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とよはし今むかし
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夜勤明け、なんとなく筋トレではなく散歩に出てみた。
天気いいし、厚着したら暑いくらいの陽気。35年も住んですっかり見慣れた景色の変わったもの、変わらないものを思い出して見比べてまた思い出して歩く。
我が家の近くに甘党トキワというお店があった。
豊橋市民のみならず東三河人の心に残る小さなお店。惜しまれつつも閉店してしまって久しいが、建物や看板はそのままだ。
たぶん半世紀は軽く営業してたはずで、ショーケースやサンプルも年季の入ったイイ味を醸していた。残念ながらそれらには雨戸がかけられていて、入り口ヨコの大判焼の実演販売スペースにも青っぽい雨戸がかかっている。
いつも小さな子供連れのお母さんや小中高生、昼休みや外回りのお兄さんお姉さん、さらに近所のじいちゃんばあちゃんと賑やかなお店だった、その面影だけが残っていて、何だか少し寂しい気分で見上げていると
「何か御用?」
振り向くと小柄なおばちゃんがひょこっと角を曲がって来て、私に声をかけていた。
「いや、私は近所のもんで散歩にネ……」
と言葉を返すと、この女性がトキワのご主人の奥様だった。
ウチから歩道橋を二つ渡って路面電車の線路も渡って、子供の足でも歩いて行けるくらいの距離にあったトキワ。目の前に神明(しんめい)公園というちょっと広めで路面電車の見える公園があって。子供の頃、祖父母に連れられて此処で遊んで、そのあと斜向かいのトキワでソフトクリームや大判焼を買ってもらうのが楽しみだった。
ちなみにトキワでは、よく言う大判焼きとか御座候というのものことを
「巴焼き(ともえやき)」
と呼んでいた。私が子供の頃は、おひとつ70円くらいだった。それが原料の高騰やなんかで閉店前には100円くらいになってたんじゃないかなあ。
「それでもソフトクリームや巴焼きは、子供が買える値段にしようって。赤字覚悟でやってたのよぉ、やっぱり喜んでくれるのがいいじゃない? 今は色んなお店が出来たけど、それでも小さい子供には甘いものってなによりだし」
と奥様。遊んだ後や、泣かずに病院行った御褒美とか散歩の目当てとか……私も子供の頃は、トキワで買い食いするのが楽しみだったもんな。
「だけど向こうの道路が広くなったから、ここは学生があまり通らなくなっちゃって。子供も減ったでしょ? それと、うちはアンコも全部イチから作ってたから小豆や砂糖を運ぶのも大変で。それで旦那が足腰を傷めてしまったのもあって閉めることにしたのよね」
奥様の回想によれば惜しまれて閉店した後も、それを知らずに豊橋に里帰りした人がやってきて驚くやらガッカリしたりが続いているとか。聞いたら閉店から3年が経った今でもそうらしい。
あの頃、子供だった人が大きくなって親になって、自分の子供を連れて来てくれた。今でも覚えて居てくれる人が居る。お店は時間を止めてしまったけれど、そんな記憶もまた時間を止めてずっと残っているようだった。
「覚えててくれてありがとうね」
別れ際、奥様がそう言ってくれた。
「こちらこそ、お世話になりました。お元気で」
そう言って別れて、また見慣れた道を歩き出した。
トキワ、懐かしいなあ。色んな思い出がある。
そのまま公会堂前の歩道橋を渡って豊橋公園に入る。お遊戯会か何かがあったようで、周辺には小さな子供を連れたお母さんお父さんが多い。子供たちもオシャマな格好をして楽しそうだ。
美術博物館を覗いてみたら郷土史のコレクションが色々展示されているというので見て来た。2階の3部屋を使って展示されたそれは江戸時代の吉田藩だったり、戦前の軍都・豊橋だったり、色んな角度からこの街を知ることが出来る大変に有意義な資料ばかり。
自分ん家のすぐ近所に豊橋公園があるから、これが何百年や数十年の変遷を経て今こうなってるんだっていう実感が掴みやすくって楽しかった。
だって私が生まれて35年でも、お店が出来たりビルが建ったり道路が出来たり広がったり、つい先日も新しい図書館を構えた複合施設が聳え立ったわけで。
この繰り返しと積み重ねが、ネットもパソコンも無い時代、人の手によって書き残されて来たのだと思うと、すごいなあーー。
記述の内容によっては、以前お邪魔した新居関所の資料館とか、ウチの爺様が聞かせてくれた話にも繋がって来て、頭の中で古い町並みの点と点が繋がっていくみたいでこれも面白い。
天保4年という大昔にも佐野さんという人が書き物をし、それが令和3年になっても残って展示されているのもよかった。令和3年の佐野さんも頑張ろう…。
資料の保存のため館内がやや薄暗かったので、目録を貰ってきて読み返すことにした。
戦争で焼けちゃったり散逸したりした資料も多いそうな。やはりドンパチは文化の敵だ。
ふと立ち寄ってみた美術館の展示が、まさに私向け(しかも無料)だったので、アタマの中をホクホクさせながら散歩の続きをして、魚町のサンヨネ本店で昼飯を買って帰りました。
この魚町、湊町、新本町なんてな辺りも、郷土史で言えば重要拠点モロな場所じゃん。そんなこんなをちょっとでも頭に入れておくと、単なる街歩きが歴史の探検になるから面白い。
