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第五章 不機嫌な面々 2
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ナオトが目を覚ましたのは午前十一時をまわった頃であった。連日の猛暑の中での尾行は、身体にかなり負担がかかっていたようで、充分な休息を必要としていたようである。しかも、地味で得るものがないとなれば、蓄積された疲労は決して少なくはなかった。
起き上がると、寝ぼけ眼をこすりながら、ナオトは風呂場に向かった。シャワーを浴びながら、昨夕のことを思い返していた。
シオリが『千歳』を出て行った後、客たちの失笑の中で、バーテンダーが差し出してくれた手ぬぐいでミルクセーキを拭きとった。その後、表情を改めると、ナオトは少し強めの水割りを注文した。それを一気に呷った。方法はどうであれ、シオリを帰したことは間違ってはいないと思っていた。その後、堪えきれない眠気のために、ナオトは眠りに落ちていった。目を覚ましたのは二十三時をまわっていた。
ナオトが眠っていた間のことは、甚だ不本意ではあったがわからない。迂闊であった。その間に、風間慶一が尻尾を見せていたかもしれなかったからである。
なぜ、風間慶一が『千歳』にいなかったのか。慶一はどこへいったのか。考えれば考えるほど、『千歳』という名前のスナック・バーは疑わしく思えた。
「おれが眠らなければ、慶一がどこからか現れた現場を押さえることができていたかもしれない」
そう考えると、大のつくほどの失態であったといっても良いだろう。ナオトは、深く後悔し、反省し、自責の念に駆られていたのである。
ナオトがアパートを出て喫茶探偵『四季』に着いたのは、ゲンイチロウと約束したように十二時を少しまわった頃であった。店に入ると、ナオトは複雑な表情のシオリと対面した。
「やあ、シオリ。おはよう」
ナオトは自然体で言葉をかけたが、シオリは目を合わせようとはせずに、無言で頭を下げた。まだ怒っていることが容易に看取できた。ナオトは、ニヤニヤしながら冷房の真下に鎮座しているキョウジの側に来ると、横に並んで座って耳元でささやいた。
「まだ、怒っている、のかな?」
「まごうことなくね」
「そうか。そうだろうな」
ナオトは再びシオリに声をかけようとしたが、喫茶店の入口が開いたので口をつぐんだ。現れたのが客ではなく秋津カナタであったことに気がつくと、ほっとしたと同時にその身なりを見て驚いたように目を大きく見開いた。カナタが学校の制服を着ていたからであった。詰め襟の学生服ではなく、濃紺のブレザー姿であった。結構、似あっていた。
「やあ、カナちゃん。今日はえらいおめかししているじゃあないか。馬子にも衣装というが、昔の人は良い言葉を残すものだね」
キョウジがからかうと、カナタはじろりとキョウジに冷ややかな目を向けた。
「あなたの軽口につきあうために、自分は時間を割く気はありませんよ。キョウさん」
「相変わらず、口が悪いね。そんなことでは大成できんぞ。それに、返事をするのは言行不一致だと思うがね」
「口が悪いと大成できない、なるほど、ご自身で体現されているようですね」
「ふっふっふっ、いうねえ、カナちゃん」
ゲンイチロウが手を打って、注目するように促した。
「いい加減にせんか。まったく、口の減らない奴ばっかりだな」
「そういう連中を集めたのは、おっさんでしょうに」
ゲンイチロウはジトッとした目を発言者にに向けた。
「軽口はそれぐらいにしておけ。でないと、今月の給与明細を見て後悔することになるからな」
給金のことを持ち出されて、キョウジはあっさりと降参した。
「わかったわかった。そう結論を早まらなくてもいいだろう。冗談だよ、冗談。仲間同士、親睦を深めたいと思ってね。コミュニケーションをはかったまでさ。なあ、カナタ」
カナタは呆れたように少し顔を振った。
「と、いうわけだそうだ。カナタはシャイだからな。素直になれんのさ」
「まあ、いい。それよりも」
ゲンイチロウがナオトに目を向けた。
「ナオト、みんなが揃ったところだ、早速だが、昨日の報告を聞こうか」
