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第六章 発火点 1
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「せーんぱいっ!」
東都大学のキャンパスを歩いていた夏目ナオトは、唐突に声をかけられ、左肩をポンと叩かれた。しかし、相手が誰なのかは振り返る前からわかっていた。東都大学でナオトのことを「先輩」と呼ぶ相手は、ひとりしか思い浮かばなかったからである。
ナオトは首を動かして左側を見た。そこには誰もいなかったので、さらに身体ごと振り返った。すると、そこにも誰もいなかった。小首を傾げて正面を向くと、右頬に突き当たるものがあった。優木瑞稀の繊細な人差し指であった。
「なんだい、後輩」
ナオトが淡々と応えると、瑞稀が不満そうに頭を振った。
「あーあ、がっかり、残念、つまんない。先輩、全然驚かないんだもの」
「こんな子どもじみたことをされたのは、おそらく小学生の頃以来だな」
瑞稀が頬をふくらませて不満を口にした。
「それって、暗にわたしを小学生以下だっていってるようなものじゃない」
「やっていることを見ると、そういう評価も、さもありなん」
瑞稀は両手で顔を覆った。
「酷い、あんまりだわ、グスン」
「指の隙間から目が見えてるよ」
ナオトは、この他愛もないやり取りに平和を感じて、なんだかおかしくなった。
「ふふっ」
「あーっ、今、わたしのことを馬鹿にしたでしょう?」
「いや違う、笑ったけれど、そうじゃない。決して瑞稀のことを馬鹿にしているわけじゃあないんだ。ちょっと、昔のことを思い出してね」
「昔のこと?」
ナオトが柔和そのものの笑顔でうなずくと、瑞稀は両の瞳を爛々と輝かせている。まったく、この女の子は、自分の欲望に正直というか裏表がないというか、他人を不快な気分にさせない愛くるしさがあった。それは間違いなく、瑞稀の個性であり、長所であるように思われた。
「なになに、いつのこと?、どんなこと?、誰のこと? なんのこと?」
「遠い遠い、昔のことだよ」
立て続けに問いかけられて、ナオトは曖昧に答えた。まだ二十一歳であるナオトにとって、小学生の頃といえば一〇年位前のことでしかない。遠い遠い昔と表現してよいものか、はなはだ怪しかったが、十年一昔という言葉もある。それに、情報に係わるモノに関しては、隔世の感があるのも確かである。
「あーっ、やっぱり馬鹿にしてるんだ」
瑞稀は可憐な唇を尖らせて、プイと顔を背けた。
この、コロコロと表情が変わる女の子が、自分に好意を抱いていることに、いかに鈍いナオトであろうと気がついていた。ナオト自身も同じような気持ちであったからでもある。ただ、お互い恋愛感情とは違う。気が合う、という感じの好意である。しかし、ナオトは東都大学の生徒ではない。それは仮初でしかなかった。深入りしてはならなかった。いずれ、ナオトは瑞稀の前から姿を消さなければならないのだから。
ナオトは、自分は冬木シオリたちがいうように堅物なのかもしれない、と思った。春海キョウジであれば、それは瑣末なこととして笑うだろう。いつものように、「恋愛は自由だろう」と。いや、キョウジならば、もっと気の利いた台詞を口にするだろう。そう考えると、またおかしくなった。
「ふふっ」
「あーっ、また笑った。いかに寛容なわたしでも、しまいには怒るわよ」
瑞稀は、左手を腰にあてて、右手の人差し指をナオトの眼前に突き出した格好で、眉間にしわを寄せた。
「ごめんごめん。でも、さっきもいったけれど、決して瑞稀を馬鹿にしているんじゃないんだ。ちょっと、知り合いのことを思い出してね」
「先輩の知り合い? それは、大いに興味があるかも」
瑞稀の瞳の奥で、なにかがきらめいた。それは、好意を寄せている相手をもっと知りたいという欲求から生じた、好奇心であったのかもしれない。
「同じ大学の人? それとも、高校の時の友だち? それとも、アルバイト先の女の子? それともまさか、そっち系?」
最後の単語を聞いて、ナオトは思わず転けそうになったが、すんでのところで耐えぬいた。
「さあ、それはどうだろう」
ナオトは心を読まれまいと韜晦することにした。少し話し始めると、余計なことまで話してしまいそうであったからである。それに、瑞稀を騙していることで引け目を感じていることもあって、大げさにいえば、自己嫌悪に陥ってしまいそうでもあったのである。それに、あまり深く関わるべきではないとも思っていた。それは、都筑彰男に感じた警戒心とは少し趣が異なる疑念から生じたものであった。
「まあ、いいわ。なにか話せない理由があるっていうのはわかったから。やっぱり先輩は、どこか普通の学生とは違う深みがあるようね」
ナオトは、首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。ちょっとした仕草でも注意したほうが良さそうに思えた。瑞稀は、どうやら相手の表情や仕草から察するタイプであるように思えたからである。
「それにしても、今日は午前中はどこにいたの? 田名部教授の講義にも出てなかったようだけれど」
