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第八章 交渉、あるいは強迫 1
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陽はすでに西の方へ落ちていたが、自動車のヘッドライトやハザードランプ、ウインカー、信号機や広告看板の灯りや街灯、商店の照明などで、外界はうるさいほどに眩しかった。行き交う人々は、一日の疲れを癒やす場所を求めて、繁華街を練り歩いているかのように見える。
「四季」の探偵、夏目ナオトと春海キョウジは、最寄りの駅に向かっていた。先を進むナオトの足取りには迷いがない。その後に続くキョウジは、ナオトの後頭部に目を注いで、まるで、なにもかもを知っている様子を看取して、水臭いな、と思っていた。声をかけようとしたのだが、ナオトが歩みを止めたために時期を失した。どうやら、目的の場所についたようである。
この駅には、コインロッカーは一箇所にしか設置されていなかった。いま、ふたりの眼の前にあるのがそれである。コインロッカーを前にしたふたりは、一度、警戒するように辺りに視線を走らせた。誰も、ふたりに関心を示してはいなかった。念のために、キョウジはナオトを隠すように位置をとった。
鍵に付いているタグには、アラビア数字で、26と書かれてあった。先刻、二万円と交換して手に入れた後で、キョウジは、ナオトに見せてもらった際に数字は覚えていた。しかし、ナオトは迷いなく二十七番のロッカーの鍵穴に鍵を差し込んだ。
「おい、一体どういうことだ?」
たまらなくなったキョウジが説明を求めると、ナオトは、「右上から縦に二段め、横に六行め」と口数少なく答えただけであった。
「おれが聞きたいのはそういうことじゃあない。なんでお前さんは、そのことを知っているのか、ということだ」
「悪い、まだ先がある」
ナオトの表情は真剣そのものであった。少し驚いたように眉を上げたキョウジは、探りを入れてみた。
「そういやぁお前さん、先刻おれに電話をかけてきた時、話したいことがある、とかいっていたな」
キョウジの問にナオトは答えずに、開いたロッカーに手を突っ込んで中にあるものを手にした。それは、タグが付いた鍵であった。
扉の先の扉や、鍵の先の鍵である。思わせぶりで、なかなか目的のものに辿りつけないのは、それだけ警戒しているからであろう。この程度の謎解きができない手合は相手にしない、ということでもある。
ナオトはふたつめの鍵のタグを見て、思わず失笑してしまった。そこまでは、知らされていなかったからである。タグには「ち」と書かれてあったのだ。ひとつ目の鍵の開け方がわかっている以上、かな文字で表記する意味が無い。「ち」は、「た行」の「い段」。右上から縦に二段め、横に四行め。つまり、十七番である。
ナオトはコインロッカーを開いた。中に、マトリョーシカ人形が入っていた。ナオトとキョウジは、それぞれ頭を振ってから、肩を振るわせてしばらく笑いが止まらなかった。
人形を手に入れたふたりは、急いで『四季』に戻った。時間は午後八時二十七分頃である。
ナオトは、キョウジと冬木シオリと秋津カナタ、四季ゲンイチロウの目の前で、マトリョーシカ人形を上下に引っ張って、徐々に小さくなっていく五体の人形と対面した。それらをこのまま残しておくのは危ないということであったので、ゲンイチロウが後で、安全な方法で処分することになった。
一番小さな人形の中には、縦六センチ程、横五センチ程の透明な小袋が入っていた。小袋の中には薄い緑色の複雑な形状の塊のようなものが入っていた。大体予想がついていたが、念の為に成分の分析を行うことになった。
「どうせ、大麻でしょう」
カナタが身も蓋もないいい方をした。キョウジ、ゲンイチロウ、シオリの想像を見事にいい当てたが、確実な証拠が欲しいということもあったので、検査をすることになった。カナタはめんどくさそうに奥の部屋に向かい、幾つかの小瓶などを持って戻ってきた。
カナタはナオトから小袋を受け取ると、中に入っている塊をピンセットで摘んで空の試験管に入れた。その中に、まずひとつ目の小瓶から透明な液体をスポイトで吸い出して、ひたひたになるまで試験管に継ぎ足していく。デュケノア試薬というのだそうだ。それを充分に振る。それから、ふたつ目の小瓶から少量の液体を試験官に加える。塩酸だそうだ。最後にみっつ目の小瓶の液体を加える。クロロホルムです、とカナタが教えてくれた。そうしておいて、試験管を慎重によく振って、しばらく待つと、液体が上下二層に分離していく。下層の液体が紫がかっていれば陽性である。
