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After.花図鑑
Aft5.野原薊
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ある日、ヴィオラは同僚のオークにこっそりと話しかけられた。
「なあヴィオラ、お前はよく楽しそうに働けるよなあ。いつもあいつから冷たい言い方をされてよ、嫌になることはねえのか?」
「あいつ……?」
「おい、分かるだろ! ディステルだよ! あの眼鏡野郎、いつもお前に嫌味を言うだろうが」
小声で話すオークの男に向かって、ヴィオラはゆっくりと首を横に振った。
「厳しい人だと思うけど、嫌になったことはないわ。ディステル様は優しい人よ。私の傷を治してくれるし……」
「はあ? 優しい人だあ!? ……まあ、確かにお前に対してはそうかもしれねえな。あの野郎、俺らが怪我したって一度も治してくれたことはねえぞ。お前、あの眼鏡野郎に贔屓されてるぜ」
「え……? そうかな?」
「ああそうだ! あのエルフ、仕事する振りしてお前に男を近づけさせないように手回ししてるしよ、お前のことが相当お気に入りなんだろうさ」
「手回し……?」
ヴィオラが首を傾げると、オークの男は気に入らなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「言葉通りだよ! あいつはお前を囲い込もうとしてやがる! おいヴィオラ、気を付けろよ! ハーフエルフたってお前は可愛い顔してるし、そのうちあの眼鏡野郎に食われて――」
「私語は慎みなさい、オーク野郎!」
「げえっ、ディステル様!」
オークとヴィオラの間に、音もなくディステルが転移してきた。ディステルは慌てるオークの男を乱暴に追い払った後、背の低いヴィオラをじっと見下ろした。
「あなたもです、リローラン。今は仕事中でしょう。私語は慎むように」
「は、はい……! すみません!」
「ふん。……優しい人ですか。私のことをそんな風に思っていたとはね」
ヴィオラには聞こえないくらいの小さな声で呟き、ディステルは彼女の顔をじっと見つめた。
「……? あの……?」
「あれだけ突き放したのに。あなたは間抜けで……そして変わっている」
首を傾げるヴィオラに柔らかさのある視線を向けた後、ディステルは静かにその場から消え去った。
大植物園で働く職員たちには専用の寮が用意されている。
植物園で働き始めて以来、ヴィオラはその寮でずっと暮らし続けていた。
暮らしていくのには不便な位置にあることと、仕事場と隣接した所に住むのは気が進まないということで寮に入る者は殆どいなかったが、ヴィオラは緑と花々に囲まれた物静かな寮を気に入っていた。家族、そしてレントやオリヴァーとの交流を続けながら、ヴィオラは植物に親しむ穏やかな生活を送った。
ヴィオラは寮で過ごす私的な時間においてもディステルの姿をよく見かけた。広い寮であるにもかかわらず、住んでいるのはヴィオラとディステルの二人だけ。彼女が台所や図書室に向かえば、そこには大体ディステルの姿があった。
ディステルは自分専用の温室で、熱心に何かを育てているようだった。
温室には遮蔽魔術が施されているため、外から中の様子を窺い知ることはできなかったが、ディステルは日々薔薇の交配についての本を読み進めていた。きっとあの中では彼の手によって様々な薔薇が育てられているのだろうと、ヴィオラは温室に興味深い視線を送った。
純血のエルフの男と、特別な力を何も持たないハーフエルフの女。
普通であれば深く関わり合うことのない二人だが、緑に溢れた寮の中で少しずつその距離を縮めていった。
二人は度々食事を共にした。ある日、夜遅く寮に戻ってきたディステルに軽い食事を出したことがきっかけで、ヴィオラは給金を上乗せするからもうひとり分の食事を作っておいてほしいと彼から頼まれた。
ディステルが用意する果物や野菜を使って何品か作ること。それがヴィオラのもうひとつの仕事だった。
ディステルはいつも黙々と食事をした。
ヴィオラは茶を飲みつつ、目の前のエルフをそっと見つめた。
「ディステル様。あの……美味しかったですか?」
ヴィオラが問いかけると、食事を済ませたディステルは淡々と答えた。
「美味しくなければ食べません。いつも完食しているでしょう」
ぶっきらぼうにも捉えられる回答だったが、ヴィオラはディステルの声に優しさのようなものを感じた。
「ふふ、そうですか。今日の食事もディステル様のお口に合ったようで良かったです」
「っ……」
ヴィオラが満面の笑みを向けると、ディステルは長い耳をひくひくと動かし咳払いをした。
「あー……、こほん。リローラン、あなたは随分と料理が得意ですね。今まで誰かに作ってきたのですか?」
「はい! 家族と……あとオリヴァー様に!」
「オリヴァー様? なぜ?」
「え? 彼のお屋敷で暮らしていたことがあって――」
「何だと? ……詳しく話しなさい」
ディステルは手に持ったフォークを握り締め、低い声を出した。
ヴィオラはディステルの反応に首を傾げながら、家族と共にオリヴァーの屋敷の一室を借りながら大学に通っていたことを話した。オリヴァーの屋敷に住んでいた頃、自分と家族の胃腸を痛めてしまわないように率先して調理を引き受けてきたのだと伝えると、ディステルは深く息を吐いた後、静かにフォークを皿の上に置いた。
「ああ……そういうことですか。家族とも一緒に暮らしていたのですね。……安心しました」
「ふふっ! オリヴァー様と二人きりで暮らしていたら、とてもお屋敷が片付きませんから。オリヴァー様は優しい人だけれど、とにかく掃除も料理も出来ないんです。特に料理は酷かったなあ」
ヴィオラがどれほどオリヴァーの料理が酷かったか説明すると、ディステルは大きな声を上げて笑った。
「くくっ……あはははっ! あのプライドの高いオリヴァー様も苦手なことがあるのですね? 普段あんなに自己陶酔しているのに、料理も掃除も全く出来ないなんて想像がつかなかった!」
ディステルは面白そうに顔を綻ばせた。その笑顔は会話相手への親愛の情を示すものに見えて、ヴィオラは頬を染めて彼を見つめた。いつも冷静なディステルが顔を綻ばせている。ヴィオラは恋い焦がれる男の笑顔に、胸が大きく跳ねるのを感じた。
(素敵な笑顔……こんな風に笑うんだ)
ヴィオラがじっとディステルを見つめると、彼は笑うのを止め気まずそうに俯いた。
「……何です? そう人の顔をまじまじと見るものではありませんよ」
「あ……すみません。でも、ディステル様がそんな風に笑ったところを初めて見ましたから、何だか嬉しくて。あなたともっと仲良くなれた気がします」
ディステルは白銀の目を瞬いた後、ばつが悪そうに俯いた。
「なぜ嬉しいと思うのです? 私はあなたを散々突き放して馬鹿にしてきたでしょうに。そんな男と仲良くしたって仕方がないでしょう……」
「ふふっ……ディステル様はいつも私の傷を治してくれますから。優しい人とは仲良くしたいんです」
ヴィオラは花が咲くような笑みをディステルに向けた。
ディステルは僅かに口を開き、彼女の笑顔をぼんやりと見つめた。
「……あなたは本当に変わっていますね」
寂寞の地に降る冷たい雪のような瞳に、確かな温度が宿る。
心を裏側を撫でくすぐられるような温かみの込もった目を向けられ、ヴィオラはまた顔を赤くした。
日々交流を重ねるうちに、二人の距離はどんどんと縮まっていった。
ディステルはヴィオラの前で感情を露わにすることが増えた。
ヴィオラの話に微笑みながら相槌を打ち、彼女が自分以外の男と話せば、怒ったり酷く不安そうな顔をした。
いつの間にかヴィオラの周囲からは、オークの同僚もその他の同僚も姿を消した。見慣れた姿がないことに首を傾げつつも、彼らはきっと別の区画で働いているのだろうと思い、ヴィオラは独りで植物の世話を進めた。
ディステルはヴィオラの手に傷が付けばすぐ飛んできて、滑らかな肌に痕が残らぬようにと熱心に治癒魔法を施した。そしてそれ以上肌が荒れてしまわないようにと、毎夜毎夜ヴィオラに手ずから軟膏を塗りこんだ。
手首から指の一本一本まで、軟膏を乗せたディステルの指がゆっくりと這う。掌を執拗になぞり上げられる感触にヴィオラが身体を震わせると、ディステルは嬉しそうに笑った。
日々ディステルとの生活を送るうち、彼の長い髪を結うのはいつの間にかヴィオラの役目になった。
腰まである白銀の髪を丁寧に梳き、高い位置でひとつに結わえる。自分の髪に指を通す女に、ディステルは鏡越しにとろりとした視線を送った。
そして、ヴィオラの薄紫色の髪もディステルによって丁寧な手入れを施された。
ディステルは髪の手入れをする際、ヴィオラの首筋や敏感な耳にそっと指を這わせた。ヴィオラがくすぐったさに高い声を上げると、ディステルは顔を紅潮させ、何度も何度も耳に触れようとした。