「ああ、そうだな」
ナオトは、昨夕から夜半にかけての一連の出来事を話した。もちろん、シオリを怒らせてしまったことは伏せていた。そして、結局、睡魔に勝てなかったことで、決定的な証拠を逃したかもしれなかったことについては、責められることになる。
「そいつは、確かに迂闊だったな」
ゲンイチロウはナオトの不手際を責めたが、シオリを帰したことは、高く評価していた。
「しかし、風間慶一が消えたというのは、にわかには信じがたい。本当に『千歳』に入るのを見たのか?」
「それは間違いない。地下に続いている階段を降りていくのは見ていたし、地下には『千歳』の入り口しかなかった」
ナオトは少し居心地の悪さを感じていた。先程から何度かシオリに視線を向けているのだが、シオリはナオトを一切見ようとしなかったからである。
「他に入り口はなかったのか?」
ゲンイチロウに目を向けて、ナオトはうなずいた。
「見た感じだが、他に入口はなかった。間違いなく、なかった。そうだよな? シオリ」
シオリは無言でうなずいた。徐々にだが、シオリの表情が和らいでいるようにナオトには思えた。
「うーむ」
ゲンイチロウが短く唸った。
ナオトのいうことが正しければ、確かに奇妙な話ではあった。しかし、万能ではないが、科学が幅を利かせている現代において、神隠でもあるまいに、なにも理由がなく人間が消えたりはしない。そこのところが、引っかかった。
「なら話は簡単だね。『千歳』にはおれが張りついてやろう。ナオトには今しばらく、東都大学へ通ってもらう。それでいいんじゃあないかね?」
キョウジが現状と傾向を簡潔にまとめたが、それしか方法はなく、誰も反対はしなかった。
「決まりだ。では、行ってくる」
近所にお使いにでも行くかのような軽さで、キョウジはキョウジらしく請け負った。
「わかっていると思うが――」
「わかっているのならいわなくてもかまうまい、おっさん」
キョウジは軽く手を振りながら、喫茶探偵事務所『四季』から出て行った。
「まったく、あいつの軽口はどうにかならんのか」
ゲンイチロウが呆れたように頭を振ると、ナオトがまっとうな意見を口にした。
「キョウジから軽口を取ったら、さぞ有能で禁欲的な探偵になるだろうな」
「できれば、そう願いたい」
ゲンイチロウは本気でそう思った。その後で、なにか思い出したように、ゲンイチロウはナオトに向き直った。
「連日連夜で相当疲労しているようだが、大丈夫か?」
「正直きついが大丈夫だ、問題はない」
「そうか」
ゲンイチロウが短く答えると、しばらく四人の間を、居心地の悪い沈黙が支配した。ナオトは意を決したようにシオリに声をかけた。
「シオリ、昨日は悪かった。本当にすまなかった」
頭を下げたナオトを横目で見て、シオリは口を尖らせた。
「別に、あたしは気にしていないけれど」
シオリの感情を抑制した口調に、ナオトは少々困惑した。シオリを帰らせたのは間違いではないと思っていたが、シオリの自尊心を傷つけてしまったのではないかと猛省していたのである。そのことをシオリに話すと、シオリは少し考えこんだ後で、表情を改めた。
「でも、今度おんなじことがあったら、あたし、絶対ナオトを許さないから。覚えておいてよね」
「わかったよ。でもね、シオリはまだ十六歳なんだ。年齢のことを持ち出すのは卑怯かもしれないけれど、これは変えようがない事実なんだ。それに、フェミニストを気取るつもりもないけれど、女の子でもある。危険な目にはあわせたくない。それは、できればわかってほしいな」
ナオトは優しげに微笑したが、シオリは真面目な表情で反論した。
「でも、ちょっと前までは、十六歳なら女の子は結婚だって出来たんだよ。いつまでも子供扱いしてほしくはないわ」
「まあ、そうなんだけど」
法律が変わったんだから、という正論をナオトは口にはしなかった。シオリが腹を立てているのは心情的なものであったからである。
「選挙権は十八歳にまで引き下げられました。少年と青年との境界が曖昧なのが、今のこの国の現状ですよ」
今まで黙っていたカナタが冷笑した。無口であるが故に、カナタの指摘は重く響いた。
「そうかもしれんが、お前がいうと、なんでも皮肉に聞こえるな」
