あらざらむ

松澤 康廣

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 河井肥前守には三人の子がいた。
 長男 幸太、次男 甚助、そして一番下の長女 寿々すずの三人だ。幸太は三郎と同年齢で、甚助は二つ下、寿々は六つ下だった。
 三郎は河井の家に同居した。
 河井は三郎に幸田村で生活するために必要な全てを教えた。
 いや、教えてくれたのは河井だけではない。河井が教えたのはするべきことだけで、実際の、生活に必要な一切を教えたのは幸太だった。幸太は質問すれば、何でも丁寧に教えてくれた。そして、何でも出来た。
 河井はいつもこう言った。
「米に頼らないことだ。この地形だ。洪水が来たら、稲は一瞬に流される……」
 三郎も合点がてんがいった。思い出したくない、あの津波の光景がよみがえった。
 稲は幸田川沿いの沼地に育っていた。沼一面にひろがり、たっぷりと実をつけた稲穂が水面にただよっていた。平和な光景だった。
 この後、被害さえなければ、ある程度の余力が望める収穫が見込めた。
 沼地を整備し、洪水に備える手もあると思うが、河井はそれをしなかった。昔、住んでいた者もそれくらいはしただろう。それでも洪水を防げなかったからこの地を捨てた。同じ過ちはしない、と河井肥前守は言った。
 河井の家は、川からかなり離れた、山の中腹の比較的なだらかな地を切り開いて建てられていた。
 幸太は、ここにきてからの開拓の歴史をこう話した。
 父は、家の周辺の開墾に精を出し畑地にした。沼地を整備するよりも、畑地を増やすことに専念した。
 最初に裏山に栗を植えた。将来、米が不作だった時、それに代わる穀物になるからだ。次に家の周辺の比較的なだらかな地を開墾した。そこに野菜や芋を植えた。
 周辺の開墾が一息つくと、沼地に近い、低木の広がる傾斜地を焼き払い、畑地にした。そこにはきびを植えた。
 次に裏山の森の一隅に炭小屋を作った。
 炭は銭になった。相模川を越え、当麻たいまという町に持っていき、銭に変え、それで必要な農具を買った。特に収入になったのはブツゾウだった。
 ブツゾウ? 意味が分からず、三郎は聞き返した。
 仏像のことだった。何でそんなことまで河井はできるのだろうと思った。それも売り物になるほどの腕前とは……。
 河井は農閑期になると、仏像を彫った。当麻の山本という刀鍛治がそれを買ってくれた。
 山本は小田原に刀剣を納めている程の有名な刀剣鍛治で、最初は炭をそこで買ってもらっていたが、ひょんなことから仏像の話になり、河井が彫っていると伝えると、是非見せてほしいということになった。それで父が一番気に入っていた仏像を持っていくと、山本はいたく気に入り、買ってくれるようになったのだと幸太は言った。それは鉄製のくわなどの農具になった。刀剣以外に手を出さない山本が、唯一河井だけのために造った、特別な代物しろものだ。「一生かかっても父に敵(かな)わない」幸太はうなずきながら言った。
 河井は弓も巧みに扱った。山に入って、鳥や獣を容易に射た。
 手先も器用で精巧に仕掛けをつくり、それで鳥も捕り魚も捕った。だから、米の収穫が思うようにあがらなくても、何かの自然災害で全ての畑地が消失したとしても少なくとも食うには困らないに違いない、そう三郎は思った。
 関口太兵衛が言うとおり、この地を支配する北条の家臣が課役を課すことはなかった。働いて得たものは全て村のものとなった。働く場所を得て、生きがいも生まれ、三郎は毎日を心行くまで楽しんだ。
 河井は三郎を我が子と同等に扱い、常に、幸太、甚助と一緒に行動することを許した。

 時には、幸太、甚助以上に三郎は河井と行動を共にした。そこには、河井の思惑があった。
 ゆくゆく増えていくだろう村人をまとめるためにも、一家の主人として三郎に家を構えてもらう必要がある。共同して村を経営して行く同志とするためだ。今後、多数の村人が村に入ってくる。彼らを従わせるためには一人では難しさが生じるだろうと河井は考えていた。三郎を河井と同等の家格として遇することの必要を感じていた。

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