ヴィオラは日々の礼にとディステルからあらゆるものを手渡されるようになった。
服、装身具、化粧品。数多の品を受け取る内に、いつの間にかヴィオラが纏うものは、全てディステルが用意したものになった。
どこか異常さの滲む生活。
だが、それを指摘する者はヴィオラの周りに誰もいなかった。
寮での二人暮らし。
植物園で働いている時も、ヴィオラに声を掛ける者はディステルしかいない。
態度を変えたディステルに少しの違和感を抱きつつも、ヴィオラは彼に対して強い危機感を持つことはなかった。ディステルとの生活は、自分と恋い焦がれる王子が、両親のように仲睦まじく過ごしているという甘い想像とぴったり重なった。胸に感じる強い高揚が、ヴィオラの危機意識を麻痺させた。
ディステルが取る行動は大胆なものになっていった。
ある肌寒い夜にヴィオラが体調を崩してから、ディステルはヴィオラの寝台に潜り込み、彼女を抱きしめて眠るようになった。ヴィオラの華奢な身体はディステルの大きな身体にすっぽりと包まれ、彼女はディステルに身体を温められながら夜を過ごした。
ヴィオラが目を覚ますといつも隣には美貌の男がいて、ディステルはヴィオラの髪を撫で梳きながら甘い声で挨拶をした。
ヴィオラの唇や肌が乾燥に荒れてしまった時は、植物園の花々から採取した芳香のある蜜を指に取って、ディステルは彼女の白い肌にゆっくりと手を這わせた。
どこか淫らさを帯びるその手付きにヴィオラが小さく喘ぐと、ディステルは目を潤ませながら彼女の反応を食い入るように観察した。
そうして、長い長い月日が経っていった。
過ぎる月日の中で色々なことが変わっていった。ハーフドワーフの母は天に旅立ち、兄と慕うレントは中央政府を辞め、かつての同僚たちは皆植物園から姿を消した。
だがディステルとヴィオラが送る甘い生活だけは、ずっと変わることがなかった。
――――――――――
強力な遮蔽魔術が施された広い温室の中では、数多の薔薇が育てられている。
ディステルはその内の一本に近づき、『すみれの妖精』と書かれた札をなぞった。
「もう少しだ。もう少しで完成する」
水色と白の花弁が混じる、淡い紫色の薔薇。
ディステルが長い年月をかけて作出したその薔薇は、ヴィオラを思わせる楚々とした美しさを放っていた。
「ああ、綺麗だ……。ヴィオラはこの薔薇を見たら何と言うだろうか? 花が好きな彼女は、私が作り出したこの薔薇を喜んでくれるに違いない。あの可愛い笑顔を私に向けてくれるに違いない……!」
ディステルは顔を上げ、そこにあるものを見てうっとりと微笑んだ。
温室の壁中に貼られた何万枚ものヴィオラの写真。日々の生活の中で盗撮し続けたヴィオラの姿。
写真に映るヴィオラをうっとりと眺めた後、彼は歓喜に胸を震わせながら紫色の薔薇をそっと撫でた。
「やっと、やっとだ! やっと彼女に贈るにふさわしい薔薇が出来上がる! ヴィオラ、あなたなら分かるでしょう? この薔薇を作り出すのにどれほどの労力が必要なのか。どれほど時間がかかるのか! あなたに贈るための薔薇を私はずっと作り続けてきたのですよ。どれほど私の愛が深いのか伝わるでしょう……?」
「ヴィオラ……。愛しいヴィオラ。あなたがいけないのですよ? 意地悪な私に近づいてこようとするから。私からいつまでも逃げないから……。あんなに可愛い笑顔を向けられたら、誰だっておかしくなってしまうでしょう?」
ディステルは目を瞑り、彼女と出逢った遠い過去のことを思い出した。
ヴィオラ=リローラン。
淡い紫色の髪と水色の目を持つハーフエルフ。
彼女は薔薇の花のように美しく、妖精のように可憐だった。
一目見ただけでヴィオラに心を奪われてしまったディステルは、必死に彼女を突き放そうとした。
純血のエルフが他種族の者と番い、その高貴な血を薄めてはならない。幼少期に施されたエルフ式の教育がディステルの心には深く染み付いていて、彼はヴィオラへの恋情と立場に板挟みになり、酷く苦しみ続けた。
だがヴィオラは真面目で我慢強く、どんなに酷い言葉をかけてもこの植物園から出ていこうとはしなかった。いつも楽しそうに働き、傷を治せば笑顔で礼を言う。自分を優しい人だなどと言う。ヴィオラの外見のみならず内面にも強烈に惹かれたディステルは、抱えた初恋が重いものになっていくのをはっきりと自覚した。
立場を利用してヴィオラに近づく男を全て追い払った。
日々、自分の魔力がたっぷりと込められた食材を渡し続けた。
彼女が強い危機感を抱かぬように魅了の魔法を掛け続け、異常な生活に慣れさせた。
全てはヴィオラ=リローランを得るために。
ディステルは今までの努力を思い出し、歪な笑みを浮かべた。
「彼女が混ざり血でも罪人の子でも関係ない。私はヴィオラを愛している! 番うなら彼女以外に考えられない! 彼女の何もかもが欲しい!」
「……初めてなんです、ヴィオラ。こんな気持ちになるのは、長く生きてきて初めてのことなんですよ……! だから責任を取ってくださいね。私をおかしくさせた責任を取って、これからもずっと、私と一緒に生きてくださいね……!」
紫色の薔薇からは美しい魔力の光が溢れ出ている。
ディステルはヴィオラへと贈るその薔薇に、ある禁呪を施した。
「もうすぐだ。私の魔力をたっぷりと染み込ませ続けたこの薔薇は……もうすぐで『契りの薔薇』となる」
植物学の権威であるエルフの学者から力を借りつつ、何十年もかけて育て上げたその薔薇は、見る者を魅了するような美しい花を咲かせている。愛しい女が紫の薔薇を胸に抱えている想像をし、ディステルは恍惚に顔を歪めた。
「……本当に大変だったんですよ、ヴィオラ。元々ある植物に禁呪を施すなど、誰もやったことがありませんでしたからね。ああ、早くあなたの笑顔が見たい。あなたと契りを交わし、その魂を永遠に私のものにしたい……!」
男の呟きが薄暗い温室に落ちる。
「可愛いヴィオラ。美しいヴィオラ。すみれの妖精のように愛らしいヴィオラ。あなたと番うのが楽しみだ……」
ディステルはヴィオラの名を何度も呼びながら、愛と狂気に塗れた想像を深めた。
――――――――――
ヴィオラは悩んでいた。
時折、大植物園に顔を出すエルフの学者が、ここ一年ほど頻繁にディステルのもとを訪れる。ディステルは遮蔽魔術の施された温室に彼女を招き、その中で長い時間を共に過ごしているようだった。
ヴィオラは女の学者に対して嫉妬心を覚え、そして静かに絶望した。
(ディステル様とあの学者さんは何を話しているのだろう? 何だかずるいと思ってしまう。私はあの温室の中に入ったことがないのに)
(……でもこんなことを思ってしまっては駄目よね。だって私とディステル様は恋仲ではないのだから。ただの仕事仲間だから……)
ディステルとはただの仕事仲間。それ以上でも何でもない。
ヴィオラはそう自分に言い聞かせたが、今までに彼と送ってきた甘やかな生活を思い出し目を潤ませた。
自分の中に根付いたディステルへの恋心は日々の生活の中ですっかり大きくなって、そして決して消えてくれそうになかった。
ふと、温室の中からエルフの女だけが出てきた。女はヴィオラの姿に気が付き、彼女のもとにゆっくりとした足取りでやってきた。
「あ、あの……?」
背の低いヴィオラをじっと見下ろし、エルフの学者はぽつりと呟いた。
「ディステルを見る目が温かい。……ハーフエルフさん。あなたはあの男が好きなのね」
「……え?」
「可哀想なハーフエルフさん、あなたも大変ね。あの男のことは諦めた方がいいんじゃないかしら? あなたが困るわよ?」
エルフの女は微笑んだ。
それは愛に狂った男に目を付けられたヴィオラへの同情であり、女にそれ以外の意図は全くなかったが、ヴィオラは彼女の微笑みを混ざり血である自分への嘲りと捉えた。
このエルフは内に抱えるディステルへの恋情をすぐに見抜き、忠告した。
混ざり血であるお前は、純血のエルフである彼と決して番うことはできない。
彼女は自分にそう言いたいのだと。
ヴィオラは目から涙が零れ落ちそうになるのを感じた。
(……胸が痛い)
ディステルは髪や肌に触れることはあっても、決してその先に進もうとはしなかった。
好きだと言われたことも、可愛いと言われたこともない。
所詮自分は彼にとって何でもない存在で、きっとこのエルフの女こそがディステルの恋人なのだとヴィオラは思い込んだ。
目の前にいるエルフに真相を確かめる気も起きず、ヴィオラは頭を下げ、急いでその場を後にした。
それから数日が経ったある日のこと、ヴィオラはこっそりと温室の扉に手をかけた。
その日はディステルが寮を空けている日で、ヴィオラは後ろめたさを感じつつも温室の中に何があるのか確かめようとした。
(いけないことだって分かってる。でも、この温室の中を見てみたいの。私とディステル様はずっと一緒に過ごしてきたけれど、彼はこの温室についてはぐらかしてばかりで私に何も教えてくれない。だから……!)