ゲンイチロウがカナタに目を向けた。カナタは珍しく、大きなあくびをした。その後、無言のまま奥の部屋に消えていった。すると、今度はナオトが大きなあくびをした。あくびの途中でシオリと目があった。
「あくびって伝染るって聞いたことがあるけれど、本当みたいだな」
「大丈夫? ちゃんと睡眠取れてる?」
「ああ、大丈夫だ。少し疲れているだけだから。心配してくれてありがとう。シオリ」
今日のナオトはなんだかいつもよりも優しく思えた。シオリは照れたような笑顔を見せた。ナオトはもう一度、大きなあくびをした。目から涙があふれて視界がぼやけた。
ナオトとシオリの微妙な会話を耳にして、ゲンイチロウは目元に優しげな笑みを浮かべた。ナオトがそれを見逃さなかった。
「マスター、どうした、ニヤニヤして。気味が悪いぞ」
マスターことゲンイチロウの眉に火がついた。
「失礼な。いうに事欠いて気味が悪いだと!」
「おれは見たままをいったんだがな。シオリも、そう思わないか?」
「正確にいうなら不気味に見える」
ナオトとシオリは目を見合わせて笑った。ゲンイチロウは不機嫌そうにぶつぶつといっていたが、このふたりの関係が、大袈裟にいうと修復できたことを、まるで本当の親のように喜んでいたのであった。
その後、ひとこと、ふたこと、言葉をかわしていると、ナオトは大事なことを思い出したようで、奥の部屋に向かった。カナタが相変わらず何かを制作していた。ナオトは遠慮がちに言葉をかけた。
「カナタ、少しいいか?」
「なんです?」
カナタは手を止めずに返事をした。ナオトは胸元につけていたピンバッヂを外すと、それをカナタの手元に置いた。カナタの目が、それをとらえた。
「昨日、大学で風間慶一の会話を録音できたんだが、再生できるか?」
ナオトの質問には答えずに、カナタは手を止めてピンバッヂを手に取った。裏返して極小のドライバーでネジを外すと、メモリカードが顕になった。
可動式の椅子に座っていたカナタは、テーブルの端に移動して、置かれていたノート・パソコンを起動した。スロットにメモリカードを刺しこむと、マウスを操作してなにかしていた。ナオトはカナタの真後ろに立つと、興味深そうにモニタに目を向けた。
「二件ありますね」
カナタはマウスを操作してカーソルを移動させて、目的のファイルを再生させた。
「えーっと。あー、あー、テステス。これで、ほんとうに録音できているのか?」
パソコンのスピーカーからナオトの声が聞こえてきた。非常に明瞭な声であった。
「マイクのテストじゃあるまいし」
カナタが失笑しかけた。
「二件目を再生しますよ」
「ああ、やってくれ」
カナタはいった通りのことをした。
「表情に現れていましたか、わたくしもまだまだ精進が足りないようです。申し訳ございません」
「謝る必要はない。ただ、いいたいことがあれば遠慮なく話せ。いつもそういっているだろう」
「はい、では、遠慮なく申し上げます。一〇月にはご婚礼が控えております。そろそろ、ご自重なされたほうがよろしいかと」
「知っているだろう、なんら問題はない」
「はい、わかってはおります。ただ、醜聞で最も印象を損なうのは色恋沙汰です。それに比べれば、失言などは軽いほうです。このようなことは、話さなくともおわかりかもしれませんが」
「取り返しのつかない失言というものは確かにある。女性蔑視の発言などがその最たるものだ。男女同権を声高に主張するフェミニストたちは、ここを先途とかさにかかって攻め立てる。まるで、鬼の首でも取ったかのようにな。違うか?」
「間違いございません」
「今までいくつも浮き名を流してきたが、ただの一度も孕ませたことがない。堕胎させるのは悪いイメージがつく。そんな失態はせんよ。知っているだろう?」
「はい。よく存じております」
「ならばそういうことだ。問題はない。心配するな」
「承知いたしました」
その後、手を洗う音が聞こえたかと思うと、音声が消えた。
「これで、終わりですね」
カナタがナオトに向き直ると、ナオトがカナタに尋ねた。
「どう思う?」
顎を指でつまんで、カナタは考えこんでいる。もう一方の手は、指先でテーブルを等間隔に叩いていた。しばらくして、テーブルを叩いていた指が止まった。カナタの重い口が開いた。
