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11、海の王朝
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信長は新都を建設しようとしていた。揚子江の河口にある小さな港町に目をつけた。現在の上海である。信長は海港都市の建設に着手した。
信長はここを「海都」と名付けるつもりだったが、元からあった上海の発音が気に入ったらしくそのままにした。
中国に限らず大陸では防衛のため都市そのものを城壁で囲む。ところが信長はこの城壁を設けなかった。
上海は無防備都市である。人が自由に往来し、上海はどこまでも広がっていく。楽市・楽座の思想がこんなところにも表れているのだ。
その代わりに黄埔江に面して巨大な城塞を築いた。黄埔江は上海の中央を流れ、長江の河口に合流する海への玄関なのである。
上海城は海に向かって開かれた城である。石垣を何重にもめぐらし、城内には石造りの宮殿が造営されていた。
城塞の黄埔江に面する部分には軍港が築かれ、巨大な鉄甲船が何隻をも錨を下している。
みるみる天守閣が立ち上がっていく。安土城の天守閣だ! いや、少し中国風になっているみたいだ。わくわくする。
新都の建設にあたったのは、中国人だけでなく、日本から呼び寄せられた人々も多く加わっていた。彼らは言葉の違いを超えて協力した。働く人々のなかに歌が生まれ、それは中国語の歌に日本の合いの手を入れたり、その逆もあった。
奇妙なバイリンガルの歌が、町中で大流行した。
上海の港が一気に華やいだ。出雲のお国一座の到着だ。女性が華やかな衣で踊り謳う。中国にはこんなハレンチなものは無かっただろう。今でいえばストリップに近い。日本人のエロティシズムはこのころから世界レヴェルだったのだ。
中国の人々も、日本から来た人々も、大喜びである。出雲のお国一座の公演は全て無料だった。信長がスポンサーだったからだ。
中国人たちの芝居小屋では崑劇が上演されていた。京劇のルーツとなった演劇である。舞台では三国志や項羽と劉邦の物語が上演され、日本人にも大好評だった。特に三国志は日本語にも翻訳されて大ヒットしていた。
「日本人の三国志好きは昔も今も変わらないなり。」
確かに、小説にドラマ、マンガにゲーム、三国志の無い日本のサブ・カルチャーは寂しいものになってしまうだろう。
三国志は日本人にも中国人にも親しまれる物語として、国民文学のようになりつつあった。羅漢中の「三国志演義」はもとより。日本語で書かれた「読本三国志」や。伝奇的な要素を加えた「窯変三国志」など、様々なバージョンが生まれていた。
近代国家の成立には文学が大きく作用している。
分裂していたイタリアはダンテの「神曲」をベースに共通イタリア語を生み出し、言葉の流通する地域が近代イタリアとなった。ドイツも同じく諸侯が割拠し分裂状態にあった。ルターがドイツの一地方の言葉で「聖書」訳し、これがドイツ語の源流となり、後にドイツを統一する条件を用意したのだ。
日本でも明治維新以降、近代文学が勃興するのである。言文一致の発明や、漱石や鴎外が残した文学が標準語生み出した近代日本の礎なのだ。
中国では魯迅がこの役割を担い、伝統と近代の間で苦悩する。
言葉が統一されることで、人々の中に国民としての一体感が生まれるのだ。物語がその媒介となる。
国民文学というのは国民国家を可能ならしめる条件のひとつである。
面白いのは、漢字という共通の言語ツールを東アジアはあらかじめ備えていることだ。音声による意思疎通には支障があるが、文書による伝達は広範囲で可能なのだ。
私は中国語をカタコト程度にしか話せないが、漢字で書かれた中世や近世の文献を読むことができる。日本人も漢字文明圏の住人である
春秋戦国時代までは、漢字も地域ごとに違っていたが、秦の始皇帝は国土だけでなく漢字をも統一したのだ。
現在の中国でもそうだ。標準語である北京語を話す人々は、広東語の発音を理解できない。ブルース・リーやジャッキー・チェンが話す言葉を北京の人々は聞き取れないのだ。ところが、漢字という書き言葉にすると文字も文法も同じなのだから不思議だ。
漢字という共通のツールが広大な文化圏をひとつにまとめあげる。これが文明というものなのだ。
一五八九年四月、上海において信長は皇帝に即位した。