「何をしているのです!!」
ヴィオラが扉を開けようとしたその時、転移してきたディステルに素早く腕を掴まれた。
ディステルは酷く焦った様子で大声を出した。白銀の目は見開かれ、唇は僅かに震えている。絶対に見られたくないものが温室の中にあるようだった。
「ディステル様……! どうしてここに?」
「それはこちらの台詞です! 勝手に私の温室に入るのはやめなさい!」
滅多に見ることのない焦りの表情。腕を掴む手に込められる強い力。冷静さを打ち捨てた大声。
ヴィオラはそれを、ディステルからの明確な拒絶と受け取った。
(……ふふっ……。あの女は何度も中に入れるのに、私が入ろうとしたらそうやって止めるのね)
ヴィオラの心が、嫉妬と悲しみに染まっていく。
息を荒げるディステルを見上げ、ヴィオラは無理やり微笑んだ。
「……すみません。ディステル様はいつも薔薇の交配についての本を読んでいたから、もしかしたらこの温室で新種の薔薇が見れるんじゃないかって思ったんです」
ヴィオラが誤魔化すと、ディステルは手に込めた力を抜き深く息を吐いた。
「はあ……。あなたが喜ぶような珍しい薔薇ならそのうち見せますから。ですから勝手に入ろうとするのはやめて下さい。いいですね? 絶対ですよ?」
「……はい」
安心したように眼鏡をかけ直すディステルに謝った後、ヴィオラはとぼとぼと自室に戻った。
そして寝台の上に寝転がり、静かに涙を流した。
(……もう、諦めよう)
ヴィオラは顔を覆った。拭っても拭っても涙は次々と溢れ出てきて、彼女はとうとうしゃくり上げてしまった。
(ディステル様は私に手を出さない。可愛いと言ってくれたことはない。……あの女の人は温室に入れて、私は温室に入れなかった。私は彼の秘密に触れられない。……それが答えなんだ)
(ディステル様の姫君は私じゃない。きっとあの女だ。混ざり血の私は、彼の隣には立てない……)
仲睦まじい両親の姿を思い出し、ヴィオラはぽろぽろと泣き続けた。
――リアがハーフドワーフでも何でも関係ない。種族の差などどうでもいい。周りが何を言おうとも、俺にはリアしかいない。リアはたった一人の姫君だから……。
妻への真っ直ぐな愛情に満ちた父の言葉を思い出す。
(お母さんが羨ましい。私も……私も王子様に愛されたかったな)
百年以上抱え続けてきたディステルへの恋心は簡単に消えてくれそうになかったが、それでもヴィオラは彼を諦めるという哀しい決意をした。
――――――――――
ある休日、ヴィオラはレントの住む田舎街を訪ねた。
レントは王都から遠く離れた街に住んでいて、ヴィオラは転移の魔法が込められたタリスマンを用いて彼が住む教会へと向かった。教会の荘厳な扉を開けると、数多の神々を祀る祭壇が、外から射し込んだ陽を反射して眩く輝いた。美しい輝きの中に親しい姿を認め、ヴィオラはそっと微笑んだ。
「こんにちは、レントお兄さん」
レント神父。小麦畑を思わせる金の髪と、知性を湛えた深い灰色の瞳を持つほっそりとした体躯の男。
聖職であることを示す白い服を纏った彼は、綺羅びやかな笑みをヴィオラへと向けた。
レントはいつもヴィオラに優しく、そして彼女の様子に敏感だった。
ヴィオラを教会奥の部屋に案内すると、彼女が好んだハーブティーを差し出し、穏やかな声で切り出した。
「ヴィオラ。何かありましたね?」
「……うん」
レントの問いかけにヴィオラは頷き、そして静かに啜り泣き始めた。レントはヴィオラの淡い紫色の髪を慰めるように優しく撫でた。
「ここに来たのは僕に話を聞いてほしいからでしょう? ……ゆっくりで構いません。話してください」
「……失恋したの」
ヴィオラは鼻を啜りながらぽつぽつとレントに話した。
恋い慕う男は純血のエルフで、そしておそらく同族の恋人がいるのだと。
自分は百年以上その男に恋い焦がれ続けてきたが、彼は自分のことを何とも思っておらず、これから先一緒に働いていくことが辛くて仕方ないのだと。
「……あの人の傍にいたら、私はいつまでもこの恋を諦められない。もう大植物園を辞めてしまおうと思っているの」
「……ヴィオラ」
「王都には大植物園以外にも、いくつかの植物園があるわ。お母さんも戻ってきたし……一度故郷に戻ってゆっくりしてから、他の植物園で働こうかなって思って……」
ヴィオラの震えが混じる声に、レントは眉を下げた。
「あなたは国立大植物園で働くことを生き甲斐にしていたでしょう。本当に辞めてしまってよいのですか? 彼から恋人がいると聞いた訳ではないのでしょう? まずそのエルフの方と話をしてみては……」
ヴィオラは俯き、ゆっくりと首を横に振った。
「話をする勇気が持てないわ……。彼の口から恋人がいるなんて聞いたら、私はその場で泣き叫んでしまいそう! 臆病者だって分かってる。こんな理由で長年務めてきた職場を辞めるのはおかしいって分かってる! それでも……もう耐えられないのよ。穏やかに彼から離れて、穏やかにこの恋を忘れていきたいの……!」
啜り泣く女を痛ましそうに見つめた後、レントはあまりにも辛いようなら働く場所を変えなさいとヴィオラに言った。ヴィオラはその言葉に顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
「ヴィオラ。僕はこの前リアさんと会ったのですよ。リアさんは女神オーレリアへ熱心に祈りを捧げていました。家族に守護を、と。どんな道を選ぼうとも、あなたが笑って過ごせること……。それが一番です。僕もリアさんもあなたには笑っていてほしい。ずっと見守っていますよ。あなたの選択に幸あるように、オーレリアの加護があるようにと」
レントはヴィオラの白い手を優しく握った。
「……ありがとう、レントお兄さん」
ヴィオラは哀しく微笑んだ。
穏やかにこの恋を忘れていきたいと口にしたが、失恋の痛みはこれから先もずっと消えない気がした。
――――――――――
ディステルは酷く焦っていた。
(最近、ヴィオラに避けられている)
食事は用意しておいたから一人で食べてくれと言い残し、ヴィオラはすぐに自室にこもるようになった。
共に寝ることも、朝の髪結いも全て断られる。なぜ自分を避けるのだ、一体何があったのだと聞いても、彼女は水色の瞳に哀しみを宿し、何でもないと頑なに言い張った。
(ヴィオラの様子が変だ。まさか……。あの温室の様子を見られた? 私は彼女に嫌われてしまったのか……!?)
ヴィオラに触れられない寂しさで、ディステルはおかしくなってしまいそうだった。
(私を避けるなんて許せない! 私がどれだけあなたのことを好きなのか分からせてやりたい! ヴィオラ、あなたに嫌われてしまったのなら……力ずくで私のものにしてやろうか? 私から逃げられないようにしてやろうか……)
己の内にある狂気がとうとう表に滲み出そうになった時。
彼はヴィオラから唐突に切り出された言葉に、酷く打ちのめされた。
「…………何です、それ」
この仕事を辞めたい。
ヴィオラからの切り出しに、ディステルはぎりぎりと拳を握り締めた。
「どういうことです? いきなり辞めるだなんて……そんなことが許されると思っているのですか?」
「……すみません。ですがもう、ここで働くことはできません」
ヴィオラは静かに目を瞑った。
その様子に平常とは異なる強い意志のようなものを感じたディステルは、焦りながらヴィオラに問いかけた。
「っ……。何が不満なのです? 給金ですか? それとももっと休暇が必要なのですか? あなたが不満なことは全て無くすと約束しましょう! ですから撤回しなさい、ここを辞めるのは許さない!」
ディステルの視線から逃れるように俯き、ヴィオラはゆっくりと首を横に振った。ディステルはヴィオラの華奢な肩をぐっと掴み大声を出した。
「リローラン! 混ざり血のあなたが他の植物園で働けるとは思えない! この私が管理する植物園だからこそ、あなたは酷い差別を受けることなく働いていけるのですよ? なぜ辞めるのです! この大植物園で働くことが夢だったとそう私に言ったでしょう!」
「……すみません」
ヴィオラの目から一筋の涙が零れ落ちる。
彼女は潤む水色の瞳をディステルに向け、哀しそうに微笑んだ。
「この大植物園で働くことに疲れたのです。ディステル様が言った通り……魔力もない、ドワーフのような強靭な肉体も持たない私にとって、やはりここで働くのは負担が大きいものでした。ここを辞めて故郷の田舎に戻ろうと思います。戻って……誰かと結婚して穏やかに暮らしていこうと思います」
「……は?」
ディステルはごっそりと顔から表情を抜け落ちさせ、ヴィオラを食い入るように見つめた。
「何を……言っているのです? けっ……結婚?」
ヴィオラの隣に自分ではない男がいる。その想像はディステルの胸を拉げさせ、軋ませた。強い目眩にディステルはヴィオラの肩から手を離し、ふらふらと後ろに下がった。
「そんなのっ……許せない……許せない、許せないっ……。許せない! あなたが結婚なんて出来ると思っているのですか!? 私と共に寝て、私に髪と肌の世話をされて、私が贈ったものを身に着けるあなたが、他の男のもとに行けると思っているのですか!? 私の匂いが染み付いたあなたを引き取る男などいない! ずっとこの私の傍にいればいいでしょう!」
独占欲を滲ませるようなディステルの言葉に、ヴィオラは溜息を吐いた。
「やけにしつこいですね。……勘違いさせるようなことを言わないで下さい。あなたと私は恋仲ではないでしょう」
「……リローラン?」
「本当は……本当はずっと嫌でした。手にしつこく軟膏を塗られることも、肌に花の蜜を塗られることも、あなたの髪を結うことも、抱きしめられて眠ることもっ……。でも大植物園の管理者であるあなたに逆らったらどうなるか分からないから、受け入れている振りをしていたんです……」