「一度も孕ませたことがない、と、いっていましたね。これは風間慶一の声ですか?」
「そうだ。音声は都筑彰男から始まって次に風間慶一、というように交互に話している」
ナオトが肯定すると、カナタはまた考え込んだ。頭の中で話すべき内容を整理して、言葉を選んでいるかのようであった。
「そんな失態はせんよ、と、いっていましたよね。ということはです、叩けば埃が立つ可能性は高いでしょうね」
「同感だな」
今度はナオトが腕を組んで考え込んだ。
「この音声をスマートフォンに送ることは出来るか?」
「出来ますよ」
カナタがあっさりと請け負ったので、ナオトはスマートフォンをカナタに手渡した。カナタはノート・パソコンとスマートフォンをケーブルで繋いだ。それから、目的のファイルをスマートフォンにコピーした。そして、ファイルの名前を「マルタイ〇一」に変更した。ついで、メモリ・カード内の音声データを消去した。最後にノート・パソコンからメモリ・カードを引き抜くと、極小のドライバーで、元のピンバッヂに組み立て直した。
「どうぞ」
スマートフォンとピンバッジを受け取ると、ナオトは「邪魔したな」といって部屋の出口に向かった。返事は期待していなかった。ナオトは軽く手を上げた。そんなナオトの背中に、カナタは顎をつまんだままの格好で目を向けて、呟いた。
「ナオトさんなら、大丈夫ですね」
起き上がると、寝ぼけ眼をこすりながら、ナオトは風呂場に向かった。シャワーを浴びながら、昨夕のことを思い返していた。
シオリが『千歳』を出て行った後、客たちの失笑の中で、バーテンダーが差し出してくれた手ぬぐいでミルクセーキを拭きとった。その後、表情を改めると、ナオトは少し強めの水割りを注文した。それを一気に呷った。方法はどうであれ、シオリを帰したことは間違ってはいないと思っていた。その後、堪えきれない眠気のために、ナオトは眠りに落ちていった。目を覚ましたのは二十三時をまわっていた。
ナオトが眠っていた間のことは、甚だ不本意ではあったがわからない。迂闊であった。その間に、風間慶一が尻尾を見せていたかもしれなかったからである。
なぜ、風間慶一が『千歳』にいなかったのか。慶一はどこへいったのか。考えれば考えるほど、『千歳』という名前のスナック・バーは疑わしく思えた。
「おれが眠らなければ、慶一がどこからか現れた現場を押さえることができていたかもしれない」
そう考えると、大のつくほどの失態であったといっても良いだろう。ナオトは、深く後悔し、反省し、自責の念に駆られていたのである。
ナオトがアパートを出て喫茶探偵『四季』に着いたのは、ゲンイチロウと約束したように十二時を少しまわった頃であった。店に入ると、ナオトは複雑な表情のシオリと対面した。
「やあ、シオリ。おはよう」
ナオトは自然体で言葉をかけたが、シオリは目を合わせようとはせずに、無言で頭を下げた。まだ怒っていることが容易に看取できた。ナオトは、ニヤニヤしながら冷房の真下に鎮座しているキョウジの側に来ると、横に並んで座って耳元でささやいた。
「まだ、怒っている、のかな?」
「まごうことなくね」
「そうか。そうだろうな」
ナオトは再びシオリに声をかけようとしたが、喫茶店の入口が開いたので口をつぐんだ。現れたのが客ではなく秋津カナタであったことに気がつくと、ほっとしたと同時にその身なりを見て驚いたように目を大きく見開いた。カナタが学校の制服を着ていたからであった。詰め襟の学生服ではなく、濃紺のブレザー姿であった。結構、似あっていた。
「やあ、カナちゃん。今日はえらいおめかししているじゃあないか。馬子にも衣装というが、昔の人は良い言葉を残すものだね」
キョウジがからかうと、カナタはじろりとキョウジに冷ややかな目を向けた。
「あなたの軽口につきあうために、自分は時間を割く気はありませんよ。キョウさん」
「相変わらず、口が悪いね。そんなことでは大成できんぞ。それに、返事をするのは言行不一致だと思うがね」
「口が悪いと大成できない、なるほど、ご自身で体現されているようですね」
「ふっふっふっ、いうねえ、カナちゃん」
ゲンイチロウが手を打って、注目するように促した。