結果を見て、カナタは意外そうな表情をした。結果は、予想を裏切ったのである。
「どうやら大麻ではないようです。あくまでも、これは簡易検査ですが、大麻の反応は出ていません」
カナタが断言すると、ゲンイチロウは渋い表情をナオトに向けた。
「大麻ではない、か。どういうことだ?」
「いや、おれはてっきりそうだと……」
ナオトは考えた。カナタは、ひと目見て、この小袋の中のものを大麻だといってのけた。カナタだけではなく、ゲンイチロウもキョウジもシオリも、みんなが大麻だと認識した。透明な小袋の中に入っている薄緑色の植物を乾燥させた物を見れば、ほとんどの人はそう思うはずである。どういうことであろうか。
「ナオト?」
思い詰めような表情のナオトに、シオリが心配そうに声をかけてきた。
「すまない、ちょっと整理したい」
ナオトは握りしめた左拳の人差し指の第二関節を下唇に当てて考え込んだ。
大前提として、大麻は所持しているだけでも大麻取締法に抵触する。よくよく考えてみれば、あれだけ用心深い慶一や彰男が、そんなやばい代物に手を出すはずがない。しかし、じゃあ、あの子が話してくれたことは、一体なんだったのか。とても嘘をついているようには見えなかった。本当に大麻だと信じていた。困っていた。悩んでいた。後悔していた。救けて欲しいと、眼が訴えていた。
「最初から、誤認させるつもりだったのかも、しれない」
しぼり出すようにナオトは口にした。
「二万も払って手に入れのは、ただの草だった、か。どういうことかね」
「すまない。全ては話せない」
思考の沼に陥りそうなナオトをすくい上げたのはキョウジであった。ナオトは背中を強く叩かれたのである。ナオトが驚いてキョウジを見ると、呆れたような眼をして口元に穏やかな笑みを浮かべていた。
「なんでもかんでもひとりで背負い込もうとするんじゃあない。そいつは、お前さんのいっとう悪いところだ」
そういってキョウジは笑った後で、つけ加えた。
「まあ、今更いってもそう簡単には治らないとは思うがね。性格ってやつは、そいつの生きてきた年輪のようなものだからな。人それぞれ違うさね。そういうのをなんというかわかるかい?」
「個性、ですね」
「さすが、カナちゃん、正解」
子供扱いされたカナタが憮然としてそっぽを向いたのを目の端に捉えながら、キョウジは首を横に振って嘆いてみせた。
「仮にこれが大麻だったとしても、これだけで、風間慶一を追い込められるかね」
話を促したのだが、ナオトはまだ整理がついていないようであった。キョウジはその手助けになるかもと思い、話を続けた。
「一応、確認しておこうか」
まず、前提として、これを大麻だとしておく。そして大麻は大麻取締法によって規制されている。だとすると、慶一と彰男のふたりは罪を犯したことになる。いわゆる演繹法である。それでも、慶一と彰男を追い詰めるのは難しい。第一に、スナック・バー「千歳」から消えた慶一と彰男が、この大麻(仮)を入手したという証拠がない。単に裏口から外へ出て行った、といわれればそれまでである。第二に、慶一と彰男は売人とは接触せず、ナンパした女性たちに手に入れさせたのではないか。直接関与するのを避けるために。第三に、入手したということも、所持しているということも、使用したということも、確証がない。
「それについてなんだが……」
言い淀んだすえに、ナオトは語った。
「使用を教唆された、という証言は手に入れている。しかし、前提が成立していない」
「キョウジがいったように、仮にとしておいても」
教唆では弱いか、とゲンイチロウが腕を組んで唸った。ゲンイチロウの指摘は的を射ていた。可能性だけでは確実な証拠たり得ない。キョウジが提示したみっつの問題が障害となる。キョウジが嘆いた理由がそれである。
「それはそうだが」
ナオトは、ひとりの女性の顔を脳裏にめぐらせたが、その女性についてのそれ以上の発言を控えて別のことを口にした。
「おれやキョウジは、今回の件で完全に面が割れてしまった。これ以上、『千歳』の周りを嗅ぎまわるのは危険だろう。それに、おれは、東都大学へも行けないだろう」
ナオトはキョウジに険しい目を向けた。キョウジは目をゲンイチロウに向けて、肩をすくませた。
