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第参話.病麻呂が病麻呂になった理由

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 私は病麻呂と約束をした。

 幸せになるためには、まず自分のことを好きになってあげること。
 そしてそのためには、今まで押し殺してきた心の声に耳を傾け、やりたいことをやってみることが必要なのだと病麻呂は言った。

 ――麻呂と約束じゃ、ひな。そちはこの聖域でゆるりと過ごしながら、思うがままに振る舞い、自分を好きになる努力をせよ。そちが自分のことを愛せた時、内なる望みがきっと現れる。望みが分かったら麻呂に教えてくりゃれ。麻呂が必ず、そちの望みを叶えてやるからの。

 思うがままに振る舞う。

 それは決まりごとに縛られた私にとって難しいのではないかと思ったけれど、病麻呂の深い優しさが、恐怖に凝り固まった私の心を解きほぐしてくれた。

 私は親切なエルフに頼りながら、少しずつ自己表現をする努力をした。

「ねえ病麻呂。私もあなたみたいに足を伸ばして座ってもいいかな?」

「くふふふっ、もちろんじゃ! さ、ちこうよれ。麻呂と共にごろごろしようぞ」

 ある日のこと。

 畳の上に寝転がりながらお菓子をつまみ、病麻呂とパソコンで動画を見続けた。それはひどく行儀の悪いことに思えたけれど、両親の声は全く聞こえてこなかった。
 隣で寝るエルフが、私をしっかり抱えて頭を撫で続けてくれたからかもしれない。

 またある日のこと。

 寒色系の服しか着てはならないという両親の言いつけを、勇気を出して破ってみることにした。

「病麻呂、あの……。おっ、オレンジ色の服を着てみようと思うんだけど! 私に似合うかな?」

「ひな、そんな心配そうな顔をするな。そちならどんな色も似合うでおじゃる。橙でも何でも、その日の気分で好きな色を選べばいいでおじゃるよ」

 病麻呂は早速、魔法でオレンジ色のワンピースを着せてくれた。華やかなデザインのそれは私の体型にぴったりと合っていて、姿見の前で何度も何度も回りながらフリルが揺れるのを楽しんだ。ぱちりぱちりと指を鳴らす音と共に、顔にメイクが施されたり、頭に大きな花飾りがつけられる。

 魔法ってすごい、お姫様になったみたい。
 私の呟きを拾って、エルフがにこにこと笑う。

「ほおら、似合う似合う。まるで向日葵のようじゃ! 今日のそちは世界で一番可愛いぞ!」

 姫抱きにされながら甘ったるい褒め言葉をいくつもかけられる。病麻呂の称賛を受け取るうちにいい気分になってきて、今まで着れなかった分、これからは明るい色の服ばかりを着ようと決めた。

 せっかく明るい色の服を着ることにしたのだから、この長ったらしい髪も結んでしまいたい。髪を結んではいけないという決まりごとを破りたい。そうこぼすと、病麻呂は毎朝私の髪を結ってくれるようになった。
  
 姫カットと呼ばれるような形に整えられていた私の髪は、病麻呂によってポニーテールにされたり、三編みにされたり、くるくるかたつむりみたいに巻かれたりした。その結び方は綺麗とは言い難かったけれど、鏡の前で彼と過ごす時間は温かくて、甘くて、大好きだった。
  
「ひな、可愛い可愛い人間の娘。そちの髪は艷やかで美しいの、ずっと触っていたいでおじゃる。雛菊の髪は麻呂の髪と同じ色。丁寧に結ってやらねばな」

 髪を撫で梳かれながら、優しく抱きしめられる。背後から聞こえてくる彼の声がこそばゆい……。

「病麻呂の髪の方が綺麗だと思うけど。いい匂いもするし、さらさらしてるし」

「褒めてもらえると嬉しや、麻呂の髪もそちに結ってほしいものでおじゃる!」

「そしたらあなたの好きなお団子にしてあげる。病麻呂の髪も長いから、色々いじり甲斐がありそうだよね」
 
 他愛もない会話を交わす時間。彼から与えられる安らぎに口元が緩んでしまう。

「ふふっ……」

「ひな? 一体どうしたのじゃ。鏡を見ながら笑いおって」

 うなじに感じる風に開放感を覚える。
 もう心細さも、恐怖も感じない。

「ねえ。私ね、父さんと母さんの声をしばらく聞いてないの。あなたと一緒にいると、あの怖ろしい声が聞こえない。むしろ、あれをやりたい、これをやりたいって自分の声が聞こえてくるの。これってきっといいことだよね?」