ヴィオラは泣きながら嘘を吐き、ディステルから顔を背けた。
ディステルの白銀の目が大きく見開かれる。彼は震える声でヴィオラに縋った。
「嫌だった? 嘘、でしょう……? ずっと嫌だったなんて、そんなこと……。嘘ですよね、嘘だって言って下さい! あなたは私を優しい人だと言ってくれたでしょう? 頬を染めて私を受け入れてくれていたでしょう!? ……リローラン、口を閉じていないで何か言ってください!」
「……もうあなたの傍で働くことはできません。ディステル様、さようなら」
ヴィオラは深く頭を下げた後、その場から走り去ってしまった。
「私は……拒絶されたのか? ……彼女に……」
ディステルはぐったりと椅子に座り込み、痛む胸を押さえながら荒い息を吐いた。
長い間恋い焦がれ続けたヴィオラが離れていく。ヴィオラのためにと数多の薔薇を交配して作出し、日毎魔力を吸わせ続けた『契りの薔薇』が、その役目を果たせぬまま枯れていく……。
ディステルはぎりぎりと奥歯を食いしばった。
「そんな……そんなことが許されると思っているのですかっ……? ヴィオラ、ヴィオラ……! あなたを逃しはしない! 私をこんなにもおかしくさせておいてっ、他の男と結婚するだなんて絶対に許さない! あなたは私のものだ! たった一人の姫君なのだ! 私から逃げるなあっ!!」
ディステルは白銀の髪を振り乱し、狂気に塗れた声を上げた。
そして自分の前から去っていったヴィオラを追うために、素早く転移魔法を発動させた。
「はっ、はあっ、はあ……」
ヴィオラは広い植物園を駆け抜け裏通りに出た。生け垣にぐったりと凭れ、痛む胸を押さえながら息を落ち着かせていると、小走りで彼女に近づいてくる者があった。
「ヴィオラ、どうしたのです? そんなに息を荒くして……!」
「あ、レントお兄さんっ……」
あなたの様子が気になって王都まで来たのだと言いながら、レントはヴィオラの額に滲む汗を布で拭った。ヴィオラは何も言わず、くしゃりと顔を歪めた後にレントに勢い良く抱きついた。
「う……ううっ……う、うあああっ……!」
ヴィオラはレントに抱きついたまま声を上げて泣き始めた。レントは何も言わず、ヴィオラの頭を落ち着かせるように何度も撫でた。
「ヴィオラ、一旦教会へ行きましょう。そこでゆっくりと話を――」
「待ちなさい、ヴィオラ!!」
男の咆哮と共に、吹雪を思わせるような冷たく強烈な風が吹いた。風は辺りの植物を薙ぎ倒し、生け垣の葉を凄まじい勢いで散らしていく。レントは強風の中から現れた存在を捉え、ヴィオラを守りながらも素早く武器を構えた。
男が振るう魔法の鞭を弾き返し、レントは鋭い視線を銀髪のエルフに向けた。
「何です、あなた。出会い頭に鞭など振るって。仮にも中央政府の役人でしょうに、礼儀というものを忘れたのですか?」
レントが低い声で問いかけると、ディステルは殺意の込もった目を彼に向けた。
「お前こそ誰だ? なぜヴィオラと共にいる!?」
白銀の目を恐ろしげに見開きながら、ディステルは手に持つ魔法の鞭を握り締めた。ディステルからは他者を威圧するような寒々しい魔力が漏れ出ている。ヴィオラはレントの背に隠れながら、ディステルの放つ異様な雰囲気にがたがたと身体を震わせた。
「あなたに答える必要が? とりあえずその物騒なものを下ろしなさい。ヴィオラが怯えているでしょう」
「黙れ! お前こそ私の質問に答えろ! お前はヴィオラの何なのだ!?」
また鞭が振るわれる。レントは朝星棒でディステルの攻撃を弾き返した後、大きく溜息を吐いた。
「はあ……。参りましたね、人の話を聞かない男というものは本当に面倒だ。いいですか、長髪眼鏡野郎。僕はそれなりに戦いが得意です。この朝星棒で、聞き分けのないあなたの頭を思い切り殴ってやってもいいんですよ」
棘だらけの朝星棒を構えながら、レントはゆっくりとディステルに話しかけた。
「ですがヴィオラの前でやり合っても仕方がない。ほら、ひとつ息を吸って、吐いて……。落ち着きましたか?」
レントは荒い息を吐くディステルを優しく窘めた。
「さて、聞かせて下さい。どうしてヴィオラを追ってきたのです?」
レントが武器を下ろし穏やかな声で尋ねると、ディステルは荒く息を吐いた後、眉を下げ絞り出すように話し始めた。
「ヴィオラが……。ヴィオラが私から離れようとしたからだ。彼女は私の全てであるのに……」
レントの背に隠れるヴィオラに話しかけるようにして、ディステルは切なげな声で続けた。
「ヴィオラ……愛しいヴィオラ、私から逃げないで下さい。私はあなたのことが好きなのです、心から愛しているのです……ずっとずっとあなたと契ることを夢見て過ごしてきたのですっ……。私にはあなたしかいない! ですからどうか、私から離れていかないでっ……」
「……ぇ」
ヴィオラはレントの背からひょこりと顔を出した。
「えっ……。え? ディステル様!? どういうこと……?」
ヴィオラは真っ赤な顔でディステルを見つめた。レントは切なげな顔をするディステルと、慌てふためくヴィオラを交互に見つつ、薄紫色の頭をぽんぽんと叩いた。
「ヴィオラ。あなたが話していた『彼』とは、この眼鏡野郎のことですか?」
「うん」
「そうですか。何やら誤解があるようですよ? 僕は先に帰りますから、彼としっかり話してきなさい。いいですね?」
「うん。……レントお兄さん、ありがとう」
レントは微笑み、その場から静かに消え去った。
「……あの、ディステル様」
ヴィオラがそっと声を掛けると、ディステルはひとつ涙を溢した後、ヴィオラの華奢な身体を強く抱きしめた。
「ヴィオラ……ヴィオラ……」
肩を大きく震わせながら涙を流すディステルを、ヴィオラはしっかりと抱きしめ返した。
「ディステル様……。寮に戻りましょう、あなたと話がしたいです」
ヴィオラの優しい声に、ディステルは涙を流しながらゆっくりと頷いた。
――――――――――
ヴィオラは寝台の上でディステルに抱きしめられながら、自分の気持ちを彼に話した。
ずっとディステルを好きだったこと。
ディステルからの接触が嫌だと言ったのは嘘であること。
女のエルフに嫉妬したこと。温室に入れてもらえなくて悲しかったこと。
ディステルは驚いたり眉を下げたりしながら、ヴィオラの本当の気持ちを聞いて安堵の息を吐いた。
「ヴィオラ……。あなたに嫌われたと思うと、胸が張り裂けそうでした」
「……すみません」
「いえ、……謝らなければならないのは私の方です」
ディステルは目を伏せ、ヴィオラの耳元でそっと囁いた。
「ヴィオラ。あなたにあれを見せるのは怖いですが……私の温室まで来てくれますか?」
ヴィオラは頷き、ディステルと手を繋ぎながら温室へと向かった。彼は酷く緊張しているようで、しばらく温室の前で立ち止まっていたが、やがて意を決したように扉を開いた。
薄暗い温室内の様子が露わになる。
そしてヴィオラは大量の薔薇と、天井や壁一面に貼られた自分の写真をはっきりと見た。
ディステルは沈んだ声を出した。
「……穢いでしょう。私はあなたへの恋心を抑え切れず、日々盗撮してはこうして温室中にあなたの写真を貼り続けた。そうでもしなければ、劣情のままあなたを食い散らかしてしまいそうだった」
「ディステル様……」
「私を……怖いと思いますか? おかしいと思いますか? 嫌いになりましたか……?」
「いいえ」
ヴィオラは微笑み、自分よりずっと背の高い男に抱きついた。
「王子様がこれほど私を愛してくれていると知って……嬉しくなりました。私も少しおかしいのかもしれませんね」
「……ヴィオラ」
「大好きです、ディステル様。あなたの愛が心から嬉しい」
ディステルは白銀の目を歓喜に潤ませ、そして胸から一輪の薔薇を取り出した。
「ヴィオラ。愛しいヴィオラ……。この薔薇は『すみれの妖精』と名付けたのです。私があのエルフに力を借りながら……長年かけてやっと作出した薔薇です」
ヴィオラは差し出された薔薇の美しさに感嘆の息を吐いた。白と水色の花弁が混ざった淡い紫色の薔薇は、自分が持つ色彩を思わせた。ディステルの深い愛を体現したその薔薇を見て、ヴィオラは感動にひとつ涙を流した。
「あなたが混ざり血でも、罪人の子でも関係ない。私は心からあなたを愛している。……すみれの姫君、この薔薇を受け取ってくれますか?」
ディステルの優しい言葉に、ヴィオラは泣きながらも笑顔で頷き、差し出された薔薇をしっかりと受け取った。
「もちろん……! 王子様、私もあなたのことを心から愛しています」
契りの薔薇から魔法の蔓が伸びていく。それはヴィオラの魂をきつく強く縛り付けた。
魔法を解さぬヴィオラは僅かな違和感を抱く程度だったが、ディステルは、今ヴィオラの何もかもが自分のものになったのだとはっきり感じ取った。
ディステルは長年抱え続けてきた宿願が叶えられた感動に涙を溢れさせ、華奢な身体を抱きしめながら何度もヴィオラの名を呼んだ。
「ヴィオラ、ヴィオラ……!」
ヴィオラは大泣きするディステルの様子にくすくすと笑いながら、彼の白銀の髪を優しく指で梳いた。
(ふふっ……お父さんとお母さんに恋人が出来たって伝えたら、二人は何て言うかな? お父さんはとっても驚いて、『王子様』から私を取り戻そうとするかもしれないわね……)
美貌が近づいてくる。ヴィオラは目を瞑り、ディステルの唇を受け入れた。
(ディステル様、頑張ってくださいね。きっとお父さんは、お前に娘はやらんって言い始めると思うから……)
焦る父の顔を想像し、ヴィオラはそっと口角を上げた。
夜半、自分の横で眠るヴィオラの顔を見つめながらディステルはうっとりと息を吐いた。
「ヴィオラ……ヴィオラ……」
名を呼びながら滑らかな頬を摩ると、ヴィオラは眠りながらも顔を綻ばせた。
「可愛いヴィオラ……決してあなたを手放せない」
ディステルはヴィオラを見つめながら思考した。