瑞稀が話題を転じた。ナオトは慎重に言葉を選ぶために、話す前に少し間を開けた。
「田名部教授の講義といったって、この間もその前も、頭をリフレッシュするために講義を聞いていただけなんだけどね」
「そういえば、そうだったわね」
瑞稀が妙に納得したようにうなずいたのを見て、ナオトは事実を正確に話した。
「それに、昨日はひどく疲れていてね。昼近くまで爆睡していたんだ」
「爆睡するほど疲れてるって、どんなことをしているの? アルバイト」
「それは、軽々には話せないな」
ナオトがもったいぶるようにいうと、瑞稀の表情にいぶかしそうな陰りが刺した。
「先輩って、秘密主義みたいなところがあるわね。あまり自分のことを話そうとしないもの」
「おれのプライベートは、それはそれは、貧素なものだよ」
「信じられないなー」
「前にもいったけれど、おれは特別なところはなにもないよ。飛び抜けて格好が良いわけでもないし、頭の良さだってそこそこだ。運動神経もまあまあだし、すごい面白いわけでもない。どこにでもいるような、普通の地味な男だ。素直な目と心で見てほしいね」
瑞稀は少し考えてから言葉を継いだ。
「先輩がどこにでもいる普通の男の人だったら、わたし、こんなにも興味を持たないと思う」
「それって暗に、自分は普通じゃないっていっているようなものだね」
「ということは、やっぱり先輩は普通じゃないってことよね?」
堂々巡りになりそうであったので、ナオトは会話の主導権を握るために質問した。
「瑞稀は、なにか他人に誇れることとか無いのかい?」
ナオトの質問を受けて、瑞稀は少し考えるように首をかしげた。
「そうねえ。わたしも、そんなに可愛くもないし、成績も優秀でもないわ。運動はどちらかといえば苦手だし、愛嬌だって有るかどうか、自分ではわからないわ」
「謙遜し過ぎだろう。瑞稀はとても魅力的な女性だと思うよ」
「ほんと?」
瑞稀が真面目な表情で尋ねてきたので、ナオトも真面目な表情でうなずいた。
「ああ、本当だ。瑞稀なら、誰か特別な相手がいてもおかしくはないと思うけれどね。どうなんだ? そんな相手、いないのかい?」
思わず口をついて出た言葉に、ナオト自身驚きを隠せなかった、話の流れとはいえ、堅物と公認されているナオトにしては意外な問いかけであった。しかし、瑞稀は驚いた様子もなく答えた。
「さあ、それはどうでしょう」
瑞稀は、いたずらっぽく笑った。先ほどいった自分の言葉をそっくりそのまま返されて、ナオトはやはり、瑞稀との会話は楽しいと感じていた。それに、あらためてよく見るまでもなく、瑞稀は綺麗で可愛らしい。ナオトに興味を持っていると隠すこともなく断言されて、悪い気はしなかった。その点、ナオトも男の子であった。しかし、その気持には、どうしても応えられなかった。仮初の立場である以上、一線を引かなければなるまい。
「この子は、とてもいい娘だ」
ナオトは心の中でそうつぶやいた。それとともに、ひとつ気になったことがあった。瑞稀が他の学生と一緒にいるところを一度も見たことがないということであった。思考の荒野をさまよっていると、瑞稀はナオトを追い越して一歩前に出ると、下から覗きこむようにして眉をしかめていった。
「どうしたの? 先輩、なんだか気になることがあるような顔してるよ」
ナオトは、はっと我に返った。表情を改めるために左頬をひと撫でしてから、ナオトは両手を組んで、大きく伸びをした。
「いや、なんでもない」
ナオトは、先程浮かんだ疑問を頭の中から消し去った。それは、ナオトと一緒にいるからであって、それ以外の場合には、普通の学生たちと同じように友達のひとりやふたりぐらいはいるだろうと思われたからであった。
「そう」
瑞稀の返事はそっけないように、ナオトには感じられた。
「先輩、やっぱり、なにか隠してるわね。馬鹿にするものじゃないわよ。女の子の勘というのは」
「そうかな」
「わたしも一応、女の子なんだよ」
「そいつは、気をつけないといけないな」
ナオトは普通に笑おうとして失敗した。笑顔を見せる前に、対象を目の端にとらえたのである。ナオトの双眸に、講堂から出て来た風間慶一の姿が映っていた。相変わらず、都筑彰男を従えている。
ナオトは疑問に感じた。いつでもどこでも彰男を引き連れていれば、そもそも不貞をはたらくことなど出来ないのではないか、と。ナオトは彰男の背中を睨むように見た後で、瑞稀に視線を転じた。
「あのさ。風間慶一の側にいつもくっついている男がいるだろう? あれは誰なのか、知っているかい?」
瑞稀は身体ごと慶一の方を向くと、淡々と答えた。
「確か、都筑彰人、だったかな?」
「都筑彰人? 彰男じゃなくて?」
「そうだ、彰男だった」
ナオトが聞き返すと、瑞稀は舌を出して自分の頭を小突いた。その仕草も充分に愛らしい。
「それで、都筑彰男がどうかしたの?」
「気になるだろう? あの御曹司の風間慶一の側にいつもいる。友達といったって、四六時中一緒にいるのは普通ではないと思うんだが」
「そうかもしれないけれど」
瑞稀はいつもの様に中空に視線を固定して考え込んだ。
「もしかして先輩、変な妄想してない?」
「妄想?」