「いい加減にせんか。まったく、口の減らない奴ばっかりだな」
「そういう連中を集めたのは、おっさんでしょうに」
ゲンイチロウはジトッとした目を発言者にに向けた。
「軽口はそれぐらいにしておけ。でないと、今月の給与明細を見て後悔することになるからな」
給金のことを持ち出されて、キョウジはあっさりと降参した。
「わかったわかった。そう結論を早まらなくてもいいだろう。冗談だよ、冗談。仲間同士、親睦を深めたいと思ってね。コミュニケーションをはかったまでさ。なあ、カナタ」
カナタは呆れたように少し顔を振った。
「と、いうわけだそうだ。カナタはシャイだからな。素直になれんのさ」
「まあ、いい。それよりも」
ゲンイチロウがナオトに目を向けた。
「ナオト、みんなが揃ったところだ、早速だが、昨日の報告を聞こうか」
「ああ、そうだな」
ナオトは、昨夕から夜半にかけての一連の出来事を話した。もちろん、シオリを怒らせてしまったことは伏せていた。そして、結局、睡魔に勝てなかったことで、決定的な証拠を逃したかもしれなかったことについては、責められることになる。
「そいつは、確かに迂闊だったな」
ゲンイチロウはナオトの不手際を責めたが、シオリを帰したことは、高く評価していた。
「しかし、風間慶一が消えたというのは、にわかには信じがたい。本当に『千歳』に入るのを見たのか?」
「それは間違いない。地下に続いている階段を降りていくのは見ていたし、地下には『千歳』の入り口しかなかった」
ナオトは少し居心地の悪さを感じていた。先程から何度かシオリに視線を向けているのだが、シオリはナオトを一切見ようとしなかったからである。
「他に入り口はなかったのか?」
ゲンイチロウに目を向けて、ナオトはうなずいた。
「見た感じだが、他に入口はなかった。間違いなく、なかった。そうだよな? シオリ」
シオリは無言でうなずいた。徐々にだが、シオリの表情が和らいでいるようにナオトには思えた。
「うーむ」
ゲンイチロウが短く唸った。
ナオトのいうことが正しければ、確かに奇妙な話ではあった。しかし、万能ではないが、科学が幅を利かせている現代において、神隠でもあるまいに、なにも理由がなく人間が消えたりはしない。そこのところが、引っかかった。
「なら話は簡単だね。『千歳』にはおれが張りついてやろう。ナオトには今しばらく、東都大学へ通ってもらう。それでいいんじゃあないかね?」
キョウジが現状と傾向を簡潔にまとめたが、それしか方法はなく、誰も反対はしなかった。
「決まりだ。では、行ってくる」
近所にお使いにでも行くかのような軽さで、キョウジはキョウジらしく請け負った。
「わかっていると思うが――」
「わかっているのならいわなくてもかまうまい、おっさん」
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「まったく、あいつの軽口はどうにかならんのか」
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「キョウジから軽口を取ったら、さぞ有能で禁欲的な探偵になるだろうな」
「できれば、そう願いたい」
ゲンイチロウは本気でそう思った。その後で、なにか思い出したように、ゲンイチロウはナオトに向き直った。
「連日連夜で相当疲労しているようだが、大丈夫か?」
「正直きついが大丈夫だ、問題はない」
「そうか」
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シオリの感情を抑制した口調に、ナオトは少々困惑した。シオリを帰らせたのは間違いではないと思っていたが、シオリの自尊心を傷つけてしまったのではないかと猛省していたのである。そのことをシオリに話すと、シオリは少し考えこんだ後で、表情を改めた。
「でも、今度おんなじことがあったら、あたし、絶対ナオトを許さないから。覚えておいてよね」
「わかったよ。でもね、シオリはまだ十六歳なんだ。年齢のことを持ち出すのは卑怯かもしれないけれど、これは変えようがない事実なんだ。それに、フェミニストを気取るつもりもないけれど、女の子でもある。危険な目にはあわせたくない。それは、できればわかってほしいな」
