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第二章 怪しい潜入者たち 2

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 夏目なつめナオトは、うんざりしたように青空を見上げていた。丁度、太陽は真上にあり、自分の影が足元に、小さないびつな円を描いていた。
「にしても、この暑さは異常だな」
 まだ五月というのに、気温は三〇度にせまる勢いであった。平均気温と比較しても、今日は特別暑く、ナオトが閉口したように、まさに異常であったのである。なんでも、ヒートアイランド現象や温室効果ガス、強いラニーニャの相乗効果であるという。ラニーニャとはスペイン語で「女の子」を意味するらしいが、まったく、これほど聞き分けのない女の子には、大好物でも与えておいて、おとなしくしていて欲しいものであったが、そんな便利なものは、残念ながら人智を超えていた。それに、ヒートアイランド現象や温室効果ガスに関していえば、なかなかに難しい。宇宙船地球号といったのは誰であったか、最近見たドキュメンタリー番組で語られていたが、どうも、忘れてしまったようである。
 暑さ寒さも彼岸までというが、この気温がまだ三ヶ月以上も続くかと思うと、夏が嫌いではないナオトであっても、いささか食傷気味になってしまう。温暖化か寒冷化かは知らないが、確かに気候は年々異常であるように思えた。その異常が常態化すれば、それはすでに異常ではなくなる。そんな日が、いずれやってくるかと思うと、暗澹たる気分になってしまうのであった。
 日なたにずっといると、頭がくらくらしそうになる。ひとまずナオトは、アーケードの陰に移動した。視線をひとりの男の背中に固定したまま。
 対象は、ナオトの胸ポケットにしまわれている写真に写っている若い男であった。名前は、風間慶一という。二十歳の大学生であった。
 この日ナオトは、朝早くに東都大学の門をくぐって、大きな講堂へ入った。そこで慶一の姿を探したが、残念なことに見つからなかった。適当に座って、しばらく周囲を観察していると、突然、ひとりの女子大学生に声をかけられたのである。
「おはよう。あなた見ない顔ね、どの学部?」
 ナオトはごまかすために、頭の中の引き出しを覗いてから口を開いた。
「文学部史学科だけれど」
「ふーん、そうなんだ。でも、見ない顔ね?」
 どうやら疑われているようである。ナオトは、その女子大生の瞳をじっと見つめた。勝ち気な女の子だと思った。その女子大生もナオトの瞳をじっと見つめていたからである。このまま黙って見つめ合っているわけにもいかなかったので、ナオトは平静さを装って反論した。
「これほど広大なキャンパスだ、顔を見たことがない人のほうが多いと、おれは思うけれどね。現に、おれも君のことは知らなかったし、君もおれのことを知らなかった。だろう?」
 その女子大生は、少し考えこむように顎を指でつまんで、天井の隅に目を向けていた。しばらくそうした後、納得したようにこくりとうなずいて、ようやく眉を開いた。
「それもそうね。わたしは優木瑞稀ゆうきみずき。専攻は、あなたと同じ文学部史学科の二年生よ」
 あらたまって自己紹介されたので、ナオトは反射的に名乗ってしまった。
「おれは夏目ナオト、三年生だ」
 ナオトが差し出した手を、瑞稀という名前の女子大生は掴んだ。なにか気になったような表情でナオトを見つめていた。
「でも、同じ学部なのに、なんで今まで一度も顔をあわさなかったのかしら?」
「それは、まあ、二年間のあいだに効率良く単位を取得していたからかな」
「ふーん」
 やはり疑われているようである。ナオトは脳をフル稼働させて言葉を紡ぎ出した。
「バイトもあるしレポートもまとめなくちゃならないし。それで、最近はあまり大学には来れてなくてね」
「まあ、忙しいってことはわかったわ」
 ようやく瑞希は手を離してくれた。握手を終えると、瑞稀は、右耳の辺りの髪を後ろへ梳いた。ナオトが語った言葉を信じてくれたようなので、ナオトはその線に乗ることにした。
「そうなんだ。毎日忙しくてね、昨日はそっち、今日はこっち、明日はあっちってね。そのうえ、単位を落とすわけにもいかない。遊ぶための時間をつくることもできやしない」
 ナオトは、嘘八百の不平不満を並べたてた。しかし、瑞稀には疑う理由が見つからなかったようで、妙なことに、同情されてしまった。
「ふーん、そうなんだ。三年生って大変なんだね」
「そう、大変なんだよ」
「それなのに、今日はなんで学校にいるの? 今日はこっちに行かなきゃならないんでしょう?」
「ああ、そうだな」
 ナオトは少し身構えた。この瑞稀という名前の女子大生は鋭かった。ナオトの発言の矛盾に気がついて、それを指摘したのである。偽りをごまかすために、少々饒舌になりすぎたかもしれないと悔やんだが仕方がない。ナオトは、更に嘘を重ねなければならなくなった。