口に出してから、ナオトは考え込んだ。瑞稀を見ると、何故か頬を紅潮させて瞳はとろんとしている。その妙に艶っぽい表情を見て、瑞稀が頭の中でなにを想像しているのか、なんとなくわかった。男と男についての妄想となると、ひとつしか思い浮かばなかった。ナオトは困ったように頬をかいた。
「瑞稀がなにを考えているのかはわかったよ。でも、それはあくまでも妄想なんだろう? みんながみんな、そんなふうに捉えているとは思えないけれど」
今度は瑞稀がはっとしたように我に返った。ほっぺたを叩いて表情を一瞬で変えようとしたが、まともにナオトを見ることができずに、顔を下に向けて右手を開いて突きだした。
「ちょっと待って、今のなし」
「あったことはなかったことには出来ないよ。普通はね」
「お願い、今のはほんとにダメだから」
耳まで真っ赤になっている瑞稀を目にして、ナオトは、少し意地悪が過ぎたかもしれないと反省した。
「いいよ。別に責めるている訳じゃないから」
ナオトは俯いている瑞稀の頭を優しく撫でた。瑞稀が両手をナオトの手に重ねて、ゆっくりと視線を上げた。
「先輩って、なんだか不思議な人だね。優しかったり意地が悪かったり、そんな面が同居しているみたい」
「多面性といいたいのかい? でもそれは、大なり小なり、誰もが持っているんじゃないかな?」
ナオトは瑞稀の頭から手をどけようとしたが、瑞稀は手を離そうとしなかった。
「かもしないけれど、先輩の場合、ものすごーく優しくて、ほんのすこーし意地悪で。なんだかすごくほっとする」
瑞稀の両の眼に自分の姿が映っていた。ようやく瑞稀が手を離してくれたようである。ナオトは自分の目にかかる髪をつまんだ。
「そんなふうにいわれたのは初めてだな。でもなんだろう、別に意識的ではないんだよな。自然といろいろなことを考えているから、自然とできているのかな?」
ふたりは並んで歩いていた。背の高いナオトに時折置いて行かれそうになりながら、瑞稀は早足で歩いていた。それに気づいて、ナオトは歩く早さを少しだけ落とした。
「ほら、今だってそう。わたしのことを気遣ってゆっくりと歩いてくれた。そういうことが自然とできるのは、普通じゃないと思うよ」
「気づかれないことのほうが多いけれどね」
ナオトは瑞稀に向かってウインクした。無論、他意はない。
「さりげないから気づかないのかしら? 先輩、絶対損していると思う」
「別に、損得だけを考えて生きているわけじゃあないんだが」
瑞稀は少し考えこむように眉を寄せた。
「例えばさ、ドラマなんかでよくあるじゃない。微妙な距離の男女が、それぞれ背中を向けて歩き出して、男の人が振り返ると、女の人は背中を見せて歩いている。そして諦めて男の人が再び背中を見せて歩き出したら、女の人が振り返るっていうの」
「すれ違う優しさ、愛しさっていうのかな?」
「そうそう、そんな感じ。現実でそんなことがあっても、誰もそのことを教えてくれないじゃない? 第三者の視点だから、ふたりとも知りようがないし」
「瑞稀って、案外ロマンチストなんだね」
「案外って単語は、いらないと思う」
ナオトは声を立てて笑った。
「笑わないでよ、わたしだってこれでも女の子なんだよ」
自分で「これでも」というあたりがナオトはおかしかった。
「ごめんごめん」
「ごめんを続けていうと、嘘っぽく聞こえる」
ナオトは歩くのをやめると、瑞稀に向かって頭を下げた。
「悪かった、すまない」
ナオトの後頭部を眺めて、瑞稀は頬をかいた。
「いいわ、許してあげる。レモンティーとショートケーキでね」
ナオトは黙ったまま微笑むと、大きくうなずいた。
ナオトと瑞稀は、まっすぐに学食へ向かった。約束通り、ナオトの奢りである。瑞稀はスイーツのコーナーの前で、唇の下に指を当ててしばらく考え込んでいた。
モンブランにザッハトルテ、ミルフィーユ、チーズケーキ、ティラミス。どれもこれもが美味しく感じられて、目移りしてしまう。そんな様子を見て、ナオトは「いくつでも構わないよ」というと、「ふたつも食べるとカロリーが」とダイエット中の女性か、管理栄養士みたいなことを瑞稀は口にした。しかし結局、大きなイチゴの誘惑には勝てなかったようで、瑞稀はショートケーキを選んだ。それが王道とでもいうかのように。ちなみに、飲み物も宣言通り、レモンティーであった。
ナオトは少し空腹であったので、サンドイッチとコーヒーを購入した。
席につくと、瑞稀は手を合わせてから、まずレモンティーで喉を潤した。「礼儀の正しい娘だな」と思いながら、ナオトはコーヒーを一口すすった。かすかな苦味を舌で感じ、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。この大学の学食のレベルは、かなり高いと思えた。
瑞稀はまず、フォークを使って乗っているイチゴを横に寄けて、スポンジケーキを一口大に切ると口に運んだ。どうやら、好きなものは後にとっておくタイプのようであった。至福を感じて美味しそうに食べている様子を目にしながら、ナオトは目にかかる髪を後ろへ梳いた。両の瞳は探るような色合いを帯びていた。
「話を元に戻してもいいかな?」
「話って?」
「風間慶一の側にいる都筑彰男のことだよ」
