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第605回。キッドさんと松山勘十郎さんとメキシコ
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皆さんこんばんは!
ダイナマイト・キッドです。
前のエッセイで(ご覧になって頂いた方ありがとうございます)書いたように私キッドは2005年にメキシコに渡り、プロレスラー養成学校・闘龍門の生徒として過ごしておりました。
寮は1階が道場。2階が校長室とキッチン、食堂、リビングルームになっていて4階まで吹き抜け。
3階と4階にそれぞれ2人部屋が3つと4人部屋が1つずつありました。
シャワー室は2階の共同トイレ、洗面所といっしょに2階に。
3階と4階の4人部屋にも小さなシャワー室がありました。
私は4階の2人部屋に案内され、そこで同部屋だったのが松山勘十郎さんだった。
部屋に入るなり
「やあー!君が佐野君か、ところでさあ、特撮好きなんだって?何が好き?」
聞かれたキッドさんもキッドさんで挨拶もそこそこに
「ウルトラマンとライダーとギャバンです!」
と即答。
松「じゃあ、ギャバンの歌、歌える?」
キ「はい!!!!」
寮に着いたのはもう結構な夜遅くだったのだが、二人してその場で歌い始める。
一番を歌い終わるかどうか、という時になって隣の部屋の鈴木先輩が
「こらっ!うるさい!!」
と注意しに来た。
私はメキシコに渡り、プロレスラー養成学校に入り、最初に怒られたのがギャバンの歌だった。
寮はメキシコシティの空港からずーーーっとバスで走ったナウカルパン市というところにあったと書いた。んが、その空港で私は30分近く足止めを食らっていた。
着くやいなやキャリーバッグを掴まれて別室に。
同期のみんなも、引率の川畑さんも、普通に通っていったのとは別の部屋に連れて行かれて、そこのテーブルの上に有無を言わさず荷物を
どざーーーーー
っとブチまけられてしまった。
そしてそのまま30分放置された。
最初はビックリしてじっとしていたが改めたり調べたりする様子もなく。
周りと見ると私と同じ目に遭った人が、みんな忌々しい顔をして荷造りをしてさっさと部屋を出ていくではないか。
え?
これ、出ちゃっていいの?
試しにそーっと荷物を集めてカバンに入れてみる。
何も言われない。
一応出入り口に係員は居るのだが、じーっと立っているだけで何も言わない。
結局恐る恐る荷物をまとめて、そのまま部屋を出た。
何も言われないのはいいが、今度は右も左もわからない。
近くにいた係員を捕まえて何かを訪ねようにもスペイン語がわからない。
重たいカバンを引きずって歩くこと更に数分。
漸く合流してすぐバスに乗った。
私が待たせたのは同期や引率の川畑さんだけじゃなかった。
同じ飛行機でメキシコ入りし、同じバスで移動し、ホテル日航に宿泊する予定の
初代タイガーマスクこと佐山聡さん
のことも30分以上待たせてしまっていた。
自分の事でいっぱいいっぱいでその時は気が付かなかったけど、みんなと合流して冷や汗が止まらなくなった。
外に出てバスを待つときに目の前にいらしたので、矢も楯もたまらず挨拶&平謝り。
佐山さんはニッコリ笑って「いいですよ」と。
流石は生きる伝説、初代タイガーマスク…!しかしこっちは生きた心地がしなかった。いま思い出したってゾッとする。
とんだ大物ぶりである。
そんなことがあってから寮に入ってギャバンを歌ってたのだからわけがわからない。
お前は何しにメキシコ行ってんだ。
寮について先ず皆さんにご挨拶。
ちょうど大きな試合を控えていたので卒業した先輩方も寮に来ていた。
この場合、卒業しても選手ではあるから引退したとかではない。
私は当時首のあたりまで髪の毛が伸びていて、体重は今より軽いものの80キロ台後半だったので
太った少年アシベみたい
と言われ、数日間はアシベ、そのあとは帽子をかぶってフグオと呼ばれたこともあった。
こんな些細な事を今でも覚えているのは、それほど濃い2か月半ほどだったのと、毎日日記をつけていたから。
忘れてることや、怒られたことも他にもっともっとあるだろうけどね。
松山勘十郎さんはその後日本に帰ってみちのくプロレス、大阪プロレスを中心に出場し、今はご自身の
大衆プロレス松山座
を立ち上げて座長と呼ばれ沢山のファンの皆さんから支持を集めている。
私もよく大阪まで応援に行くけれど、毎試合が満員でいちファンとしても後輩としても嬉しい限りだ。
内容も試合だけじゃなくライブやダンス、果ては選手の入場テーマ曲を生演奏や生パフォーマンスで飾ることもあるほどの大ボリュームで、出場する選手も毎回ハズレなしの好試合・名レスラーぞろい。
松山勘十郎座長のお眼鏡に適って出場した選手を見て、大ファンになっちゃうこともあるほどだ。
今でもプロレスが大好きで、逃げるように中途挫折・帰国した私のようなものが応援に駆け付けちゃうことが出来るのも、松山勘十郎座長から一度も理不尽なことを言われたり体罰を受けたことがないからだ。
コスチュームを乾燥機に入れたり(それだけは絶対やめろと言われていた)ちゃんこ鍋を失敗して生煮えの人参やパッサパサの唐揚げを食べさせたり、不出来な後輩の見本のようなキッドさんだけども、そんな思い出と事実が残っているおかげで今日も生きられる。
プロレスは私の生き甲斐であり、松山勘十郎座長はその先頭を走っているのです。
次回はプロレス以外の話をしましょうかね。
それでは、またあした!