国号は「海」である。
歴代の中華王朝は最初に封ぜられた地名を国号とするのが慣例なのだが、海の向こうからやってきた信長にはそんなものは無かった。あえて言えば「倭」という国名もあるのだが、この漢字は中国では良い意味を持っていない。
チンギス・ハーンの末裔たるモンゴルは「元」の嘉名をもって国号としたが、信長は「海」の一字を選んだ。
「我、海より来る」、
そのことの表明と私は理解した。
皇帝即位を祝って、信長は上海の街で馬揃えを挙行した。戦国武将たちが煌びやかな衣装を身にまとい、軍団を従えて街を練り歩くのである。軍事的なデモンストレーションであり、民衆に向けてのアピールである。上海の人々はその威容を恐れつつも、武将たちの歌舞いた姿に喝采を送った。
「島津義弘君なのだ! 次は小早川隆景君なり! ひえー、伊達政宗君、キター。」
戸部典子が、メイン・モニターに食いついて戦国武将たちに声援を送っていやがる。
研究室に拍手がおこった。みんが私に拍手している。照れながら私はみんなに頭を下げて応えた。
中国政府、碧海作戦のスタッフ、それに人民解放軍の諸君。みんな優秀だ。
大陸に兵を進めてからわずか五年、最小限の流血で中華における易姓革命を成し遂げたのだ。
易姓革命は儒教の思想で、王朝の交代を定義したものである。前王朝が徳を失った場合、新たな一族が新王朝を建てるのである。これによって皇帝の姓が変わり、天命が革《あらた》まるわけだ。
信長の姓は織田だが、源平藤橘の姓は平氏である。諸葛孔明の「諸葛」などの例外はあるものの、中華では一文字名が標準である。中国では信長の姓は「平」とされた。
誰も皇帝の苗字など口にしないのだけれど。
信長はそれまで王だったのだが、ここからは皇帝となる。
王は一つの国を治める者だが、皇帝は複数の国を治める諸王に超越する王である。ヨーロッパ式に言えば「日本王、南朝鮮王にして中華帝国の皇帝」といったところだろうか。
中国の戦国時代には秦・趙・韓・魏・斉・燕・楚という戦国の七雄がそれぞれ王国を建てていた。これを統一したのが秦の始皇帝である。その名のとおり中国の皇帝の始まりである。
ヨーロッパでは、ローマ帝国皇帝と神聖ローマ帝国皇帝だけが皇帝位だったが、ナポレオンがフランス一国の皇帝を名乗り侵略戦争を開始した。一国の王が皇帝を名乗るという、これはちょっとした発明に近い。
このあと、ハプスブルグ家も皇帝を名乗り、ドイツ皇帝も名乗りを上げた。広大な版図を統治していたローマ帝国皇帝から見れば、皇帝位の安売り合戦に見えただろう。
皇帝の座に就いた信長は宮廷改革に乗り出した。最初に行ったのは宦官の追放である。信長は宦官を気味悪がり宮廷から排除したのだ。
宦官は中国、朝鮮などの東アジアだけでなく古代オリエントや古代ギリシア、ローマ帝国やイスラムにも存在する。宦官は文明とともにあるのだ。
中華文明から律令制も漢字も儒教も受け入れた日本ではあるが、なぜか宦官がいない。それだけではなく、日本では科挙も行われていないのだ。日本は東アジアの特異点と言える。漢字や儒教など中華文明の影響を受けながら、独自の文化を作ってきたのだ。必要な物だけ取り入れて日本風にカスタマイズする。日本人の感性に合わない物はスルーしてしまうのである。
宦官の仕事は主に宮廷の雑用と料理である。政治を動かす宦官が中国の歴史には幾度も登場するが、宮廷に仕える膨大な数の宦官からすれば、まれな事例と言っていい。
宦官の替わりに宮廷の雑用を担当することになったのが小姓衆である。艶やかな着物を着た若侍たちが宮廷を華やかにしている。男に美を競わせるのも日本独特である。
「美少年軍団なり! 美しいのだー。」
戸部典子が人民解放軍の女性兵士たちを集めて小姓衆を品定めしている。みんなにまにまして、すごく楽しそうだ。
料理などを担当するのはお女中衆である。料理の腕だけでなく美少女が選び抜かれているようだ。やがて、このお女中衆から大奥に似た制度ができるのだろう。
「美少年に美少女、素敵な恋の匂いがするなりね。」
まっ、大らかでいいではないか。
「宦官も科挙も無い代わりに、日本人は美少年や美少女を愛でてきたなり。」
そんな言い方をすると日本人が変態民族みたいではないか。
「クール・ジャパンなり。」
クール・ジャパンだと。要するにオタクの事か!