瑞稀の眉が上がった。
「そいういえば、そんなこと話してたよね」
ナオトは思わず微苦笑した。
「彰男について、なにか知っていることはないかな?」
直球過ぎたのではないか、と、ナオトは尋ねてから失敗したと思ったが、瑞稀は何事もなくケーキを食べながら、視線をナオトの顔に向けた。
「なんでそんなことが気になるの?」
「それは、いつも風間慶一の側にいるなんて、普通じゃないだろう?」
「それはそうだけれど。別にいいんじゃない、そんなこと」
そういわれてしまうと身も蓋もない。ナオトは瑞稀から慶一や彰男について引き出そうとしたが、これ以上詮索すれば、より疑われそうである。しばらく黙して考えた。
瑞稀はいい娘であった。なにより裏表がない。素直で純朴な女の子であった。瑞稀を騙しているようで、ナオトの心は忸怩たるものであふれていた。しかし、それは感傷的なものであって、探偵としてはまだまだ未熟であったかもしれない。もっと冷徹に接するべきなのかもしれない。
「正体を明かせば、驚くだろうか? いや、驚くのは当然として、手を貸してくれるだろうか?」
ここ三日ほど、瑞稀と会話することが多かった。気のおけない女の子だと思った。人を見る目に自信があるわけではないが、目の前でショートケーキのイチゴを頬張っている女の子は、信用できるという確信はあった。
今日まで、ナオトはある特定の人物を尾行したり、行動を探ったりしたことは何度かあった。ただし、彰男のように対象とべったりとくっついて離れない手合はいなかった。はじめての経験である。ここはリスクを覚悟して行動するよりほかはないのかもしれない。
「いや」
ナオトは首を横に振った。
「早まってはいけない」
せめて後一週間、いや三日程度は、張りついているべきではないだろうか。キョウジがスナック・バー『千歳』を探っている。ここは我慢のしどころではないか。ナオトは肘をテーブルに置くと指を組んだ。瑞稀が食べ終わって、手を合わせたことにも気づいてはいなかった。
「そんなに気になる?」
ナオトは黙ったまま返事をしなかった。「気になる」といえば、素直に答えてくれるだろうか。それとも、疑われるだろうか。「気にならない」といえば、何事もなかったように、サラッと流してくれるだろうか。
ナオトは目をつむった。このまま黙っていると、瑞稀はどのような反応を示すだろうか。今や自分は、慶一や彰男よりも、瑞稀のことが気になっていることに気がついた。
ナオトは、何度も首を横に振った。
「いや、確かに瑞稀のいうとおりだ。別にどうでもいいことだな」
ナオトがそういうと、瑞稀は少し考えこむような仕草をしてから、話しだした。
「都筑彰男は風間家の使用人の息子だそうよ。子供の頃から風間慶一に仕えていて、風間慶一の良き理解者であると同時に、唯一の相談相手でもあるの。頭も良くて、運動神経も抜群で、見ての通り容貌も良いわね。常に礼節を重んじ、言葉の使い方も丁寧で、感情的になることがなく、とても二十歳とは思えないほど落ち着いていて、なにがあっても動じることがないらしいよ。彼女はいないんじゃないかな。いつも風間慶一の側にいるので、そんな時間もないのかしら」
とうとうと話す瑞稀に目を向けて、ナオトは目を瞬かせた。
「と、そんなところかしら。どう? お役に立てたかしら?」
「あ、ああ」
ナオトは、機械人形のようにうなずいた。
「先輩、ひとつ質問いてもいいかしら?」
「ん? なんだい」
「あなた、一体、何者なの?」
ナオトは地雷を踏んでしまったのかもしれないと思った。急いては事を仕損じる、というが、まさに今のナオトはそういう状態にあった。しかし、黙ったままではいられなかった。なにか話さなければ、瑞稀の疑念を認めてしまうことになるからであった。ナオトは、心の内の動揺を隠して、短く答えた。
「おれは、大学生だよ」
ナオトは大学を休学していたので、まったくの嘘ではなかったが、瑞稀はいぶかしそうにナオトの瞳をみつめていた。
「ふーん、そう」
瑞稀はレモンティーをすすった。
「先輩の背負っている陰、のようなものの一端が垣間見えたような気がしたんだけれど、いいわ、今は追求しないでおくわ」
ナオトは微動だにせずに瑞稀を見つめ続けた。動くと爆発しそうな地雷である。動くわけにはいかなかった。ナオトの頬を汗が伝い落ちた。ナオトは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
救いの手は、ナオトに差し出された。講義終了のチャイムが鳴り出したのである。瑞稀は立ち上がるとトレーを手にした。
「わたし、この後、講義があるから行くね」
ナオトは小さくうなずいた。歩き去っていった瑞稀の後ろ姿をしばらく見ていた。どうやら、地雷は不発に終わったようである。安堵したナオトは、目をつむって軽く頭を振った。
「やれやれ、少しはおれも自重しなければな」
ナオトは立ち上がると、瑞稀とは反対の方向に歩いていった。瑞稀が語ってくれた話を脳裏にめぐらしながら。
「使用人の息子、か。ただ、それだけの男とは思えないが」
小さくつぶやいたナオトは、そのまま早足で歩き続けた。その時、瑞稀が振り返っていた。その瞳には、遠ざかっていく夏目ナオトの背中がはっきりと映っていた。