「こっちは、そうだな、だから今、こうして大学にいて、君と出会い、話をしている、ということかな」
「なんで?」
「なんでって、今日はバイトのシフトを入れてなかったし、まとめたレポートの提出ついでに講堂を覗いてみたんだが」
「ふーん、そうなんだ」
 瑞稀の視線が、ナオトの顔に向けられていた。ナオトは疑われまいと、笑顔を作り続けなければならなかった。しかし、無理をすると、どこかに綻びか生じてしまう。作り笑顔の限界を感じた頃、ようやく瑞稀は屈託のない笑顔を見せた。
「まあ、いいわ。よろしくね、先輩」
「ああ、よろしく。後輩」
 反射的にとはいえ、ナオトは、真正直に名乗ったことを少し後悔していた。迂闊にもほどがあった。他の三年生や教授やらに自分のことを尋ねられては、大いに困るのである。それに、瑞稀に質問攻めにされたら、更に嘘で糊塗しなければならない。それは、至難の業に思えた。しかし、名乗った以上は仕方がない。長居するわけにもいかず、瑞稀の前から立ち去ろうとした。
「ああ、そういえば、大切な用事があったんだ。いかんいかん」
 ナオトの口調は、少々どころか、かなりわざとらしかった。椅子から立ち上がり、出口に向かって歩いていくと、幸か不幸か、講堂に風間慶一が入って来た。ナオトは、慶一が座った席の真後ろに向かうと、大胆にもそこに腰を下ろした。すると、瑞稀が後を追ってきて、ナオトの隣にちょこんと腰を下ろした。
「ん? どういうつもりかな」
 怪訝な表情でナオトが尋ねると、瑞稀は当然のように応えた。
「どういうつもりって、それ、わたしの台詞だよ。大切な用事はどうしたの?」
 確かに瑞稀のいうとおりであった。だが、ナオトは仮にも探偵である。負けてばかりはいられなかった。
「大切だけれど急を要することではなかったことを思い出してね。それと、この講義の講師のファンなんだ。田名部たなべ教授の話は、いつ聞いても面白い」
「ああ、それ、わかるな。わたしも田名部教授の講義は面白いなって思う。それに具体的でわかりやすいし」
「そうそう」
 全くの嘘偽りだが、ナオトは、頭の回転が遅いほうではなかった。適当に会話をしているが、それは、前もっておこなっていた情報収集の賜物であったのである。風間慶一の専攻科目を調べていたし、ひと通り、関連のありそうな講師の名前と顔を頭に叩き込んでいた。下調べはついていたのである。
「でもさ、なにかは知らないけれど、忙しいからって、そっち、こっち、あっちばかりしていてもいいの?」
「ん、まあ、それはそうなんだが。ちょっと別件で煮詰まっていてね。それで、頭のリフレッシュを兼ねて講義を聞いてみようと思ったんだ」
「ふーん。色々と大変みたいね」
 瑞稀は、どうやらあけすけな性格のようである。だが、嫌味には感じないし、悪気がないのもわかった。しかし、このまま瑞稀に深く関わるのは危険であると感じた。この講義が終われば、ナオトはひとまず、大学を出ることに決めた。
 実はナオトは、現在大学休学中である。大学に入ってはみたが、どうにも打ち解けられなかった。知識欲には飢えてはいたが、もともと学業としての勉強は好きではなかった。大学へ入れてくれた両親には感謝していた。申し訳なく思っていた。なにか欲しいものがあるわけではなかったが、漫然とコンビニでアルバイトに励んでいたが、どうも違和感を拭いきれなかった。ここも自分の居場所には思えなかった。そんな頃に、偶然、『四季』の看板が目に止まったのである。
「喫茶? 探偵?」
 それは、偶然だったのであろうか。なにかに吸い寄せられるように、ナオトは、喫茶店『四季』の扉を開いた。ナオトを迎えたのは、マスターの四季ゲンイチロウとチャラい春海キョウジ、機械ヲタクの秋津あきつカナタ、三色メッシュの冬木シオリの四人であった。名前を知ったのは後のことであったが、いつも客はキョウジだけであったと思っていた。
 そんな不思議な喫茶店に、気がつけばナオトは、毎日通うようになっていた。ある日、藪から棒に、ナオトはゲンイチロウに声をかけられた。
「毎日毎日、やることもなくぶらぶらしているのなら、わしらに力を貸してみないか? 少なくとも、暇を持て余すような生活からは抜け出せる、かもしれんぞ」
 喫茶店『四季』には別の顔があった。探偵事務所としての『四季』である。ゲンイチロウは、実働部隊がキョウジひとりと、サポート役がシオリとカナタのふたりでは心もとないこともあって、普通に一般教養のある人材を探していた。ナオトは、そんなゲンイチロウの眼鏡にかなう若者であった。なにより、優しそうで、大勢の人の中では埋没してしまうような普通の容貌であることが、特に気にいっていたのである。そんなことを知る由もないナオトは、突然のことに、妙な勧誘かと勘違いした。
「この喫茶店でバイトをしろっていうことですか? あいにく、おれはすでに他所でバイトしています。掛け持ちが出来るほどの余裕はないですよ。それに、お言葉を返すようですが、ここが流行っているようには、とても思えないのですが」