ナオトは優しげに微笑したが、シオリは真面目な表情で反論した。
「でも、ちょっと前までは、十六歳なら女の子は結婚だって出来たんだよ。いつまでも子供扱いしてほしくはないわ」
「まあ、そうなんだけど」
法律が変わったんだから、という正論をナオトは口にはしなかった。シオリが腹を立てているのは心情的なものであったからである。
「選挙権は十八歳にまで引き下げられました。少年と青年との境界が曖昧なのが、今のこの国の現状ですよ」
今まで黙っていたカナタが冷笑した。無口であるが故に、カナタの指摘は重く響いた。
「そうかもしれんが、お前がいうと、なんでも皮肉に聞こえるな」
ゲンイチロウがカナタに目を向けた。カナタは珍しく、大きなあくびをした。その後、無言のまま奥の部屋に消えていった。すると、今度はナオトが大きなあくびをした。あくびの途中でシオリと目があった。
「あくびって伝染るって聞いたことがあるけれど、本当みたいだな」
「大丈夫? ちゃんと睡眠取れてる?」
「ああ、大丈夫だ。少し疲れているだけだから。心配してくれてありがとう。シオリ」
今日のナオトはなんだかいつもよりも優しく思えた。シオリは照れたような笑顔を見せた。ナオトはもう一度、大きなあくびをした。目から涙があふれて視界がぼやけた。
ナオトとシオリの微妙な会話を耳にして、ゲンイチロウは目元に優しげな笑みを浮かべた。ナオトがそれを見逃さなかった。
「マスター、どうした、ニヤニヤして。気味が悪いぞ」
マスターことゲンイチロウの眉に火がついた。
「失礼な。いうに事欠いて気味が悪いだと!」
「おれは見たままをいったんだがな。シオリも、そう思わないか?」
「正確にいうなら不気味に見える」
ナオトとシオリは目を見合わせて笑った。ゲンイチロウは不機嫌そうにぶつぶつといっていたが、このふたりの関係が、大袈裟にいうと修復できたことを、まるで本当の親のように喜んでいたのであった。
その後、ひとこと、ふたこと、言葉をかわしていると、ナオトは大事なことを思い出したようで、奥の部屋に向かった。カナタが相変わらず何かを制作していた。ナオトは遠慮がちに言葉をかけた。
「カナタ、少しいいか?」
「なんです?」
カナタは手を止めずに返事をした。ナオトは胸元につけていたピンバッヂを外すと、それをカナタの手元に置いた。カナタの目が、それをとらえた。
「昨日、大学で風間慶一の会話を録音できたんだが、再生できるか?」
ナオトの質問には答えずに、カナタは手を止めてピンバッヂを手に取った。裏返して極小のドライバーでネジを外すと、メモリカードが顕になった。
可動式の椅子に座っていたカナタは、テーブルの端に移動して、置かれていたノート・パソコンを起動した。スロットにメモリカードを刺しこむと、マウスを操作してなにかしていた。ナオトはカナタの真後ろに立つと、興味深そうにモニタに目を向けた。
「二件ありますね」
カナタはマウスを操作してカーソルを移動させて、目的のファイルを再生させた。
「えーっと。あー、あー、テステス。これで、ほんとうに録音できているのか?」
パソコンのスピーカーからナオトの声が聞こえてきた。非常に明瞭な声であった。
「マイクのテストじゃあるまいし」
カナタが失笑しかけた。
「二件目を再生しますよ」
「ああ、やってくれ」
カナタはいった通りのことをした。
「表情に現れていましたか、わたくしもまだまだ精進が足りないようです。申し訳ございません」
「謝る必要はない。ただ、いいたいことがあれば遠慮なく話せ。いつもそういっているだろう」
「はい、では、遠慮なく申し上げます。一〇月にはご婚礼が控えております。そろそろ、ご自重なされたほうがよろしいかと」
「知っているだろう、なんら問題はない」
「はい、わかってはおります。ただ、醜聞で最も印象を損なうのは色恋沙汰です。それに比べれば、失言などは軽いほうです。このようなことは、話さなくともおわかりかもしれませんが」
「取り返しのつかない失言というものは確かにある。女性蔑視の発言などがその最たるものだ。男女同権を声高に主張するフェミニストたちは、ここを先途とかさにかかって攻め立てる。まるで、鬼の首でも取ったかのようにな。違うか?」