「くふふっ……。そうじゃそうじゃ、いいことじゃ」

 病麻呂が穏やかに笑う。その美しい笑い声に、胸がとくとくと跳ねる。

「あのね、病麻呂の言う通りだった。勇気を出してやりたいことをやってみたら、幸せに一歩近づくことができた気がする。いつかは……いつかは、こんな自分のことも愛せるかな?」

「絶対に。そちは随分と明るくなったでおじゃる、心の声に従うままこれから先も過ごすとよいぞ」

 きっと生まれ変われる。
 どこへだって行けるし、何だってできる。

 病麻呂の優しい言葉が、私の中に沁み渡っていく。

 ああ、なんだ。髪を結ぶことも、好きな服を着ることも、案外何でもないことなんだ。誰に許しを請う訳でもなく、誰に謝るでもなく。したいように振る舞うことがこんなにも簡単で素晴らしいことだったなんて。

 そう気付かせてくれた病麻呂のことが、私は本当に……。

「大好き」

 鏡に映るエルフに向けてそう口にする。
 すると病麻呂はびくりと飛び上がって、朱色の目を大きく見開いた。

「えっ、えっ? す、好きっ!? も、ももっ、もっ、もしかして麻呂のことでおじゃるか!?」

「……そうだよ。病麻呂以外に誰がいるの?」

「好き、すっ……好き。ひなが麻呂をっ? はわわわわ……。どっ、どどどっ、どうすればっ!? こっ、こ、心の準備がまだ――」

 尖った耳をひくひく動かす病麻呂の顔は真っ赤だ。
 彼を困らせてしまったと思い、急いで口を開く。

「もう、そんなに焦らないで! 親切で優しくて、こんなに面倒見のいいエルフさんを好きにならない訳ないじゃない。兄さんよりも、病麻呂の方がずっとずっとお兄ちゃんみたい。ふふふっ!」

「…………お、お兄ちゃん……?」

 顔を真っ赤にした彼は、私の答えを聞いて大きな溜息を吐いた。そんな訳がないのに、病麻呂の仕草がどこか残念そうに見えて、複雑な気持ちが込み上げてくる。

(嘘。本当はお兄ちゃんだなんて思ってない。あなたのことは男性として好き、でも……)

 病麻呂は、きっと私のことを女性として見てくれない。彼は何かにつけて私のことを「人間の娘」と呼ぶ。その呼び方からは、私と彼の種族の違いを強く感じる。

 エルフである病麻呂が私を可愛がるのは、きっと人間がペットを可愛がるようなものだと思うから。
 だから、私は本当の気持ちを伝えることはしない。こんなに優しくしてもらえただけで、もう充分だから……。

(でも、好きだって言うくらいは許してね。いつ満月になるか分からないから、ここにいる間に思う存分あなたに甘えたいの)

 ――望みが分かったら麻呂に教えてくりゃれ。麻呂が必ず、そちの望みを叶えてやるからの。

(それなら、私の恋人になってよって頼めば……あなたは望みを叶えてくれるのかな?)

 浮かんだ邪な考えを振り払う。
 彼の好意を、こんな浅ましい感情で汚してはいけない。

「あのね、自分で感じるの。今までの私と今の私は違うって。このままやりたいことをやっていけば、いつか生まれ変われるはずだって。そう思えたのは病麻呂のお陰だよ。あなたは決して私を傷つけない、いつも励まして見守ってくれた。こんなに優しい、兄のようなひとと出逢えてよかった。……だから、あなたのことが大好き」

 白檀の香りがする身体に寄り掛かると、病麻呂は私をじっと見下ろし困ったように微笑んだ。

「大好き、か。愛い人間の女子おなごに斯様なことを言われるなど、長く生きてきて初めてのことでおじゃる。……複雑じゃ。だがどんな理由であれ、そちに慕われるのは嬉しや」

 朱色の瞳に光が渦巻く。
 私がぼんやりとその輝きを見上げると、病麻呂は指で私の唇を摩った。

「雛菊。可愛いひな。麻呂を好くと言うのならば、毎日その気持ちを麻呂に伝えよ。麻呂を存分に慕い、存分に甘えるでおじゃる。そちを幸せにできるのはこの病麻呂だけ。……芯までそれを思い知れ、然らば麻呂へ向ける感情もいずれ変わるであろう」
 