 ゲンイチロウは、カウンターにいるシオリと目を見交わして豪快に笑った。カウンター席についていたキョウジも、肩を揺らして笑っているようであった。
「笑われるようなことをいいましたか?」
「いや、そうだな、お前さんのいうとおり、喫茶店としては、とても流行っているようには見えんだろうな。表から見ればな」
「どういうことでしょう」
 ゲンイチロウとシオリは笑顔を絶やさなかった。理由がわからなかったナオトは、少し気分を害した。眉をひそめたナオトを見て、ゲンイチロウが再び豪快に笑った。
「この喫茶店はな、わしの道楽なんだ。できれば、道楽だけで食っていけられればいいんだが、そういうわけにもいかなくてな。だから本業は別にある」
「探偵、ですか?」
「ほう」
 キョウジがシオリと目を見合わせて、感心した。ゲンイチロウは、かすかに驚いたように目を見開いてから、満足そうにゆったりとうなずいた。
「店の看板に書いてありますよね。喫茶探偵って」
「気がついたか、夏目ナオト」
 ナオトは目を見張った。なぜ自分の名前を知っているのか、正直、驚きを禁じ得なかった。しかし、すぐに理解した。探偵というくらいならば、自分のことを調べたのであろう、と。そのため、驚きは短かった。しかし、いい気はしなかったし、理由がわからなかった。
「一歩間違えるとストーカーですね」
「いやいや、それにはあたるまい。おれたちはお前さんに危害を加える気は、さらさらないんでね」
 キョウジが横を向いて、ナオトに目を向けていた。今まで客とばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。ナオトは、いぶかしそうな目をキョウジに向けた。
「理由を教えてもらえますか? なぜ、おれのことを調べたのか」
「お前さんの顔にはっきりと書いてある。『つまらない、つまらない。この世はなんとつまらないのか。自分はなんてつまらない人間なのか』ってね」
 ナオトは本心を悟られまいと、表情を消した。
「質問の答にはなっていないですね」
「そうだね。しかし、おれのいったことは否定しないんだな?」
 キョウジは、端正な口元に微笑を漂わせてナオトの目を見つめた。
「そんなに、つまらなそうにしてましたか?」
「今は違うね、お前さんはおれたちに興味を抱いている。『こいつらは何者なんだ。なにが目的なんだ』とね」
 ナオトは、キョウジの目をじっと見つめた。
「そう見えますか?」
「そうにしか、見えないね」
 キョウジの言葉を受けて、ナオトは目を閉じた。おもしろくなかった。本音を知られておもしろくなかった。両手放しで、この世が素晴らしく美しいとは思えなかった。このチャラい若者のいうとおり、この世はおもしろくなかった。おもしろくもない世界で生きているのはおもしろくなかった。おもしろいと思うような生き方はしてこなかった。このつまらない、おもしろくもない世の中で、おもしろく生きられないかと考えていた。
「どうだ? 少なくとも、つまらない生活から抜け出したいと思うのなら、わしの手をつかめ。少なくとも、おもしろいと思えるような生活は保証してやろう」
 ゲンイチロウが差し出したゴツイ手をナオトは見つめた。それから目を転じて、ゲンイチロウの顔を見つめた。なにがおかしいのかわからなかったが、ゲンイチロウの目は明らかに笑っていた。
 ナオトは、ゲンイチロウの側にいるシオリに目を向けた。かわいい女の子だと思った。髪に赤と黄と青のメッシュを入れている。不思議な女の子だと思った。高校生くらいに見えた。
「君はなぜ、ここで働いているんだ?」
 ナオトは、自分がなぜそんな質問をしたのかわからなかった。どうやら、話を向けられたシオリも唐突で不思議に感じていたのかもしれない。それでもシオリは、真剣に考え込んだ末に答えた。
「あなたと同じように、生きていてつまらないと思ったこともあったけれど、店長がいったの、『つまらないと思っていても、なにもかわらない。まずはなにもかもを受け入れる。そして考え行動する。そうすれば、いつかは生きていることを実感できるようになるだろう』って」
「君は、実感しているのか?」
 シオリは、少しはにかむように笑った。
「どうかなー。でも」
「でも?」
「まだ、実感するまでではないけれど、充実しているのは確かよ」
「そうか」
 ナオトは、押し黙ったように考え込んだ。一度しかない人生だ、他人に迷惑をかけない範囲で生きるのを楽しむのも一興かもしれない。いつの間にかナオトは、ゲンイチロウの大きな手を掴んでいた。
「保証はしていただけるんでしょうね? おもしろい生活を」
 ゲンイチロウは、してやったりとでもいいたそうに、にやりと笑った。
「いや、悪いが前言は撤回する。実は、そいつは保証しかねる。すべては、お前さん次第だ」
「少しも悪いとは思ってはいないな」と思いながらも、ナオトはゲンイチロウの手を掴んでいる手に力を込めた。こうして、ナオトは喫茶探偵『四季』の仲間に加わったのであった。
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