知っててもすぐ利益が出たり得したりはしないが、知らないよりは楽しみが増える
そのぐらいの事をこぼさずに拾ってゆける人生でありたい……。
天気いいし、厚着したら暑いくらいの陽気。35年も住んですっかり見慣れた景色の変わったもの、変わらないものを思い出して見比べてまた思い出して歩く。
我が家の近くに甘党トキワというお店があった。
豊橋市民のみならず東三河人の心に残る小さなお店。惜しまれつつも閉店してしまって久しいが、建物や看板はそのままだ。
たぶん半世紀は軽く営業してたはずで、ショーケースやサンプルも年季の入ったイイ味を醸していた。残念ながらそれらには雨戸がかけられていて、入り口ヨコの大判焼の実演販売スペースにも青っぽい雨戸がかかっている。
いつも小さな子供連れのお母さんや小中高生、昼休みや外回りのお兄さんお姉さん、さらに近所のじいちゃんばあちゃんと賑やかなお店だった、その面影だけが残っていて、何だか少し寂しい気分で見上げていると
「何か御用?」
振り向くと小柄なおばちゃんがひょこっと角を曲がって来て、私に声をかけていた。
「いや、私は近所のもんで散歩にネ……」
と言葉を返すと、この女性がトキワのご主人の奥様だった。
ウチから歩道橋を二つ渡って路面電車の線路も渡って、子供の足でも歩いて行けるくらいの距離にあったトキワ。目の前に神明(しんめい)公園というちょっと広めで路面電車の見える公園があって。子供の頃、祖父母に連れられて此処で遊んで、そのあと斜向かいのトキワでソフトクリームや大判焼を買ってもらうのが楽しみだった。
ちなみにトキワでは、よく言う大判焼きとか御座候というのものことを
「巴焼き(ともえやき)」
と呼んでいた。私が子供の頃は、おひとつ70円くらいだった。それが原料の高騰やなんかで閉店前には100円くらいになってたんじゃないかなあ。
「それでもソフトクリームや巴焼きは、子供が買える値段にしようって。赤字覚悟でやってたのよぉ、やっぱり喜んでくれるのがいいじゃない? 今は色んなお店が出来たけど、それでも小さい子供には甘いものってなによりだし」
と奥様。遊んだ後や、泣かずに病院行った御褒美とか散歩の目当てとか……私も子供の頃は、トキワで買い食いするのが楽しみだったもんな。
「だけど向こうの道路が広くなったから、ここは学生があまり通らなくなっちゃって。子供も減ったでしょ? それと、うちはアンコも全部イチから作ってたから小豆や砂糖を運ぶのも大変で。それで旦那が足腰を傷めてしまったのもあって閉めることにしたのよね」
奥様の回想によれば惜しまれて閉店した後も、それを知らずに豊橋に里帰りした人がやってきて驚くやらガッカリしたりが続いているとか。聞いたら閉店から3年が経った今でもそうらしい。
あの頃、子供だった人が大きくなって親になって、自分の子供を連れて来てくれた。今でも覚えて居てくれる人が居る。お店は時間を止めてしまったけれど、そんな記憶もまた時間を止めてずっと残っているようだった。
「覚えててくれてありがとうね」
別れ際、奥様がそう言ってくれた。
「こちらこそ、お世話になりました。お元気で」
そう言って別れて、また見慣れた道を歩き出した。
トキワ、懐かしいなあ。色んな思い出がある。
そのまま公会堂前の歩道橋を渡って豊橋公園に入る。お遊戯会か何かがあったようで、周辺には小さな子供を連れたお母さんお父さんが多い。子供たちもオシャマな格好をして楽しそうだ。
美術博物館を覗いてみたら郷土史のコレクションが色々展示されているというので見て来た。2階の3部屋を使って展示されたそれは江戸時代の吉田藩だったり、戦前の軍都・豊橋だったり、色んな角度からこの街を知ることが出来る大変に有意義な資料ばかり。
自分ん家のすぐ近所に豊橋公園があるから、これが何百年や数十年の変遷を経て今こうなってるんだっていう実感が掴みやすくって楽しかった。
だって私が生まれて35年でも、お店が出来たりビルが建ったり道路が出来たり広がったり、つい先日も新しい図書館を構えた複合施設が聳え立ったわけで。
この繰り返しと積み重ねが、ネットもパソコンも無い時代、人の手によって書き残されて来たのだと思うと、すごいなあーー。
記述の内容によっては、以前お邪魔した新居関所の資料館とか、ウチの爺様が聞かせてくれた話にも繋がって来て、頭の中で古い町並みの点と点が繋がっていくみたいでこれも面白い。
天保4年という大昔にも佐野さんという人が書き物をし、それが令和3年になっても残って展示されているのもよかった。令和3年の佐野さんも頑張ろう…。
資料の保存のため館内がやや薄暗かったので、目録を貰ってきて読み返すことにした。
戦争で焼けちゃったり散逸したりした資料も多いそうな。やはりドンパチは文化の敵だ。
ふと立ち寄ってみた美術館の展示が、まさに私向け(しかも無料)だったので、アタマの中をホクホクさせながら散歩の続きをして、魚町のサンヨネ本店で昼飯を買って帰りました。
この魚町、湊町、新本町なんてな辺りも、郷土史で言えば重要拠点モロな場所じゃん。そんなこんなをちょっとでも頭に入れておくと、単なる街歩きが歴史の探検になるから面白い。
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