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第190回。賞味期限と曇り空
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掲載日2017年 08月13日 01時00分
今日も曇り空だった。
どんよりして、空も海も白く、境目を失くして溶けだしたような曇り空。
僕はトラックの狭くてたばこ臭い座席に寝転んで、なんの動きもない、白いペンキをへたくそに塗ったような空をぼんやり見ていた。鳥の一羽も飛ばず、空一面の雲はちっとも走って行かなくて。だけど風だけはやたらとびゅうびゅう吹くので、気持ちの底がざわざわと落ち着かなくなってくる。
読みかけた文庫本をダッシュボードの上に放り投げて、ミネラルウォーターのペットボトルを開けて少しだけ飲んだ。(さて…)と頭の中で呟いて、ジョギングに出ようとペットボトルを適当に座席に転がした。なんとなく目にしたキャップの付け根に、小さなハエのような黒い文字が書いてあった。手に取ってじっと見る。
賞味期限、か…。2012年11月30日。あと8か月ぐらい後のことになる。その日、僕は一体何をしているだろうなあ…ということを一瞬考えたが、何も思いつかなかった。
このままじゃないと良いな。
このままでも別に構わないか…。
ぼんやりと浮かんだ怠惰な願望を振り払うように、僕は体を起こしてトラックの座席から外へ降りた。びゅう、と風が吹いて、昨日に比べてかなり寒い。
作業靴の爪先をとんとん、と踏んで踵を押し込むと、青い砂利の敷き詰められた駐車場からサッカー場の芝生に入る。運動公園の広い芝生は一昨日の雨がまだ少し残っていて、ところどころ湿っぽい音を立てて足がめり込んだ。あちこち解れてきた作業靴の爪先や横っちょに開いた穴から水が入るのが嫌で、僕は水たまりを見つけると大きく迂回しながら広い芝生をウネウネと歩いて行った。
芝生の端まで来ると自動車が一台通れるぐらいの広さの砂利道があって、公園奥の遊歩道に続いている。4つ角になった砂利道の交差点を右へ折れて、芝生の隣の野球場の奥へ向かう。相変わらず空は荒涼としていて、人っ子一人見当たらない風景はひどくわびしかった。だけど、100キロ近くまで太った男が人知れずノタノタ走り込みをするにはうってつけのシチュエーションだった。
この砂利道をさらに奥へ向かうと、水路のすぐ際を通る遊歩道がある。堤防の上には重機や作業員を乗せる軽のワゴン車がいくつか停められている。もうかれこれ5年以上工事をしていて、いつ終わるのだろうかと疑問に思うこともしばしばだったが、堤防工事なんか終わらなくても僕には大して影響なかった。ただちに自分に影響しない工事や人事ほど無駄に思えるものはない。
(まあいいや、どうだって)
一人で考えて、一人で放り投げた言葉を置き去りにするように僕は軽い足取りで走り始めた。
軽い足取りと言っても、僕は体重が100キロ近くあるから、足音は他の人と比べるとだいぶ鈍く重い。とてもカリフォルニア辺りの海沿いのプロムナードをアイポッドで1980年代のヒット曲(ヒューイ・ルイスとか)を流しながら軽やかに走るミッシェル・タナーさん(19歳)とそのボーイフレンド(ステディな関係)のように明るい陽光と海風の中で白いピカピカのジョギングシューズにさわやかな笑顔でタッタッタッタ、などというわけにはいかない。そもそも一緒に走る相手など居ないし、居ても迷惑だ。デブのジョギングはひとりに限る。
そんな孤独なランナーこと僕はと言えば、どんよりと垂れこめた雲の下、湿った海風に包まれて、うらぶれた遊歩道を濃紺の作業服に使い込んで薄汚れた作業靴をずっべずっべずっべと鳴らしながら、さらに肥満体の上に鏡餅よろしく乗っかった顔面にくっついた口をかぱっとあけて、
ぜーはぜーはぜーぜー・ぜーはぜーはぜーぜー
(吸って吸って吐いて吐いて、のリズム)
という今世紀最後の圧倒的絶望的絶体絶命深海魚のような呼吸をしつつどうにか走っているのである。
あまり考えるとわけもなく悲惨な気分になってしまうので、呼吸と腕を振ることに集中して走った。距離にしたら短いが、20分ほどかけてゆっくり走る。そういうジョギングが良い、と新聞で読んで以来、こうして仕事の暇を見つけて走っている。
春が近づいているとはいえ風が冷たく、今日は陽射しもなかったが、やはり走っていると汗をかく。冷たい空気が少しばかり気持ちがよくて、アレルギーでフン詰まりになった鼻の通りも良くなった。頭がスッキリして、身体が軽く感じる。僕は元々身体を動かしていないとすぐに浮腫んで鈍ってしまうので、こうして軽い運動をした後は気分が良い。
今日はもう一周ウォーキングをしてゆっくり身体を鎮めてからトラックに戻った。座席に残した水を飲んで、キャップを閉めた。賞味期限が目に入る。
2012年11月30日。
僕はその日、何をしているだろう。何を考えているだろう。
僕の賞味期限はいつだろう。まだ過ぎてなきゃいいけど…。
2017年の僕だよ。
君はこの記事をミクシィの一部の人にだけ向けて書いていたけど、今は小説家になろうってサイトで一日200人ぐらいの人が見てくれているよ。
鮮度は落ちたかもしれないけど、干物にしてまだ食べられるようには、なってると思うよ。
色んな人を傷つけたり、自分も傷ついたりしているよ。
2019年の僕だよ。
