歴史改変戦記 「信長、中国を攻めるってよ」

高木一優

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第三部 最後の聖戦なり

6、ムガル帝国

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 戸部典子君、ムガル帝国のムガルって何だか知っているかね。
 「モンゴル、ムンゴル、ムゴール、ムガル、なり!」
 そう、ムガル帝国のムガルとはモンゴルのことである。
 「でも、ちょっと苦しい文字変換なりね。昔の大喜利みたいな苦しいシャレなり。こういうのは疲れるのだー。」
 中央アジアにおいてイスラム化したモンゴルがインドに侵入し諸王朝を倒して帝国を形成したのだ。ヒンドゥー教を信仰するインドの人々からすればムガル帝国は異教徒による征服王朝である。
 アグラにはムガル帝国の巨大な宮殿ラール。キラーがある。ヘカンはその壮麗な石造りの建造物に目を見張った。宮殿の各所には石を刻んだ見事な彫刻が施され、ムガル帝国の力が見て取れるのだ。
 ムガル帝国は皇帝シャハーンギールの治世にあったが、皇帝は長い病の床にあり、重臣ヌール・ジャハーンがヘカンを出迎えた。
 海帝国皇帝、織田信忠の親書を手渡したヘカンはアグラでの逗留を促され、三か月にわたり滞在した。ヘカンはムガル帝国の統治や文化について学び、その国力を推し量った。アグラの宮廷ではペルシア人やアラブ人、インドで生まれ育ったバラモン僧や戦士階級であったラージプート、マラーター人など多種多様な民族が活躍していた。モンゴルのアイデンティティーは既に中央アジアのイスラム文明に溶解している。同じ中国北辺の遊牧民族、満州族出身のヘカンには忸怩たるものがあったかもしれない。
 「これが身をもって学ぶということなりね。ヘカン君にはショックでも、いい経験になるなり。」
 いいことを言うな。学ぶとは本来そういうものだ。
 インドに根を下ろしたこのイスラムの帝国は、さらに拡大するであろうとヘカンは感じた。現在で言うならば、北インドとパキスタン、アフガニスタンの一部にまで版図を広げる。 
 「ムガル帝国の南には、未だ征服されざるデカン高原と南インドが広がっているなり。」
 そう、ジャハーンギールの次に即位したシャー・ジャハーンはデカン高原を制圧し。その後のアウラングゼーブの時代には南インドを版図に組み入れる。
 ムガル帝国は軍事においても強大であるが、海帝国の火砲を中心とした軍の前では敵でない。ただし、両軍が戦えば海帝国も無傷ではいられないであろう。ヘカンは海帝国から海路一か月足らずの地域に恐るべき帝国が存在する事を実感した。
 ムガル帝国とは和平と協調の道を選択すべきだとヘカンは結論を下した。さすがは愛新覚羅を継ぐ者、見事な洞察力だ。
 これこそ、三成が若き官僚たちに学んで欲しかったことなのである。中国というのは本来国名ではない。世界の真ん中の文明という意味である。中国をおいて他に国はない、と歴代の王朝は考えてきた。
 「だから周辺の小国は文明化されていないと見るなりね。文明化していない地域には文明の光を当てて、中華文明に従うように促すなり。これが冊封ということなりね。」
 よくできました。二重丸をやろう。
 こういう中国伝統の思想が十七世紀の大航海時代には通用しなくなってきているのだ。インドにはムガル帝国があり、ヨーロッパでは諸国が植民地を巡って興亡を繰り返している。さらに、中東から北アフリカにわたる広大な版図を持つオスマン帝国がる。
 「三成君は世界はパワー・バランスでできていることを教えたかったなりか?」
 そういうことになる。