ダイナマイト・キッドです。
前のエッセイで(ご覧になって頂いた方ありがとうございます)書いたように私キッドは2005年にメキシコに渡り、プロレスラー養成学校・闘龍門の生徒として過ごしておりました。
寮は1階が道場。2階が校長室とキッチン、食堂、リビングルームになっていて4階まで吹き抜け。
3階と4階にそれぞれ2人部屋が3つと4人部屋が1つずつありました。
シャワー室は2階の共同トイレ、洗面所といっしょに2階に。
3階と4階の4人部屋にも小さなシャワー室がありました。
私は4階の2人部屋に案内され、そこで同部屋だったのが松山勘十郎さんだった。
部屋に入るなり
「やあー!君が佐野君か、ところでさあ、特撮好きなんだって?何が好き?」
聞かれたキッドさんもキッドさんで挨拶もそこそこに
「ウルトラマンとライダーとギャバンです!」
と即答。
松「じゃあ、ギャバンの歌、歌える?」
キ「はい!!!!」
寮に着いたのはもう結構な夜遅くだったのだが、二人してその場で歌い始める。
一番を歌い終わるかどうか、という時になって隣の部屋の鈴木先輩が
「こらっ!うるさい!!」
と注意しに来た。
私はメキシコに渡り、プロレスラー養成学校に入り、最初に怒られたのがギャバンの歌だった。
寮はメキシコシティの空港からずーーーっとバスで走ったナウカルパン市というところにあったと書いた。んが、その空港で私は30分近く足止めを食らっていた。
着くやいなやキャリーバッグを掴まれて別室に。
同期のみんなも、引率の川畑さんも、普通に通っていったのとは別の部屋に連れて行かれて、そこのテーブルの上に有無を言わさず荷物を
どざーーーーー
っとブチまけられてしまった。
そしてそのまま30分放置された。
最初はビックリしてじっとしていたが改めたり調べたりする様子もなく。
周りと見ると私と同じ目に遭った人が、みんな忌々しい顔をして荷造りをしてさっさと部屋を出ていくではないか。
え?
これ、出ちゃっていいの?
試しにそーっと荷物を集めてカバンに入れてみる。
何も言われない。
一応出入り口に係員は居るのだが、じーっと立っているだけで何も言わない。
結局恐る恐る荷物をまとめて、そのまま部屋を出た。
何も言われないのはいいが、今度は右も左もわからない。
近くにいた係員を捕まえて何かを訪ねようにもスペイン語がわからない。
重たいカバンを引きずって歩くこと更に数分。
漸く合流してすぐバスに乗った。
私が待たせたのは同期や引率の川畑さんだけじゃなかった。
同じ飛行機でメキシコ入りし、同じバスで移動し、ホテル日航に宿泊する予定の
初代タイガーマスクこと佐山聡さん
のことも30分以上待たせてしまっていた。
自分の事でいっぱいいっぱいでその時は気が付かなかったけど、みんなと合流して冷や汗が止まらなくなった。
外に出てバスを待つときに目の前にいらしたので、矢も楯もたまらず挨拶&平謝り。
佐山さんはニッコリ笑って「いいですよ」と。
流石は生きる伝説、初代タイガーマスク…!しかしこっちは生きた心地がしなかった。いま思い出したってゾッとする。
とんだ大物ぶりである。
そんなことがあってから寮に入ってギャバンを歌ってたのだからわけがわからない。
お前は何しにメキシコ行ってんだ。
寮について先ず皆さんにご挨拶。
ちょうど大きな試合を控えていたので卒業した先輩方も寮に来ていた。
この場合、卒業しても選手ではあるから引退したとかではない。
私は当時首のあたりまで髪の毛が伸びていて、体重は今より軽いものの80キロ台後半だったので
太った少年アシベみたい
と言われ、数日間はアシベ、そのあとは帽子をかぶってフグオと呼ばれたこともあった。
こんな些細な事を今でも覚えているのは、それほど濃い2か月半ほどだったのと、毎日日記をつけていたから。
忘れてることや、怒られたことも他にもっともっとあるだろうけどね。
松山勘十郎さんはその後日本に帰ってみちのくプロレス、大阪プロレスを中心に出場し、今はご自身の
大衆プロレス松山座
を立ち上げて座長と呼ばれ沢山のファンの皆さんから支持を集めている。
私もよく大阪まで応援に行くけれど、毎試合が満員でいちファンとしても後輩としても嬉しい限りだ。
内容も試合だけじゃなくライブやダンス、果ては選手の入場テーマ曲を生演奏や生パフォーマンスで飾ることもあるほどの大ボリュームで、出場する選手も毎回ハズレなしの好試合・名レスラーぞろい。
松山勘十郎座長のお眼鏡に適って出場した選手を見て、大ファンになっちゃうこともあるほどだ。
今でもプロレスが大好きで、逃げるように中途挫折・帰国した私のようなものが応援に駆け付けちゃうことが出来るのも、松山勘十郎座長から一度も理不尽なことを言われたり体罰を受けたことがないからだ。
コスチュームを乾燥機に入れたり(それだけは絶対やめろと言われていた)ちゃんこ鍋を失敗して生煮えの人参やパッサパサの唐揚げを食べさせたり、不出来な後輩の見本のようなキッドさんだけども、そんな思い出と事実が残っているおかげで今日も生きられる。
プロレスは私の生き甲斐であり、松山勘十郎座長はその先頭を走っているのです。
次回はプロレス以外の話をしましょうかね。
それでは、またあした!
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