東都大学のキャンパスを歩いていた夏目ナオトは、唐突に声をかけられ、左肩をポンと叩かれた。しかし、相手が誰なのかは振り返る前からわかっていた。東都大学でナオトのことを「先輩」と呼ぶ相手は、ひとりしか思い浮かばなかったからである。
ナオトは首を動かして左側を見た。そこには誰もいなかったので、さらに身体ごと振り返った。すると、そこにも誰もいなかった。小首を傾げて正面を向くと、右頬に突き当たるものがあった。優木瑞稀の繊細な人差し指であった。
「なんだい、後輩」
ナオトが淡々と応えると、瑞稀が不満そうに頭を振った。
「あーあ、がっかり、残念、つまんない。先輩、全然驚かないんだもの」
「こんな子どもじみたことをされたのは、おそらく小学生の頃以来だな」
瑞稀が頬をふくらませて不満を口にした。
「それって、暗にわたしを小学生以下だっていってるようなものじゃない」
「やっていることを見ると、そういう評価も、さもありなん」
瑞稀は両手で顔を覆った。
「酷い、あんまりだわ、グスン」
「指の隙間から目が見えてるよ」
ナオトは、この他愛もないやり取りに平和を感じて、なんだかおかしくなった。
「ふふっ」
「あーっ、今、わたしのことを馬鹿にしたでしょう?」
「いや違う、笑ったけれど、そうじゃない。決して瑞稀のことを馬鹿にしているわけじゃあないんだ。ちょっと、昔のことを思い出してね」
「昔のこと?」
ナオトが柔和そのものの笑顔でうなずくと、瑞稀は両の瞳を爛々と輝かせている。まったく、この女の子は、自分の欲望に正直というか裏表がないというか、他人を不快な気分にさせない愛くるしさがあった。それは間違いなく、瑞稀の個性であり、長所であるように思われた。
「なになに、いつのこと?、どんなこと?、誰のこと? なんのこと?」
「遠い遠い、昔のことだよ」
立て続けに問いかけられて、ナオトは曖昧に答えた。まだ二十一歳であるナオトにとって、小学生の頃といえば一〇年位前のことでしかない。遠い遠い昔と表現してよいものか、はなはだ怪しかったが、十年一昔という言葉もある。それに、情報に係わるモノに関しては、隔世の感があるのも確かである。
「あーっ、やっぱり馬鹿にしてるんだ」
瑞稀は可憐な唇を尖らせて、プイと顔を背けた。
この、コロコロと表情が変わる女の子が、自分に好意を抱いていることに、いかに鈍いナオトであろうと気がついていた。ナオト自身も同じような気持ちであったからでもある。ただ、お互い恋愛感情とは違う。気が合う、という感じの好意である。しかし、ナオトは東都大学の生徒ではない。それは仮初でしかなかった。深入りしてはならなかった。いずれ、ナオトは瑞稀の前から姿を消さなければならないのだから。
ナオトは、自分は冬木シオリたちがいうように堅物なのかもしれない、と思った。春海キョウジであれば、それは瑣末なこととして笑うだろう。いつものように、「恋愛は自由だろう」と。いや、キョウジならば、もっと気の利いた台詞を口にするだろう。そう考えると、またおかしくなった。
「ふふっ」
「あーっ、また笑った。いかに寛容なわたしでも、しまいには怒るわよ」
瑞稀は、左手を腰にあてて、右手の人差し指をナオトの眼前に突き出した格好で、眉間にしわを寄せた。
「ごめんごめん。でも、さっきもいったけれど、決して瑞稀を馬鹿にしているんじゃないんだ。ちょっと、知り合いのことを思い出してね」
「先輩の知り合い? それは、大いに興味があるかも」
瑞稀の瞳の奥で、なにかがきらめいた。それは、好意を寄せている相手をもっと知りたいという欲求から生じた、好奇心であったのかもしれない。
「同じ大学の人? それとも、高校の時の友だち? それとも、アルバイト先の女の子? それともまさか、そっち系?」
最後の単語を聞いて、ナオトは思わず転けそうになったが、すんでのところで耐えぬいた。
「さあ、それはどうだろう」
ナオトは心を読まれまいと韜晦することにした。少し話し始めると、余計なことまで話してしまいそうであったからである。それに、瑞稀を騙していることで引け目を感じていることもあって、大げさにいえば、自己嫌悪に陥ってしまいそうでもあったのである。それに、あまり深く関わるべきではないとも思っていた。それは、都筑彰男に感じた警戒心とは少し趣が異なる疑念から生じたものであった。
「まあ、いいわ。なにか話せない理由があるっていうのはわかったから。やっぱり先輩は、どこか普通の学生とは違う深みがあるようね」
ナオトは、首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。ちょっとした仕草でも注意したほうが良さそうに思えた。瑞稀は、どうやら相手の表情や仕草から察するタイプであるように思えたからである。
「それにしても、今日は午前中はどこにいたの? 田名部教授の講義にも出てなかったようだけれど」
瑞稀が話題を転じた。ナオトは慎重に言葉を選ぶために、話す前に少し間を開けた。
「田名部教授の講義といったって、この間もその前も、頭をリフレッシュするために講義を聞いていただけなんだけどね」
