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蛇蝎の如く。
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2024年9月21日どようび。
約1週間ぶりに浜松市は鴨江の
鴨江ヴンダーカンマー
さんにお邪魔してきました。
朝からジムに行って、開館と同時に入れたのでササーっと済ませられた。
いっぺん帰って浜松へ。
今月二度目の三連休で、どこも車が多い。
何度か通うと、はじめは遠く感じた道のりが
(あれ? なんだ、こんなもんか)
と思うくらいには近づいて思える。
257から県道62号に入ると、オルガン坂までは思ってたよりも近くて。
開発ビルの外壁に描かれたロゴマークが姿を表す白昼の鴨江。
午後1時。
佐鳴湖から溢れ出た生ぬるい空気が、ここまで流れてくるような坂道。
眼の前の観音様のお寺から鐘がゴーン…。
インターホンを鳴らすと元気な声。
珍しく館長さんでなく、新人スタッフ蛇蝎(だかつ)さんが応対してくれた。
奥にある旧金子邸が、そのまま鴨江ヴンダーカンマーさんのサロン兼控室みたいになっているのか、ビルの裏手から引き戸を開けて昼でも薄暗い廊下を歩いてくる、黒尽くめの蛇蝎さん。とても非日常的だが、これがここの日常なのだろう。
2階の受付&占いブースに向かい合って腰掛ける。
蛇蝎さんがカウンターの向こうにちょこんと座り、ふう、と一息ついたところで、
眼の前の観音様のお寺から鐘がゴーン…。
これが開始のゴングだった。
気がついたら夕方4時。
お客さんが入ってきて、蛇蝎さんが受付&占いを始められるので席を外すまで椅子から立ちもせずふたりで喋りまくっていた。
苦手な食べ物、倉橋ヨエコさんや相対性理論(やくしまるえつこさんの方の)のこと、ナゴヤの栄あたりのこと、みたいな他愛もない話から(さすが蛇蝎さんもビブリオマニアさんをご存知だった!)、
・自作品は執念であり、完成させないということがない。
・自分の作品の登場人物は自分の子供のようなものであり、途中で放りだしてしまうことは殺すに等しい。
・作品の完成まで時間がかかったり、あっという間に出来上がったりする…作品の完成する日は作品が選んでいるのだ。
といった、書き物をする際の話まで話題は多岐に渡り…たぶん最初に話し始めたことが終わらないままずーっとシームレスに続いてたんじゃないか。
時々、バカな話もする。
そうすると、またいいタイミングで鴨江さんの鐘がゴーン。
私は小説家を目指し、小説を書くのが好きなのだが、これは子供の頃から身近にあったものを読んでいるうちに自分でも真似して何か書きたいと思ったところから、自分なりの自己表現の手段の一つとして小説を選んでいた…「取っ掛かりが小説の真似だったので、小説の形になっていった」いう方が近いかも知れない。
蛇蝎さんは別名義で脚本を書いていて、演劇を通して脚本という表現に至ったのだという。やっているうちに自分に合っている表現の手段が脚本で、脚本というフィールドで自分の世界を書き表したい、それが楽しいし好きなのだ。と。
小説でも脚本でも、なんというか
「コレを表現したい!」「頭に浮かんだコレは一体なんだ!?」
というところから行き着いた表現方法と
「憧れのコレや流行りのアレみたいなのが書きたい!」「コレと似たようなものを自分も書きたい!」
と思って始めて書いた作品では、分野は同じでも品質がぜんぜん違う。
そりゃそうだ。
誰でも初めは真似から入るが、格闘技で言えばそのうちに自分の型みたいなものが出来て、それを固めたり崩したりして創作における自分が出来上がってく。
でも真似から脱却しない場合もあるし、もっと言えばこのように上手くなりたいとか、褒められたいっていう動機も、ヒトサマに読んでもらいたいという私の常識や基準に過ぎず。
その点で蛇蝎さんは、もっと真剣で、純粋で、孤独だった。
