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35.触らぬ神に祟りなし
しおりを挟む''ねえ知ってる?魔法を使えることが広まれば、お貴族様に目をかけてもらえることがあるってさ!''
今となっては遠い記憶だ。
満天の星が輝く、空が綺麗な夜だった。日中、父は家のすぐ近くにあるルクレシアの森で木を伐採して、森の恵みを暮らしに変えた。
母はと言えば、家の中で麻や綿を手に、もう限界を超えていそうな古びた機織り機を動かしていた。
その手から生まれる毛布は、俺たちを優しく包み込む大きな抱擁のようで、例え隙間風が吹こうとも、どんな寒さも忘れさせる暖かさがあった。そんなささやかな幸せの毎日だった。
まだ満足に喋れない弟に栄養満点のものを食べさせるために、俺は薬草を調合し、上手く行けば町に売りに行く。
夜の湿気を吸って咲く『ノクリア』を採りにいくのは、正直なところ、真冬の極寒の中では億劫でしか無かったが、ノクリアの開花は月光の量も左右することから、街に下ろすと高値で売れた。
ひとつしかない部屋で川の字になって寝る家族。
小さな可愛い寝息を立てる弟の頭を撫でて薬籠を背負った。
その日は満月で、誰もいない暗い森の中では、お月様だけが俺を見守ってくれているような気がして嬉しかった。
足元の見えない道を微かに照らす月の光は美しくて、億劫に思っていた気持ちを吹き飛ばしてくれた。
集落と言って差し支えない村で生まれた俺にとっての美しい、とは自然の中にしか存在しなかった。
水に濡れてきらめく野菜、満月の夜に映える湖、朝日を浴びて輝く花々。
それが、俺の知る美しさの全てだった。
村の人々の手はいつも土にまみれていたし、冬の寒さに耐えられず、この時期は大体皆風呂には多く入れない。
だから、この日俺は、初めて人間を美しいと思った。
自分とはまったく違う存在に、これほどまでの衝撃を受けたのは、これが生涯で初めてだった。
''うん、そうなの…あのね僕、兄上がほんとに…だいすき''
嗅いだことのない、いい香りのする男の子。
水分を含んで重くなったその服はつるりと滑らかで、縫い目のひとつひとつが美しく、普段自分が身に着けている麻や粗い布で作られたものでは無いことだけはよく分かった。
赤い頬、すべらかな肌、綺麗に切りそろえられた髪。
氷魔法を使うその子はジルバードと名乗り、聞けば貴族に引き取られた同い年の子だという。
その言葉に、俺は驚きと共に一層の好奇心を抱いた。
貴族って、こんなふうに美しい服を着て、町や村とは違う世界に生きているのだろうか。
俺には想像もつかない世界が広がっているのだろう、そう思った。
愛らしく笑ったジルバードは、まるでその世界から来た異星人のように感じられた。
纏う気品から、肌の滑らかさ、服の質感、全てが俺とは違う、遠い存在のようだった。
─── まさか、またあの日と同じようなことを思うことになるとは、思いもよらなかったけれど。
この御方が俺と同じ人間だというのなら、今まで見てきた''人間''とは、種芋かなにかだったのだろうか。
この城が家だというのなら、俺が家だと思っていたのは靴箱かなにかだったのだろうか。
「……ようこそ、ハミルトン家へ」
静かに響く声は、言葉こそ優しいはずなのに、温かみは全く感じられなかった。
自分が嫌に小さく感じた。
目の前の御方は、決して大柄な体躯ではない。それなのに、その存在感に圧倒され、まるで自分の背が縮んでしまったような気がしたのだ。
何もかも、見透かされているのではないかと怖くなった。目を逸らしたくて仕方が無いのに、それ以上に強く惹き込まれて、逸らせなかった。
「……公爵閣下にご挨拶申し上げます。アシェル・リンデンと申します」
立て付けの悪い戸が叩かれたのは、『ノクリア』を街に売りに行き、山を超え、やっとの事で家に着いたばかりの、お日様も眠りにつこうという夕暮れ時のことだった。
いつものように、お隣のハンナさんが野菜を届けてくれたのだとばかり思い、なんの警戒もせずに扉を開けると、そこにいたのは騎士服を纏った屈強な男二人だった。
──そこから先は、驚くほどあっさりと話が進んだ。