可憐なハーフエルフに心を奪われてしまった後、ディステルはすぐにヴィオラの出自や経歴、家族構成を調べた。そして、彼女の父が純血のエルフでありながらもハーフドワーフの女に惚れ込み、重い罪を犯して中央政府を追放されていたことを知った。
(私は彼の気持ちがよく分かる。立場や種族の違いなどどうでもいいと思ってしまうほどに、罪を犯してでも愛しい存在を得たいと思うほどに……。それほどに『姫君』のことを愛していたのだ)
「……彼と私はよく似ている。ヴィオラ、私はあなたの父に受け入れてもらえるでしょうか?」
ディステルは眠るヴィオラに問いかけ、そして笑った。
「ああ、受け入れてもらえなくても関係ありませんね。あなたは私の薔薇を受け取った。禁呪『契りの薔薇』は既に発動している。……あなたの父親が何と言おうとも、あなたの魂は未来永劫私のものです……」
「ヴィオラ、気がついていますか? あなたの胸には魔力の器がある。今まで私の魔力をたっぷりと纏わせてきた甲斐がありました。まずは魔法の使い方から教えて、そしていつか……『契りの薔薇』の創り方も伝えてあげなければなりませんね」
「ヴィオラ、あなたが『契りの薔薇』を創り出す日を楽しみにしていますよ。私があなたを深く愛しているように、あなたもまた……私を深く深く愛してくださいね……」
ヴィオラの桃色の唇に、ディステルはそっと己のものを重ねた。
レントは美しい星空を見上げながら、ふうと息を吐いた。
「……あの二人、ゼルドリック様とリアさんによく似ている」
ディステルとヴィオラの姿を思い浮かべ、レントは苦笑いをした。
「まあ、彼なら……あの面倒くさいダークエルフとも渡り合えるかもしれませんね。はあ……。ヴィオラ、あなたも可哀想に。随分と厄介な存在に目を付けられたものだ」
ディステルの告白に頬を染めるヴィオラを思い出し、レントは朗らかに笑った。
「僕としてはあの銀髪眼鏡野郎は気に入りませんが、あなたが幸せに過ごせるならそれに越したことはありませんね。ヴィオラ、良かったですね。『王子様』と幸せに過ごしてくださいね……」
寄り添う二人の姿を思い浮かべながら、レントは瞬く星を眺め続けた。
「なあヴィオラ、お前はよく楽しそうに働けるよなあ。いつもあいつから冷たい言い方をされてよ、嫌になることはねえのか?」
「あいつ……?」
「おい、分かるだろ! ディステルだよ! あの眼鏡野郎、いつもお前に嫌味を言うだろうが」
小声で話すオークの男に向かって、ヴィオラはゆっくりと首を横に振った。
「厳しい人だと思うけど、嫌になったことはないわ。ディステル様は優しい人よ。私の傷を治してくれるし……」
「はあ? 優しい人だあ!? ……まあ、確かにお前に対してはそうかもしれねえな。あの野郎、俺らが怪我したって一度も治してくれたことはねえぞ。お前、あの眼鏡野郎に贔屓されてるぜ」
「え……? そうかな?」
「ああそうだ! あのエルフ、仕事する振りしてお前に男を近づけさせないように手回ししてるしよ、お前のことが相当お気に入りなんだろうさ」
「手回し……?」
ヴィオラが首を傾げると、オークの男は気に入らなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「言葉通りだよ! あいつはお前を囲い込もうとしてやがる! おいヴィオラ、気を付けろよ! ハーフエルフたってお前は可愛い顔してるし、そのうちあの眼鏡野郎に食われて――」
「私語は慎みなさい、オーク野郎!」
「げえっ、ディステル様!」
オークとヴィオラの間に、音もなくディステルが転移してきた。ディステルは慌てるオークの男を乱暴に追い払った後、背の低いヴィオラをじっと見下ろした。
「あなたもです、リローラン。今は仕事中でしょう。私語は慎むように」
「は、はい……! すみません!」
「ふん。……優しい人ですか。私のことをそんな風に思っていたとはね」
ヴィオラには聞こえないくらいの小さな声で呟き、ディステルは彼女の顔をじっと見つめた。
「……? あの……?」
「あれだけ突き放したのに。あなたは間抜けで……そして変わっている」
首を傾げるヴィオラに柔らかさのある視線を向けた後、ディステルは静かにその場から消え去った。
大植物園で働く職員たちには専用の寮が用意されている。
植物園で働き始めて以来、ヴィオラはその寮でずっと暮らし続けていた。
暮らしていくのには不便な位置にあることと、仕事場と隣接した所に住むのは気が進まないということで寮に入る者は殆どいなかったが、ヴィオラは緑と花々に囲まれた物静かな寮を気に入っていた。家族、そしてレントやオリヴァーとの交流を続けながら、ヴィオラは植物に親しむ穏やかな生活を送った。
ヴィオラは寮で過ごす私的な時間においてもディステルの姿をよく見かけた。広い寮であるにもかかわらず、住んでいるのはヴィオラとディステルの二人だけ。彼女が台所や図書室に向かえば、そこには大体ディステルの姿があった。
ディステルは自分専用の温室で、熱心に何かを育てているようだった。
温室には遮蔽魔術が施されているため、外から中の様子を窺い知ることはできなかったが、ディステルは日々薔薇の交配についての本を読み進めていた。きっとあの中では彼の手によって様々な薔薇が育てられているのだろうと、ヴィオラは温室に興味深い視線を送った。
純血のエルフの男と、特別な力を何も持たないハーフエルフの女。
普通であれば深く関わり合うことのない二人だが、緑に溢れた寮の中で少しずつその距離を縮めていった。
二人は度々食事を共にした。ある日、夜遅く寮に戻ってきたディステルに軽い食事を出したことがきっかけで、ヴィオラは給金を上乗せするからもうひとり分の食事を作っておいてほしいと彼から頼まれた。
ディステルが用意する果物や野菜を使って何品か作ること。それがヴィオラのもうひとつの仕事だった。
ディステルはいつも黙々と食事をした。
ヴィオラは茶を飲みつつ、目の前のエルフをそっと見つめた。
「ディステル様。あの……美味しかったですか?」
ヴィオラが問いかけると、食事を済ませたディステルは淡々と答えた。
「美味しくなければ食べません。いつも完食しているでしょう」
ぶっきらぼうにも捉えられる回答だったが、ヴィオラはディステルの声に優しさのようなものを感じた。
「ふふ、そうですか。今日の食事もディステル様のお口に合ったようで良かったです」
「っ……」
ヴィオラが満面の笑みを向けると、ディステルは長い耳をひくひくと動かし咳払いをした。
「あー……、こほん。リローラン、あなたは随分と料理が得意ですね。今まで誰かに作ってきたのですか?」
「はい! 家族と……あとオリヴァー様に!」
「オリヴァー様? なぜ?」
「え? 彼のお屋敷で暮らしていたことがあって――」
「何だと? ……詳しく話しなさい」
ディステルは手に持ったフォークを握り締め、低い声を出した。
ヴィオラはディステルの反応に首を傾げながら、家族と共にオリヴァーの屋敷の一室を借りながら大学に通っていたことを話した。オリヴァーの屋敷に住んでいた頃、自分と家族の胃腸を痛めてしまわないように率先して調理を引き受けてきたのだと伝えると、ディステルは深く息を吐いた後、静かにフォークを皿の上に置いた。
「ああ……そういうことですか。家族とも一緒に暮らしていたのですね。……安心しました」
「ふふっ! オリヴァー様と二人きりで暮らしていたら、とてもお屋敷が片付きませんから。オリヴァー様は優しい人だけれど、とにかく掃除も料理も出来ないんです。特に料理は酷かったなあ」
ヴィオラがどれほどオリヴァーの料理が酷かったか説明すると、ディステルは大きな声を上げて笑った。
「くくっ……あはははっ! あのプライドの高いオリヴァー様も苦手なことがあるのですね? 普段あんなに自己陶酔しているのに、料理も掃除も全く出来ないなんて想像がつかなかった!」
ディステルは面白そうに顔を綻ばせた。その笑顔は会話相手への親愛の情を示すものに見えて、ヴィオラは頬を染めて彼を見つめた。いつも冷静なディステルが顔を綻ばせている。ヴィオラは恋い焦がれる男の笑顔に、胸が大きく跳ねるのを感じた。
(素敵な笑顔……こんな風に笑うんだ)
ヴィオラがじっとディステルを見つめると、彼は笑うのを止め気まずそうに俯いた。
「……何です? そう人の顔をまじまじと見るものではありませんよ」
「あ……すみません。でも、ディステル様がそんな風に笑ったところを初めて見ましたから、何だか嬉しくて。あなたともっと仲良くなれた気がします」
ディステルは白銀の目を瞬いた後、ばつが悪そうに俯いた。
「なぜ嬉しいと思うのです? 私はあなたを散々突き放して馬鹿にしてきたでしょうに。そんな男と仲良くしたって仕方がないでしょう……」
「ふふっ……ディステル様はいつも私の傷を治してくれますから。優しい人とは仲良くしたいんです」
ヴィオラは花が咲くような笑みをディステルに向けた。
ディステルは僅かに口を開き、彼女の笑顔をぼんやりと見つめた。
「……あなたは本当に変わっていますね」
寂寞の地に降る冷たい雪のような瞳に、確かな温度が宿る。
心を裏側を撫でくすぐられるような温かみの込もった目を向けられ、ヴィオラはまた顔を赤くした。
日々交流を重ねるうちに、二人の距離はどんどんと縮まっていった。
ディステルはヴィオラの前で感情を露わにすることが増えた。
ヴィオラの話に微笑みながら相槌を打ち、彼女が自分以外の男と話せば、怒ったり酷く不安そうな顔をした。
いつの間にかヴィオラの周囲からは、オークの同僚もその他の同僚も姿を消した。見慣れた姿がないことに首を傾げつつも、彼らはきっと別の区画で働いているのだろうと思い、ヴィオラは独りで植物の世話を進めた。
