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15、新会社、始動

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 その夜は泣き疲れて眠ってしまった。
 夜中の三時頃に目が覚めて、そのまま眠れなくなった。
 天井を覆う闇が空虚に思えて、また泣き出しそうになった。
 泣いてたまるか、って心に念じると悔しさが込み上げてきた。
 そうだ、諦めたら、何もかも終わりなのだ。
 あたしにはまだやれることがあるはずだ。

 就職してから、毎月八万円を貯金してきた。
 食費だからと、家に入れるつもりだったお金を、お母さんは「あんたの貯金にしなさい」と言ってくれて、あたしは嵯峨銀行の口座に少しずつ貯めてきたのだ。
 そのお金がもう二百万以上になってる。
 あのお金を使ってもらおう。
 みんなのためのお金だから、お母さんだって賛成してくれるはずだ。
 「諦めたらダメだ、諦めたらダメだ。」
 あたしはそう呪文を唱え続けて朝を迎えた。


 あたしは昨日の大泣きが嘘だったように静かに朝食をとった後、会社へ出かけた。
 帷子ノ辻の嵯峨銀行で二百三十万円を引き出して、大映通り商店街のゲートをくぐった。
 「大魔神君、あたしは諦めないのだよ。」
 大魔神君は何も言わないけれど、空の上からお父さんが見守ってくれているような気がした。
 あたしは自転車をこいで会社へと向かった。

 事務所に着くと、あたしはカバンから銀行の封筒に入ったお金を取り出して、阿部部長の前に差し出した。
 「二百三十万あるのだ。使ってほしいのだ。」
 部長はしばらくうつむいていた。
 そして、次の瞬間、大声で笑い出したのだ。
 あたしは、阿部部長は気が狂ったのだと思った。
 でも、杉山さんも笑ってるし、いつの間にか事務所に上がってきた後藤工場長と石崎君も笑ってる。それに黒澤さんもいて、お腹を抱えて笑っている。
 何がそんなにおかしいのだ。みんな気が狂ったのか。
 事務所の隅に、貴志お兄ちゃんが何故かいる。
 いったいどうしたのだ!
 貴志お兄ちゃんは、両腕で顔を覆っている。そしてその両腕をゆっくりと左右に開いて、
 「どどーん!」
 って、大声を上げた。
 そのお兄ちゃんの姿を見て、みんなが大爆笑した。
 呆然としているあたしに、黒澤さんが言った
 「戸部、乙女の涙が、大魔神を復活させたようだな。」
 黒澤さんも、変なことを言わないで欲しいのだ。
 あたしは真剣なのだ。必死の思いでこのお金を持ってきたのだ。
 「まあまあ、戸部京子君、実はだな・・・」

 あたしは、昨日の出来事について一部始終を教えてもらった。
 嘘みたいな話なのだ。
 「嘘のようだが、ほんとうだ。この兄の眼力、よもや疑うことは無かろうて。」
 貴志お兄ちゃんはおどけた仕草で言った。
 あたしもお腹の中から、笑いが込み上げてきた。

 えへへ、えへへ、えへへへへへ
 えひひ、ひひひ、ひひひひひ

 それから涙もこみ上げて、あたしは笑いながら泣いた。


 「戸部貴志君の活躍によって、私たちは人、モノ、金を手に入れた。もう、迷うことは無い。あとは駆け抜けるだけだ。」
 阿部部長がみんなの前で宣言した。
 そうだ、駆け抜けるのだ。
 典子お姉ちゃんの知恵と、貴志お兄ちゃんの力に助けられたのだ。こんどはあたしが頑張る番だ。
 やることはいっぱいある。

 「戸部京子君、新しい会社の法人登記をお願いしたい。」
 阿部部長が言った。
 「部長、登記やったら昨晩、手配済みですわ。」
 貴志お兄ちゃんだった。
 「知り合いの司法書士に言うて、登記の申請書類を作ってもろてます。
 「手回しのいいことだ。でも会社の名前を決めないと・・・」
 「会社の名前、それやったら、もう決めましたわ。」
 「貴志君が決めたのか?」
 「絶対、みんな気に入ります。『株式会社アゴラ』ですわ。アゴラちゅうのはですな、広場のことです。古代ギリシアの人々は広場に集まって民会を開いた。広場は言論空間でもあり商業空間でもあり、文化を生み出す場所だったわけです。今のこの会社の状態にそっくりでしょ。」
 「回転寿司チェーンの会社にしては突飛な名前だが、いいネーミングだと思うぞ。」
 黒澤さんがお兄ちゃんの意見に同意した。
 「おっ、姉さん、このセンスの良さが分かるんか。なかなかの教養人やな。」
 「これでもアーモスト大学で西洋史を学んだのでな。」
 「アーモスト・・・」
 お兄ちゃんは露骨に嫌な顔をした。
 アーモスト大学は京都学院大学の宿敵なのだ。。それにアーモスト大学のほうが少し偏差値が高いのだよ。

 「おーえんかー、グレートきょーとがくいーん!」

 お兄ちゃんはまた京都学院の応援歌を歌いだした、
 黒澤さんは、お兄ちゃんに対抗して賛美歌を歌い始めた。
 バンカラの校風の京都学院に対して、アーモスト大学はクリスチャン系でおしゃれな大学なのだ。

 ♪ グレート! グレート 京都学院!

 ♪ 主はきませり、主はきませり、主はぁ主はぁぁ、きませり

 お兄ちゃんは応援歌をがなりたて、黒澤さんはよく通る張りのある声で応戦した。
 なんて馬鹿で素敵な人たちなんだろうって、あたしは思った。


 株式会社アゴラ、始動なのだ。
 社長はもちろん、阿部部長だよね。
 「いや、そういう訳にはいかん。私は三好水産の経営で取引先に迷惑をかけているし、道義上、私が社長になるわけにはいかない。過去と決別するためには、それにふさわしい人材が必要なんだよ。」
 じゃあ、誰が社長をやるのだ?
 杉山さんが進み出て言った。
 「あたしは京子ちゃんが社長になったらええと思うわ。」
 それは無理なのだ。
 「戸部が社長なら、依存は無い。前にも言ったが、お前の能力はまだまだ伸びる。」
 黒澤さんまでそんなことを言うなんて、みんなどうかしてるのだ。
 「戸部っち、みんなで支えるから大丈夫だぜ。」
 石崎君まで、無責任なことを言うのだ。
 そして、阿部部長もみんなの意見に賛成した。
 「自分の貯金をみんなのために使おうとした戸部京子君ほど、この会社を守りたいと思っていた人はいないはずだ。だから、君が適任なんだよ。この広場の中心にいてくれるだけでいい。株式会社アゴラはみんなのものであり、みんなが支えるんだよ。」
 あたしはお飾りでいいのか?
 「君がそれでよければ、それでいい。」
 阿部部長の言葉に心が震えた。
 「京子、やれ! みんなの期待に応えんでどうする。」
 お兄ちゃんも笑ってる。

 目の前がぐるぐる廻る。
 あたしはいろんな人たちの意思を感じた。
 お母さんが、それでいいのだと言っている。
 にまにま顔の典子お姉ちゃんが、あたしの未来を指し示している。
 お父さんが、あたしの髪をなでて笑っている。
 「京子、いまは自分に従うときではないよ。みんなの意思に従いなさい。」
 お父さんが、そう言ったような気がした。
 そして大魔神君があたしの心に降りてきて、それは懐かしい人たちの意思と力を伝えてくれる。

 十日後、株式会社アゴラの登記が完了した。

 代表取締役 戸部京子

 登記簿には、そうあった。



■帷子ノ辻駅から見える線路■

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