「そういえば、そうだったわね」
瑞稀が妙に納得したようにうなずいたのを見て、ナオトは事実を正確に話した。
「それに、昨日はひどく疲れていてね。昼近くまで爆睡していたんだ」
「爆睡するほど疲れてるって、どんなことをしているの? アルバイト」
「それは、軽々には話せないな」
ナオトがもったいぶるようにいうと、瑞稀の表情にいぶかしそうな陰りが刺した。
「先輩って、秘密主義みたいなところがあるわね。あまり自分のことを話そうとしないもの」
「おれのプライベートは、それはそれは、貧素なものだよ」
「信じられないなー」
「前にもいったけれど、おれは特別なところはなにもないよ。飛び抜けて格好が良いわけでもないし、頭の良さだってそこそこだ。運動神経もまあまあだし、すごい面白いわけでもない。どこにでもいるような、普通の地味な男だ。素直な目と心で見てほしいね」
瑞稀は少し考えてから言葉を継いだ。
「先輩がどこにでもいる普通の男の人だったら、わたし、こんなにも興味を持たないと思う」
「それって暗に、自分は普通じゃないっていっているようなものだね」
「ということは、やっぱり先輩は普通じゃないってことよね?」
堂々巡りになりそうであったので、ナオトは会話の主導権を握るために質問した。
「瑞稀は、なにか他人に誇れることとか無いのかい?」
ナオトの質問を受けて、瑞稀は少し考えるように首をかしげた。
「そうねえ。わたしも、そんなに可愛くもないし、成績も優秀でもないわ。運動はどちらかといえば苦手だし、愛嬌だって有るかどうか、自分ではわからないわ」
「謙遜し過ぎだろう。瑞稀はとても魅力的な女性だと思うよ」
「ほんと?」
瑞稀が真面目な表情で尋ねてきたので、ナオトも真面目な表情でうなずいた。
「ああ、本当だ。瑞稀なら、誰か特別な相手がいてもおかしくはないと思うけれどね。どうなんだ? そんな相手、いないのかい?」
思わず口をついて出た言葉に、ナオト自身驚きを隠せなかった、話の流れとはいえ、堅物と公認されているナオトにしては意外な問いかけであった。しかし、瑞稀は驚いた様子もなく答えた。
「さあ、それはどうでしょう」
瑞稀は、いたずらっぽく笑った。先ほどいった自分の言葉をそっくりそのまま返されて、ナオトはやはり、瑞稀との会話は楽しいと感じていた。それに、あらためてよく見るまでもなく、瑞稀は綺麗で可愛らしい。ナオトに興味を持っていると隠すこともなく断言されて、悪い気はしなかった。その点、ナオトも男の子であった。しかし、その気持には、どうしても応えられなかった。仮初の立場である以上、一線を引かなければなるまい。
「この子は、とてもいい娘だ」
ナオトは心の中でそうつぶやいた。それとともに、ひとつ気になったことがあった。瑞稀が他の学生と一緒にいるところを一度も見たことがないということであった。思考の荒野をさまよっていると、瑞稀はナオトを追い越して一歩前に出ると、下から覗きこむようにして眉をしかめていった。
「どうしたの? 先輩、なんだか気になることがあるような顔してるよ」
ナオトは、はっと我に返った。表情を改めるために左頬をひと撫でしてから、ナオトは両手を組んで、大きく伸びをした。
「いや、なんでもない」
ナオトは、先程浮かんだ疑問を頭の中から消し去った。それは、ナオトと一緒にいるからであって、それ以外の場合には、普通の学生たちと同じように友達のひとりやふたりぐらいはいるだろうと思われたからであった。
「そう」
瑞稀の返事はそっけないように、ナオトには感じられた。
「先輩、やっぱり、なにか隠してるわね。馬鹿にするものじゃないわよ。女の子の勘というのは」
「そうかな」
「わたしも一応、女の子なんだよ」
「そいつは、気をつけないといけないな」
ナオトは普通に笑おうとして失敗した。笑顔を見せる前に、対象を目の端にとらえたのである。ナオトの双眸に、講堂から出て来た風間慶一の姿が映っていた。相変わらず、都筑彰男を従えている。
ナオトは疑問に感じた。いつでもどこでも彰男を引き連れていれば、そもそも不貞をはたらくことなど出来ないのではないか、と。ナオトは彰男の背中を睨むように見た後で、瑞稀に視線を転じた。
「あのさ。風間慶一の側にいつもくっついている男がいるだろう? あれは誰なのか、知っているかい?」
瑞稀は身体ごと慶一の方を向くと、淡々と答えた。
「確か、都筑彰人、だったかな?」
「都筑彰人? 彰男じゃなくて?」
「そうだ、彰男だった」
ナオトが聞き返すと、瑞稀は舌を出して自分の頭を小突いた。その仕草も充分に愛らしい。
「それで、都筑彰男がどうかしたの?」
「気になるだろう? あの御曹司の風間慶一の側にいつもいる。友達といったって、四六時中一緒にいるのは普通ではないと思うんだが」
「そうかもしれないけれど」
瑞稀はいつもの様に中空に視線を固定して考え込んだ。
「もしかして先輩、変な妄想してない?」
「妄想?」
口に出してから、ナオトは考え込んだ。瑞稀を見ると、何故か頬を紅潮させて瞳はとろんとしている。その妙に艶っぽい表情を見て、瑞稀が頭の中でなにを想像しているのか、なんとなくわかった。男と男についての妄想となると、ひとつしか思い浮かばなかった。ナオトは困ったように頬をかいた。