「手詰まり、というわけか」
ゲンイチロウが眉間にしわを寄せた。
「そう、悲観することはないですよ。都筑彰男は決定的な過ちを犯しています」
カナタが口を開いた。シオリがカナタに目をむけた。
「ミス?」
「客引きの男とその同胞たちです」
瞬時にナオトは手を打った。
「そうか、その手があったか」
ナオトとキョウジは、不良集団に襲われていた。これは明らかな不法行為である。線としては細いかもしれない。だが、今はその線にかけるしか手はない。
ナオトとキョウジは、すぐに『四季』を後にすると、『千歳』に向かった。その周辺で、主観的だが素行の悪そうな者たちに、キョウジ曰く「平和裏」に話を聞いて回り、居場所を訪ね歩いた。しかし結局、不良集団の頭だけでなく、それにつながる仲間たちにも会うことはできなかった。客引きの男もいない。潮が引くように、彼らの姿は、夜の繁華街から消えていた。
「こんなことはありえないことだが、これも、彰男の命令と見るべきかな?」
ナオトが眉をひそませているのを見て、キョウジは大きく伸びをした。
「かもしれんな。自分たちにとっては都合の悪いことだからな、しばらく鳴りを潜めていろ、とでもいわれたのかもね」
キョウジは大きなあくびをした。得るものがない聞き込みには、キョウジは性質的に向いてはいないのである。
「明日にするかい?」
ナオトはスマートフォンを取り出して時間を確認した。午後十一時になろうとしていた。
「そうだな、とりあえず、今日のところは戻るとするか」
ナオトとキョウジは、諦めて『四季』に戻ることにした。
電車を降りて、『四季』に向かうために商店街を通った時、アミューズメント施設の前に人だかりができていた。ナオトはひとりの男性に声をかけてなにがあったのかを尋ねた。
「喧嘩があったそうだ」
「喧嘩、ですか」
「ああ、といっても、一方的だったんだそうなんだが」
「そうですか」
いつの世にも血の気の多い人はいるんだな、と、ナオトは呆れ、キョウジに目を向けると、やれやれ、といいたそうに顔を振っていた。
「ここら辺りも物騒になったもんだね」
「そうだな」
ナオトは、何気なくシオリのことを脳裏にめぐらせた。女の子のひとり歩きは危険である。この件が片づくまでは、おれかキョウジのどちらかがシオリを家まで送り届ける必要があるかもしれない。そんなことを考えながら、騒然としている現場を後にして、ふたりは『四季』に向かった。
ドアベルが鳴ってナオトが、続いてキョウジが店内に入ると、ゲンイチロウが心配そうに声をかけてきた。
「おお、無事だったか」
「ん? どういう意味だ?」
応じたのはキョウジであった。
「カナタが襲われたよ」
ナオトの脳天に衝撃が走った。数時間前に、キョウジは大勢の暴漢に襲われた。ナオトも客引きの男に脅されていた。ゲンイチロウはともかく、シオリとカナタにも類が及ぶことは、通常のナオトであれば、想像ができたはずであった。迂闊であった。どうも先刻来、ナオトは別のことに気を取られ過ぎていたかもしれない。ひとまずそのことは置いて、目の前の問題からひとつずつ片づけるべきであろう。しかし、頭では理解できても、感情的になってしまうのはどうしようもなかった。これもまた、自分がまだ未熟であることの証であるのかもしれない。
ナオトは眼をつむり、一度、大きく息を吐きだした。そうして、眼を開いた。冷静になるための手順である。
「シオリは?」
「奥の部屋でカナタの手当をしている」
「怪我は、してないか?」
シオリについてだろうと、ゲンイチロウは判断した。
「ああ、大丈夫だ」
「そうか」
一安心したナオトはカウンター席に腰を下ろした。
「警察には通報したのかい?」
ナオトの左側に腰を下ろした冷静なキョウジの問いかけに、ゲンイチロウは重々しく首を横に振った。
「しようとしたんだがな、カナタがその必要はない、というんでな」
「カナちゃんのことだから、納得できる理由があるんだろうね」
「ああ」
ゲンイチロウが話を続けようとしたとき、奥の部屋からシオリとカナタが姿を見せた。シオリは無事なようである。しかし、カナタはあちこちに絆創膏を貼られ、包帯を巻かれ、見るからに痛々しい姿であった。
シオリがナオトの右横に、カナタがキョウジ左横に座ると、ゲンイチロウは、温かいレモンティーをカナタとシオリの前に置いて、キョウジとナオトには温かいコーヒーを置いた。ゲンイチロウはお冷で喉を潤してから、太い腕を組み、事の顛末を語った。