ある意味で天然というか、私と違って不純な動機が薄くて(私には不純な動機しか無いので…)、もっと作品に対して「より在るがまま」であろうとしている。
納得できるように書くけど、基本的に必要以上の装飾やオマージュ、流行に阿ったりもしない。何故なら不特定多数に見せたいとも思っていないから。
褒められて嬉しくないわけがない、でもこっちから褒められに行くこともないし、これでお金をいただけるのは吝かではないが稼いでいこうとも思っていない。
創作って本来そういうもんだよな、というところを、基本的に真っ直ぐ歩いてきている人だった。
占い中、席を外した私に館長さんが見せてくれたのは新入りのブロンズ像。
どうも海外のお土産品なのか、持ち込まれたっきり何処かに置きっぱなしにされていたようで。いい具合に風や砂に洗われた表面が味わい深い。
ただ館長さん曰く、このブロンズ像が持っている天使のような、しかしケモノっぽいような人形?が不思議で、珍しい形をしているという。
鴨江ヴンダーカンマーさんには、このようなちょっと不思議で珍しいものもいっぱいある。ココに居ると時間が溶ける、と館長さん。
確かにそうだ。無限に見ていられる。
先週来たばかりなのに、そのとき気が付かなかったものと目が合う。
蛇蝎さんが「作品が自分を選んで来ている」というように、館長さんのところには
「品物がココと館長さんを選んで運ばれてきている」
のかも知れない。
やがて占いが終わり、お客さんの案内は館長さんにバトンタッチ。
私と蛇蝎さんも第2ラウンドだ。
蛇蝎さんの別名義「今際ノキア」での活動についても教えてもらった。
私も流石に原稿用紙は使わなくなって久しいが、蛇蝎さんが今際ノキアとして何かを書き出すときは未だにルーズリーフのノートに手書きなのだという。
それだけでも立派すぎる「執念」だし、占いのときにちらっと見えたノートも丁寧でキレイに書かれていたから、ものすごい勢いで書き出しつつもちゃんと丁寧にしている。
ピュアなアマチュアイズムの眩しさが、そこに現れていた気がする。
なかで脚本をひとつ送ってもらって、目を通させていただいた。
まだ全部は読めてないけど、プロローグの双子の姉妹のところでもうゾクっとした。
ああ、これ出産…いや生誕なんだ!
それが初めからずっと散りばめられてた「子供の遊び」によってカムフラージュされ、何処かに閉じ込められているような陳腐な発想に陥っていた。
位相を超え、布一枚を破るようにして、人が人から産まれてくる。
「生(せい)」
というものの解釈の違い、私には思い至らなかったイマジネーションだった。
それで、最後に糸が一本だけ残って繋がっているように書かれていたのか。
「張り子の虎の穴」
というサイトで活動しているとのことです。
皆様も是非。
真っ直ぐ真面目に過ごしてきて、でも心のなかでだけ背を向けて
ずっと鍛(たた)いて伸ばして研いできた真剣を鞘に仕舞って、
この人は、いま蛇蝎さんを演(や)っている。
鴨江の蛇蝎ちゃんになっている、というべきか。
そしてこの蛇と蠍が私の世界をひっくり返してしまった。
私の中でだけ「蛇蝎の如く」という言葉の意味が真逆になってしまったのだ。
こんなに可愛らしく、明るく、真っ直ぐで、でも「どっか壊れててどうかしてる」ひと。
Turned the whole world upside down
ってやつだ。
将来、就きたい仕事や好きな分野がちゃんとある。
見た目は取っ付きにくいが真面目で素直に生きてきた分、話してみると明るくて快活。
でも引くべき線がちゃんとあって、それをハッキリ言ってくれる。
まあー優柔不断や、気を使っているつもりってことにして、しづらい返事を後回しや先送りにするのってラクじゃん。言うべきことをちゃんと言うほうが実際なぜか難しいし、なぜだか波風も立つ。引っ込んでダンマリ決め込んでる方がラクなんだ。
待ってるほうは、待つしかないんだから。せっついたところで、謝られて、礼を言われて、また連絡します!って返事だけが来て。
はい、お待ちしてます!こちらこそ忙しいところありがとうございます!
