歴史改変戦記 「信長、中国を攻めるってよ」

高木一優

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第一部 信長様の大陸侵攻なり

28 斜陽万里

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 心配した私が馬鹿だった。 
 外務省を辞めた戸部典子は、碧海作戦についての本を出版した。これが、大ヒットになった。中国語や英語にも翻訳され、世界中で評判になっていた。織田信長の鉄砲隊の映像のおかげで、戦国武将は世界的なブームになっていたのだ。
 私も戸部典子の本を読んで見たのだが、「伊達政宗君のヒミツ」とか「島津義弘君の魅力は?」という腐った内容だ。しかも戸部典子のお絵描きしたたイラストまでついている。どうやら世界中に腐った女たちがいるらしい。
 テレビにも毎日出演している。肩書は「戦国武将評論家」らしい。
 戸部典子はあの日の参考人招致に関しては何も語らない。そのかわり、なんでもかんでも戦国武将に例えて話すロジックは冴えに冴えていた。
 馬鹿だけど、頭はいいのだ。
 彼女の口癖である「なり」とか「のだー」は流行語になり幼稚園児からおっさんまでが真似をしていた、
 私も参考人招致のため帰国した際、実家に立ち寄ったのだが、
 「よく帰ったなりな。」
 と、親爺の口からその言葉が出て、驚いた。

 その年の流行語大賞には、戸部典子の「卑怯なり」が選ばれたが、その授賞式に彼女の姿はなかった。
 彼女は北京にいたのだ。

 戸部典子は碧海作戦の研究室に戻ってきた。今度は中国政府に雇われたらしい。
 いつも中国をあしざまに非難する山内議員をやっつけたことで彼女は中国でも有名人になっていたのだ。
 「戸部典子、ただ今帰還いたしましたなり。」
 彼女は私にふざけて敬礼した。
 驚いたことに人民解放軍の諸君が直立不動の姿勢をとり、彼女に敬礼した。
 戸部典子は中国ではヒロインである。
 おいおい、こいつは国会で徴兵制を訴えた再軍備主義者なのだぞ。
 陳博士・李博士をはじめとした研究者たちは戸部典子を拍手で迎えた。
 「出戻り娘なりー。」
 と、戸部典子は照れている。

 碧海作戦はまもなく十七世紀の生成を始める。
 信長が築いた東アジア海洋帝国は平和で活気に満ちている。
 そうだ、行こうではないか。十六世紀の東アジアの海へ。

 中国政府は約束を守ってくれた。歴史介入実験チームの視察旅行というわけだ。もちろん陳博士も李博士も同行する。戸部典子も中国政府と交渉して強引についてきた。
 私はその日から髪を伸ばしはじめた。少々薄くなりかけていた額をきれいに剃り上げ月代さかやきを作った。長く伸ばした髪を結い上げちょん髷にした。
 李博士は無礼にも爆笑をもって答えた。
 「ちょん髷も素敵だと言ったのを忘れたか、馬鹿女め!」

 タイムマシンで十六世紀へ向かった。一六○○年、十六世紀最後の年だ。場所は上海である。
 私のいでたちは肩衣に袴姿である。腰に大小の刀をたばさんで街を闊歩した。
 「コスプレ、コスプレ」と、
 陳博士は覚えたてのオタク用語で私をからかったが、そんなことはおかまいなしさ。
 陳博士は粗末な儒服を身に着けている。ただでさえ人目をひく色男なのだ。目立たないようにという方針は分かるのだが、私は陳博士の見事な士大夫したいふぶりが見たかったのだ。
 「ハオハオ、!」
 李博士は赤いチャイナドレスではないか。正確にいうとチャイナドレスの原型となった満州族の女性用の胡服である。李博士がこんなにも素敵な体の線をしていたことに今まで気付かなかった。残念ながらスリットから覗く脚には白いズボンをはいている。あのエッチなスリットは騎乗のためのもので、決して足をなまめかしく見せるためのものではない。満州族は中華文明のなかにこの偉大な遺産を残し、男たちを悩殺し続けることになる。
 戸部典子は若侍のコスプレをしているのだが、全く似合っていない。こんなへらへらした若侍はいない。それにきょろきょろして挙動不審だ。刀は竹みつにしておいた。こいつが刀なんか振り回しら危ないことこの上ない。

 街は華やいでいる。様々な民族がそれぞれの衣装を競うように往来していた。東アジアの民族はもとより、ヨーロッバ人やアラブ人もいる。肌の黄色いもの、白いもの、黒いのもいるぞ。
 街のあちこちでは槌音が響いている。上海は未だ建設中の都である。上海はまぎれもなく世界の首都になるであろう。
 戸部典子が私の背中を叩いた。
 「さっきの商人、徳川家康君じゃないなりか?」
 他人の空似だろう。

 私たちの滞在中に織田信長の喪が発せられた。庶民には一日だけ喪に服するようにとの御触れがあった。
 「一日だけ喪に服し、あとはさっさと働けという信長様のありがたいご遺言なりね。」

 船に乗れるという。日本の平戸行きの商船だ。
 夢が叶う。

 上海市街を流れる黄浦江の港から私たちの乗る船は出航した。黄浦江はやがて長江の河口に合流する。
 河口には無数の船が行き交っていた。
 南蛮から来た商船は、長い旅のうちに傷だらけになり、ようやく目的地に辿りつこうとしている。
 日本から来た船は小ぶりながら見事な操船で波を切っている。
 長江を遡らんとしている船は重い荷を積んでいるらしく、船体を深く水面下に沈めている。
 海に向かって舳先を並べる船団は未知の世界へ憧れ出ようとして、激しく帆を動かしている。

 私たちの船は外洋に出た。風は順風、帆は美しい曲線を描いて膨らんでいる。日はゆっくりと傾き、海はどこまでも碧い。私は十六世紀の風に吹かれている。
 陳博士が筆を取り出し懐紙にさらさらと何事かを書き付けている。
 私が覗き込むと、李博士も覗き込んだ。李博士の顔が近い。いいにおいもする。
 陳博士はその懐紙を私に手渡した。読めるか?ということらしい。
 「この漢詩はよく知ってるなり。」
 私の手元を覗き込んだ戸部典子が、手元から懐紙を取り上げた。
 「たしか『海市』という題名なり。」
 「海市」の七言絶句は、私もよく知っている
 海市とは蜃気楼のことだ。北宋の大詩人、蘇東坡そ とうばの作である。
 漢詩にはめずらしく海に題材をとっている。
 中国人にも海に対するこんなにも豊かな感性があったことに私はあらためて敬服した。

 戸部典子が朗々と、日本語で読み下した。

 斜陽万里しゃようばんり孤鳥こちょうぼっ
 ただ見る、碧海へきかい青銅せいどうみがけるを

 蜃気楼のような歴史の海を眺めながら、もう何も想うことは無い。
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