カナタがいうには、ふたりが襲われた場所は、『四季』の最寄りの駅前にある商店街のアミューズメント施設の前であった。いつかナオトがシオリと通ったことのある場所であり、あの時は高校生くらいの集団がたむろしていた。その高校生くらいの集団に、突然、襲われたという。その時に、カナタは彼らと取引した。
「自分が相手になります。だから、彼女には手を出さないようにお願いします。彼女に指一本でも触れると、本当に怖い彼氏さんが、絶対に許しはしないでしょう。これは、あなた方のことを思っての警告です」
彼らがどこまでカナタの警告を信じたかはわからないが、シオリはなにもされなかったのは事実である。数人だが、その場に見物人がいたこともあってのことであろう。
「風間慶一は、驚くほど思慮深い為人ですよね」
今回の一件に、慶一は一切関与してはいないだろう。とすると、彰男が背後で糸を引いていると考えるのが自然である。しかし、彰男は慶一に輪をかけて、冷徹で用心深い。足がつくような失態を犯すとは思えない。そう考えると、本件はおそらく、彰男の意を受けた不良集団たちの勇み足であろう。功を急いだか、痛めつければ黙らせることが出来る、そう短絡的に考えて、キョウジとナオトを襲ったのであろう。こちらは見事に返り討ちにあったが、そのことで目標を変えて、残る三名のうち、カナタとシオリに手をかけた。カナタは、元々抵抗する気もなかった。シオリを人質に取られる格好で、見せしめのために暴行された。ゲンイチロウに関しては、初手から相手にしてはいない。なんとなれば、高校生の痴話喧嘩ということで、しらばっくれることもできるからであろう。
「都筑彰男にとっては、この展開は予想外かもしれません。しかし、起こってしまったのであれば仕方がありません。出てしまった状況を自分の都合の良いように利用する、そういう柔軟性を持った、底の深い為人だとも考えられます。都筑彰男は」
カナタはいいたいことを口にすると、温かいレモンティーを口に含んだ。
話を聞いていて、ナオトには腑に落ちない点があった。
カナタの推測は、残念ながら過小評価ではないか。彰男は「底の深い為人」であるというカナタの評価は正しい。であれば、実際のところは、ナオトが慶一のことを嗅ぎ回っていることを知って、警告と称して、目障りな『四季』の面々を襲ったのではないか。どのみち、なんら関わりのない集団が『四季』の面々に手を出せば、ナオトが慶一を嗅ぎ回っているのが原因であると、いかに鈍くても気づくだろう。そうすれば、誰の命令であるのかは明らかとなる。角度の高さからいえば、そのことを思い知らせるための襲撃だと考えられる。その際にも、自分が矢面に立つことで、彰男は慶一の関与を否定しようと考えるだろう。
時系列を考えれば、キョウジが襲われ、次いで、ナオトの身にも危険が及んだ。そして、カナタとシオリが高校生たちに襲われた。キョウジとナオトのふたりは本気で潰しにかかっている、ように見えるが病院送り程度で手打ちにする。一方、カナタとシオリは痴話喧嘩程度で済ませられるように最初から加減している。カナタの警告が効果的であったとは思えない。芯もしくは核となる人物により、その程度で済ませられるように最初から決められていた、のではないか。
「カナタの推論を、もう少し角度を変えて考えてみればそうなるのではないか?」
そのようにナオトは推測して、カナタの推測の問題点を補足して、補強した。
ゲンイチロウが憮然とした表情で話を聞いていたいたが、理性を回復したキョウジが表情を明るくあらためると、口を開いた。
「なるほどね、あちらもこちらのことを調べた、というわけだ。さすがは忍者の末裔を標榜するだけのことはある」
好戦的な光を眼に宿したキョウジを見て、ナオトは頼もしさと同時に怖気を感じた。最初にカナタやシオリが襲われていたら、キョウジは自分を襲った集団と客引きの男を逆に病院送りにしていた、いや、それ以上のこともやっていたであろうことが、容易に察せられたからである。今更ながらに、キョウジの口調や立ち居振る舞いの飄々とした様には、どこか、自制をかけているように思えたのであった。
少しく、五人の間に沈黙が流れた。皆それぞれ飲み物を口に含んだ。それとほぼ同時に、『四季』の固定電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「誰だ、こんな時間に」
