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第一章
2.エルフの役人
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リアが三十を迎えた年、これまでになく村への往来が増えた。一週間に一度、田舎村の湖畔には豪奢な舟が泊まった。
そして、その舟からやってくるのは決まって二人のエルフの男だった。
一人は、縦にも横にも幅のある非常に大柄のダークエルフで、黒い制服をぴったりと着こなし、金の釦を首元まで留めている。肩に羽織った黒い上着が、彼の肩幅を余計に広く見せているのかもしれなかった。
黒く癖のない髪は後ろへ撫で付けられ、盛り上がった額の線と尖った眉が強調されている。整えられ、跳ね上がった口髭と少し突き出したような顎。高い鷲鼻と、黒く光沢のある肌。黒と黄金色に彩られたこの男は、相対する者に強い威厳を感じさせた。
もう一人、同じく黒い制服を纏った細身の男が、足早に歩くダークエルフの後を急いで付いていく。白く輝く肌と波打つミルクティー色の髪を持つ優男風のエルフ。長く優美な手足と首筋は気品があり、どこか鶴のような印象を抱かせた。美しい男であったが、その顔は表情らしい表情が浮かんでおらず、まるで石膏で作られた彫刻のようだった。
リアの変わり映えのしない日常は、週に一度、この二人組のエルフがはずれの村に訪ねてくることで変わっていってしまった。
二人のエルフの男は中央政府の役人である。
ダークエルフの男――ゼルドリック=ブラッドスターと、彼の後に続くアンジェロ=パルナパは、毎週始めに、必ずこのはずれの村の自警団を訪ねてきた。
エリートである中央政府の者がなぜこの平凡な村にやってくるのだと、村の住民たちは誰もがそう思った。彼等は村の財政状況を確認し、是正するべきところがあれば勧告するという名目で、毎週毎週、自警団をしつこく訪ねてくるのであった。
(……憂鬱だ)
リアは顔に感情を出さないように努めながらも、二人の役人を迎え入れることに気乗りがしなかった。
ダークエルフの役人ゼルドリック=ブラッドスターは、高慢で嫌味たらしく、些細なことで突っかかり執拗に揶揄ってくるように思われた。
特に粗相をした心当たりもないのに、いきなり彼から嫌われてしまったと思うとリアの心は痛んだが、リアは冷静に接することを心がけた。しかしそれでも毎週、彼と話をしなければならないということに対し、憂鬱な気持ちを抱いた。
リアは手早く茶の用意をしながら、年季の入った壁掛け時計を見た。
「ちょうど十時か……」
リアがひとりごちると、同じ自警団員のマルティンが机と椅子を運びながら口を開いた。
「お役人さん、今日は何時までいるんだろうね。早く帰ってくれたらいいんだけど」
「そうね。その方がありがたいわ。いつも疲れてしまうから……」
リアは小声でマルティンに同意した。
ゼルドリックという役人はとにかく高慢で面倒くさく、リアとマルティンを嫌っているように見える。ゼルドリックが取る態度はリアとマルティンで異なっているが、どちらにしてもぶつけられる感情は不快には変わりなかった。
「あの方たちも、この村を良くしようと来てくださっているのでしょうけどね……」
「リア、正気? それは絶対に違うよ。確認ごとが終わったらさっさと帰ればいいのに、お役人さんはいつまでもここに居座って事あるごとに馬鹿にしたみたいに言うだろ。僕らを貧乏な田舎者だと思って憂さ晴らししてるんだ。別にこの村のことなんて考えてくれちゃいないんだよ」
マルティンは拗ねたように口を利くと、その後ぼそりとリアに呟いた。
「それに……あのダークエルフの役人さんは、僕と二人きりになった時にすごく睨んでくるんだから」
リアはぱちりと目を瞬かせた。自分は外見を馬鹿にされることは頻繁にあるけれど、強く睨まれたことは一度も無かった。柔和で温厚な礼儀正しいマルティンに対し、なぜそんな態度を取るのだろうとリアは不思議に思った。
「そうなの? マルに対して? ……何でだろう?」
「分からない。何か気に入らないことをしてしまったんだろうけど……。あんな嫌味な奴から嫌われたって、気にするだけ損さ。報告することだけ報告して今日はさっさと切り上げようよ。こんな暑い日に一日がかりでお役人さんたちの応対をするなんて、耐えられない!」
マルティンが汗を拭い、面倒くさそうに報告書をまとめているのを横目で見ながら、リアはそうねと頷いた。
二人の役人は朝訪ねてきて、陽が傾くまでこの村に居座る。
四十人ほどが暮らす小さな村の帳簿には、特に変わり映えのしない収支が記載され続けている。財政状況の確認などすぐ終わるのにも拘らず、ダークエルフの役人ゼルドリックは、重箱の隅を突くように執拗に説明を求め、畑や村の湖畔、山の麓を実際に確認したいと、リアとマルティンに村の案内をさせた。村の隅から隅までを歩き回る羽目になるため、応対の日は肉体的にも精神的にも疲れ切ってしまう。
