あらざらむ

松澤 康廣

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 七社権現しちしゃごんげんはこの山の頂にある。
 永正えいしょう元年(1504年)九月、七社権現は焼失した。
 その原因はよく分かっていない。その年、武蔵むさし立河原たちかわはらで合戦があった。上杉顕定あきさだ・足利政氏まさうじの連合軍と上杉朝良ともよし・今川氏親うじちか・伊勢宗瑞そうずいらの連合軍との合戦だった。
 この合戦に、八菅はすげ日向薬師ひなたやくしの山伏は伊勢殿の軍に加わって戦った。相模の多くの、力を持った勢力は、誰もが両上杉の内紛に飽きていた。山伏たちも同様だった。新興の伊勢殿に時代を切り開くことを期待したのである。
 合戦には勝利したが、七社権現は焼け落ちた。兵火がここまで及んだわけではないが、山を越えてきた敗残兵が追手から逃れるためか、ここが伊勢方だと知っていて火を放ったのだろう。
 火は裏手の山からやってきた。七社権現が焼け落ち、そして、強風にあおられ、またたく間に火は広がり周囲の宿坊も焼け落ちた。
 今は仮の神殿が建てられているという。

「伊勢殿がこの地を完全支配したあかつきには、必ず再建をすると約束されている。それまでは一切手をつけない。それほど伊勢殿に期待しているということだ」
と河井は言った。そして続けた。
「ここまで来て、上らないわけにはいかないな」
 河井は明らかに乗り気ではない様子だった。
 七社権現は急峻な山岳の頂の手前にあった。
 そこまで、道らしい道はなかった。木の根や突き出た岩に捕まりながら、這うように上った。
 その間に何匹もの野猿を見た。目の前にいたこともあった。
 野猿は、我々に気づくと、すぐに視界から消えた。野猿は人を怖がるとは限らない。実際、熊野で忠良は母と二人で叔母の家から帰る途中で、道でくつろいでいる野猿の親子に襲われそうになった。忠良が追い払おうと野猿に近づくと、歯をむき出して野猿が威嚇いかくした。母が忠良を引き戻したことで野猿はそれ以上の威嚇はしなかった。しかし、ここの野猿は人を恐れた。山伏は野猿も恐れる存在なのだと忠良は思った。錫杖しゃくじょうで猿を叩く山伏を想像した。
 むき出しになった木の根に足をかけて、最後の土手を登り終えると、近くにほこらが見えた。
 小さいながらも鳥居もあり、石灯篭いしどうろうを配置してある祠だった。これが仮の神殿だった。

 祠のあるあたりは切り開かれていて、広い平地になっていた。
 焼け落ちた木の残骸は隅に積み上げられ、腐りかかっていた。周囲は雑草が繁茂している。そこからさらに上ったところに神殿があるはずだった。しかし、背丈の高い雑草で何も見えなかった。

 翌朝、二人を含め10人で出発した。目的地は甲斐の岩殿権現だ。
 相模川は甲斐に入ると桂川と名前を変え、深い谷を形成していた。
 川沿いに道は切り開かれていて、甲斐と相模を往来する人がいかに頻繁であるかを物語っていた。実際に出会った人の数も多かった。
 忠良と河井は桂川に架かる猿橋と呼ばれる吊り橋の前で山伏と別れた。
 吊り橋のすぐ手前で新たな橋の建設が始まっていた。ふんどし姿の男たちが木を組む作業をしていた。吊り橋ではなく、本格的な橋を建てるようだった。
 山伏たちは予定通り岩殿に向かった。おいを背負った鼠色の隊列を見送りながら、二人は反対方向の緩やかな坂を黙々と上った。

