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8、金貸しの論理
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金曜の夜、私は三好社長に会おうと思い、三好マネジャー、社長の奥さんの携帯を鳴らした。奥さんは、「主人も喜びますわ」と言ったが、気持ちのこもった声ではなかった。
昔ならば、酒の一本でも手土産にするところだが、社長が脳梗塞で倒れてからはそうもいかない。甘いものでもどうかと思い、シュークリームの箱を下げて、天神川三条のマンションを訪ねたのだ。
三好社長は、私の顔を見ると嬉しそうな表情を浮かべた。私は奥さんにシュークリームを手渡した。
「なんや、酒やないんかいな。」
「いやいや、社長、それはさすがにまずいでしょう。」
私がたしなめるようにいうと、社長は奥さんに、
「阿部君にビール出したって。」
と、大きな声で言った。
「ええやろ、阿部君。お客さんが来た時だけはビール飲んでもええことになっとんのや。」
やれやれだ、社長の嬉し気な顔の正体はビールか。
グラスに注がれた琥珀色の液体を、三好社長が美味しそうに飲んでいる。
私は、会社で起こっていることを社長に話した。松永重治が通帳から五千万を引き出したこと。滋賀第一銀行の口座が凍結されたこと。そして、このままでは、三好水産は潰れてしまうかも知れないことを。
三好社長は、私の話を他人事のように聞いていた。
そして、こう言った。
「儂はもう社長やない。引退したんや。」
「しかし、株式の売却代金はまだ支払われていないはずではないですか?」
「それは、もうしばらく待つわ。実印と通帳は阿部君が持っとる。松永は浅野と下田を手なずけて、五千万取ったわけか。なかなかやりよるやないか。」
「しかし、三好水産の社長は登記簿の上でも三好社長なんですよ。社長なら、松永を横領で訴えられると思います。」
「阿部君、社長が会社の金を好きなように使うのは横領か?」
あっ、と思った。三好社長は言いたかったのはこのことか。
私は三好社長が会社の金を好きなように使うことを許さなかった。正確に言えば、社長が好きなことを邪魔してきた。三好水産の歴史は三好社長と私の水面下での戦いの歴史でもある。
「阿部君と松永の戦争、高みの見物をさせてもらうで。」
三好社長はそう言って、グラスの底に残った僅かなビールを飲み干した。
社長宅の帰り道、私は三好社長の心が読めなくなっていることに気づいた。
病気のせいなのか、それとも私への憎悪のせいなのか、いずれにせよ昔の三好社長ではない。それにしても、あれほどまでして作り上げた三好水産に執着はないのだろうか。
何よりも奇妙なのは、松永から一億円が支払われていないにもかかわらず、三好社長には焦っている気配すらない。そして、社長の座を半ば明け渡そうとしているのだ。「もう、儂には責任はない」とでも言いたげに。
確かに、滋賀第一銀行から受けた融資の保証人から三好社長は外れた。替わって松永が保証人となり、三好社長は会社が負った責任から解放されたと言っていい。
だからなのか?