 アグラ滞在を終えたヘカンは、その後、北インドを視察しインドの民衆の様子や物産についてつぶさに書き留め、報告書として提出している。西欧人たちが黒い宝石と呼ぶ胡椒をはじめ様々な香辛料。綿織物の生産技術は海帝国よりも進んでいる。大地には麦の穂が揺れており。豊かな農作物は人々の胃袋を満たしている。
 この報告書は「天竺見聞録」として刊行され、貿易商人たちの必読書となった。
 この当時、中国もインドも西欧諸国よりも数段豊かだったのだ。やがてイギリスの植民地支配が始まると、インドの富は収奪され、インドで生産されたアヘンが中国へ持ち込まれることになる。イギリスにはアヘンくらいしか中国に売りつけることができる生産物が無かったのだ。武力をもってイギリスがアジアの富を奪い取ったのだ。
 「愛新覚羅ヘカン君、そんなことにならないように頑張ってほしいのだ!」
 一年半にわたって、ヘカンはムガル帝国の版図を視察してまわった。満州族は敬虔な仏教徒である。満州の語源は文殊菩薩からきているのだ。ヘカンは各所で仏陀が辿史跡を仏跡を訪れた。特に仏陀が悟りを開いたブッダ・ガヤの菩提樹に感激し、何度も跪いて礼拝した。インドの人々は東の帝国は仏教の国であると認識した。
 「仏教国かと言われたら微妙なり。日本には神道があるし、クリスマスやハロウィンも盛り上がるのだ。中国も儒教とか道教とか仏教が交じり合ってるなり。最近では日本と同じようにクリスマスもやってるのだ。」
 これから三成の艦隊が漕ぎ出す海は、宗教の海でもある。世界を理解するには宗教を理解する必要があるのだ。だが、三成はそのことにまだ気づいてはいない。
 ムガル帝国はイスラムの国ではあるがヒンドゥー教や仏教に対しても寛容で、異教徒も差別なく受け入れた。非イスラム教徒に課されていたジズヤと呼ばれる人頭税も廃止され、全ての民は平等に扱われていた。ただし、仏教の故郷インドでは仏教徒は一割に満たない少数派である。
 ヘカンにとってインドは青春の日の鮮やかな思い出となる。
 インド視察を終えたヘカンは、コルカタの明智商館に戻り、島津の船で上海へ帰還した。

 さて、石田三成率いる大艦隊はコルカタを出航し、インド亜大陸の東岸を南下した。目指すはイギリス東インド会社の拠点マドラスである。マドラスの港に接近した玄徳丸は艀を下ろしイギリス商館に使者を送った。使者はイギリス商館長に「捕虜を返還したい」旨を伝え、商館長は感謝の意を三成に伝えた。
 捕虜とは台湾でのジェームス・ドレークとの海戦の折、海に放り出された水兵たちである。捕虜の数は百名を超えたが、海帝国に残ることを希望した者が半数にも上り、今回返還されるのは五十二名である。
 捕虜たちは寧波の収容施設に入れられていたが、昼間の寧波市内での行動が許されており、自由が保障されていた。また食べ物も船の上やインド、さらには本国イギリスに比べて大変おいしかったのだ。
 寧波の日本人町の人々は彼らが主食とするパンが食べられないことを気の毒に思ったのか、パン釜をこしらえパンを焼いた。これが寧波のご当地グルメ、寧波パンの発祥である。この親切にイギリス人捕虜たちは涙を流して喜んだと言われる。日本人のおもてなし精神はこのころから旺盛であったのだ。
 さらに男尊女卑の東アジアの男たちに比べて、レディー・ファーストのイギリス人たちは女性にモテた。捕虜たちのなかには、「ここはパラダイスではないか」と言い出す者が現れ、半数が海帝国の水軍に加わってしまった。イギリス人捕虜たちが加わったことにより、海帝国水軍は海軍国イギリスのノウハウを吸収することができた。情けは人のためならず、である。
 今回の大艦隊では水先案内人を務めているウイリアム・アダムスはその一人である。改変前の歴史では、伊豆半島沖で難破し、徳川家康の海外顧問、三浦按針となる人物である。
 イギリス商館は捕虜たちを受け取り、巨大船の威容に驚くことになる。インドに海帝国という勢力が進出したことを印象付け、捕虜を返還するという友好の証を示すことが三成の意図したことなのだ。
 大艦隊はさらに南下を続け、セイロン島を迂回してインド亜大陸南端を回って北上を開始した。インド西岸にはイギリス東インド会社の本拠地ゴアがある。大艦隊はゴアの砲台の射程ギリギリを通過しその威容を見せつけた。ゴアのイギリス商館にはマドラスにて捕虜の返還を受けたとの情報が入っており、イギリス東インド会社は艦隊の空砲に礼砲で応え感謝の意を表明した。

 大艦隊の映像は世界中に発信され、それは西欧諸国を震撼させた。別の歴史とはいえ、十七世紀において中国人たちが西欧を侵略するのではないかとの憶測が流れていた。それだけではない。アジア人がヨーロッパ人に優越する様を見せつけられた西欧諸国では、忌まわしき黄禍論が蘇りつつあったのだ。
 「黄禍論」
 色人種が白人優位の世界を覆す災いとなるという。一九世紀から二十世紀にかけて唱えられた説である。この思想は黄色人種への侮蔑を含んでおり、様々な形で人種差別を生むことになる。
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