ディステルはヴィオラの手に傷が付けばすぐ飛んできて、滑らかな肌に痕が残らぬようにと熱心に治癒魔法を施した。そしてそれ以上肌が荒れてしまわないようにと、毎夜毎夜ヴィオラに手ずから軟膏を塗りこんだ。
手首から指の一本一本まで、軟膏を乗せたディステルの指がゆっくりと這う。掌を執拗になぞり上げられる感触にヴィオラが身体を震わせると、ディステルは嬉しそうに笑った。
日々ディステルとの生活を送るうち、彼の長い髪を結うのはいつの間にかヴィオラの役目になった。
腰まである白銀の髪を丁寧に梳き、高い位置でひとつに結わえる。自分の髪に指を通す女に、ディステルは鏡越しにとろりとした視線を送った。
そして、ヴィオラの薄紫色の髪もディステルによって丁寧な手入れを施された。
ディステルは髪の手入れをする際、ヴィオラの首筋や敏感な耳にそっと指を這わせた。ヴィオラがくすぐったさに高い声を上げると、ディステルは顔を紅潮させ、何度も何度も耳に触れようとした。
ヴィオラは日々の礼にとディステルからあらゆるものを手渡されるようになった。
服、装身具、化粧品。数多の品を受け取る内に、いつの間にかヴィオラが纏うものは、全てディステルが用意したものになった。
どこか異常さの滲む生活。
だが、それを指摘する者はヴィオラの周りに誰もいなかった。
寮での二人暮らし。
植物園で働いている時も、ヴィオラに声を掛ける者はディステルしかいない。
態度を変えたディステルに少しの違和感を抱きつつも、ヴィオラは彼に対して強い危機感を持つことはなかった。ディステルとの生活は、自分と恋い焦がれる王子が、両親のように仲睦まじく過ごしているという甘い想像とぴったり重なった。胸に感じる強い高揚が、ヴィオラの危機意識を麻痺させた。
ディステルが取る行動は大胆なものになっていった。
ある肌寒い夜にヴィオラが体調を崩してから、ディステルはヴィオラの寝台に潜り込み、彼女を抱きしめて眠るようになった。ヴィオラの華奢な身体はディステルの大きな身体にすっぽりと包まれ、彼女はディステルに身体を温められながら夜を過ごした。
ヴィオラが目を覚ますといつも隣には美貌の男がいて、ディステルはヴィオラの髪を撫で梳きながら甘い声で挨拶をした。
ヴィオラの唇や肌が乾燥に荒れてしまった時は、植物園の花々から採取した芳香のある蜜を指に取って、ディステルは彼女の白い肌にゆっくりと手を這わせた。
どこか淫らさを帯びるその手付きにヴィオラが小さく喘ぐと、ディステルは目を潤ませながら彼女の反応を食い入るように観察した。
そうして、長い長い月日が経っていった。
過ぎる月日の中で色々なことが変わっていった。ハーフドワーフの母は天に旅立ち、兄と慕うレントは中央政府を辞め、かつての同僚たちは皆植物園から姿を消した。
だがディステルとヴィオラが送る甘い生活だけは、ずっと変わることがなかった。
――――――――――
強力な遮蔽魔術が施された広い温室の中では、数多の薔薇が育てられている。
ディステルはその内の一本に近づき、『すみれの妖精』と書かれた札をなぞった。
「もう少しだ。もう少しで完成する」
水色と白の花弁が混じる、淡い紫色の薔薇。
ディステルが長い年月をかけて作出したその薔薇は、ヴィオラを思わせる楚々とした美しさを放っていた。
「ああ、綺麗だ……。ヴィオラはこの薔薇を見たら何と言うだろうか? 花が好きな彼女は、私が作り出したこの薔薇を喜んでくれるに違いない。あの可愛い笑顔を私に向けてくれるに違いない……!」
ディステルは顔を上げ、そこにあるものを見てうっとりと微笑んだ。
温室の壁中に貼られた何万枚ものヴィオラの写真。日々の生活の中で盗撮し続けたヴィオラの姿。
写真に映るヴィオラをうっとりと眺めた後、彼は歓喜に胸を震わせながら紫色の薔薇をそっと撫でた。
「やっと、やっとだ! やっと彼女に贈るにふさわしい薔薇が出来上がる! ヴィオラ、あなたなら分かるでしょう? この薔薇を作り出すのにどれほどの労力が必要なのか。どれほど時間がかかるのか! あなたに贈るための薔薇を私はずっと作り続けてきたのですよ。どれほど私の愛が深いのか伝わるでしょう……?」
「ヴィオラ……。愛しいヴィオラ。あなたがいけないのですよ? 意地悪な私に近づいてこようとするから。私からいつまでも逃げないから……。あんなに可愛い笑顔を向けられたら、誰だっておかしくなってしまうでしょう?」
ディステルは目を瞑り、彼女と出逢った遠い過去のことを思い出した。
ヴィオラ=リローラン。
淡い紫色の髪と水色の目を持つハーフエルフ。
彼女は薔薇の花のように美しく、妖精のように可憐だった。
一目見ただけでヴィオラに心を奪われてしまったディステルは、必死に彼女を突き放そうとした。
純血のエルフが他種族の者と番い、その高貴な血を薄めてはならない。幼少期に施されたエルフ式の教育がディステルの心には深く染み付いていて、彼はヴィオラへの恋情と立場に板挟みになり、酷く苦しみ続けた。
だがヴィオラは真面目で我慢強く、どんなに酷い言葉をかけてもこの植物園から出ていこうとはしなかった。いつも楽しそうに働き、傷を治せば笑顔で礼を言う。自分を優しい人だなどと言う。ヴィオラの外見のみならず内面にも強烈に惹かれたディステルは、抱えた初恋が重いものになっていくのをはっきりと自覚した。
立場を利用してヴィオラに近づく男を全て追い払った。
日々、自分の魔力がたっぷりと込められた食材を渡し続けた。
彼女が強い危機感を抱かぬように魅了の魔法を掛け続け、異常な生活に慣れさせた。
全てはヴィオラ=リローランを得るために。
ディステルは今までの努力を思い出し、歪な笑みを浮かべた。
「彼女が混ざり血でも罪人の子でも関係ない。私はヴィオラを愛している! 番うなら彼女以外に考えられない! 彼女の何もかもが欲しい!」
「……初めてなんです、ヴィオラ。こんな気持ちになるのは、長く生きてきて初めてのことなんですよ……! だから責任を取ってくださいね。私をおかしくさせた責任を取って、これからもずっと、私と一緒に生きてくださいね……!」
紫色の薔薇からは美しい魔力の光が溢れ出ている。
ディステルはヴィオラへと贈るその薔薇に、ある禁呪を施した。
「もうすぐだ。私の魔力をたっぷりと染み込ませ続けたこの薔薇は……もうすぐで『契りの薔薇』となる」
植物学の権威であるエルフの学者から力を借りつつ、何十年もかけて育て上げたその薔薇は、見る者を魅了するような美しい花を咲かせている。愛しい女が紫の薔薇を胸に抱えている想像をし、ディステルは恍惚に顔を歪めた。
「……本当に大変だったんですよ、ヴィオラ。元々ある植物に禁呪を施すなど、誰もやったことがありませんでしたからね。ああ、早くあなたの笑顔が見たい。あなたと契りを交わし、その魂を永遠に私のものにしたい……!」
男の呟きが薄暗い温室に落ちる。
「可愛いヴィオラ。美しいヴィオラ。すみれの妖精のように愛らしいヴィオラ。あなたと番うのが楽しみだ……」
ディステルはヴィオラの名を何度も呼びながら、愛と狂気に塗れた想像を深めた。
――――――――――
ヴィオラは悩んでいた。
時折、大植物園に顔を出すエルフの学者が、ここ一年ほど頻繁にディステルのもとを訪れる。ディステルは遮蔽魔術の施された温室に彼女を招き、その中で長い時間を共に過ごしているようだった。
ヴィオラは女の学者に対して嫉妬心を覚え、そして静かに絶望した。
(ディステル様とあの学者さんは何を話しているのだろう? 何だかずるいと思ってしまう。私はあの温室の中に入ったことがないのに)
(……でもこんなことを思ってしまっては駄目よね。だって私とディステル様は恋仲ではないのだから。ただの仕事仲間だから……)
ディステルとはただの仕事仲間。それ以上でも何でもない。
ヴィオラはそう自分に言い聞かせたが、今までに彼と送ってきた甘やかな生活を思い出し目を潤ませた。
自分の中に根付いたディステルへの恋心は日々の生活の中ですっかり大きくなって、そして決して消えてくれそうになかった。
ふと、温室の中からエルフの女だけが出てきた。女はヴィオラの姿に気が付き、彼女のもとにゆっくりとした足取りでやってきた。
「あ、あの……?」
背の低いヴィオラをじっと見下ろし、エルフの学者はぽつりと呟いた。
「ディステルを見る目が温かい。……ハーフエルフさん。あなたはあの男が好きなのね」
「……え?」
「可哀想なハーフエルフさん、あなたも大変ね。あの男のことは諦めた方がいいんじゃないかしら? あなたが困るわよ?」
エルフの女は微笑んだ。
それは愛に狂った男に目を付けられたヴィオラへの同情であり、女にそれ以外の意図は全くなかったが、ヴィオラは彼女の微笑みを混ざり血である自分への嘲りと捉えた。
このエルフは内に抱えるディステルへの恋情をすぐに見抜き、忠告した。
混ざり血であるお前は、純血のエルフである彼と決して番うことはできない。
彼女は自分にそう言いたいのだと。
ヴィオラは目から涙が零れ落ちそうになるのを感じた。
(……胸が痛い)
ディステルは髪や肌に触れることはあっても、決してその先に進もうとはしなかった。
好きだと言われたことも、可愛いと言われたこともない。
所詮自分は彼にとって何でもない存在で、きっとこのエルフの女こそがディステルの恋人なのだとヴィオラは思い込んだ。
目の前にいるエルフに真相を確かめる気も起きず、ヴィオラは頭を下げ、急いでその場を後にした。
それから数日が経ったある日のこと、ヴィオラはこっそりと温室の扉に手をかけた。
その日はディステルが寮を空けている日で、ヴィオラは後ろめたさを感じつつも温室の中に何があるのか確かめようとした。
(いけないことだって分かってる。でも、この温室の中を見てみたいの。私とディステル様はずっと一緒に過ごしてきたけれど、彼はこの温室についてはぐらかしてばかりで私に何も教えてくれない。だから……!)