ってこっちが返すと、またそれからなんにも来ない。そんなことばかりだ。
だからって返事すぐ返す奴が仕事できる奴!オレ絶対すぐ返事する!みたいな奴もイヤだけどね。少なくとも人前でその程度のこと自慢気にひけらかすような奴にロクなのいないだろ。
閑話休題。自分は自分で守らなくちゃならないし、争わないけど服従もしないというポリシーのもと、蛇蝎さんは今日までそして明日からも生きてゆく。
マイナンバーや免許証、戸籍に書いてあるのが本来の、普通の、なんにもしてないし乗ってないプレーンの自分だとして。
そんな自分が自分で自分につけた名前を持って活動するようになると、そのプレーンの自分との乖離が起こる。多かれ少なかれ、ドコかで、いつか。
でも、それはプレーンの自分が過ごしてきた、ごく薄い積み重ねがどれだけの厚みになっているかが大事で。
そこが薄っぺらいと、結局そこから逸脱することもない。
大した逸脱も、乖離も起こらない。それが当たり前で、世間の大多数の人々は、どうやらそうらしい。こんな田舎の、そのまたカイシャなんてつまんないところにいると、つくづくそう思う。でも、そんな軽薄で無意味に思える日々の地味な積み重ねがないと、本当に分厚くて面白いニンゲンなんか作られない。
努力したニンゲンが大成するとは限らないけど、高い波に乗れる奴は努力している。
と、長州力さんも言っている。
そしてその陰ながらの努力、地道な積み重ねを必ずどこかで見てくれている人がいるから、くじけず続けることが大事だ。
と、天龍源一郎さんが言っていた。
もっと何かしたいし、誰かに会いたいし、私としては好かれたい人にちゃんと伝えたい。
けどそれは往々にして届かない。
だからまた、自分で自分の心に名前をつけて切り取って並べている。
の、かもしれないなー。
いずれにしても反応が明確かつ早いので、話をしても聞いても疲れない。
夢中になっていたら夕方6時半。
5時間ぐらい話してた。
登場人物の名前の付け方も変な名前、存在しない名前を付けるとか、そういう話もしてて。蛇蝎、ってのも一見毒々しいけどギャップのあるキャラとして凄くイイ名前だと思うし、私が書いてた私の世界に、こういう子がひとりいてくれたらいいなと思うような人だった。
長丁場ありがとうございました。
お疲れ様でした。また今度は、水晶占いなどもお願いするかもです。
布や箱をかぶってトランプ占いでもいいです。
そのときは、また館長さんに連絡します。
MOTHERシリーズ、ぜひ触れてみてください。
私もマクラメ、もっと浸ります。
外は真っ暗、ライトアップされた観音様の大きな赤い門。
深い黄昏の鴨江。
そしていつも見送りに来てくださる館長さんと蛇蝎さんが、
まぶしいお寺のライトで影になっていた。
約1週間ぶりに浜松市は鴨江の
鴨江ヴンダーカンマー
さんにお邪魔してきました。
朝からジムに行って、開館と同時に入れたのでササーっと済ませられた。
いっぺん帰って浜松へ。
今月二度目の三連休で、どこも車が多い。
何度か通うと、はじめは遠く感じた道のりが
(あれ? なんだ、こんなもんか)
と思うくらいには近づいて思える。
257から県道62号に入ると、オルガン坂までは思ってたよりも近くて。
開発ビルの外壁に描かれたロゴマークが姿を表す白昼の鴨江。
午後1時。
佐鳴湖から溢れ出た生ぬるい空気が、ここまで流れてくるような坂道。
眼の前の観音様のお寺から鐘がゴーン…。
インターホンを鳴らすと元気な声。
珍しく館長さんでなく、新人スタッフ蛇蝎(だかつ)さんが応対してくれた。
奥にある旧金子邸が、そのまま鴨江ヴンダーカンマーさんのサロン兼控室みたいになっているのか、ビルの裏手から引き戸を開けて昼でも薄暗い廊下を歩いてくる、黒尽くめの蛇蝎さん。とても非日常的だが、これがここの日常なのだろう。
2階の受付&占いブースに向かい合って腰掛ける。
蛇蝎さんがカウンターの向こうにちょこんと座り、ふう、と一息ついたところで、
眼の前の観音様のお寺から鐘がゴーン…。
これが開始のゴングだった。
気がついたら夕方4時。
お客さんが入ってきて、蛇蝎さんが受付&占いを始められるので席を外すまで椅子から立ちもせずふたりで喋りまくっていた。
苦手な食べ物、倉橋ヨエコさんや相対性理論(やくしまるえつこさんの方の)のこと、ナゴヤの栄あたりのこと、みたいな他愛もない話から(さすが蛇蝎さんもビブリオマニアさんをご存知だった!)、
