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バイバイマタネ

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「コンニチハ! コンニチハ!」
 甲高い機械の声で挨拶をする薄汚れたキリンの乗り物。小銭を入れるとギーコギーコと駆動して歩き出す、年代物のキリンの乗り物。
「コンニチハ! コンニチハ!」
 振り向くと薄汚れたキリンは僕の目を真っすぐ見つめて、プラスチックの目玉がヒビ割れたまま冷たい微笑みを浮かべていた。

 見ず知らずの家族連れが楽しそうに、木陰のベンチに腰かけた僕の目の前を通り過ぎる。
 大ぶりなベビーカーの小さな車輪がカラカラカラカラ、砂を噛みながら地面を這う音を立てる。若い夫婦と、ふくよかな赤ん坊が、残暑の秋晴れに少し汗ばみながら、丘の上の市民公園の木立を吹き抜ける海風を浴びて心地よさそうに僕の目の前を通り過ぎる。

 おとーーさーーん、と小学校五年の長男が僕に駆け寄ってきてニコニコしている。保育園の年長さんになる次男の手をしっかり握って、二人してしっとり汗をかいている。次男も大好きなお兄ちゃんと一緒だし、ずっと手を繋いでいるしでニコニコしている。
「風が気持ちええな」
 と、その後ろから妻が言う。結婚して十数年経つが、緩やかでおっとりした関西弁は少しも薄れない。息子たちは僕の故郷の方言にも、妻のおっとり関西弁にも染まらずに、いわゆるヒョージュン語に近い話し方をする。不思議なもんだ。

「ねえ次はゾウさんがいい!」
「ボクもゾウさんがいいよ」
 兄弟がソワソワと指をさす先には、空飛ぶゾウさんがマヂカルでラブリーな音楽と共に持ち上がりグルグル回っている乗り物が見える。ゾウさん型のゴンドラに乗って、しばしの空中遊泳と洒落こむわけだ。
「そう。じゃあ、行っておいで」
「うん!」
「ほな、待っててな」

 ああ、もう少しここで座ってるよ。
 と、僕は妻と息子たちを送り出した。
 乗り物チケットを握り締めてゾウさんの列に並んだ兄弟は、やがてゲートをくぐりピンク色のゾウさんに乗り込むと、お行儀よくちょこんと座って発車のブザーを待った。係員の若い女性が割れたスピーカーから澄んだ声をにじませてナニゴトカ申し上げ、続いてブザーを鳴らした。

 プーーーーーーッ、と甲高い音がコバルトの空に響き渡ると、中心部から太いアームで繋がれた電気仕掛けのカラフルなゾウさんたちが空に向かってゆっくりと持ち上がって回転し始めた。妻はその様子をフェンス際から年代物のフィルムカメラでパチパチと撮影している。

 子供たちはピンクのゾウさんの背中に座って、安全バー越しに手を振っては回って、手元のボタンでゾウさんが上に、下に動くたびにキャッキャと笑って。
 こんがりと日に焼けた長男と、色白でほっぺの丸い次男を乗せてスローモーションで回るピンクのゾウさん。不意に、隣の赤いゾウさんに乗った母子がシャボン玉を吹き始めた。水鉄砲にファンが付いていて、トリガーを引くとフワフワと無数のあぶくが風に乗って飛び回る。
 大小様々な丸いあぶくが良く晴れたコバルトの空に乱れ飛び、甘ったるく古臭いメロディに乗ってゴォゴォギィギィと軋みながら年代物のゾウさんたちが回り続ける。突然のシャボン玉の群れに驚きながらも、楽しそうな笑顔をこぼす僕の子供たち。それを夢中でフィルムに焼き付ける妻。

 やがて再びのブザーと共にゾウさんたちが着陸し、満足そうな顔をして降りて来た兄弟と、その姿を心ゆくまで写した妻が木陰のベンチまでやって来た。
 僕たちは四人で横並びに腰かけた。
 子供たちは妻が保冷バッグで準備よく持参したペットボトル入りの果汁入りジュースを、美味そうに喉を鳴らして飲んでいた。
 冷えたジュースでご満悦の子供たちは、最後に観覧車に乗りたいと言い出した。そろそろ帰らなくちゃならない時間だということは、幼いながらもわかっているらしい。本当に、優しくて聞き分けのよい、でも程よく抜けてて元気な子供たちだ。

 こんな風に育ってくれていたことが、今でも信じられないくらい、いい子たちだった。おそらく楽しいお出かけがお開きになり、また一緒に遊びに来れる……いつでも好きな時にみんなで遊べると、素直に思っているのだろう。
 
 冷たい潮風が丘の上を駆け抜けるとき、気の狂いそうなほど晴れ過ぎた青い空が無性に寂しく思えた。
「観覧車、乗ろか」
 ベンチから腰を上げた妻の後ろを、無邪気にトテトテついて行く子供たち。僕は彼らを止めることも出来ず、ただ黙って見送ってしまった。
 赤、だいだい、きいろ、黄緑、緑、青、紫。カラフルなゴンドラの待つ空気のように白い階段を登ってゆく子供たちと妻が、みるみるうちに小さくなってゆく。紫色に塗られた丸っこいゴンドラに、こちらを振り向くことも無くヒョイと乗り込んだ幼い子供たち。

 一瞬だけ、僕の方を見て、世界一うつくしく悲しい微笑みを見せて彼らに続いた妻。

 ゴンドラは音も無く浮き上がり、静かに空に向かって昇って行く。
 まるで汗をかいたグラスの冷えたジンに浮かぶ氷のように、青い空に向かって紫色のゴンドラが溶けてゆき小さくなる。
 一方通行の観覧車が最後の遊園地から迷える魂を、悲しみに耐えきれず涙すら流せない生きた屍たちを運び出し、空に向かって昇って行く。

 僕は、自分で自分の唇が「さよなら」と動いてしまうことが怖くて、震える頬もそのままにして空を見上げたまま息だけをしていた。

 バイバイ、マタネ。
 バイバイ、マタネ。

 僕の後ろで薄汚れたキリンの乗り物が、甲高い機械の声で僕の代わりに最後の挨拶をした。
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