「何をしているのです!!」
ヴィオラが扉を開けようとしたその時、転移してきたディステルに素早く腕を掴まれた。
ディステルは酷く焦った様子で大声を出した。白銀の目は見開かれ、唇は僅かに震えている。絶対に見られたくないものが温室の中にあるようだった。
「ディステル様……! どうしてここに?」
「それはこちらの台詞です! 勝手に私の温室に入るのはやめなさい!」
滅多に見ることのない焦りの表情。腕を掴む手に込められる強い力。冷静さを打ち捨てた大声。
ヴィオラはそれを、ディステルからの明確な拒絶と受け取った。
(……ふふっ……。あの女は何度も中に入れるのに、私が入ろうとしたらそうやって止めるのね)
ヴィオラの心が、嫉妬と悲しみに染まっていく。
息を荒げるディステルを見上げ、ヴィオラは無理やり微笑んだ。
「……すみません。ディステル様はいつも薔薇の交配についての本を読んでいたから、もしかしたらこの温室で新種の薔薇が見れるんじゃないかって思ったんです」
ヴィオラが誤魔化すと、ディステルは手に込めた力を抜き深く息を吐いた。
「はあ……。あなたが喜ぶような珍しい薔薇ならそのうち見せますから。ですから勝手に入ろうとするのはやめて下さい。いいですね? 絶対ですよ?」
「……はい」
安心したように眼鏡をかけ直すディステルに謝った後、ヴィオラはとぼとぼと自室に戻った。
そして寝台の上に寝転がり、静かに涙を流した。
(……もう、諦めよう)
ヴィオラは顔を覆った。拭っても拭っても涙は次々と溢れ出てきて、彼女はとうとうしゃくり上げてしまった。
(ディステル様は私に手を出さない。可愛いと言ってくれたことはない。……あの女の人は温室に入れて、私は温室に入れなかった。私は彼の秘密に触れられない。……それが答えなんだ)
(ディステル様の姫君は私じゃない。きっとあの女だ。混ざり血の私は、彼の隣には立てない……)
仲睦まじい両親の姿を思い出し、ヴィオラはぽろぽろと泣き続けた。
――リアがハーフドワーフでも何でも関係ない。種族の差などどうでもいい。周りが何を言おうとも、俺にはリアしかいない。リアはたった一人の姫君だから……。
妻への真っ直ぐな愛情に満ちた父の言葉を思い出す。
(お母さんが羨ましい。私も……私も王子様に愛されたかったな)
百年以上抱え続けてきたディステルへの恋心は簡単に消えてくれそうになかったが、それでもヴィオラは彼を諦めるという哀しい決意をした。
――――――――――
ある休日、ヴィオラはレントの住む田舎街を訪ねた。
レントは王都から遠く離れた街に住んでいて、ヴィオラは転移の魔法が込められたタリスマンを用いて彼が住む教会へと向かった。教会の荘厳な扉を開けると、数多の神々を祀る祭壇が、外から射し込んだ陽を反射して眩く輝いた。美しい輝きの中に親しい姿を認め、ヴィオラはそっと微笑んだ。
「こんにちは、レントお兄さん」
レント神父。小麦畑を思わせる金の髪と、知性を湛えた深い灰色の瞳を持つほっそりとした体躯の男。
聖職であることを示す白い服を纏った彼は、綺羅びやかな笑みをヴィオラへと向けた。
レントはいつもヴィオラに優しく、そして彼女の様子に敏感だった。
ヴィオラを教会奥の部屋に案内すると、彼女が好んだハーブティーを差し出し、穏やかな声で切り出した。
「ヴィオラ。何かありましたね?」
「……うん」
レントの問いかけにヴィオラは頷き、そして静かに啜り泣き始めた。レントはヴィオラの淡い紫色の髪を慰めるように優しく撫でた。
「ここに来たのは僕に話を聞いてほしいからでしょう? ……ゆっくりで構いません。話してください」
「……失恋したの」
ヴィオラは鼻を啜りながらぽつぽつとレントに話した。
恋い慕う男は純血のエルフで、そしておそらく同族の恋人がいるのだと。
自分は百年以上その男に恋い焦がれ続けてきたが、彼は自分のことを何とも思っておらず、これから先一緒に働いていくことが辛くて仕方ないのだと。
「……あの人の傍にいたら、私はいつまでもこの恋を諦められない。もう大植物園を辞めてしまおうと思っているの」
「……ヴィオラ」
「王都には大植物園以外にも、いくつかの植物園があるわ。お母さんも戻ってきたし……一度故郷に戻ってゆっくりしてから、他の植物園で働こうかなって思って……」
ヴィオラの震えが混じる声に、レントは眉を下げた。
「あなたは国立大植物園で働くことを生き甲斐にしていたでしょう。本当に辞めてしまってよいのですか? 彼から恋人がいると聞いた訳ではないのでしょう? まずそのエルフの方と話をしてみては……」
ヴィオラは俯き、ゆっくりと首を横に振った。
「話をする勇気が持てないわ……。彼の口から恋人がいるなんて聞いたら、私はその場で泣き叫んでしまいそう! 臆病者だって分かってる。こんな理由で長年務めてきた職場を辞めるのはおかしいって分かってる! それでも……もう耐えられないのよ。穏やかに彼から離れて、穏やかにこの恋を忘れていきたいの……!」
啜り泣く女を痛ましそうに見つめた後、レントはあまりにも辛いようなら働く場所を変えなさいとヴィオラに言った。ヴィオラはその言葉に顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
「ヴィオラ。僕はこの前リアさんと会ったのですよ。リアさんは女神オーレリアへ熱心に祈りを捧げていました。家族に守護を、と。どんな道を選ぼうとも、あなたが笑って過ごせること……。それが一番です。僕もリアさんもあなたには笑っていてほしい。ずっと見守っていますよ。あなたの選択に幸あるように、オーレリアの加護があるようにと」
レントはヴィオラの白い手を優しく握った。
「……ありがとう、レントお兄さん」
ヴィオラは哀しく微笑んだ。
穏やかにこの恋を忘れていきたいと口にしたが、失恋の痛みはこれから先もずっと消えない気がした。
――――――――――
ディステルは酷く焦っていた。
(最近、ヴィオラに避けられている)
食事は用意しておいたから一人で食べてくれと言い残し、ヴィオラはすぐに自室にこもるようになった。
共に寝ることも、朝の髪結いも全て断られる。なぜ自分を避けるのだ、一体何があったのだと聞いても、彼女は水色の瞳に哀しみを宿し、何でもないと頑なに言い張った。
(ヴィオラの様子が変だ。まさか……。あの温室の様子を見られた? 私は彼女に嫌われてしまったのか……!?)
ヴィオラに触れられない寂しさで、ディステルはおかしくなってしまいそうだった。
(私を避けるなんて許せない! 私がどれだけあなたのことを好きなのか分からせてやりたい! ヴィオラ、あなたに嫌われてしまったのなら……力ずくで私のものにしてやろうか? 私から逃げられないようにしてやろうか……)
己の内にある狂気がとうとう表に滲み出そうになった時。
彼はヴィオラから唐突に切り出された言葉に、酷く打ちのめされた。
「…………何です、それ」
この仕事を辞めたい。
ヴィオラからの切り出しに、ディステルはぎりぎりと拳を握り締めた。
「どういうことです? いきなり辞めるだなんて……そんなことが許されると思っているのですか?」
「……すみません。ですがもう、ここで働くことはできません」
ヴィオラは静かに目を瞑った。
その様子に平常とは異なる強い意志のようなものを感じたディステルは、焦りながらヴィオラに問いかけた。
「っ……。何が不満なのです? 給金ですか? それとももっと休暇が必要なのですか? あなたが不満なことは全て無くすと約束しましょう! ですから撤回しなさい、ここを辞めるのは許さない!」
ディステルの視線から逃れるように俯き、ヴィオラはゆっくりと首を横に振った。ディステルはヴィオラの華奢な肩をぐっと掴み大声を出した。
「リローラン! 混ざり血のあなたが他の植物園で働けるとは思えない! この私が管理する植物園だからこそ、あなたは酷い差別を受けることなく働いていけるのですよ? なぜ辞めるのです! この大植物園で働くことが夢だったとそう私に言ったでしょう!」
「……すみません」
ヴィオラの目から一筋の涙が零れ落ちる。
彼女は潤む水色の瞳をディステルに向け、哀しそうに微笑んだ。
「この大植物園で働くことに疲れたのです。ディステル様が言った通り……魔力もない、ドワーフのような強靭な肉体も持たない私にとって、やはりここで働くのは負担が大きいものでした。ここを辞めて故郷の田舎に戻ろうと思います。戻って……誰かと結婚して穏やかに暮らしていこうと思います」
「……は?」
ディステルはごっそりと顔から表情を抜け落ちさせ、ヴィオラを食い入るように見つめた。
「何を……言っているのです? けっ……結婚?」
ヴィオラの隣に自分ではない男がいる。その想像はディステルの胸を拉げさせ、軋ませた。強い目眩にディステルはヴィオラの肩から手を離し、ふらふらと後ろに下がった。
「そんなのっ……許せない……許せない、許せないっ……。許せない! あなたが結婚なんて出来ると思っているのですか!? 私と共に寝て、私に髪と肌の世話をされて、私が贈ったものを身に着けるあなたが、他の男のもとに行けると思っているのですか!? 私の匂いが染み付いたあなたを引き取る男などいない! ずっとこの私の傍にいればいいでしょう!」
独占欲を滲ませるようなディステルの言葉に、ヴィオラは溜息を吐いた。
「やけにしつこいですね。……勘違いさせるようなことを言わないで下さい。あなたと私は恋仲ではないでしょう」
「……リローラン?」
「本当は……本当はずっと嫌でした。手にしつこく軟膏を塗られることも、肌に花の蜜を塗られることも、あなたの髪を結うことも、抱きしめられて眠ることもっ……。でも大植物園の管理者であるあなたに逆らったらどうなるか分からないから、受け入れている振りをしていたんです……」
ヴィオラは泣きながら嘘を吐き、ディステルから顔を背けた。
ディステルの白銀の目が大きく見開かれる。彼は震える声でヴィオラに縋った。
「嫌だった? 嘘、でしょう……? ずっと嫌だったなんて、そんなこと……。嘘ですよね、嘘だって言って下さい! あなたは私を優しい人だと言ってくれたでしょう? 頬を染めて私を受け入れてくれていたでしょう!? ……リローラン、口を閉じていないで何か言ってください!」
「……もうあなたの傍で働くことはできません。ディステル様、さようなら」
ヴィオラは深く頭を下げた後、その場から走り去ってしまった。
「私は……拒絶されたのか? ……彼女に……」
ディステルはぐったりと椅子に座り込み、痛む胸を押さえながら荒い息を吐いた。
長い間恋い焦がれ続けたヴィオラが離れていく。ヴィオラのためにと数多の薔薇を交配して作出し、日毎魔力を吸わせ続けた『契りの薔薇』が、その役目を果たせぬまま枯れていく……。
ディステルはぎりぎりと奥歯を食いしばった。