三好社長は滋賀県の近江八幡の出身である。大映通りに小さな魚屋の店舗を出したとき、滋賀第一銀行から融資を受けた。
スーパーよりもワンランク上の新鮮な魚をスーパー並みの価格で販売し、地元の人気店になった。後藤さんが作る鯖寿司が評判で、スーパーや料理屋に卸すようになって、店はますます繁盛した。日本が高度経済成長からバブルに到達する時期である。
その頃、滋賀第一銀行、京都支店の支店長は能勢さんだった。三好社長が回転寿司店の開業を企画し、私が入社した頃、能勢支店長は三好水産の無謀とも取れる出店計画をバック・アップしてくれた。
「事業計画もそうやけど、銀行マンは人を見なあかん。立派な事業計画かて、人がダメやったら失敗するのを何度も見てきた。」
それが、能勢支店長の口癖だった。
また、能勢支店長は三好社長と私に、「あんたら、ほんまに、ええコンビや」と言ってくれた。三好水産にとって大恩人だと言っていい。
第一号店、京都駅前店は大繁盛となり、銀行から借りたお金は二年で返してしまった。
能勢支店長が定年退職となり、替わって朝倉支店長が京都支店のトップの椅子に座った。
その腹心の部下だったのが、今の土田支店長である。当時、彼は副支店長だった。
私は彼の事があまり好きではない。土田副支店長が三好社長をそそのかしたのだと、今でも確信している。
二号店、河原町店出店では土田副支店長の世話になったことは否定のしようがない。河原町店は売り上げが伸び悩んだとはいえ順調だった。滋賀第一銀行は、ここでも三好水産に融資し、みごとに回収したのだ。
バブル崩壊以来、長い不景気が続いていた。そんな中で、三好水産はひとり気を吐く成長企業だったのだ。
銀行はお金を貸すのが商売である。だが、危険な会社、不安定な事業に融資を行えば、元本を回収できない危険性があるのだ。
三好水産への融資は安全であるとなれば、銀行は頭を下げてでも金を借りてくれと言ってくる。
三号店、銀閣寺店出店へ向けての融資の話が進む裏で、土田副支店長は三好社長に、もうひとつの融資を提案していたのである。
「社長、自社ビルくらい建てたらどうです。」
自社ビルという言葉が三好社長の琴線に触れた。何事も一国一城の主を目指してきたような人だ。その言葉には、抗いがたい魅力があったのだろう。
ここまでなら、私も許そう。この時、私には秘密裏に動いていた企画があるのだ。
自社ビルを建てるために土田副支店長が本部に取りつけた融資額は三億円である。しかし、どう見ても、このビルは二億円で建築できるしろものである。
三好社長は「書き上げ」をしたのだ。書き上げとは、建築費の見積額を水増しすることだ。二億円の建築費を三億円に水増しする。簡単なことなのだ。
この場合、三好社長と土田副支店長と建築会社がグルである。
土田副支店長は三億の融資を行う事で銀行での評価が上がる。建築会社はビルの建築を請け負うことができる。三好社長は一億の余剰金を手に入れた。
この一億円は、私の知らないところで消えてしまった。
三好社長はドバイの海外事業に投資し、失敗したのだ。いや、私は金をだまし取られたのではないかと思っているくらいだ。
三好水産の落成間もない自社ビルを、アラブの富豪だの王族の親戚だのという怪しげな人物が、会社の見学だといって幾人も訪れた。
彼らは三好社長と商談し、億に近い金を吐き出させたのだ。
三好水産は、私がいなければ動かない。三好社長はそれを誰よりもよく知っている。
だから、私がいる限り、三好水産は三好社長の思い通りに動かすことはできない。
三好社長は、自分で仕切れる事業が欲しかった。それだけだ。
社長は会社の金をどうしようが勝手だと思っている。しかし、消えた一億円を返済するのは会社であり、会社で働く社員やパートさんたちなのだ。
現在、自社ビルの借金は一億五千万円くらい残っている。毎月三百万の返済がある。
土田支店長は三千万円の預金を凍結した。
これによって、十か月の返済金をキープしたのだ。もちろん、土地、建物の第一抵当権は滋賀第一銀行にある。それでも、返済が焦げ付いたりすれば、すなわち融資担当者の土田支店長の責任問題となる。
十か月の間に彼は自分の責任問題にならないよう、銀行内の根回しをするのだろう。そして、三好水産が倒産した暁には、土地、建物の抵当を差し押さえて返済に充てる。
これで土田支店長の立場は安泰だ。
三好水産の社員がどうなろうと知ったことではない。
これが銀行口座凍結の論理だ。金貸しの論理だ。
能勢支店長なら、こんなことはしなかったはずだ。彼は銀行マンの正義を追求した人だった。
銀行はお金を貸すことによって、人々を助けることが第一義と考える昔気質の銀行マンだったのだ。
単なる金貸しと、誇り高い銀行マンは違う。
「経世済民」、それが能勢支店長の座右の銘だった。
私は夜桜を眺めながら家路を急いだ。
今年の桜も、もう散り際といったところか。
天神川三条から私の住まいである双ヶ岡の賃貸マンションまでは歩いても二十分くらいだ。