 唇を人差し指でゆっくりなぞられる。
 顔を近づけられ、目を覗き込まれる……。

「よいか、人間の娘よ。幸せになりたくば決して麻呂の傍から離れてはならぬぞ。何があっても。……約束じゃ」

 病麻呂の言葉が、頭の中に何度も何度も響く。
 不思議な強制力に私が頷くと、彼は楕円形の眉を下げ、にぃっと笑った。


 ――――****――――


 それからは、病麻呂に何かしてもらう度に「大好き」と伝えるのが日課になった。

 大きな体に抱きつきながら、白檀の香りがする胸に顔を埋める。そうすれば病麻呂がとても嬉しそうに笑うものだから、思う存分美しいエルフに甘えることにした。

 病麻呂はなお過保護になった。

 朝起きると、体調を案じる粘着質な和歌の束が枕元に置かれている。私のスリーサイズにぴったりとあった下着や服が、箪笥の中にぎっしり詰め込まれている。どこから調達してきたのか、私を退屈させないための本や漫画が座敷の中に揃えられる。

 時間をかけて髪を梳かれ、雑な形ながらもしっかりと結われる。毎日味の変わる三色団子を振る舞われた後は、病麻呂と手を繋ぎながら庭園を散歩する。

 自分の傍から決して離れるな。必ず目の届く場所にいろ。病麻呂は毎日毎日私にそう言い聞かせ、どこへ行くにも後をついてきた。トイレとお風呂と着替えと就寝の時間以外、私の傍にはエルフの姿があった。

 好きな色の服を着て、時折恋への憧れをこぼして、寝転がりながら漫画を読んだり、動画を観たり、走り回ったり、時々の話を聞きながら大笑いする。

 私はすっかりエルフとのふたり暮らしを楽しんでいた。

 ……次元の狭間に来てから半年ほどが経ったと思う。
 赤い月はまだ満ちない。満月になると思ったら次の日には三日月に戻っている、ずっとずっとその繰り返し。

 手元には月の形を記録したメモ書きがどんどんと溜まり続けている。いつ満月になるのかと病麻呂に尋ねても、彼は「あの月は気まぐれだからの」と適当に返すばかりだった。

 パソコンの日付表示も相変わらずおかしい。「10/1」から始まって一日ずつ過ぎていくと思えば、ある日を境にまた一日に戻ってしまう。
 訝しげにパソコンを見つめる私に気がついたのか、病麻呂はそんなに気になるならと魔法で日付を隠してしまった。

 病麻呂に、赤い月や帰り道のことを尋ねると不機嫌になる。

 温厚な彼らしくない怒りを堪えるような、それでいて寂しげな表情に口が重くなってしまう。頻繁に同じことを聞くのも気が引けて、あまり帰り道について質問しないようにしようと決めた。

 私は本当に元の世界に戻れるのだろうか?
 近頃、ずっとその疑問が消えない。

「まひるちゃん、元気かな」

 布団に寝転がりながら親友の名前を呼んでみる。まひるちゃんは姿を消した私をひどく心配しているに違いない。このままずっと次元の狭間で過ごしていたら、また一緒に大学に通うという約束が叶えられなくなってしまう。

(病麻呂、帰り道のことを聞くとなんであんなに落ち込むんだろう? もしかして、何か隠し事をしているとか? ……まさかね。隠したって何になるの? 私を次元の狭間に留めておいても、病麻呂のメリットは特になさそうだし)

 恩人であるエルフに対し疑うような気持ちを抱いてしまう。それがとても醜く思えて、心の淀みを無理やり外へ追い出してしまうことにした。

(月は気まぐれ。それなら、急に満月になることだってあり得るかもしれない。病麻呂と離れ離れになったら、二度と彼に会えないのかも……。それってすごく寂しいな。こんなに好きなのに、病麻呂に会えないなんて耐えられるのかな……?)