戸部典子の目が遮光器土偶のようになった。無言の抗議のつもりだ。
ところで戸部典子君、宦官って何か知っているかね?
「ちょんぎった男の人なり。」
戸部典子がにまにま笑っている。こいつに訊く質問ではなかった。これ以上訊くと、とんでもない答えが返ってきそうで怖い。しばらく黙っておけ!
そう言えば、私が中学生の頃、世界史の授業で宦官が何者なのかを初めて知った。担当の高山聡子先生は大学を出たての新任教諭で姉御肌のきれいなお姉さんだった。高山先生は右手に教科書を持ち、左手でハサミの形を作りながら宦官について説明し、男子生徒の全員が股間を押さえた。青春の日の甘酸っぱい思い出である。
その話をすると、戸部典子の口元が何かを言いたそうにムズムズ動いたので、私は話題を変えることにした。
中国では人体を改造する風習がある。宦官だけでなく女性の纏足もそうだ。幼女の頃から女性の足を縛り成長を抑え小さな足にするのだ。足の小さい女性が美しいとされた。
それにしても戸部典子の足は華奢な体形に不釣り合いなほどでかい。
「あたしの足は二十四・五センチなり。」
私は二十五センチだ。身長は百七十五センチなのだが、そのわりに足が小さいのだ。
「ほれっ」と、戸部典子が脱いだ靴を私の前に置いた。足を入れてみるとぴったりだ。
おまえ、私と足のサイズが同じなのか?
「シンデレラみたいなり。」
やめろ、私はかぼちゃの馬車になど絶対に乗らん!
信長は東アジアに海洋帝国を作り上げようとしていた。西欧の大航海時代に対して、東アジアでも大航海時代が幕を開けようとしていた。ユーラシア大陸の西端と東端では競うように造船が行われていた。
黄海と東シナ海は豊穣の海となり、各国の船舶が行き来した。中国の船、日本の船、朝鮮の船、東南アジアからの船や南蛮船もいる。各港は賑わい、交易は盛んになった。
日本列島は信長の次男・信雄によって治められた。浅井長政が帰国し、その補佐を命じられた。これが大坂城を拠点とする日本総督府である。日本列島の直轄地の管理と、大名の監視の役割を担う地方行政機関である。
浅井長政は信長の妹、お市を妻にしているから、信雄にとっては義理の叔父にあたる。改変前の歴史では信長に滅ぼされたため大きな功績が残っていないが、実に優秀な武将であり政治手腕も確かだ。なかなかの人選ではないか。
博多と大坂には巨大な城郭が築かれ、新しい時代に備えようとしていた。海港都市を拠点とした海の時代だ。
羽柴秀吉の支配下に置かれた朝鮮半島南部は活況を呈していた。秀吉は信長の重商主義政策をよく理解し貿易の振興に努めた。対馬海峡と黄海を挟んで朝鮮半島南部は文物の行きかう中継点となっていた。
自由貿易が奨励されると、十六世紀の東アジアの海を脅かした倭寇たちにも新たな活躍の場所が与えられた。商才あるものは貿易商人となり、腕に憶えのある者は信長の水軍に加わった。フランキー砲を何門も搭載した軍船が次々に建造され、強大な水軍が出現しつつあったのだ。
中国は沿岸部を中心に新しい時代を築きつつあった。信長は江南の穀倉地帯を背景に国力を充実させ、貿易によって国を豊かにしようとしていた。
そろそろ現地へ行ってもいいのではないかね、人民解放軍の諸君!
「あたしも行きたいなりー。」
行って、何するつもりなんだ。
「政宗君に握手してもらうのだー。信繁君と、あーんなことや、こーんなことも…」
戸部典子、勝手に妄想に耽っていろ!