ゲンイチロウは不愉快をそのまま貼りつけたように眉を歪めた。
「案外、都筑彰男だったりしてな」
キョウジの軽口は的中したようである。ゲンイチロウは驚愕を絵に描いたような表情で、電話のハンズフリー・ボタンを押した。
「四季」の探偵、夏目ナオトと春海キョウジは、最寄りの駅に向かっていた。先を進むナオトの足取りには迷いがない。その後に続くキョウジは、ナオトの後頭部に目を注いで、まるで、なにもかもを知っている様子を看取して、水臭いな、と思っていた。声をかけようとしたのだが、ナオトが歩みを止めたために時期を失した。どうやら、目的の場所についたようである。
この駅には、コインロッカーは一箇所にしか設置されていなかった。いま、ふたりの眼の前にあるのがそれである。コインロッカーを前にしたふたりは、一度、警戒するように辺りに視線を走らせた。誰も、ふたりに関心を示してはいなかった。念のために、キョウジはナオトを隠すように位置をとった。
鍵に付いているタグには、アラビア数字で、26と書かれてあった。先刻、二万円と交換して手に入れた後で、キョウジは、ナオトに見せてもらった際に数字は覚えていた。しかし、ナオトは迷いなく二十七番のロッカーの鍵穴に鍵を差し込んだ。
「おい、一体どういうことだ?」
たまらなくなったキョウジが説明を求めると、ナオトは、「右上から縦に二段め、横に六行め」と口数少なく答えただけであった。
「おれが聞きたいのはそういうことじゃあない。なんでお前さんは、そのことを知っているのか、ということだ」
「悪い、まだ先がある」
ナオトの表情は真剣そのものであった。少し驚いたように眉を上げたキョウジは、探りを入れてみた。
「そういやぁお前さん、先刻おれに電話をかけてきた時、話したいことがある、とかいっていたな」
キョウジの問にナオトは答えずに、開いたロッカーに手を突っ込んで中にあるものを手にした。それは、タグが付いた鍵であった。
扉の先の扉や、鍵の先の鍵である。思わせぶりで、なかなか目的のものに辿りつけないのは、それだけ警戒しているからであろう。この程度の謎解きができない手合は相手にしない、ということでもある。
ナオトはふたつめの鍵のタグを見て、思わず失笑してしまった。そこまでは、知らされていなかったからである。タグには「ち」と書かれてあったのだ。ひとつ目の鍵の開け方がわかっている以上、かな文字で表記する意味が無い。「ち」は、「た行」の「い段」。右上から縦に二段め、横に四行め。つまり、十七番である。
ナオトはコインロッカーを開いた。中に、マトリョーシカ人形が入っていた。ナオトとキョウジは、それぞれ頭を振ってから、肩を振るわせてしばらく笑いが止まらなかった。
人形を手に入れたふたりは、急いで『四季』に戻った。時間は午後八時二十七分頃である。
ナオトは、キョウジと冬木シオリと秋津カナタ、四季ゲンイチロウの目の前で、マトリョーシカ人形を上下に引っ張って、徐々に小さくなっていく五体の人形と対面した。それらをこのまま残しておくのは危ないということであったので、ゲンイチロウが後で、安全な方法で処分することになった。
一番小さな人形の中には、縦六センチ程、横五センチ程の透明な小袋が入っていた。小袋の中には薄い緑色の複雑な形状の塊のようなものが入っていた。大体予想がついていたが、念の為に成分の分析を行うことになった。
「どうせ、大麻でしょう」
カナタが身も蓋もないいい方をした。キョウジ、ゲンイチロウ、シオリの想像を見事にいい当てたが、確実な証拠が欲しいということもあったので、検査をすることになった。カナタはめんどくさそうに奥の部屋に向かい、幾つかの小瓶などを持って戻ってきた。
カナタはナオトから小袋を受け取ると、中に入っている塊をピンセットで摘んで空の試験管に入れた。その中に、まずひとつ目の小瓶から透明な液体をスポイトで吸い出して、ひたひたになるまで試験管に継ぎ足していく。デュケノア試薬というのだそうだ。それを充分に振る。それから、ふたつ目の小瓶から少量の液体を試験官に加える。塩酸だそうだ。最後にみっつ目の小瓶の液体を加える。クロロホルムです、とカナタが教えてくれた。そうしておいて、試験管を慎重によく振って、しばらく待つと、液体が上下二層に分離していく。下層の液体が紫がかっていれば陽性である。
結果を見て、カナタは意外そうな表情をした。結果は、予想を裏切ったのである。