 目が潤む。まひるちゃんと大学に通いたい。けれど、病麻呂と離れたくない。自分が元の世界に帰りたいのか、帰りたくないのか分からなくなってしまう。

「…………はあ。つまらないことを考えてないで、明日何をするか決めちゃおう」

 メモ帳にやりたいことを書き出してみる。
 今日も病麻呂は格好良かったなんて考えながら、私はひたすら手を動かした。


 ――――****――――


 病麻呂はとにかく穏やかで優しい。どんな振る舞いをしても決して怒らない。

 ここに来てから約八ヶ月。毎日ちょっとしたわがままを言う度にもっとやれやれと急き立てられ、私はすっかり図々しい女になってしまった。

「やみまろー。今日はクレープが食べたい、クレープ! 魔法で出してよ。ね、おねがい!」

 公家装束をくいくいと引っ張りながらおねだりをする。すると病麻呂は「くれえぷ? それはなんじゃ」と首を傾げた。

「あのね、薄く伸ばした生地にたっぷりのクリームやいちごを乗せてぐるっと丸めるの。とっても美味しいんだよ」

 身振り手振りでクレープの特徴を伝える。食べたいものを一生懸命伝える私が面白かったらしく、彼は口元に手を当て上品な笑い声をこぼした。

「くふふふっ、愛い奴め。そんなにくれえぷとやらが食べたいのでおじゃるか? 可愛い可愛いひなの望みなら叶えてやらねばな、麻呂に任せるでおじゃる!」

 病麻呂がぱちりと指を鳴らすと、私の前に大きなロールケーキが現れた。苺入りのロールケーキはとても美味しそうだけれど、ロールケーキとクレープは別物だ。私がこれじゃないと伝えると、病麻呂は丸い眉をぴくりと動かして何度も指を鳴らした。

「むう。ではこうでおじゃるか?」

 お焼き、ブリトー、クリームコロネ、生春巻き、その他よく分からないもの。色々な食べ物が私の前にぷかぷかと浮かび上がる。数々の挑戦の末、病麻呂はやっと理想のクレープを作り出してくれた。

 柔らかな生地に包まれた真っ白なクリームとジューシーな苺。ずっと食べたかったものが目の前にある感動に、興奮の声が漏れ出てしまう。

「これだよこれ! これがクレープだよ! ありがとう病麻呂、だーいすき!」

「っ!! っそ、そうか……。くふふふふっ、麻呂もそちが大大大好きでおじゃるよ」

 尖った耳を動かしながらでれでれと笑うエルフが可愛い。
 よい香りがする体に飛びつき、勢いのままぎゅっと病麻呂を抱きしめる。滑らかな頬にキスをすると、病麻呂は顔を真っ赤にしながら急いで私を引き剥がした。

「ひぃっ!? ひな! 女子おなごがそう軽々しく男に接吻するものではないぞ!」

「えー? 何よ、前はもっともっとって喜んでくれたじゃない。私のキスが嫌になっちゃったの!?」

「嫌じゃない!! し、かし……。その、今のそちの格好はあまりにも恥じらいが……」

 病麻呂はちらちらと私の服装に目をやりつつ、ゆっくりと顔を背けた。

「私の格好?」

 ポニーテール。シースルーのトップスにショートパンツ。確かにいつもより露出度が高いかもしれない。でもこれくらいは普通だと思う。同年代の女の子たちもこんな格好をしていた気がする。

「もしかして似合ってないって言いたいの? なによ、自由にしていいって言ったのは病麻呂じゃない! もう着物とかワンピースは飽きたの! ここは別に寒くも暑くもないし、私は自分がしたい格好をするの!」

「ああああ違う違う! そう怒るな! っと、とにかくその格好で麻呂に抱きつくのは駄目じゃ! よいな!?」

 病麻呂が鼻を押さえながらじりじりと後ずさる。

(最近の病麻呂、何だか変。私がくっつくとすぐ離れちゃうんだから。前は抱きつくととっても喜んでくれたのに……)

 可愛いと言ってほしかったのに、喜んでほしかったのに。何だかつまらない気分になって、はいはいと適当な返事をした。

「ねえ。ずっと思ってたけどその公家装束、動き辛くないの? あなたも気楽な格好をすればいいのに」

「……麻呂はこれがいいでおじゃる。特に下半身がゆったりしていると助かるのでおじゃるよ」

「ふうん。それにしても病麻呂って本当にすごいよね、どんな服でも魔法で作れちゃう。着物だって下着だって、いつも私にぴったりのものを出してくれるし。もしかして私のスリーサイズをあらかじめ測ってたりして? なんてね、ふふっ」

「………………」

「急に静かにならないで! 怖いよ!」

 そわそわし始めたエルフを横目に、魔法で作り出された料理を座卓の上に並べていく。クレープをかじりつつ、私はお座敷に飾られた品々に目を遣った。

 病麻呂が過ごす広いお座敷には、様々な物品が飾られている。彼は貰ったり、また次元の狭間に流れ着いた品を、飾り棚の中に丁寧に並べていた。

(いつも思うけど、不思議なものがたくさんあるなあ)