「そんな……そんなことが許されると思っているのですかっ……? ヴィオラ、ヴィオラ……! あなたを逃しはしない! 私をこんなにもおかしくさせておいてっ、他の男と結婚するだなんて絶対に許さない! あなたは私のものだ! たった一人の姫君なのだ! 私から逃げるなあっ!!」
ディステルは白銀の髪を振り乱し、狂気に塗れた声を上げた。
そして自分の前から去っていったヴィオラを追うために、素早く転移魔法を発動させた。
「はっ、はあっ、はあ……」
ヴィオラは広い植物園を駆け抜け裏通りに出た。生け垣にぐったりと凭れ、痛む胸を押さえながら息を落ち着かせていると、小走りで彼女に近づいてくる者があった。
「ヴィオラ、どうしたのです? そんなに息を荒くして……!」
「あ、レントお兄さんっ……」
あなたの様子が気になって王都まで来たのだと言いながら、レントはヴィオラの額に滲む汗を布で拭った。ヴィオラは何も言わず、くしゃりと顔を歪めた後にレントに勢い良く抱きついた。
「う……ううっ……う、うあああっ……!」
ヴィオラはレントに抱きついたまま声を上げて泣き始めた。レントは何も言わず、ヴィオラの頭を落ち着かせるように何度も撫でた。
「ヴィオラ、一旦教会へ行きましょう。そこでゆっくりと話を――」
「待ちなさい、ヴィオラ!!」
男の咆哮と共に、吹雪を思わせるような冷たく強烈な風が吹いた。風は辺りの植物を薙ぎ倒し、生け垣の葉を凄まじい勢いで散らしていく。レントは強風の中から現れた存在を捉え、ヴィオラを守りながらも素早く武器を構えた。
男が振るう魔法の鞭を弾き返し、レントは鋭い視線を銀髪のエルフに向けた。
「何です、あなた。出会い頭に鞭など振るって。仮にも中央政府の役人でしょうに、礼儀というものを忘れたのですか?」
レントが低い声で問いかけると、ディステルは殺意の込もった目を彼に向けた。
「お前こそ誰だ? なぜヴィオラと共にいる!?」
白銀の目を恐ろしげに見開きながら、ディステルは手に持つ魔法の鞭を握り締めた。ディステルからは他者を威圧するような寒々しい魔力が漏れ出ている。ヴィオラはレントの背に隠れながら、ディステルの放つ異様な雰囲気にがたがたと身体を震わせた。
「あなたに答える必要が? とりあえずその物騒なものを下ろしなさい。ヴィオラが怯えているでしょう」
「黙れ! お前こそ私の質問に答えろ! お前はヴィオラの何なのだ!?」
また鞭が振るわれる。レントは朝星棒でディステルの攻撃を弾き返した後、大きく溜息を吐いた。
「はあ……。参りましたね、人の話を聞かない男というものは本当に面倒だ。いいですか、長髪眼鏡野郎。僕はそれなりに戦いが得意です。この朝星棒で、聞き分けのないあなたの頭を思い切り殴ってやってもいいんですよ」
棘だらけの朝星棒を構えながら、レントはゆっくりとディステルに話しかけた。
「ですがヴィオラの前でやり合っても仕方がない。ほら、ひとつ息を吸って、吐いて……。落ち着きましたか?」
レントは荒い息を吐くディステルを優しく窘めた。
「さて、聞かせて下さい。どうしてヴィオラを追ってきたのです?」
レントが武器を下ろし穏やかな声で尋ねると、ディステルは荒く息を吐いた後、眉を下げ絞り出すように話し始めた。
「ヴィオラが……。ヴィオラが私から離れようとしたからだ。彼女は私の全てであるのに……」
レントの背に隠れるヴィオラに話しかけるようにして、ディステルは切なげな声で続けた。
「ヴィオラ……愛しいヴィオラ、私から逃げないで下さい。私はあなたのことが好きなのです、心から愛しているのです……ずっとずっとあなたと契ることを夢見て過ごしてきたのですっ……。私にはあなたしかいない! ですからどうか、私から離れていかないでっ……」
「……ぇ」
ヴィオラはレントの背からひょこりと顔を出した。
「えっ……。え? ディステル様!? どういうこと……?」
ヴィオラは真っ赤な顔でディステルを見つめた。レントは切なげな顔をするディステルと、慌てふためくヴィオラを交互に見つつ、薄紫色の頭をぽんぽんと叩いた。
「ヴィオラ。あなたが話していた『彼』とは、この眼鏡野郎のことですか?」
「うん」
「そうですか。何やら誤解があるようですよ? 僕は先に帰りますから、彼としっかり話してきなさい。いいですね?」
「うん。……レントお兄さん、ありがとう」
レントは微笑み、その場から静かに消え去った。
「……あの、ディステル様」
ヴィオラがそっと声を掛けると、ディステルはひとつ涙を溢した後、ヴィオラの華奢な身体を強く抱きしめた。
「ヴィオラ……ヴィオラ……」
肩を大きく震わせながら涙を流すディステルを、ヴィオラはしっかりと抱きしめ返した。
「ディステル様……。寮に戻りましょう、あなたと話がしたいです」
ヴィオラの優しい声に、ディステルは涙を流しながらゆっくりと頷いた。
――――――――――
ヴィオラは寝台の上でディステルに抱きしめられながら、自分の気持ちを彼に話した。
ずっとディステルを好きだったこと。
ディステルからの接触が嫌だと言ったのは嘘であること。
女のエルフに嫉妬したこと。温室に入れてもらえなくて悲しかったこと。
ディステルは驚いたり眉を下げたりしながら、ヴィオラの本当の気持ちを聞いて安堵の息を吐いた。
「ヴィオラ……。あなたに嫌われたと思うと、胸が張り裂けそうでした」
「……すみません」
「いえ、……謝らなければならないのは私の方です」
ディステルは目を伏せ、ヴィオラの耳元でそっと囁いた。
「ヴィオラ。あなたにあれを見せるのは怖いですが……私の温室まで来てくれますか?」
ヴィオラは頷き、ディステルと手を繋ぎながら温室へと向かった。彼は酷く緊張しているようで、しばらく温室の前で立ち止まっていたが、やがて意を決したように扉を開いた。
薄暗い温室内の様子が露わになる。
そしてヴィオラは大量の薔薇と、天井や壁一面に貼られた自分の写真をはっきりと見た。
ディステルは沈んだ声を出した。
「……穢いでしょう。私はあなたへの恋心を抑え切れず、日々盗撮してはこうして温室中にあなたの写真を貼り続けた。そうでもしなければ、劣情のままあなたを食い散らかしてしまいそうだった」
「ディステル様……」
「私を……怖いと思いますか? おかしいと思いますか? 嫌いになりましたか……?」
「いいえ」
ヴィオラは微笑み、自分よりずっと背の高い男に抱きついた。
「王子様がこれほど私を愛してくれていると知って……嬉しくなりました。私も少しおかしいのかもしれませんね」
「……ヴィオラ」
「大好きです、ディステル様。あなたの愛が心から嬉しい」
ディステルは白銀の目を歓喜に潤ませ、そして胸から一輪の薔薇を取り出した。
「ヴィオラ。愛しいヴィオラ……。この薔薇は『すみれの妖精』と名付けたのです。私があのエルフに力を借りながら……長年かけてやっと作出した薔薇です」
ヴィオラは差し出された薔薇の美しさに感嘆の息を吐いた。白と水色の花弁が混ざった淡い紫色の薔薇は、自分が持つ色彩を思わせた。ディステルの深い愛を体現したその薔薇を見て、ヴィオラは感動にひとつ涙を流した。
「あなたが混ざり血でも、罪人の子でも関係ない。私は心からあなたを愛している。……すみれの姫君、この薔薇を受け取ってくれますか?」
ディステルの優しい言葉に、ヴィオラは泣きながらも笑顔で頷き、差し出された薔薇をしっかりと受け取った。
「もちろん……! 王子様、私もあなたのことを心から愛しています」
契りの薔薇から魔法の蔓が伸びていく。それはヴィオラの魂をきつく強く縛り付けた。
魔法を解さぬヴィオラは僅かな違和感を抱く程度だったが、ディステルは、今ヴィオラの何もかもが自分のものになったのだとはっきり感じ取った。
ディステルは長年抱え続けてきた宿願が叶えられた感動に涙を溢れさせ、華奢な身体を抱きしめながら何度もヴィオラの名を呼んだ。
「ヴィオラ、ヴィオラ……!」
ヴィオラは大泣きするディステルの様子にくすくすと笑いながら、彼の白銀の髪を優しく指で梳いた。
(ふふっ……お父さんとお母さんに恋人が出来たって伝えたら、二人は何て言うかな? お父さんはとっても驚いて、『王子様』から私を取り戻そうとするかもしれないわね……)
美貌が近づいてくる。ヴィオラは目を瞑り、ディステルの唇を受け入れた。
(ディステル様、頑張ってくださいね。きっとお父さんは、お前に娘はやらんって言い始めると思うから……)
焦る父の顔を想像し、ヴィオラはそっと口角を上げた。
夜半、自分の横で眠るヴィオラの顔を見つめながらディステルはうっとりと息を吐いた。
「ヴィオラ……ヴィオラ……」
名を呼びながら滑らかな頬を摩ると、ヴィオラは眠りながらも顔を綻ばせた。
「可愛いヴィオラ……決してあなたを手放せない」
ディステルはヴィオラを見つめながら思考した。
可憐なハーフエルフに心を奪われてしまった後、ディステルはすぐにヴィオラの出自や経歴、家族構成を調べた。そして、彼女の父が純血のエルフでありながらもハーフドワーフの女に惚れ込み、重い罪を犯して中央政府を追放されていたことを知った。
(私は彼の気持ちがよく分かる。立場や種族の違いなどどうでもいいと思ってしまうほどに、罪を犯してでも愛しい存在を得たいと思うほどに……。それほどに『姫君』のことを愛していたのだ)
「……彼と私はよく似ている。ヴィオラ、私はあなたの父に受け入れてもらえるでしょうか?」
ディステルは眠るヴィオラに問いかけ、そして笑った。
「ああ、受け入れてもらえなくても関係ありませんね。あなたは私の薔薇を受け取った。禁呪『契りの薔薇』は既に発動している。……あなたの父親が何と言おうとも、あなたの魂は未来永劫私のものです……」
「ヴィオラ、気がついていますか? あなたの胸には魔力の器がある。今まで私の魔力をたっぷりと纏わせてきた甲斐がありました。まずは魔法の使い方から教えて、そしていつか……『契りの薔薇』の創り方も伝えてあげなければなりませんね」
「ヴィオラ、あなたが『契りの薔薇』を創り出す日を楽しみにしていますよ。私があなたを深く愛しているように、あなたもまた……私を深く深く愛してくださいね……」
ヴィオラの桃色の唇に、ディステルはそっと己のものを重ねた。
レントは美しい星空を見上げながら、ふうと息を吐いた。
「……あの二人、ゼルドリック様とリアさんによく似ている」
ディステルとヴィオラの姿を思い浮かべ、レントは苦笑いをした。
「まあ、彼なら……あの面倒くさいダークエルフとも渡り合えるかもしれませんね。はあ……。ヴィオラ、あなたも可哀想に。随分と厄介な存在に目を付けられたものだ」
ディステルの告白に頬を染めるヴィオラを思い出し、レントは朗らかに笑った。
「僕としてはあの銀髪眼鏡野郎は気に入りませんが、あなたが幸せに過ごせるならそれに越したことはありませんね。ヴィオラ、良かったですね。『王子様』と幸せに過ごしてくださいね……」
寄り添う二人の姿を思い浮かべながら、レントは瞬く星を眺め続けた。
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