上 下
166 / 1,299

第173回。嵐ヶ丘住宅2番館の落日

しおりを挟む
掲載日2017年 07月27日 01時00分


「ただいま時刻は17時05秒になりました、外出中の市民の皆さんは速やかに帰宅しましょう。また17時以降の外出には市民カードの携帯が義務付けられています。市民カード不所持での外出は重罪です。夜間の外出時には必ず、市民カードを携帯しましょう。ただいま時刻は17時35秒になりました。外出中の皆さんは……」

 きっかり10メートルにひとつ建てられたスピーカーが同じ定時放送を繰り返し流している。海岸沿いの市庁舎から順番に北上するように放送されるので少しずつディレイがかかって、真っ赤な夕焼け空の下に抑えつけられるように立ち並ぶ嵐ヶ丘住宅周辺にも響き渡り通り過ぎてゆく。丘陵地帯にしがみつくような団地群の白い壁がごく明るいオレンジ色に染まり、無人のブランコだけがキィと小さく鳴いた。
 手のひらの赤い端末が猛然と振動し、画面いっぱいに警告が表示される。今まで頑張ったゲームもパアだ。否も応もない。わたしたちの活動は17時で原則終了する。燃えるような夕焼け空は銀天公社によるホログラムで、本日の気圧・気温・降水確率などを元に彩色担当の係員たちが制作したものをCG化し投影したものだ。

 空気中に溶け込んだ揮発性の追憶が鼻から口から肺に滑り込んで脳髄に至る。それは不快すぎる爽快感を伴いながら胸の奥にとごんで、自嘲過多の過食症状と共に嘔吐したのち再びの揮発を迎える。不快すぎる爽快感を味わうために狭いベッドの列車に乗り込む。誰かと誰かと誰かと誰かの吐息が混じり合う密室に並ぶベッドの棚が時速80キロで北上する。名もなき寝台特急を待つ嵐ヶ丘駅のホームで、偽物の夕焼けを見て泣いていた。

 やがて銀天公社の偽月がゆっくりと軌道を辿って登り出す。ぼんやりと青白い光で街を照らしながら夜を通過する。運よく正気でいられる夜は銀色に、昨日はピンク色に見えた。何色だってかまわない、どっちみち偽物のお月様だから。絶望よりは諦めに似た黒い雨が西から近づいてくる。脂の混じった重苦しい雨。一晩中降り続いた濃脂驟雨が明け方5時きっかりに止んだのと同時に銀天公社の偽月は灰汁百舌(あくもず)半島の先へ引っ込んだ。ホログラムの朝焼けが黄金に輝いて、またスピーカーから定時放送が順繰りに流れ出す。
「おはようございます。ただいま時刻は7時30分5秒です。市民の皆さん、今日も一日おだやかに過ごしましょう。勤怠登録の通信は、午前8時30分までに済ませましょう。勤怠登録のない労働および休暇は年次調査から除外されます。新しい 朝の記録は 勤怠登録。この標語は嵐ヶ丘住宅自治委員会の協賛で放送されております。ただいま時刻は7時30分55秒です。市民の皆さん、今日も一日おだやかに……」

 市街型乗り合い軽便鉄道はすし詰め状態で、長いあいだ皆が感じてきた毎朝の憂鬱を少しずつ積み重ねていってもはやテンコ盛りといった有様だった。だが勤怠登録を済ませた後で定刻に遅れるようなことがあれば、最低でも2か月は銀天公社で脂の雨にまみれながら偽物のお月様を出したり仕舞ったりしなくてはならなくなる。濃脂驟雨が目に入り、その脂が血流にのって脳に至ると重篤な障害をきたすという。302110号室のキサカタさんのご主人はそれが原因で団地の自治病院から出てこない。
 はじめは訳の分からないものが見えたり聞こえたりする程度だが、そのうちに目の前が真っ赤に見えたり脳に激痛が走るという。そうなるともはや手遅れで、立っていることはおろか生きていることさえ嫌になるほどだとか。しかも、そこまで悪化しないと銀天公社からの慰労年金は支払われず、またその手続きは一から十まで本人が行わなければならない。自立、自治、自活社会を謳う政府の広報ポスターにも
「ピンクの夕焼け、あなたの日没かも!?」
 と不安を煽る文言と青ざめたキャラクターが書かれている。
 誰も彼もわかっている。口に出せないというだけのこと。