「瑞稀がなにを考えているのかはわかったよ。でも、それはあくまでも妄想なんだろう? みんながみんな、そんなふうに捉えているとは思えないけれど」
今度は瑞稀がはっとしたように我に返った。ほっぺたを叩いて表情を一瞬で変えようとしたが、まともにナオトを見ることができずに、顔を下に向けて右手を開いて突きだした。
「ちょっと待って、今のなし」
「あったことはなかったことには出来ないよ。普通はね」
「お願い、今のはほんとにダメだから」
耳まで真っ赤になっている瑞稀を目にして、ナオトは、少し意地悪が過ぎたかもしれないと反省した。
「いいよ。別に責めるている訳じゃないから」
ナオトは俯いている瑞稀の頭を優しく撫でた。瑞稀が両手をナオトの手に重ねて、ゆっくりと視線を上げた。
「先輩って、なんだか不思議な人だね。優しかったり意地が悪かったり、そんな面が同居しているみたい」
「多面性といいたいのかい? でもそれは、大なり小なり、誰もが持っているんじゃないかな?」
ナオトは瑞稀の頭から手をどけようとしたが、瑞稀は手を離そうとしなかった。
「かもしないけれど、先輩の場合、ものすごーく優しくて、ほんのすこーし意地悪で。なんだかすごくほっとする」
瑞稀の両の眼に自分の姿が映っていた。ようやく瑞稀が手を離してくれたようである。ナオトは自分の目にかかる髪をつまんだ。
「そんなふうにいわれたのは初めてだな。でもなんだろう、別に意識的ではないんだよな。自然といろいろなことを考えているから、自然とできているのかな?」
ふたりは並んで歩いていた。背の高いナオトに時折置いて行かれそうになりながら、瑞稀は早足で歩いていた。それに気づいて、ナオトは歩く早さを少しだけ落とした。
「ほら、今だってそう。わたしのことを気遣ってゆっくりと歩いてくれた。そういうことが自然とできるのは、普通じゃないと思うよ」
「気づかれないことのほうが多いけれどね」
ナオトは瑞稀に向かってウインクした。無論、他意はない。
「さりげないから気づかないのかしら? 先輩、絶対損していると思う」
「別に、損得だけを考えて生きているわけじゃあないんだが」
瑞稀は少し考えこむように眉を寄せた。
「例えばさ、ドラマなんかでよくあるじゃない。微妙な距離の男女が、それぞれ背中を向けて歩き出して、男の人が振り返ると、女の人は背中を見せて歩いている。そして諦めて男の人が再び背中を見せて歩き出したら、女の人が振り返るっていうの」
「すれ違う優しさ、愛しさっていうのかな?」
「そうそう、そんな感じ。現実でそんなことがあっても、誰もそのことを教えてくれないじゃない? 第三者の視点だから、ふたりとも知りようがないし」
「瑞稀って、案外ロマンチストなんだね」
「案外って単語は、いらないと思う」
ナオトは声を立てて笑った。
「笑わないでよ、わたしだってこれでも女の子なんだよ」
自分で「これでも」というあたりがナオトはおかしかった。
「ごめんごめん」
「ごめんを続けていうと、嘘っぽく聞こえる」
ナオトは歩くのをやめると、瑞稀に向かって頭を下げた。
「悪かった、すまない」
ナオトの後頭部を眺めて、瑞稀は頬をかいた。
「いいわ、許してあげる。レモンティーとショートケーキでね」
ナオトは黙ったまま微笑むと、大きくうなずいた。
ナオトと瑞稀は、まっすぐに学食へ向かった。約束通り、ナオトの奢りである。瑞稀はスイーツのコーナーの前で、唇の下に指を当ててしばらく考え込んでいた。
モンブランにザッハトルテ、ミルフィーユ、チーズケーキ、ティラミス。どれもこれもが美味しく感じられて、目移りしてしまう。そんな様子を見て、ナオトは「いくつでも構わないよ」というと、「ふたつも食べるとカロリーが」とダイエット中の女性か、管理栄養士みたいなことを瑞稀は口にした。しかし結局、大きなイチゴの誘惑には勝てなかったようで、瑞稀はショートケーキを選んだ。それが王道とでもいうかのように。ちなみに、飲み物も宣言通り、レモンティーであった。
ナオトは少し空腹であったので、サンドイッチとコーヒーを購入した。
席につくと、瑞稀は手を合わせてから、まずレモンティーで喉を潤した。「礼儀の正しい娘だな」と思いながら、ナオトはコーヒーを一口すすった。かすかな苦味を舌で感じ、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。この大学の学食のレベルは、かなり高いと思えた。
瑞稀はまず、フォークを使って乗っているイチゴを横に寄けて、スポンジケーキを一口大に切ると口に運んだ。どうやら、好きなものは後にとっておくタイプのようであった。至福を感じて美味しそうに食べている様子を目にしながら、ナオトは目にかかる髪を後ろへ梳いた。両の瞳は探るような色合いを帯びていた。
「話を元に戻してもいいかな?」
「話って?」
「風間慶一の側にいる都筑彰男のことだよ」
瑞稀の眉が上がった。
「そいういえば、そんなこと話してたよね」
ナオトは思わず微苦笑した。
「彰男について、なにか知っていることはないかな?」