タクシー運転手のヨシダさんが2018年に書籍化してもらえたよ。色々あるけど生きてるよ。
今日も曇り空だった。
どんよりして、空も海も白く、境目を失くして溶けだしたような曇り空。
僕はトラックの狭くてたばこ臭い座席に寝転んで、なんの動きもない、白いペンキをへたくそに塗ったような空をぼんやり見ていた。鳥の一羽も飛ばず、空一面の雲はちっとも走って行かなくて。だけど風だけはやたらとびゅうびゅう吹くので、気持ちの底がざわざわと落ち着かなくなってくる。
読みかけた文庫本をダッシュボードの上に放り投げて、ミネラルウォーターのペットボトルを開けて少しだけ飲んだ。(さて…)と頭の中で呟いて、ジョギングに出ようとペットボトルを適当に座席に転がした。なんとなく目にしたキャップの付け根に、小さなハエのような黒い文字が書いてあった。手に取ってじっと見る。
賞味期限、か…。2012年11月30日。あと8か月ぐらい後のことになる。その日、僕は一体何をしているだろうなあ…ということを一瞬考えたが、何も思いつかなかった。
このままじゃないと良いな。
このままでも別に構わないか…。
ぼんやりと浮かんだ怠惰な願望を振り払うように、僕は体を起こしてトラックの座席から外へ降りた。びゅう、と風が吹いて、昨日に比べてかなり寒い。
作業靴の爪先をとんとん、と踏んで踵を押し込むと、青い砂利の敷き詰められた駐車場からサッカー場の芝生に入る。運動公園の広い芝生は一昨日の雨がまだ少し残っていて、ところどころ湿っぽい音を立てて足がめり込んだ。あちこち解れてきた作業靴の爪先や横っちょに開いた穴から水が入るのが嫌で、僕は水たまりを見つけると大きく迂回しながら広い芝生をウネウネと歩いて行った。
芝生の端まで来ると自動車が一台通れるぐらいの広さの砂利道があって、公園奥の遊歩道に続いている。4つ角になった砂利道の交差点を右へ折れて、芝生の隣の野球場の奥へ向かう。相変わらず空は荒涼としていて、人っ子一人見当たらない風景はひどくわびしかった。だけど、100キロ近くまで太った男が人知れずノタノタ走り込みをするにはうってつけのシチュエーションだった。
この砂利道をさらに奥へ向かうと、水路のすぐ際を通る遊歩道がある。堤防の上には重機や作業員を乗せる軽のワゴン車がいくつか停められている。もうかれこれ5年以上工事をしていて、いつ終わるのだろうかと疑問に思うこともしばしばだったが、堤防工事なんか終わらなくても僕には大して影響なかった。ただちに自分に影響しない工事や人事ほど無駄に思えるものはない。
(まあいいや、どうだって)
一人で考えて、一人で放り投げた言葉を置き去りにするように僕は軽い足取りで走り始めた。
軽い足取りと言っても、僕は体重が100キロ近くあるから、足音は他の人と比べるとだいぶ鈍く重い。とてもカリフォルニア辺りの海沿いのプロムナードをアイポッドで1980年代のヒット曲(ヒューイ・ルイスとか)を流しながら軽やかに走るミッシェル・タナーさん(19歳)とそのボーイフレンド(ステディな関係)のように明るい陽光と海風の中で白いピカピカのジョギングシューズにさわやかな笑顔でタッタッタッタ、などというわけにはいかない。そもそも一緒に走る相手など居ないし、居ても迷惑だ。デブのジョギングはひとりに限る。
そんな孤独なランナーこと僕はと言えば、どんよりと垂れこめた雲の下、湿った海風に包まれて、うらぶれた遊歩道を濃紺の作業服に使い込んで薄汚れた作業靴をずっべずっべずっべと鳴らしながら、さらに肥満体の上に鏡餅よろしく乗っかった顔面にくっついた口をかぱっとあけて、
ぜーはぜーはぜーぜー・ぜーはぜーはぜーぜー
(吸って吸って吐いて吐いて、のリズム)
という今世紀最後の圧倒的絶望的絶体絶命深海魚のような呼吸をしつつどうにか走っているのである。
あまり考えるとわけもなく悲惨な気分になってしまうので、呼吸と腕を振ることに集中して走った。距離にしたら短いが、20分ほどかけてゆっくり走る。そういうジョギングが良い、と新聞で読んで以来、こうして仕事の暇を見つけて走っている。
春が近づいているとはいえ風が冷たく、今日は陽射しもなかったが、やはり走っていると汗をかく。冷たい空気が少しばかり気持ちがよくて、アレルギーでフン詰まりになった鼻の通りも良くなった。頭がスッキリして、身体が軽く感じる。僕は元々身体を動かしていないとすぐに浮腫んで鈍ってしまうので、こうして軽い運動をした後は気分が良い。
今日はもう一周ウォーキングをしてゆっくり身体を鎮めてからトラックに戻った。座席に残した水を飲んで、キャップを閉めた。賞味期限が目に入る。
2012年11月30日。
僕はその日、何をしているだろう。何を考えているだろう。
僕の賞味期限はいつだろう。まだ過ぎてなきゃいいけど…。
2017年の僕だよ。
君はこの記事をミクシィの一部の人にだけ向けて書いていたけど、今は小説家になろうってサイトで一日200人ぐらいの人が見てくれているよ。
鮮度は落ちたかもしれないけど、干物にしてまだ食べられるようには、なってると思うよ。
色んな人を傷つけたり、自分も傷ついたりしているよ。
2019年の僕だよ。
タクシー運転手のヨシダさんが2018年に書籍化してもらえたよ。色々あるけど生きてるよ。
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