鼻は赤色にれ上がっていて、それが気になるようだった。触るたびに手で声がさえぎられ、不明瞭になりはしたが、それがまた、妙な抑揚となって、く者の気をひいた。
 更に太兵衛の熱弁は続いた。
「伊勢殿は伊豆から相模に進出したばかり。相模の民は今、様子を見ている。殿は民の心をつかむことに腐心ふしんしている。新たに獲得した未開拓地を殿の家来が開発する、その地の農民が見捨てた土地、そこを開発する、そして成功すれば、殿の名声が上がる」
 目的はそれだけだと繰り返した。
 人集めにやってきた男の言葉は確信に満ちていた。
 この男のあるじの鈴木双信は紀州の出だ。熊野の地で「鈴木」という名を知らない者はいない。信頼できると三郎は思った。

 三郎は、明応4年の地震の際、津波で父と2人の兄を失った。あの日のことを三郎は今も鮮明に覚えている。
 父と兄たちは日が上がる前から磯釣りに出かける準備をしていた。
 父と釣りにでかけるのは久しぶりだったから、兄たちは朝から陽気だった。三郎はまだ小さいので連れて行ってもらえなかった。
 明応4年(1495年)卯八月十五日、朝から快晴であった。
 三人が出かけてから、どれくらい時間がたっただろう、頭上高くに太陽は昇っていた。
突如、大きな揺れがやってきた。その時、三郎は家から一番近場にある、収穫を終えた瓜畑を耕す母の手伝いをしていた。母は枯れた瓜の葉を拾い上げては、三郎に渡した。三郎はそれを抱えて、畑のすぐそばの土手のへりから投げ捨てた。揺れ始めたとき、三郎は土手に向かう途中だった。
 母は揺れが始まると、瓜の葉を抱えたまま立ち尽くしている三郎のもとに駆け寄り、彼の頭を押し、座らせ、そして抱きしめた。
 揺れは収まる気配も無く大地を揺らし続けた。経験したことのない巨大な揺れが長く続いた。
 ようやく揺れが収まると、母は三郎を立たせ、手を引いて家に向かった。
 不思議と家自体は無事だった。しかし、家の中は別で、土間にあるものは全て倒れ、かまども壊れて使い物にならない状態だった。
 母はしばらく呆然としていたが、やがて災いを受け入れる気持ちになれたのか、静かに、片付け始めた。三郎もそれに続いた。二人はただ無言で動き続けた。
 低く、腹に響くような、重い音が遠くから聞こえてきた。
 それが何であるか母はすぐに理解できたのだろう、三郎の手を引いて家を出た。そして、音のする彼方を見下ろした。
 熊野川は、川と呼べないほどの巨大な幅の波を伴って、平地をさかのぼっていた。普段の熊野川は三郎の家からはるか遠くに流れていて、小さく見えるに過ぎなかったが、今見る熊野川は平地を全てのみこみ、巨大な濁流となって、家を、作物を破壊していた。
 そして流れが止まると波は一気に引いた。場違いな静けさの中、見るに堪えない姿となった雑多な残骸を残し、波は去っていった。そして、川だけがいつもの姿になった。
 見る世界全てが荒れ地と化し、畠も家も何もかもが無くなった。
 三郎は両手で母の腰にしがみ付いて、ただ立って今は静かになった川を見ていた。
 今も父と二人の兄の死体は見つかっていない。だから、本当は死んだのかどうかも分からない。近くの岩場に行ったのだと思うが、どこに行ったのかも分からなかったから、探しようも無かった。帰って来ないから、死んだとしか考えられないのだ。
 母は気丈だった。そして、父や兄の死を認めてはいなかった。
「お前は死んだと思っているのかい。今日、いやあ、大変だったよ、って言って帰って来るかもしれないじゃない。どう思うかが大事なんだよ。生きていると思えるうちは生きているんだよ」と母は言った。
 その理屈は三郎には強がりにしか聞こえかった。が、そう思う母を分からない訳ではなかった。そう思わなければ壊れてしまう……。
 母は愚痴とは無縁な生活を続けた。
 それは三郎にはありがたいことなのだろうが、どんなに強がりを言おうと、口数も笑顔も減ったのは明白だった。その母の姿は痛々しかった。
 生活のかては死んだ父の兄が引き継いだ本家の手伝いで得た。兄嫁はまた、母の姉でもあったから、母も三郎も心の負担とはならなかった。
 だが、その家は決して近くはなかった。
 幼い三郎にはつらい距離だった。朝と違い、家に帰るときには、三郎はいつも愚図った。母を困らせたくは無かった。それでも、疲れが三郎を愚図らせた。
 姉は一緒に住んだらと何度も言ったそうだ。しかし、母は決してそれに同意しなかったという。
 母は自分だけでなく三郎にも甘えを許さなかった。そのうちに三郎は甘えないことが普通になった。三郎の脳裏から、次第に優しかった過去の母の姿は消え、厳しく無口な母だけが残った。
 その母を二度目の大地震、明応7年午8月25日の地震で失った。
 その時、三郎は家の前の庭で、一人で遊んでいた。珍しく、その日、姉の手伝いはなかった。
 この日のことも忘れない。
 三郎は庭にいた。ただ飽くこともなく、夢中になって蟻の大行進を見ていた。なぜ、そんなことに夢中になったのか、覚えていない。
 そして、地震がやってきた。
 三郎は地面にいつくばった。
 そのうちに母が助けに来てくれる、と思った。母は家の中にいた。家からきっと飛び出して助けてくれると思った。
 そう思った瞬間に音をたてて家が崩壊した。この時の地震は明応4年の地震より小さかったのに、家がつぶれた。
 三郎は母を助けに行きたかった。が、恐怖が三郎の動きをしばった。
 三郎は地面に這いつくばって、地震の終わるのを待った。
 あの時、なぜすぐに助けに行かなかったのかと何度も何度も悔いた。家が潰れて、その中に母はいるのを知っていたのに、なぜ。
 何度も、あの日を思い出す。その度に涙があふれた。
 母の下半身は潰れた屋根や瓦礫がれきに埋もれていたが、上半身は瓦礫の隙間すきまから見ることができた。
 母の頭から大量の血が吹きだしていた。
 近くに血にまみれた大きな石があった。前年の台風の際に、屋根に乗せられた木皮が風で飛ばないよう二人で積んだ大石だった。
 何回呼んでも母はこたえなかった。それでも三郎は手をいっぱい伸ばし、母の襟元えりもとつかんで、揺らし続けた。涙が止めなく流れた。
 その後の記憶はあまりない。
 はっきり覚えているのは、叔母おばの胸にすがり付いて泣いた記憶だ。
 三郎は母の傍から離れなかった。その三郎を見つけると、叔母は三郎に駆け寄り、すぐに抱きかかえた。三郎は叔母の首に縋りついて泣いた。叔母も三郎の頭に頬を擦り付け、声を上げて泣いた。
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