戦いが終わりつつあったのだ。もはや残す敵は、地方の反乱勢力だけだった。碧海作戦は順調だった。
一方、漢民族のアイデンティティーであるはずの中原では、徳川家康が着々と力を蓄えつつあった。
陳博士や李博士たちは徳川家康による中華帝国の可能性を視野に入れて、碧海作戦を再検討し始めていた。
信長はここを「海都」と名付けるつもりだったが、元からあった上海の発音が気に入ったらしくそのままにした。
中国に限らず大陸では防衛のため都市そのものを城壁で囲む。ところが信長はこの城壁を設けなかった。
上海は無防備都市である。人が自由に往来し、上海はどこまでも広がっていく。楽市・楽座の思想がこんなところにも表れているのだ。
その代わりに黄埔江に面して巨大な城塞を築いた。黄埔江は上海の中央を流れ、長江の河口に合流する海への玄関なのである。
上海城は海に向かって開かれた城である。石垣を何重にもめぐらし、城内には石造りの宮殿が造営されていた。
城塞の黄埔江に面する部分には軍港が築かれ、巨大な鉄甲船が何隻をも錨を下している。
みるみる天守閣が立ち上がっていく。安土城の天守閣だ! いや、少し中国風になっているみたいだ。わくわくする。
新都の建設にあたったのは、中国人だけでなく、日本から呼び寄せられた人々も多く加わっていた。彼らは言葉の違いを超えて協力した。働く人々のなかに歌が生まれ、それは中国語の歌に日本の合いの手を入れたり、その逆もあった。
奇妙なバイリンガルの歌が、町中で大流行した。
上海の港が一気に華やいだ。出雲のお国一座の到着だ。女性が華やかな衣で踊り謳う。中国にはこんなハレンチなものは無かっただろう。今でいえばストリップに近い。日本人のエロティシズムはこのころから世界レヴェルだったのだ。
中国の人々も、日本から来た人々も、大喜びである。出雲のお国一座の公演は全て無料だった。信長がスポンサーだったからだ。
中国人たちの芝居小屋では崑劇が上演されていた。京劇のルーツとなった演劇である。舞台では三国志や項羽と劉邦の物語が上演され、日本人にも大好評だった。特に三国志は日本語にも翻訳されて大ヒットしていた。
「日本人の三国志好きは昔も今も変わらないなり。」
確かに、小説にドラマ、マンガにゲーム、三国志の無い日本のサブ・カルチャーは寂しいものになってしまうだろう。
三国志は日本人にも中国人にも親しまれる物語として、国民文学のようになりつつあった。羅漢中の「三国志演義」はもとより。日本語で書かれた「読本三国志」や。伝奇的な要素を加えた「窯変三国志」など、様々なバージョンが生まれていた。
近代国家の成立には文学が大きく作用している。
分裂していたイタリアはダンテの「神曲」をベースに共通イタリア語を生み出し、言葉の流通する地域が近代イタリアとなった。ドイツも同じく諸侯が割拠し分裂状態にあった。ルターがドイツの一地方の言葉で「聖書」訳し、これがドイツ語の源流となり、後にドイツを統一する条件を用意したのだ。
日本でも明治維新以降、近代文学が勃興するのである。言文一致の発明や、漱石や鴎外が残した文学が標準語生み出した近代日本の礎なのだ。
中国では魯迅がこの役割を担い、伝統と近代の間で苦悩する。
言葉が統一されることで、人々の中に国民としての一体感が生まれるのだ。物語がその媒介となる。
国民文学というのは国民国家を可能ならしめる条件のひとつである。
面白いのは、漢字という共通の言語ツールを東アジアはあらかじめ備えていることだ。音声による意思疎通には支障があるが、文書による伝達は広範囲で可能なのだ。
私は中国語をカタコト程度にしか話せないが、漢字で書かれた中世や近世の文献を読むことができる。日本人も漢字文明圏の住人である
春秋戦国時代までは、漢字も地域ごとに違っていたが、秦の始皇帝は国土だけでなく漢字をも統一したのだ。
現在の中国でもそうだ。標準語である北京語を話す人々は、広東語の発音を理解できない。ブルース・リーやジャッキー・チェンが話す言葉を北京の人々は聞き取れないのだ。ところが、漢字という書き言葉にすると文字も文法も同じなのだから不思議だ。