 大きな石の球。魔法のほうき。空飛ぶ円盤。水晶の髑髏。パンクしたタイヤ。習字道具。ランドセル。人魚っぽい何かの化石。パソコン。知らない言語で書かれた古文書に、虹色に光る何かの葉っぱ。

 そして一番目立つところには、なぜかロケットランチャーが置かれている。

 私の世界にあるものも、ないものも、区別なく飾り棚に並べられている。時代も世界もばらばらなそれらを見て、自分は異世界に来てしまったのだと改めて思い知らされた。

「ねえ、病麻呂。そういえば、私の前にもここに来た人がいるんだよね? その人たちの話を聞かせてくれない?」

 飾り棚を指差すと、病麻呂は過去を懐かしむように朱色の目を細めた。

「そうじゃな。ひながこの聖域に迷い込む前、ここには何百もの者がやってきたのでおじゃる。おおよその者は一月もしないうちにすぐ帰っていった。出会って、願いを叶えてやって、そして別れる……その繰り返し。顔も名前も覚えておらぬ者ばかりじゃ。だが、ある公家の男とだけは共に数年を過ごした。その男との出会いによって、この次元の狭間は大きく変化したのじゃ。奴のことは、よーく覚えておる」

「公家の男? その人って、もしかして病麻呂に『やみまろ』って名付けた人?」

「左様じゃ。奴によって、名無しの森人は『病麻呂』となった」

 病麻呂は指で宙に文字を書いた。光で書かれた美しい字が、彼の前にふわふわと浮かぶ。

 大病病麻呂おおやみのやみまろ
 ……こうして見ると、中々圧を感じる名前だ……。

「かつて、ここにあるものは森だけだった。森人である麻呂は森しか知らぬ、ゆえに創り出すことができたのは、樹々が支配する薄暗い領域のみ。だが、奴は森だらけの景色を気に食わぬと言っての。弱っちい人間のくせしてこの高貴なる森人を顎でこき使い、自分好みの屋敷から庭園までを創らせたのじゃ」

「へえ、こんなに広いお屋敷から庭園までを? 大変だったでしょ」

「全くじゃ! だが奴の世界の話を聞くのは楽しかった。森しか知らぬ麻呂にとって、異界の話は心惹かれるものでおじゃった。家屋を建て、竹林を生やし、庭園を造り。そうしてこの次元の狭間は少しずつ彩られていったのでおじゃる。……それにしても、奴はひどく高慢な男での。魔法も使えぬ短命種族のくせに、奴は麻呂に向かって頭が高いと言い放ったのじゃ」

 鼻を鳴らしつつも、病麻呂は楽しそうに話を続けた。

「ここを訪れた他の者たちと違い、奴は決して麻呂に媚びることはなかった。だが、その姿勢は麻呂にとって好ましくもあった。奴は麻呂にとって初めての友でおじゃった。麻呂は日々男との蹴鞠に励み、共に狩りをし、友情の証に奴の服装や話し方を真似た! そちの世界では、公家は高貴なる者しか名乗れないのでおじゃろう?」

「そ……そう、だね……?」

「公家、それはつまり高貴なる者と同義! 神に愛されし高貴なる麻呂が装うに値するでおじゃる! 最初は苦戦したが、今ではあの男よりも麻呂の方がよほど公家らしく振る舞えている自信がある。どうじゃ雛菊、麻呂のお公家様っぷりは?」

 病麻呂はふふんと胸を張った。

 ……なるほど、こうしてインチキ公家エルフが出来上がったのか。

 高貴なる者は俗っぽいインターネットに熱中しないのではないかと思ったけれど、彼があまりにも得意そうに笑うので何も言わないでおいた。

「ところで。どうしてお公家様からやみまろなんて名前をつけられたの? かなり特徴的な名前だと思うんだけど」

 生春巻きをつまみながら質問する。
 すると病麻呂は、棚に飾られたロケットランチャーを指差した。

「奴が断りもなく屋敷を空けたことがあった。その日は満ち月に差し掛かる頃での、世界を繋ぐ道が拓こうとしている時でおじゃった。麻呂は奴が別れも告げず、こっそり帰ろうとしているのではないかと考えた。あれだけ親切に可愛がってやったのに、麻呂をひとり置いていくだなんてなんと薄情な男なのじゃ! 麻呂を裏切るならば帰り道なんて無くなってしまえばいい。……そう思った麻呂はひどい癇癪を起こし、あのろけっとらんちゃーで森から竹林から、目につくもの全てを焼き払った。数刻の後に煤けた男が現れて、それは誤解だと分かったがの」