「どうやら大麻ではないようです。あくまでも、これは簡易検査ですが、大麻の反応は出ていません」
カナタが断言すると、ゲンイチロウは渋い表情をナオトに向けた。
「大麻ではない、か。どういうことだ?」
「いや、おれはてっきりそうだと……」
ナオトは考えた。カナタは、ひと目見て、この小袋の中のものを大麻だといってのけた。カナタだけではなく、ゲンイチロウもキョウジもシオリも、みんなが大麻だと認識した。透明な小袋の中に入っている薄緑色の植物を乾燥させた物を見れば、ほとんどの人はそう思うはずである。どういうことであろうか。
「ナオト?」
思い詰めような表情のナオトに、シオリが心配そうに声をかけてきた。
「すまない、ちょっと整理したい」
ナオトは握りしめた左拳の人差し指の第二関節を下唇に当てて考え込んだ。
大前提として、大麻は所持しているだけでも大麻取締法に抵触する。よくよく考えてみれば、あれだけ用心深い慶一や彰男が、そんなやばい代物に手を出すはずがない。しかし、じゃあ、あの子が話してくれたことは、一体なんだったのか。とても嘘をついているようには見えなかった。本当に大麻だと信じていた。困っていた。悩んでいた。後悔していた。救けて欲しいと、眼が訴えていた。
「最初から、誤認させるつもりだったのかも、しれない」
しぼり出すようにナオトは口にした。
「二万も払って手に入れのは、ただの草だった、か。どういうことかね」
「すまない。全ては話せない」
思考の沼に陥りそうなナオトをすくい上げたのはキョウジであった。ナオトは背中を強く叩かれたのである。ナオトが驚いてキョウジを見ると、呆れたような眼をして口元に穏やかな笑みを浮かべていた。
「なんでもかんでもひとりで背負い込もうとするんじゃあない。そいつは、お前さんのいっとう悪いところだ」
そういってキョウジは笑った後で、つけ加えた。
「まあ、今更いってもそう簡単には治らないとは思うがね。性格ってやつは、そいつの生きてきた年輪のようなものだからな。人それぞれ違うさね。そういうのをなんというかわかるかい?」
「個性、ですね」
「さすが、カナちゃん、正解」
子供扱いされたカナタが憮然としてそっぽを向いたのを目の端に捉えながら、キョウジは首を横に振って嘆いてみせた。
「仮にこれが大麻だったとしても、これだけで、風間慶一を追い込められるかね」
話を促したのだが、ナオトはまだ整理がついていないようであった。キョウジはその手助けになるかもと思い、話を続けた。
「一応、確認しておこうか」
まず、前提として、これを大麻だとしておく。そして大麻は大麻取締法によって規制されている。だとすると、慶一と彰男のふたりは罪を犯したことになる。いわゆる演繹法である。それでも、慶一と彰男を追い詰めるのは難しい。第一に、スナック・バー「千歳」から消えた慶一と彰男が、この大麻(仮)を入手したという証拠がない。単に裏口から外へ出て行った、といわれればそれまでである。第二に、慶一と彰男は売人とは接触せず、ナンパした女性たちに手に入れさせたのではないか。直接関与するのを避けるために。第三に、入手したということも、所持しているということも、使用したということも、確証がない。
「それについてなんだが……」
言い淀んだすえに、ナオトは語った。
「使用を教唆された、という証言は手に入れている。しかし、前提が成立していない」
「キョウジがいったように、仮にとしておいても」
教唆では弱いか、とゲンイチロウが腕を組んで唸った。ゲンイチロウの指摘は的を射ていた。可能性だけでは確実な証拠たり得ない。キョウジが提示したみっつの問題が障害となる。キョウジが嘆いた理由がそれである。
「それはそうだが」
ナオトは、ひとりの女性の顔を脳裏にめぐらせたが、その女性についてのそれ以上の発言を控えて別のことを口にした。
「おれやキョウジは、今回の件で完全に面が割れてしまった。これ以上、『千歳』の周りを嗅ぎまわるのは危険だろう。それに、おれは、東都大学へも行けないだろう」
ナオトはキョウジに険しい目を向けた。キョウジは目をゲンイチロウに向けて、肩をすくませた。
「手詰まり、というわけか」
ゲンイチロウが眉間にしわを寄せた。
「そう、悲観することはないですよ。都筑彰男は決定的な過ちを犯しています」
カナタが口を開いた。シオリがカナタに目をむけた。
「ミス?」
「客引きの男とその同胞たちです」
瞬時にナオトは手を打った。
「そうか、その手があったか」