 いつものように自分の席について、ヘッドマウントディスプレイを装着して起動する。スイッチが入るとブウンと音が鳴って目の前が一瞬暗くなる。旧式の機械なので蒸気に脂のにおいが混じって毎日一瞬だけ不快だ。ああ、脂臭いな、と思った瞬間に、いつも一日が終わっている。昏睡勤務を始めて2年になるが、去年の冬辺りから毎日ほんの少しずつだけ覚醒が遅れている。退勤時間10分前には覚醒していたのが、今は5分前だ。もし退勤時間を超過して勤怠登録をすれば、その日の勤務実績は不正と看做され抹消される。これを訂正するには情報庁の管理課で長蛇の列に並び、書類を揃え、再び長蛇の列に並んで訂正手続きをしなくてはならない。当然その間は勤怠登録をすることも出来ず、無給だ。上がってゆくには遅過ぎるが下がるときは一瞬で垂直落下するこの完全勤怠管理型出来高制の仕組みに囚われてしまったが最後、あとは昏睡勤務から覚醒しなくなるまで働き続けなくてはならない。

 髪の毛にこびりついた脂を洗い流すことも出来ず、外へ飛び出すとちょうど乗り合い軽便鉄道が走り出したところだった。ひと昔前ならばそのまま飛び乗ってドア横のバーに捕まっていくことも出来たそうだが、今そんなことをしたら鉄道管理法と道路安全法の二重違反で、やっぱりお月様行きだ。早く帰って帰宅登録をしなければ。退勤時の勤怠登録と帰宅登録のあいだが開き過ぎていると、不正外出を疑われる。そうなるとまた情報庁で個人用ナノマシンに記録されたビーコンの波長グラフを取得して手続きをしなくてはならない。
 私はうんざりして空を見上げた。ピンク色の夕陽が味気ないビル群の向こうにじわじわと沈んでいく。定時放送が海の方から坂道を登るように北上し、目の前でびりびりと鳴り出した。
「ただいま時刻は17時12秒になりました、外出中の市民の皆さんは速やかに帰宅しましょう。また17時以降の外出には市民カードの携帯が義務付けられています。市民カード不所持での外出は重罪です。夜間の外出時には必ず、市民カードを携帯しましょう。ただいま時刻は17時42秒になりました。外出中の皆さんは……」
 ふと上着の胸ポケットをまさぐってみると、いつも入っているはずの四角いカードホルダーがない事に気が付いた。覚醒が遅れたことで帰宅を急いでいた。机の上に置きっぱなしのカードホルダーが活版写真のように脳裏に浮かんだ。ピンクの夕陽が私の影を長く伸ばして、その先端が勤め先の情報庁管理課ビル第2号棟の入り口の自動ドアにかかっているのをぼんやりと見ていた。偽物の月は、まだ登っていない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

50歳の独り言

たくやす
エッセイ・ノンフィクション
自己啓発とか自分への言い聞かせ自分の感想思った事を書いてる。 専門家や医学的な事でなく経験と思った事を書いてみる。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

6年生になっても

ryo
大衆娯楽
おもらしが治らない女の子が集団生活に苦戦するお話です。

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

徹夜でレポート間に合わせて寝落ちしたら……

紫藤百零
大衆娯楽
トイレに間に合いませんでしたorz 徹夜で書き上げたレポートを提出し、そのまま眠りについた澪理。目覚めた時には尿意が限界ギリギリに。少しでも動けば漏らしてしまう大ピンチ! 望む場所はすぐ側なのになかなか辿り着けないジレンマ。 刻一刻と高まる尿意と戦う澪理の結末はいかに。

処理中です...