家には妻と高校三年生の一人息子、武志が待っている。
妻は大学時代の同級生だった。大学時代から付き合っていたのではなく、私が三好水産を軌道に乗せ始めた頃に再会した。
お互い、三十路の声を聞いたところで懐かしい相手に出会って、勢いで結婚してしまったようなものである。
妻は武志が生まれて仕事を辞めてしまったが、最近はスーパーのパートに出ている。何事も一所懸命に取り組む彼女は、パートの仕事とはいえ商品の発注から陳列までを任されているようだ。
昔からちゃきちゃきした性格で、何事も仕切りたがる。
玄関を開けると、めずらしく妻が迎えに出た。こういう時は、何か私に言いたいことがあるのだ。
だが、私の浮かない顔を見て、彼女は言った。
「あんた、どうかしたん。なんかオーラ無いで。」
まずい、会社が危ないことは、まだ妻には伏せておきたい。
「久しぶりに社長のとこで、ビールよばれてきた。」
「脳梗塞やのにビールなんか飲んでええんか、社長。」
妻の呆れ顔はユーモラスで、心を和ませてくれる。
「ええ話したろか。あんたびっくりするで。」
妻はガキ大将のような笑みを浮かべて言った。相当いい事があったと妻の顔に書いてある。
私は手を合わせて「教えてください」と言った。
「武志がな、春休みに受けた模試で、京大B判定がでたんや!」
妻が得意げに言い放った。
武志は嵯峨高校でも成績はトップクラスだが、進学校とはいえ公立高校では東大や京大に受かる生徒はごく少数だ。国立大学を志望していたが、去年の模試では京大はC判定だった。
つまり、去年よりも成績が伸びているのだ。
これはひょっとすると、ひょっとするぞ。私も頬が緩んで仕方がない。
明日は休みだ。花見にでも出かけないかと妻を誘ったが、あいにくパートの仕事が入っている。武志はどうだと聞くと、
「受験生に散り際の桜を見せるなんて、縁起でもないんとちゃうか。」
と、一蹴されてしまった。
私は一家の家計を支えている。会社を潰して失業など絶対できない。
妻のためにも、武志の未来のためにも、ここで負けるわけには断じていかない。戦うために策を練らねばならない。だが、それは明日の仕事にしよう。
今夜は、武志の勉強の邪魔にならないよう静かに、妻と祝杯をあげるのだ。
■大映通り裏にある松竹太秦撮影所■
昔ならば、酒の一本でも手土産にするところだが、社長が脳梗塞で倒れてからはそうもいかない。甘いものでもどうかと思い、シュークリームの箱を下げて、天神川三条のマンションを訪ねたのだ。
三好社長は、私の顔を見ると嬉しそうな表情を浮かべた。私は奥さんにシュークリームを手渡した。
「なんや、酒やないんかいな。」
「いやいや、社長、それはさすがにまずいでしょう。」
私がたしなめるようにいうと、社長は奥さんに、
「阿部君にビール出したって。」
と、大きな声で言った。
「ええやろ、阿部君。お客さんが来た時だけはビール飲んでもええことになっとんのや。」
やれやれだ、社長の嬉し気な顔の正体はビールか。
グラスに注がれた琥珀色の液体を、三好社長が美味しそうに飲んでいる。
私は、会社で起こっていることを社長に話した。松永重治が通帳から五千万を引き出したこと。滋賀第一銀行の口座が凍結されたこと。そして、このままでは、三好水産は潰れてしまうかも知れないことを。
三好社長は、私の話を他人事のように聞いていた。
そして、こう言った。
「儂はもう社長やない。引退したんや。」
「しかし、株式の売却代金はまだ支払われていないはずではないですか?」
「それは、もうしばらく待つわ。実印と通帳は阿部君が持っとる。松永は浅野と下田を手なずけて、五千万取ったわけか。なかなかやりよるやないか。」
「しかし、三好水産の社長は登記簿の上でも三好社長なんですよ。社長なら、松永を横領で訴えられると思います。」
「阿部君、社長が会社の金を好きなように使うのは横領か?」
あっ、と思った。三好社長は言いたかったのはこのことか。
私は三好社長が会社の金を好きなように使うことを許さなかった。正確に言えば、社長が好きなことを邪魔してきた。三好水産の歴史は三好社長と私の水面下での戦いの歴史でもある。
「阿部君と松永の戦争、高みの見物をさせてもらうで。」
三好社長はそう言って、グラスの底に残った僅かなビールを飲み干した。
社長宅の帰り道、私は三好社長の心が読めなくなっていることに気づいた。
病気のせいなのか、それとも私への憎悪のせいなのか、いずれにせよ昔の三好社長ではない。それにしても、あれほどまでして作り上げた三好水産に執着はないのだろうか。
何よりも奇妙なのは、松永から一億円が支払われていないにもかかわらず、三好社長には焦っている気配すらない。そして、社長の座を半ば明け渡そうとしているのだ。「もう、儂には責任はない」とでも言いたげに。
確かに、滋賀第一銀行から受けた融資の保証人から三好社長は外れた。替わって松永が保証人となり、三好社長は会社が負った責任から解放されたと言っていい。
だからなのか?