ナオトとキョウジは、不良集団に襲われていた。これは明らかな不法行為である。線としては細いかもしれない。だが、今はその線にかけるしか手はない。
ナオトとキョウジは、すぐに『四季』を後にすると、『千歳』に向かった。その周辺で、主観的だが素行の悪そうな者たちに、キョウジ曰く「平和裏」に話を聞いて回り、居場所を訪ね歩いた。しかし結局、不良集団の頭だけでなく、それにつながる仲間たちにも会うことはできなかった。客引きの男もいない。潮が引くように、彼らの姿は、夜の繁華街から消えていた。
「こんなことはありえないことだが、これも、彰男の命令と見るべきかな?」
ナオトが眉をひそませているのを見て、キョウジは大きく伸びをした。
「かもしれんな。自分たちにとっては都合の悪いことだからな、しばらく鳴りを潜めていろ、とでもいわれたのかもね」
キョウジは大きなあくびをした。得るものがない聞き込みには、キョウジは性質的に向いてはいないのである。
「明日にするかい?」
ナオトはスマートフォンを取り出して時間を確認した。午後十一時になろうとしていた。
「そうだな、とりあえず、今日のところは戻るとするか」
ナオトとキョウジは、諦めて『四季』に戻ることにした。
電車を降りて、『四季』に向かうために商店街を通った時、アミューズメント施設の前に人だかりができていた。ナオトはひとりの男性に声をかけてなにがあったのかを尋ねた。
「喧嘩があったそうだ」
「喧嘩、ですか」
「ああ、といっても、一方的だったんだそうなんだが」
「そうですか」
いつの世にも血の気の多い人はいるんだな、と、ナオトは呆れ、キョウジに目を向けると、やれやれ、といいたそうに顔を振っていた。
「ここら辺りも物騒になったもんだね」
「そうだな」
ナオトは、何気なくシオリのことを脳裏にめぐらせた。女の子のひとり歩きは危険である。この件が片づくまでは、おれかキョウジのどちらかがシオリを家まで送り届ける必要があるかもしれない。そんなことを考えながら、騒然としている現場を後にして、ふたりは『四季』に向かった。
ドアベルが鳴ってナオトが、続いてキョウジが店内に入ると、ゲンイチロウが心配そうに声をかけてきた。
「おお、無事だったか」
「ん? どういう意味だ?」
応じたのはキョウジであった。
「カナタが襲われたよ」
ナオトの脳天に衝撃が走った。数時間前に、キョウジは大勢の暴漢に襲われた。ナオトも客引きの男に脅されていた。ゲンイチロウはともかく、シオリとカナタにも類が及ぶことは、通常のナオトであれば、想像ができたはずであった。迂闊であった。どうも先刻来、ナオトは別のことに気を取られ過ぎていたかもしれない。ひとまずそのことは置いて、目の前の問題からひとつずつ片づけるべきであろう。しかし、頭では理解できても、感情的になってしまうのはどうしようもなかった。これもまた、自分がまだ未熟であることの証であるのかもしれない。
ナオトは眼をつむり、一度、大きく息を吐きだした。そうして、眼を開いた。冷静になるための手順である。
「シオリは?」
「奥の部屋でカナタの手当をしている」
「怪我は、してないか?」
シオリについてだろうと、ゲンイチロウは判断した。
「ああ、大丈夫だ」
「そうか」
一安心したナオトはカウンター席に腰を下ろした。
「警察には通報したのかい?」
ナオトの左側に腰を下ろした冷静なキョウジの問いかけに、ゲンイチロウは重々しく首を横に振った。
「しようとしたんだがな、カナタがその必要はない、というんでな」
「カナちゃんのことだから、納得できる理由があるんだろうね」
「ああ」
ゲンイチロウが話を続けようとしたとき、奥の部屋からシオリとカナタが姿を見せた。シオリは無事なようである。しかし、カナタはあちこちに絆創膏を貼られ、包帯を巻かれ、見るからに痛々しい姿であった。
シオリがナオトの右横に、カナタがキョウジ左横に座ると、ゲンイチロウは、温かいレモンティーをカナタとシオリの前に置いて、キョウジとナオトには温かいコーヒーを置いた。ゲンイチロウはお冷で喉を潤してから、太い腕を組み、事の顛末を語った。
カナタがいうには、ふたりが襲われた場所は、『四季』の最寄りの駅前にある商店街のアミューズメント施設の前であった。いつかナオトがシオリと通ったことのある場所であり、あの時は高校生くらいの集団がたむろしていた。その高校生くらいの集団に、突然、襲われたという。その時に、カナタは彼らと取引した。