・自作品は執念であり、完成させないということがない。
・自分の作品の登場人物は自分の子供のようなものであり、途中で放りだしてしまうことは殺すに等しい。
・作品の完成まで時間がかかったり、あっという間に出来上がったりする…作品の完成する日は作品が選んでいるのだ。
といった、書き物をする際の話まで話題は多岐に渡り…たぶん最初に話し始めたことが終わらないままずーっとシームレスに続いてたんじゃないか。
時々、バカな話もする。
そうすると、またいいタイミングで鴨江さんの鐘がゴーン。
私は小説家を目指し、小説を書くのが好きなのだが、これは子供の頃から身近にあったものを読んでいるうちに自分でも真似して何か書きたいと思ったところから、自分なりの自己表現の手段の一つとして小説を選んでいた…「取っ掛かりが小説の真似だったので、小説の形になっていった」いう方が近いかも知れない。
蛇蝎さんは別名義で脚本を書いていて、演劇を通して脚本という表現に至ったのだという。やっているうちに自分に合っている表現の手段が脚本で、脚本というフィールドで自分の世界を書き表したい、それが楽しいし好きなのだ。と。
小説でも脚本でも、なんというか
「コレを表現したい!」「頭に浮かんだコレは一体なんだ!?」
というところから行き着いた表現方法と
「憧れのコレや流行りのアレみたいなのが書きたい!」「コレと似たようなものを自分も書きたい!」
と思って始めて書いた作品では、分野は同じでも品質がぜんぜん違う。
そりゃそうだ。
誰でも初めは真似から入るが、格闘技で言えばそのうちに自分の型みたいなものが出来て、それを固めたり崩したりして創作における自分が出来上がってく。
でも真似から脱却しない場合もあるし、もっと言えばこのように上手くなりたいとか、褒められたいっていう動機も、ヒトサマに読んでもらいたいという私の常識や基準に過ぎず。
その点で蛇蝎さんは、もっと真剣で、純粋で、孤独だった。
ある意味で天然というか、私と違って不純な動機が薄くて(私には不純な動機しか無いので…)、もっと作品に対して「より在るがまま」であろうとしている。
納得できるように書くけど、基本的に必要以上の装飾やオマージュ、流行に阿ったりもしない。何故なら不特定多数に見せたいとも思っていないから。
褒められて嬉しくないわけがない、でもこっちから褒められに行くこともないし、これでお金をいただけるのは吝かではないが稼いでいこうとも思っていない。
創作って本来そういうもんだよな、というところを、基本的に真っ直ぐ歩いてきている人だった。
占い中、席を外した私に館長さんが見せてくれたのは新入りのブロンズ像。
どうも海外のお土産品なのか、持ち込まれたっきり何処かに置きっぱなしにされていたようで。いい具合に風や砂に洗われた表面が味わい深い。
ただ館長さん曰く、このブロンズ像が持っている天使のような、しかしケモノっぽいような人形?が不思議で、珍しい形をしているという。
鴨江ヴンダーカンマーさんには、このようなちょっと不思議で珍しいものもいっぱいある。ココに居ると時間が溶ける、と館長さん。
確かにそうだ。無限に見ていられる。
先週来たばかりなのに、そのとき気が付かなかったものと目が合う。
蛇蝎さんが「作品が自分を選んで来ている」というように、館長さんのところには
「品物がココと館長さんを選んで運ばれてきている」
のかも知れない。
やがて占いが終わり、お客さんの案内は館長さんにバトンタッチ。
私と蛇蝎さんも第2ラウンドだ。
蛇蝎さんの別名義「今際ノキア」での活動についても教えてもらった。
私も流石に原稿用紙は使わなくなって久しいが、蛇蝎さんが今際ノキアとして何かを書き出すときは未だにルーズリーフのノートに手書きなのだという。
それだけでも立派すぎる「執念」だし、占いのときにちらっと見えたノートも丁寧でキレイに書かれていたから、ものすごい勢いで書き出しつつもちゃんと丁寧にしている。
ピュアなアマチュアイズムの眩しさが、そこに現れていた気がする。
なかで脚本をひとつ送ってもらって、目を通させていただいた。
まだ全部は読めてないけど、プロローグの双子の姉妹のところでもうゾクっとした。
ああ、これ出産…いや生誕なんだ!