 河井の歩みに迷いはなかった。
 明らかに道を知っているに違いないと忠良は思った。何度も来た地か、ここのどこかに住んでいたかのどちらかに違いない……。
 わずかな水量だが、それに比してやけに幅の広い谷川沿いの山の斜地に、張り付くように人家が並ぶ村で河井は歩みを止めた。見上げると、山の頂上付近まで切り開かれていて、人家が散在していた。
 よくここまで切り開いたものだと忠良は思った。ここに比べたら、幸田村の開発など容易に思えた。
 住居の数は決して多くはないが、どの家も大きく、家の周囲は畠地が広がり、その畠には必ず柿の木があり、青い実をたくさんつけていた。
 どこかで見た風景だと忠良は思った。それが河井家の周囲の風景と酷似こくじしていると気づくのにそう時間はかからなかった。
 間違いなく、河井はここの出身だと、忠良は思った。
 
 河井は忠良を外に待たせ、随分と長い時間、その村の中腹にある家の主人と話をした。明らかに忠良に聞かせたくない話に違いなかった。それは何かが気になった。
 その日、二人はその家に泊まった。

 夏でありながら、この地は暑くはなかった。夜は寒いくらいだった。
 忠良は何故か河井とこの地の主人との話が気になって眠れなかった。
 この地に来た目的は人集めだ。しかし、明日にはもう帰るという。ということは、あの主人に頼んだに違いない。人集めを。二人はそれだけの深い関係なのだ。人集めができるということはあの主人はこの村の有力者に違いない。その人物に会えるうえに、話がつけられるということは河井もこの地で結構な身分であったにちがいない。
 肥前守という身分は満更まんざら出鱈目でたらめではないのかもしれない。いや、しかしたら、ここを支配していた名のある武士なのかもしれないと忠良は思った。
 忠良は考えをめぐらすたびに目が一層えていった。
 忠良は眠るのを諦め、土間に降り、外に出た。
 明るい。幸田村より遥かに多くの星が見えた。星々は大きく、鮮明だった。

「姫様はどうしていますか?幸せに暮らしていますか?」
 ここの主人だった。
「河井殿には聞きにくくてね。是非、あなたから聞きたいと思っていたのです」と男は言った。
「姫様って、寿々……。寿々姫様のことですか?」と忠良は訊いた。
「いえ、豪姫様のことです。そうか、寿々様が今は姫と呼ばれているのですね」と男は言った。
「豪姫様?寿々姫様の母上の事ですね」忠良は了解した。河井の奥方の名前は豪なのだ。
「若しかしたら、河井殿は何も知らせていないのですね。いや、まあ、当然ですが……」
 知りたいと思った。河井の過去を。
「教えてもらえませんか。不思議だと思ったのです。ご主人の子供たちは、妹の寿々を寿々姫と呼んでいるんです。また、ご主人と奥方の関係が……」
「奥方?豪姫様が河井殿の奥方ということですか。そうですか。そういう関係にしているわけですね」
 と言ってから、少し間をおいて言葉をつないだ。
「いいでしょう。知っておいた方がいいことだから」
「豪姫様は、私どもが仕えていた小菅様の姫様で、小山田様の奥方になられたのです。そして、寿々姫様をお産みになって、暫くのちのことでした。不幸が起こったのです。小山田様が小山田家と武田家との関係を廻る内紛に巻き込まれて夜襲を受けたのです。小山田様は豪姫様と寿々姫様だけは死なせたくないとお考えになり、豪姫様を必死にご説得され、それで、河井殿に奥方とご息女の寿々姫様を託したのです。河井殿は二人を匿ってもらおうと、豪姫様のご実家である、我が主人の小菅様のもとを目指したのですが、それは無理なことでした。小菅様も夜襲を受けていたのです。私どもは覚悟を決めていました。しかし、小菅様が自らの命と引き換えに、家来を守る約束を敵方と結んだおかげで、未開拓であったこの地を私どもは与えられ、何とか生き伸びることができました。そしてこうして生活できるまで開拓して参りました。その後、河井殿は敵方の追っ手をくぐり抜けて、相模に落ち延びたことは岩殿権現の山伏である小林殿から聞いて後で知りました。それまでは、豪姫様は寿々姫様を抱えて岩殿山から身を投げたと聞いていたのです。乳呑児を抱えた豪姫様が、迫った追っ手の前で確かに崖から身を投げた。しかし、それは河井殿の奥方だったのです。豪姫様のまとっていた着物を着て、落ち葉や、木っ端を包んだおくるみを抱いて、河井殿の奥方が身代わりになったのです」
「その時、ご主人の子供たちも一緒だったのですよね」
 幸太は「母上は寿々を連れて、この家に来た」と忠良に説明した。真実はあまりに悲しすぎる……。
「一緒だったでしょう。小さかったですから。むごい話ですが、子供達には受け入れるしかないことだったでしょうからね」