三好社長は滋賀県の近江八幡の出身である。大映通りに小さな魚屋の店舗を出したとき、滋賀第一銀行から融資を受けた。
スーパーよりもワンランク上の新鮮な魚をスーパー並みの価格で販売し、地元の人気店になった。後藤さんが作る鯖寿司が評判で、スーパーや料理屋に卸すようになって、店はますます繁盛した。日本が高度経済成長からバブルに到達する時期である。
その頃、滋賀第一銀行、京都支店の支店長は能勢さんだった。三好社長が回転寿司店の開業を企画し、私が入社した頃、能勢支店長は三好水産の無謀とも取れる出店計画をバック・アップしてくれた。
「事業計画もそうやけど、銀行マンは人を見なあかん。立派な事業計画かて、人がダメやったら失敗するのを何度も見てきた。」
それが、能勢支店長の口癖だった。
また、能勢支店長は三好社長と私に、「あんたら、ほんまに、ええコンビや」と言ってくれた。三好水産にとって大恩人だと言っていい。
第一号店、京都駅前店は大繁盛となり、銀行から借りたお金は二年で返してしまった。
能勢支店長が定年退職となり、替わって朝倉支店長が京都支店のトップの椅子に座った。
その腹心の部下だったのが、今の土田支店長である。当時、彼は副支店長だった。
私は彼の事があまり好きではない。土田副支店長が三好社長をそそのかしたのだと、今でも確信している。
二号店、河原町店出店では土田副支店長の世話になったことは否定のしようがない。河原町店は売り上げが伸び悩んだとはいえ順調だった。滋賀第一銀行は、ここでも三好水産に融資し、みごとに回収したのだ。
バブル崩壊以来、長い不景気が続いていた。そんな中で、三好水産はひとり気を吐く成長企業だったのだ。
銀行はお金を貸すのが商売である。だが、危険な会社、不安定な事業に融資を行えば、元本を回収できない危険性があるのだ。
三好水産への融資は安全であるとなれば、銀行は頭を下げてでも金を借りてくれと言ってくる。
三号店、銀閣寺店出店へ向けての融資の話が進む裏で、土田副支店長は三好社長に、もうひとつの融資を提案していたのである。
「社長、自社ビルくらい建てたらどうです。」
自社ビルという言葉が三好社長の琴線に触れた。何事も一国一城の主を目指してきたような人だ。その言葉には、抗いがたい魅力があったのだろう。
ここまでなら、私も許そう。この時、私には秘密裏に動いていた企画があるのだ。
自社ビルを建てるために土田副支店長が本部に取りつけた融資額は三億円である。しかし、どう見ても、このビルは二億円で建築できるしろものである。
三好社長は「書き上げ」をしたのだ。書き上げとは、建築費の見積額を水増しすることだ。二億円の建築費を三億円に水増しする。簡単なことなのだ。
この場合、三好社長と土田副支店長と建築会社がグルである。
土田副支店長は三億の融資を行う事で銀行での評価が上がる。建築会社はビルの建築を請け負うことができる。三好社長は一億の余剰金を手に入れた。
この一億円は、私の知らないところで消えてしまった。
三好社長はドバイの海外事業に投資し、失敗したのだ。いや、私は金をだまし取られたのではないかと思っているくらいだ。
三好水産の落成間もない自社ビルを、アラブの富豪だの王族の親戚だのという怪しげな人物が、会社の見学だといって幾人も訪れた。
彼らは三好社長と商談し、億に近い金を吐き出させたのだ。
三好水産は、私がいなければ動かない。三好社長はそれを誰よりもよく知っている。
だから、私がいる限り、三好水産は三好社長の思い通りに動かすことはできない。
三好社長は、自分で仕切れる事業が欲しかった。それだけだ。