それが初めからずっと散りばめられてた「子供の遊び」によってカムフラージュされ、何処かに閉じ込められているような陳腐な発想に陥っていた。
位相を超え、布一枚を破るようにして、人が人から産まれてくる。
「生(せい)」
というものの解釈の違い、私には思い至らなかったイマジネーションだった。
それで、最後に糸が一本だけ残って繋がっているように書かれていたのか。
「張り子の虎の穴」
というサイトで活動しているとのことです。
皆様も是非。
真っ直ぐ真面目に過ごしてきて、でも心のなかでだけ背を向けて
ずっと鍛(たた)いて伸ばして研いできた真剣を鞘に仕舞って、
この人は、いま蛇蝎さんを演(や)っている。
鴨江の蛇蝎ちゃんになっている、というべきか。
そしてこの蛇と蠍が私の世界をひっくり返してしまった。
私の中でだけ「蛇蝎の如く」という言葉の意味が真逆になってしまったのだ。
こんなに可愛らしく、明るく、真っ直ぐで、でも「どっか壊れててどうかしてる」ひと。
Turned the whole world upside down
ってやつだ。
将来、就きたい仕事や好きな分野がちゃんとある。
見た目は取っ付きにくいが真面目で素直に生きてきた分、話してみると明るくて快活。
でも引くべき線がちゃんとあって、それをハッキリ言ってくれる。
まあー優柔不断や、気を使っているつもりってことにして、しづらい返事を後回しや先送りにするのってラクじゃん。言うべきことをちゃんと言うほうが実際なぜか難しいし、なぜだか波風も立つ。引っ込んでダンマリ決め込んでる方がラクなんだ。
待ってるほうは、待つしかないんだから。せっついたところで、謝られて、礼を言われて、また連絡します!って返事だけが来て。
はい、お待ちしてます!こちらこそ忙しいところありがとうございます!
ってこっちが返すと、またそれからなんにも来ない。そんなことばかりだ。
だからって返事すぐ返す奴が仕事できる奴!オレ絶対すぐ返事する!みたいな奴もイヤだけどね。少なくとも人前でその程度のこと自慢気にひけらかすような奴にロクなのいないだろ。
閑話休題。自分は自分で守らなくちゃならないし、争わないけど服従もしないというポリシーのもと、蛇蝎さんは今日までそして明日からも生きてゆく。
マイナンバーや免許証、戸籍に書いてあるのが本来の、普通の、なんにもしてないし乗ってないプレーンの自分だとして。
そんな自分が自分で自分につけた名前を持って活動するようになると、そのプレーンの自分との乖離が起こる。多かれ少なかれ、ドコかで、いつか。
でも、それはプレーンの自分が過ごしてきた、ごく薄い積み重ねがどれだけの厚みになっているかが大事で。
そこが薄っぺらいと、結局そこから逸脱することもない。
大した逸脱も、乖離も起こらない。それが当たり前で、世間の大多数の人々は、どうやらそうらしい。こんな田舎の、そのまたカイシャなんてつまんないところにいると、つくづくそう思う。でも、そんな軽薄で無意味に思える日々の地味な積み重ねがないと、本当に分厚くて面白いニンゲンなんか作られない。
努力したニンゲンが大成するとは限らないけど、高い波に乗れる奴は努力している。
と、長州力さんも言っている。
そしてその陰ながらの努力、地道な積み重ねを必ずどこかで見てくれている人がいるから、くじけず続けることが大事だ。
と、天龍源一郎さんが言っていた。
もっと何かしたいし、誰かに会いたいし、私としては好かれたい人にちゃんと伝えたい。
けどそれは往々にして届かない。
だからまた、自分で自分の心に名前をつけて切り取って並べている。
の、かもしれないなー。
いずれにしても反応が明確かつ早いので、話をしても聞いても疲れない。
夢中になっていたら夕方6時半。
5時間ぐらい話してた。
登場人物の名前の付け方も変な名前、存在しない名前を付けるとか、そういう話もしてて。蛇蝎、ってのも一見毒々しいけどギャップのあるキャラとして凄くイイ名前だと思うし、私が書いてた私の世界に、こういう子がひとりいてくれたらいいなと思うような人だった。
長丁場ありがとうございました。
お疲れ様でした。また今度は、水晶占いなどもお願いするかもです。
布や箱をかぶってトランプ占いでもいいです。
そのときは、また館長さんに連絡します。
MOTHERシリーズ、ぜひ触れてみてください。
私もマクラメ、もっと浸ります。
外は真っ暗、ライトアップされた観音様の大きな赤い門。
深い黄昏の鴨江。
そしていつも見送りに来てくださる館長さんと蛇蝎さんが、
まぶしいお寺のライトで影になっていた。
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