「……ええ……?」

 温厚な病麻呂が、そんな極端な行動に出たなんて信じられない。私が口を開けると、彼はばつが悪そうに頭を掻いた。

「なんと悪い尖り耳じゃ。過度な寂しがりだとは思っていたが、一時の怒りで森を丸ごと焼き払うなど正気の沙汰ではない! そちはひどい癇癪の病を患っておる、まるで大病病麻呂おおやみのやみまろじゃ……。狩りから戻った公家の男はそう怒りをあらわにした。……という訳で、麻呂は『病麻呂』となったのでおじゃる。いやあ、そちに若気の至りを話すのは恥ずかしや」

 病麻呂はひとつ笑った後、楕円形の眉を悲しそうに下げた。

「結局、奴も他の者たちと同じように元の世界に帰ってしまったがの。それから、麻呂はずっと独りでおじゃった」

「…………やみまろ……」

 そっと手を握られる。病麻呂は私の手のひらをなぞりながら、静かな声で問いかけてきた。

「ひな。麻呂の雛菊。可愛い可愛い人間の娘よ。……そちも、元の世界に戻りたいと思うか?」

 朱色の目に陰が過ぎる。
 帰りたいのか、帰りたくないのか。泣く親友の顔と寂しそうなエルフの顔が交互に浮かんできて、はっきりした答えを返すことができない。
 
「ここは居心地がいい。大好きな病麻呂と一緒に過ごせるのは幸せだと思ってる。……でも、すぐに帰れる人たちがいる中で、どうして私は中々帰れないんだろう。なんで月が元に戻っちゃうんだろうって考えることは、あるよ……」

「くふふっ。さあ、なぜじゃろうな……? 月は気まぐれ、誠に困ったものでおじゃる」

 顔を覗き込まれる。光渦巻く目にじっと見つめられながら、頬を優しく擦られる。

「……ひな、麻呂とこれだけは約束してほしいのじゃ」

 病麻呂の顔がゆっくりと近づいてくる。
 耳に生暖かい吐息がかかって、背にぞくぞくしたものが走るのを感じた。

「麻呂は目をかけた者に裏切られることが何よりも好かぬ。麻呂を兄と慕う、愛い雛鳥のような娘であれば尚更。たとえ道が拓いたとしても、麻呂に断りなく帰ることは許さぬぞ。そちは来る時から帰る時まで、常に麻呂の傍にいるのじゃ。言いつけを守らねば、麻呂のろけっとらんちゃーが暴れまわることになるやもしれぬぞ? くふふっ……」

「えっ? う、うん……」

「麻呂から離れるな。麻呂以外の者に耳を貸すな。いつも麻呂の目の届くところにいろ。よいな?」

 声が硬い。どこか異様な雰囲気に呑まれる。病麻呂から放たれる暗い空気をごまかしたくて、私はわざと明るい声を出した。

「もう、何を心配してるの? 大好きなエルフさんを放って勝手に帰るなんてことしないよ! 私、そこまで恩知らずな女じゃない。帰る時になったら、きちんとお世話になりましたって挨拶するよ」

「……それなら安心でおじゃる」

「ほら病麻呂! せっかくのお焼きが冷めちゃうよ。温かい方が美味しいからさ、早く食べよう? はい、あーん」

 病麻呂の雰囲気が柔らかくなっていく。彼の口にお焼きを運びながら、私は病麻呂の言いつけについて考えた。

 ――麻呂から離れるな。麻呂以外の者に耳を貸すな。いつも麻呂の目の届くところにいろ。

(かつてのお公家様が言った通り、病麻呂って過度な寂しがり屋なのかもね。でも、なんで病麻呂はいつも同じようなことばかり言うんだろう?)

 自分の傍から決して離れるな。必ず目の届く場所にいろ……彼は毎日毎日そう言い聞かせてくる。

(他に行くところなんてないのにね。病麻呂は何が不安なんだろう?)

 クリームコロネを勧められる。粉砂糖がたっぷりかかったそれを頬張りながら、私は使い込まれたロケットランチャーを見つめた。
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