社長は会社の金をどうしようが勝手だと思っている。しかし、消えた一億円を返済するのは会社であり、会社で働く社員やパートさんたちなのだ。
現在、自社ビルの借金は一億五千万円くらい残っている。毎月三百万の返済がある。
土田支店長は三千万円の預金を凍結した。
これによって、十か月の返済金をキープしたのだ。もちろん、土地、建物の第一抵当権は滋賀第一銀行にある。それでも、返済が焦げ付いたりすれば、すなわち融資担当者の土田支店長の責任問題となる。
十か月の間に彼は自分の責任問題にならないよう、銀行内の根回しをするのだろう。そして、三好水産が倒産した暁には、土地、建物の抵当を差し押さえて返済に充てる。
これで土田支店長の立場は安泰だ。
三好水産の社員がどうなろうと知ったことではない。
これが銀行口座凍結の論理だ。金貸しの論理だ。
能勢支店長なら、こんなことはしなかったはずだ。彼は銀行マンの正義を追求した人だった。
銀行はお金を貸すことによって、人々を助けることが第一義と考える昔気質の銀行マンだったのだ。
単なる金貸しと、誇り高い銀行マンは違う。
「経世済民」、それが能勢支店長の座右の銘だった。
私は夜桜を眺めながら家路を急いだ。
今年の桜も、もう散り際といったところか。
天神川三条から私の住まいである双ヶ岡の賃貸マンションまでは歩いても二十分くらいだ。
家には妻と高校三年生の一人息子、武志が待っている。
妻は大学時代の同級生だった。大学時代から付き合っていたのではなく、私が三好水産を軌道に乗せ始めた頃に再会した。
お互い、三十路の声を聞いたところで懐かしい相手に出会って、勢いで結婚してしまったようなものである。
妻は武志が生まれて仕事を辞めてしまったが、最近はスーパーのパートに出ている。何事も一所懸命に取り組む彼女は、パートの仕事とはいえ商品の発注から陳列までを任されているようだ。
昔からちゃきちゃきした性格で、何事も仕切りたがる。
玄関を開けると、めずらしく妻が迎えに出た。こういう時は、何か私に言いたいことがあるのだ。
だが、私の浮かない顔を見て、彼女は言った。
「あんた、どうかしたん。なんかオーラ無いで。」
まずい、会社が危ないことは、まだ妻には伏せておきたい。
「久しぶりに社長のとこで、ビールよばれてきた。」
「脳梗塞やのにビールなんか飲んでええんか、社長。」
妻の呆れ顔はユーモラスで、心を和ませてくれる。
「ええ話したろか。あんたびっくりするで。」
妻はガキ大将のような笑みを浮かべて言った。相当いい事があったと妻の顔に書いてある。
私は手を合わせて「教えてください」と言った。
「武志がな、春休みに受けた模試で、京大B判定がでたんや!」
妻が得意げに言い放った。
武志は嵯峨高校でも成績はトップクラスだが、進学校とはいえ公立高校では東大や京大に受かる生徒はごく少数だ。国立大学を志望していたが、去年の模試では京大はC判定だった。
つまり、去年よりも成績が伸びているのだ。
これはひょっとすると、ひょっとするぞ。私も頬が緩んで仕方がない。
明日は休みだ。花見にでも出かけないかと妻を誘ったが、あいにくパートの仕事が入っている。武志はどうだと聞くと、
「受験生に散り際の桜を見せるなんて、縁起でもないんとちゃうか。」
と、一蹴されてしまった。
私は一家の家計を支えている。会社を潰して失業など絶対できない。
妻のためにも、武志の未来のためにも、ここで負けるわけには断じていかない。戦うために策を練らねばならない。だが、それは明日の仕事にしよう。
今夜は、武志の勉強の邪魔にならないよう静かに、妻と祝杯をあげるのだ。
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