「間違いございません」
「今までいくつも浮き名を流してきたが、ただの一度も孕ませたことがない。堕胎させるのは悪いイメージがつく。そんな失態はせんよ。知っているだろう?」
「はい。よく存じております」
「ならばそういうことだ。問題はない。心配するな」
「承知いたしました」
その後、手を洗う音が聞こえたかと思うと、音声が消えた。
「これで、終わりですね」
カナタがナオトに向き直ると、ナオトがカナタに尋ねた。
「どう思う?」
顎を指でつまんで、カナタは考えこんでいる。もう一方の手は、指先でテーブルを等間隔に叩いていた。しばらくして、テーブルを叩いていた指が止まった。カナタの重い口が開いた。
「一度も孕ませたことがない、と、いっていましたね。これは風間慶一の声ですか?」
「そうだ。音声は都筑彰男から始まって次に風間慶一、というように交互に話している」
ナオトが肯定すると、カナタはまた考え込んだ。頭の中で話すべき内容を整理して、言葉を選んでいるかのようであった。
「そんな失態はせんよ、と、いっていましたよね。ということはです、叩けば埃が立つ可能性は高いでしょうね」
「同感だな」
今度はナオトが腕を組んで考え込んだ。
「この音声をスマートフォンに送ることは出来るか?」
「出来ますよ」
カナタがあっさりと請け負ったので、ナオトはスマートフォンをカナタに手渡した。カナタはノート・パソコンとスマートフォンをケーブルで繋いだ。それから、目的のファイルをスマートフォンにコピーした。そして、ファイルの名前を「マルタイ〇一」に変更した。ついで、メモリ・カード内の音声データを消去した。最後にノート・パソコンからメモリ・カードを引き抜くと、極小のドライバーで、元のピンバッヂに組み立て直した。
「どうぞ」
スマートフォンとピンバッジを受け取ると、ナオトは「邪魔したな」といって部屋の出口に向かった。返事は期待していなかった。ナオトは軽く手を上げた。そんなナオトの背中に、カナタは顎をつまんだままの格好で目を向けて、呟いた。
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捜査一課の刑事、望月 千桜《もちづき ちはる》は雨の中、誰かを追いかけていた。誰かを追いかけているのかも思い出せない⋯。路地に追い詰めたそいつの頭には・・・角があった?!
捜査一課のチャラい刑事と、巫女の姿をした探偵の摩訶不思議なこの世界の「陰《やみ》」の物語。
時の呪縛
葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。
葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。
果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/mystery.png?id=41ccf9169edbe4e853c8)
隅の麗人 Case.1 怠惰な死体
久浄 要
ミステリー
東京は丸の内。
オフィスビルの地階にひっそりと佇む、暖色系の仄かな灯りが点る静かなショットバー『Huster』(ハスター)。
事件記者の東城達也と刑事の西園寺和也は、そこで車椅子を傍らに、いつも同じ席にいる美しくも怪しげな女に出会う。
東京駅の丸の内南口のコインロッカーに遺棄された黒いキャリーバッグ。そこに入っていたのは世にも奇妙な謎の死体。
死体に呼応するかのように東京、神奈川、埼玉、千葉の民家からは男女二人の異様なバラバラ死体が次々と発見されていく。
2014年1月。
とある新興宗教団体にまつわる、一都三県に跨がった恐るべき事件の顛末を描く『怠惰な死体』。
難解にしてマニアック。名状しがたい悪夢のような複雑怪奇な事件の謎に、個性豊かな三人の男女が挑む『隅の麗人』シリーズ第1段!
カバーイラスト 歩いちご
※『隅の麗人』をエピソード毎に分割した作品です。
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