両親は泣いて引き留めた。幼い弟は何も知らない無邪気な笑顔で、這いずりをして俺の足にじゃれつくのを見ると涙が溢れそうだった。
でも、俺が頷くだけで、この家族は死ぬまで苦労せずに暮らせる。それが分かっていたから、迷う理由なんてどこにもなかった。
目の前の机に差し出された契約書を見つめる。
そこに記された金額は、あの日聞いたものと寸分違わず、胸の奥にわずかな安堵が広がった。
「……座るといい」
「それでは、失礼致します。」
革張りの椅子に腰を下ろすと、その柔らかさに肩が跳ねた。目の前の公爵は足を組み、彫刻のように整った顔は微動だにせず、ただ俺の動きを確かめるように見つめていた。
「……契約内容をよく読み、同意の上で判を押すように。」
レイリアの後ろに控えていた侍女が手渡したペンを受け取るアシェルの指先は、尋常ではないほど震えていた。
けれど、びっしりと記された内容は、予想の範疇であり、無理難題が書かれているわけでなかった。
一文字の漏れもないように目を通す中、『甲は、乙の生活を保障し、相応の衣食住および教育の機会を提供する。』という一文に目が行った。
今まで、口が裂けても両親には頼めなかった教育を受けることが出来るのは、アシェルにとっては願ってもいなかったことであり、密かに目を瞬かせた。
「……っあ、大丈夫、です」
レイリアは軽く目を伏せると、後ろの侍女に指で合図をした。
即座に机上には印章が置かれ、視線で署名を促された。
羊皮紙の上に記されていく、たった数文字の署名。
それなのに、書き終えるまでの時間が、やけに長く感じられて息が詰まりそうだった。
横に用意された印章は契約の証となるもので、これは公爵家が用意したものだ。これを押せば正式に婚約契約が成立する。
ゆっくりと、契約書の指定された欄に指を当てると、柔らかな紙の感触とともに、指が朱の跡を残した。
その瞬間、アシェルの人生が変わったのだと、肌で理解した。
「……」
「あ、あの……これから、よろしくお願い致します。」
静寂の中、レイリアがおもむろに契約書を取り上げ、羊皮紙の端を指先でなぞる。
そして、すっと視線を落とし、公爵は、なぜか───
「なん、で」
───笑って、いるんだ。
目を細め、口角を上げ、契約書を見つめている。その笑みは、アシェルとの婚姻を素直に喜んでいるようには到底見えなかった。かと言って、嘲笑とも違う。
軽蔑でも侮蔑でもないが、純粋な気持ちからでは無いこともまた確かだろう。けれど、その笑みは、ゾッとするほど美しかった。
「……アシェル、君に会えて光栄だよ」
「……公爵、様」
名前を呼ばれた瞬間、背筋がぞわりと粟立った。口元にはまだ笑みを湛えている。
その瞳は、アシェルの奥の奥まで覗き込むように、射抜くように、真っ直ぐに向けられていた。
ここに来てから、初めて目が会った瞬間だった。
恐ろしいほどに美しく、抗えないほどに圧倒的なその眼差しに、アシェルは何も言えず、ただ息を呑むことしか出来なかった。
───
「……第百二十五期見習い、ヴィクトルです。今お時間よろしいでしょうか」
朝から自室の机にかじりつき、魔道具作りに没頭していたジルバードは、不意に響いたノックの音で現実へと引き戻された。
「はい、どうぞ」
「……失礼致します。」
ジルバードは手元の作業を中断し、目の前の男を一瞥し、首を傾げた。
先程彼が名乗った文言を思い出せば、彼は三期下の見習いらしい。
ジルバードには後輩の知り合いなどおらず、当然ながら、目の前の青年とも初対面だった
「魔塔の門前にて、ジルバード様のお知り合いだと名乗る者が面会を求めております。」
「……知り合い?」
思わず眉を寄せる。
そもそも、魔塔の外に自分を訪ねてくるような知人などいただろうか。
限られた交友関係を思い返すが、全く心当たりがなかった。
───いや、もしかしたら、もしかしたら。
兄上、かもしれない。微かに膨らんだ期待は、やがて加速していき心臓が早鐘のように打ち始めた。
ジルバードは、期待を悟られまいと、努めて冷静に、慎重に問い質した。
「どんな、人物なの?」
「……それが…フードを深く被った女性です。」
「……──え?」
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