「自分が相手になります。だから、彼女には手を出さないようにお願いします。彼女に指一本でも触れると、本当に怖い彼氏さんが、絶対に許しはしないでしょう。これは、あなた方のことを思っての警告です」
彼らがどこまでカナタの警告を信じたかはわからないが、シオリはなにもされなかったのは事実である。数人だが、その場に見物人がいたこともあってのことであろう。
「風間慶一は、驚くほど思慮深い為人ですよね」
今回の一件に、慶一は一切関与してはいないだろう。とすると、彰男が背後で糸を引いていると考えるのが自然である。しかし、彰男は慶一に輪をかけて、冷徹で用心深い。足がつくような失態を犯すとは思えない。そう考えると、本件はおそらく、彰男の意を受けた不良集団たちの勇み足であろう。功を急いだか、痛めつければ黙らせることが出来る、そう短絡的に考えて、キョウジとナオトを襲ったのであろう。こちらは見事に返り討ちにあったが、そのことで目標を変えて、残る三名のうち、カナタとシオリに手をかけた。カナタは、元々抵抗する気もなかった。シオリを人質に取られる格好で、見せしめのために暴行された。ゲンイチロウに関しては、初手から相手にしてはいない。なんとなれば、高校生の痴話喧嘩ということで、しらばっくれることもできるからであろう。
「都筑彰男にとっては、この展開は予想外かもしれません。しかし、起こってしまったのであれば仕方がありません。出てしまった状況を自分の都合の良いように利用する、そういう柔軟性を持った、底の深い為人だとも考えられます。都筑彰男は」
カナタはいいたいことを口にすると、温かいレモンティーを口に含んだ。
話を聞いていて、ナオトには腑に落ちない点があった。
カナタの推測は、残念ながら過小評価ではないか。彰男は「底の深い為人」であるというカナタの評価は正しい。であれば、実際のところは、ナオトが慶一のことを嗅ぎ回っていることを知って、警告と称して、目障りな『四季』の面々を襲ったのではないか。どのみち、なんら関わりのない集団が『四季』の面々に手を出せば、ナオトが慶一を嗅ぎ回っているのが原因であると、いかに鈍くても気づくだろう。そうすれば、誰の命令であるのかは明らかとなる。角度の高さからいえば、そのことを思い知らせるための襲撃だと考えられる。その際にも、自分が矢面に立つことで、彰男は慶一の関与を否定しようと考えるだろう。
時系列を考えれば、キョウジが襲われ、次いで、ナオトの身にも危険が及んだ。そして、カナタとシオリが高校生たちに襲われた。キョウジとナオトのふたりは本気で潰しにかかっている、ように見えるが病院送り程度で手打ちにする。一方、カナタとシオリは痴話喧嘩程度で済ませられるように最初から加減している。カナタの警告が効果的であったとは思えない。芯もしくは核となる人物により、その程度で済ませられるように最初から決められていた、のではないか。
「カナタの推論を、もう少し角度を変えて考えてみればそうなるのではないか?」
そのようにナオトは推測して、カナタの推測の問題点を補足して、補強した。
ゲンイチロウが憮然とした表情で話を聞いていたいたが、理性を回復したキョウジが表情を明るくあらためると、口を開いた。
「なるほどね、あちらもこちらのことを調べた、というわけだ。さすがは忍者の末裔を標榜するだけのことはある」
好戦的な光を眼に宿したキョウジを見て、ナオトは頼もしさと同時に怖気を感じた。最初にカナタやシオリが襲われていたら、キョウジは自分を襲った集団と客引きの男を逆に病院送りにしていた、いや、それ以上のこともやっていたであろうことが、容易に察せられたからである。今更ながらに、キョウジの口調や立ち居振る舞いの飄々とした様には、どこか、自制をかけているように思えたのであった。
少しく、五人の間に沈黙が流れた。皆それぞれ飲み物を口に含んだ。それとほぼ同時に、『四季』の固定電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「誰だ、こんな時間に」
ゲンイチロウは不愉快をそのまま貼りつけたように眉を歪めた。
「案外、都筑彰男だったりしてな」
キョウジの軽口は的中したようである。ゲンイチロウは驚愕を絵に描いたような表情で、電話のハンズフリー・ボタンを押した。
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