漢字という共通のツールが広大な文化圏をひとつにまとめあげる。これが文明というものなのだ。
一五八九年四月、上海において信長は皇帝に即位した。
国号は「海」である。
歴代の中華王朝は最初に封ぜられた地名を国号とするのが慣例なのだが、海の向こうからやってきた信長にはそんなものは無かった。あえて言えば「倭」という国名もあるのだが、この漢字は中国では良い意味を持っていない。
チンギス・ハーンの末裔たるモンゴルは「元」の嘉名をもって国号としたが、信長は「海」の一字を選んだ。
「我、海より来る」、
そのことの表明と私は理解した。
皇帝即位を祝って、信長は上海の街で馬揃えを挙行した。戦国武将たちが煌びやかな衣装を身にまとい、軍団を従えて街を練り歩くのである。軍事的なデモンストレーションであり、民衆に向けてのアピールである。上海の人々はその威容を恐れつつも、武将たちの歌舞いた姿に喝采を送った。
「島津義弘君なのだ! 次は小早川隆景君なり! ひえー、伊達政宗君、キター。」
戸部典子が、メイン・モニターに食いついて戦国武将たちに声援を送っていやがる。
研究室に拍手がおこった。みんが私に拍手している。照れながら私はみんなに頭を下げて応えた。
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信長の姓は織田だが、源平藤橘の姓は平氏である。諸葛孔明の「諸葛」などの例外はあるものの、中華では一文字名が標準である。中国では信長の姓は「平」とされた。
誰も皇帝の苗字など口にしないのだけれど。
信長はそれまで王だったのだが、ここからは皇帝となる。
王は一つの国を治める者だが、皇帝は複数の国を治める諸王に超越する王である。ヨーロッパ式に言えば「日本王、南朝鮮王にして中華帝国の皇帝」といったところだろうか。
中国の戦国時代には秦・趙・韓・魏・斉・燕・楚という戦国の七雄がそれぞれ王国を建てていた。これを統一したのが秦の始皇帝である。その名のとおり中国の皇帝の始まりである。
ヨーロッパでは、ローマ帝国皇帝と神聖ローマ帝国皇帝だけが皇帝位だったが、ナポレオンがフランス一国の皇帝を名乗り侵略戦争を開始した。一国の王が皇帝を名乗るという、これはちょっとした発明に近い。
このあと、ハプスブルグ家も皇帝を名乗り、ドイツ皇帝も名乗りを上げた。広大な版図を統治していたローマ帝国皇帝から見れば、皇帝位の安売り合戦に見えただろう。
皇帝の座に就いた信長は宮廷改革に乗り出した。最初に行ったのは宦官の追放である。信長は宦官を気味悪がり宮廷から排除したのだ。
宦官は中国、朝鮮などの東アジアだけでなく古代オリエントや古代ギリシア、ローマ帝国やイスラムにも存在する。宦官は文明とともにあるのだ。
中華文明から律令制も漢字も儒教も受け入れた日本ではあるが、なぜか宦官がいない。それだけではなく、日本では科挙も行われていないのだ。日本は東アジアの特異点と言える。漢字や儒教など中華文明の影響を受けながら、独自の文化を作ってきたのだ。必要な物だけ取り入れて日本風にカスタマイズする。日本人の感性に合わない物はスルーしてしまうのである。
宦官の仕事は主に宮廷の雑用と料理である。政治を動かす宦官が中国の歴史には幾度も登場するが、宮廷に仕える膨大な数の宦官からすれば、まれな事例と言っていい。
宦官の替わりに宮廷の雑用を担当することになったのが小姓衆である。艶やかな着物を着た若侍たちが宮廷を華やかにしている。男に美を競わせるのも日本独特である。
「美少年軍団なり! 美しいのだー。」
戸部典子が人民解放軍の女性兵士たちを集めて小姓衆を品定めしている。みんなにまにまして、すごく楽しそうだ。
料理などを担当するのはお女中衆である。料理の腕だけでなく美少女が選び抜かれているようだ。やがて、このお女中衆から大奥に似た制度ができるのだろう。
「美少年に美少女、素敵な恋の匂いがするなりね。」
まっ、大らかでいいではないか。
「宦官も科挙も無い代わりに、日本人は美少年や美少女を愛でてきたなり。」
そんな言い方をすると日本人が変態民族みたいではないか。
「クール・ジャパンなり。」
クール・ジャパンだと。要するにオタクの事か!