 その後、小林殿の援助で、豪姫様と寿々姫様は八菅でかくまわれ、河井殿は八菅の山伏に紹介された今の地に居を建て、姫様たちを迎えたのだと主人は説明した。
 さらに話は続いた。
 小林殿は末子(まっし)に河井殿が開いた地に住み、河井殿を援助することを命じた。豪姫様、寿々姫様の安寧(あんねい)を願う、この地で暮らす私たち家来衆の要請を受けて。

 翌日、二人は岩殿権現に向かい、八菅の山伏と合流し、相模に帰った。岩殿でも、忠良は八菅の山伏と小声で話をする河井を見た。この時も忠良はなぜか、遠くに離された。この話も知ってはいけないのだと忠良は思った。
 河井の話を聞いていた八菅の山伏は何度も頷いていた。

 忠良が河井と甲斐に出かけてから後、幸田村には次から次に開発者がやってきた。全て甲斐からの土着者だった。
永正17年(1520年)に近藤甚八と小林大悟、大永だいえい元年(1521年)に山本広蔵と古市文三、大永2年(1522年)に川瀬卓見と大野吉成。小林を除いて、全て一家でやってきた。

 全ての移住者が河井の指示の元に動いた。住居も河井が場所を指定し、河井が段取りを指示して建てた。
 家族で移住した者にとって、先ず住居が必要だったのだ。どの家族も家が建つまで、河井の家に同居した。
 毎年、二家族ずつだったのは河井の家の広さと、家を建てたり、家族が落ち着いた生活ができるようになるのに必要な時間の関係だった。甲斐で、河井はそこまで話をつけていたのだ。
 河井と同様に、どの家も栗の木を植えた。そして、周辺に畠を次々と開いた。そして、野菜や芋を植えた。これらも指示だった。指示はよく通った。手際が良かった。
 何故、これほど迷いもなく開発が進むのか。
 皆、何をするか分かっているのだ。
 甲斐のあの村だ。米は作れない急な斜地の村だ。あの村をここに再現しているのだ。河井と共に……。 

 甲斐から来た者のうち唯一の単身者の小林大悟も一年も経たずに、小さいながらも住居を構えた。河井と一緒に甲斐に出かけたときに、止まった家の主人が言っていたあの小林だ。大悟は忠良と同様に16歳でこの村に来た。忠良は親近感を覚えた。
 しかし、この男は実に奇妙だった。
 村に住むことは少なかった。
 大半、どこかに出かけていた。久しぶりに帰ると、必ず河井の家に寄った。

 大悟の家が完成してからしばらくの後、河井の家で大悟と出くわしたときがあった。
 大悟は山伏の格好をしていた。
「大悟は山伏になる。だから、村にはもうたまにしか居ない。しかし、この村にはこれからも重要な人物だ。甲斐のあの村々とこの村を繋ぐ重要な役割を大悟がやってくれる。近藤も、今年来た山本も古市も大悟が連れてきた。これからも毎年移住者が来る。それを大悟が果たしてくれるだろう……」河井はそう言って、大悟を紹介した。
 忠良は七社権現を思い出していた。大悟は父と同じ道を歩み、甲斐のあの村と幸田村を繋ぐのだ。大悟はそれを心から受け入れているのだろうか、と思った。忠良は惹かれるどんな理由が山伏にあるのか理解できなかった。

 大永2年(1522年)に移住した川瀬卓見と大野吉成を最後に、その後の移住者はなかった。必要な移住者がそれで揃ったと河井は考えていた。
 その後、大悟が村に帰ることは一層減っていった。
 滅多に帰ることはなかった。その滅多にない村に帰る日はよく女を連れてきた。その女はこの村のどこかの家にとついでいった。女は皆、甲斐からやってきた。

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