直球過ぎたのではないか、と、ナオトは尋ねてから失敗したと思ったが、瑞稀は何事もなくケーキを食べながら、視線をナオトの顔に向けた。
「なんでそんなことが気になるの?」
「それは、いつも風間慶一の側にいるなんて、普通じゃないだろう?」
「それはそうだけれど。別にいいんじゃない、そんなこと」
そういわれてしまうと身も蓋もない。ナオトは瑞稀から慶一や彰男について引き出そうとしたが、これ以上詮索すれば、より疑われそうである。しばらく黙して考えた。
瑞稀はいい娘であった。なにより裏表がない。素直で純朴な女の子であった。瑞稀を騙しているようで、ナオトの心は忸怩たるものであふれていた。しかし、それは感傷的なものであって、探偵としてはまだまだ未熟であったかもしれない。もっと冷徹に接するべきなのかもしれない。
「正体を明かせば、驚くだろうか? いや、驚くのは当然として、手を貸してくれるだろうか?」
ここ三日ほど、瑞稀と会話することが多かった。気のおけない女の子だと思った。人を見る目に自信があるわけではないが、目の前でショートケーキのイチゴを頬張っている女の子は、信用できるという確信はあった。
今日まで、ナオトはある特定の人物を尾行したり、行動を探ったりしたことは何度かあった。ただし、彰男のように対象とべったりとくっついて離れない手合はいなかった。はじめての経験である。ここはリスクを覚悟して行動するよりほかはないのかもしれない。
「いや」
ナオトは首を横に振った。
「早まってはいけない」
せめて後一週間、いや三日程度は、張りついているべきではないだろうか。キョウジがスナック・バー『千歳』を探っている。ここは我慢のしどころではないか。ナオトは肘をテーブルに置くと指を組んだ。瑞稀が食べ終わって、手を合わせたことにも気づいてはいなかった。
「そんなに気になる?」
ナオトは黙ったまま返事をしなかった。「気になる」といえば、素直に答えてくれるだろうか。それとも、疑われるだろうか。「気にならない」といえば、何事もなかったように、サラッと流してくれるだろうか。
ナオトは目をつむった。このまま黙っていると、瑞稀はどのような反応を示すだろうか。今や自分は、慶一や彰男よりも、瑞稀のことが気になっていることに気がついた。
ナオトは、何度も首を横に振った。
「いや、確かに瑞稀のいうとおりだ。別にどうでもいいことだな」
ナオトがそういうと、瑞稀は少し考えこむような仕草をしてから、話しだした。
「都筑彰男は風間家の使用人の息子だそうよ。子供の頃から風間慶一に仕えていて、風間慶一の良き理解者であると同時に、唯一の相談相手でもあるの。頭も良くて、運動神経も抜群で、見ての通り容貌も良いわね。常に礼節を重んじ、言葉の使い方も丁寧で、感情的になることがなく、とても二十歳とは思えないほど落ち着いていて、なにがあっても動じることがないらしいよ。彼女はいないんじゃないかな。いつも風間慶一の側にいるので、そんな時間もないのかしら」
とうとうと話す瑞稀に目を向けて、ナオトは目を瞬かせた。
「と、そんなところかしら。どう? お役に立てたかしら?」
「あ、ああ」
ナオトは、機械人形のようにうなずいた。
「先輩、ひとつ質問いてもいいかしら?」
「ん? なんだい」
「あなた、一体、何者なの?」
ナオトは地雷を踏んでしまったのかもしれないと思った。急いては事を仕損じる、というが、まさに今のナオトはそういう状態にあった。しかし、黙ったままではいられなかった。なにか話さなければ、瑞稀の疑念を認めてしまうことになるからであった。ナオトは、心の内の動揺を隠して、短く答えた。
「おれは、大学生だよ」
ナオトは大学を休学していたので、まったくの嘘ではなかったが、瑞稀はいぶかしそうにナオトの瞳をみつめていた。
「ふーん、そう」
瑞稀はレモンティーをすすった。
「先輩の背負っている陰、のようなものの一端が垣間見えたような気がしたんだけれど、いいわ、今は追求しないでおくわ」
ナオトは微動だにせずに瑞稀を見つめ続けた。動くと爆発しそうな地雷である。動くわけにはいかなかった。ナオトの頬を汗が伝い落ちた。ナオトは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
救いの手は、ナオトに差し出された。講義終了のチャイムが鳴り出したのである。瑞稀は立ち上がるとトレーを手にした。
「わたし、この後、講義があるから行くね」
ナオトは小さくうなずいた。歩き去っていった瑞稀の後ろ姿をしばらく見ていた。どうやら、地雷は不発に終わったようである。安堵したナオトは、目をつむって軽く頭を振った。
「やれやれ、少しはおれも自重しなければな」
ナオトは立ち上がると、瑞稀とは反対の方向に歩いていった。瑞稀が語ってくれた話を脳裏にめぐらしながら。
「使用人の息子、か。ただ、それだけの男とは思えないが」
小さくつぶやいたナオトは、そのまま早足で歩き続けた。その時、瑞稀が振り返っていた。その瞳には、遠ざかっていく夏目ナオトの背中がはっきりと映っていた。
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