戸部典子の目が遮光器土偶のようになった。無言の抗議のつもりだ。
ところで戸部典子君、宦官って何か知っているかね?
「ちょんぎった男の人なり。」
戸部典子がにまにま笑っている。こいつに訊く質問ではなかった。これ以上訊くと、とんでもない答えが返ってきそうで怖い。しばらく黙っておけ!
そう言えば、私が中学生の頃、世界史の授業で宦官が何者なのかを初めて知った。担当の高山聡子先生は大学を出たての新任教諭で姉御肌のきれいなお姉さんだった。高山先生は右手に教科書を持ち、左手でハサミの形を作りながら宦官について説明し、男子生徒の全員が股間を押さえた。青春の日の甘酸っぱい思い出である。
その話をすると、戸部典子の口元が何かを言いたそうにムズムズ動いたので、私は話題を変えることにした。
中国では人体を改造する風習がある。宦官だけでなく女性の纏足もそうだ。幼女の頃から女性の足を縛り成長を抑え小さな足にするのだ。足の小さい女性が美しいとされた。
それにしても戸部典子の足は華奢な体形に不釣り合いなほどでかい。
「あたしの足は二十四・五センチなり。」
私は二十五センチだ。身長は百七十五センチなのだが、そのわりに足が小さいのだ。
「ほれっ」と、戸部典子が脱いだ靴を私の前に置いた。足を入れてみるとぴったりだ。
おまえ、私と足のサイズが同じなのか?
「シンデレラみたいなり。」
やめろ、私はかぼちゃの馬車になど絶対に乗らん!
信長は東アジアに海洋帝国を作り上げようとしていた。西欧の大航海時代に対して、東アジアでも大航海時代が幕を開けようとしていた。ユーラシア大陸の西端と東端では競うように造船が行われていた。
黄海と東シナ海は豊穣の海となり、各国の船舶が行き来した。中国の船、日本の船、朝鮮の船、東南アジアからの船や南蛮船もいる。各港は賑わい、交易は盛んになった。
日本列島は信長の次男・信雄によって治められた。浅井長政が帰国し、その補佐を命じられた。これが大坂城を拠点とする日本総督府である。日本列島の直轄地の管理と、大名の監視の役割を担う地方行政機関である。
浅井長政は信長の妹、お市を妻にしているから、信雄にとっては義理の叔父にあたる。改変前の歴史では信長に滅ぼされたため大きな功績が残っていないが、実に優秀な武将であり政治手腕も確かだ。なかなかの人選ではないか。
博多と大坂には巨大な城郭が築かれ、新しい時代に備えようとしていた。海港都市を拠点とした海の時代だ。
羽柴秀吉の支配下に置かれた朝鮮半島南部は活況を呈していた。秀吉は信長の重商主義政策をよく理解し貿易の振興に努めた。対馬海峡と黄海を挟んで朝鮮半島南部は文物の行きかう中継点となっていた。
自由貿易が奨励されると、十六世紀の東アジアの海を脅かした倭寇たちにも新たな活躍の場所が与えられた。商才あるものは貿易商人となり、腕に憶えのある者は信長の水軍に加わった。フランキー砲を何門も搭載した軍船が次々に建造され、強大な水軍が出現しつつあったのだ。
中国は沿岸部を中心に新しい時代を築きつつあった。信長は江南の穀倉地帯を背景に国力を充実させ、貿易によって国を豊かにしようとしていた。
そろそろ現地へ行ってもいいのではないかね、人民解放軍の諸君!
「あたしも行きたいなりー。」
行って、何するつもりなんだ。
「政宗君に握手してもらうのだー。信繁君と、あーんなことや、こーんなことも…」
戸部典子、勝手に妄想に耽っていろ!
戦いが終わりつつあったのだ。もはや残す敵は、地方の反乱勢力だけだった。碧海作戦は順調だった。
一方、漢民族のアイデンティティーであるはずの中原では、徳川家康が着々と力を蓄えつつあった。
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