マルティンと小声で会話をしながら、自警団の朽ちかけた机の上に、茶と報告書を用意して役人たちの到着を待った。少し後ろに倒れただけで嫌な音を立てて軋む小さな椅子に、マルティンが大きな身体を縮こませるようにして座っている。
「僕は……こんなことを言うのは良くないことだって分かっているんだけど、あのダークエルフの役人さんが怖いんだ。エルフって寿命が長くて、皆頭も良くて、色々な魔法が使えるんだろ? 怒らせたら、その魔法で何をされるか分からないから……」
マルティンは緊張した様子で口をもごもごと動かした。
「それに、あのダークエルフの役人さんは僕よりずっと背が大きいし。横は、同じくらいかもしれないけど……」
「マル、大丈夫よ。彼に面倒なことを言われた時は私が対応するからね。それに安心して。力はハーフドワーフの私の方がきっと強いわ。何かあったら任せなさい」
リアは慰めるようにマルの肩を軽く叩いた。マルティンは軽く笑って、リアは頼りがいがあるねと呟いた。
マルティンは今年成人を迎えたばかりの若者だが、一見リアよりもずっと歳上に見えるほど貫禄のある風貌をしていて、横幅が広くたっぷりとした体毛を生やしている。
彼の外見をまるで熊のようだと揶揄う人間もいるが、本人は気弱で心優しく真面目な青年だった。垂れ下がった分厚い眉毛と豊かな髭がドワーフの母を思わせるので、リアはマルティンに強い親しみを感じていた。
リアはマルティンのことをマルという愛称で呼び、このはずれの村に来てからずっと仲良くしてきた。彼はリアにとって、実の弟のような存在だった。
彼は猟銃の扱いが秀でていて、年若いながらも立派に自警団を勤め上げている。自警団内での若者はリアとマルティンの二人だけ。そのため体力の要る役人の応対は、専らリアとマルティンに任されていた。
マルティンが、本当に嫌だというように椅子の上で縮こまり、しきりに窓から外の様子を伺っている。リアは、ゼルドリックから悪意をぶつけられる気弱なマルティンが可哀想だと思った。自分がいくら嫌味を言われようとも、なるべく彼が傷付けられないように守ろうと誓った。
(そろそろかなあ……)
リアが外向きの微笑みを作って扉の方を見ると、ちょうど自警団の扉が乱暴に叩かれた。
「リローラン! ゼルドリック=ブラッドスターだ! 入るぞ!」
こちらの返事も待たずに、ダークエルフの役人ゼルドリックは、ずかずかと狭苦しい自警団の事務所の中に入ってきた。そしてぶつかってしまいそうな程の勢いでリアに近づき、挨拶の言葉を交わさぬままリアの両手を握りこんだ。
強引な、握手と言えないようなものを終えてリアは手を離そうとするものの、ゼルドリックはリアの手首から先を大きな手で握り込み、豆だらけで硬い彼女の手を指でゆっくりと力強くなぞりながら、口の端をくいっと曲げた。
「久しいなあ、リローラン。相変わらず随分と畑仕事に精を出しているようだな。鍬でも持ち続けていたような田舎者の手だ。あれほど手入れには気をつけろと言ったのに、先週よりも硬くなっているな? 挨拶を交わすには、些か硬すぎるのではないか?」
ゼルドリックは嬉しそうに、ねっとりとした言い方でリアの手を腐した。
(……また始まったわ)
ゼルドリック=ブラッドスターは毎週顔を合わせる度に、こうして自分の手を貶して喜ぶ。いちいち傷付いてはいられない、いつものことだとリアは受け流した。
「お世話になっております。ブラッドスター様。仕事が立て込んでおりまして、ここ最近ずっと農具を持っていたので硬くなってしまったのでしょう。不快に思われたなら申し訳ありません」
そう言ってリアは手を引っ込めようとするが、ゼルドリックはなおもリアの手を握り続けた。
リアの小さくて白い手は、ゼルドリックの黒く大きな両手にすっぽりと覆い隠されてしまっている。彼の熱くしっとりとした手の中で、自分の手の皮膚がぐにぐにと弄り倒される感覚を覚えながら、リアは落ち着かない心を鎮めることに努めた。
ゼルドリックは骨張った親指でリアの手の隅々をなぞり、ひび割れやささくれを見つけるとそこをさわさわと擦った。少し痛かったが、リアは微笑んだままこの行為が終わるのを待った。このような強引で不躾な接触を受けるのは、毎週のことであった。
「相も変わらず木の皮のような……硬くてひび割れた手だ。触れている私の手に、傷が付いてしまいそうになるほどにひび割れている。女の手とは思えんな。そして今週は右手にささくれが二つ、左手にささくれが一つ増えている。手入れが足りないのではないか、リローラン?」
ゼルドリックはゆっくりとしつこさを感じさせるような口ぶりでリアの手を評した。リアは彼にこうして貶されることに慣れているとはいえど、やはり傷付いた。異性から身体の手入れが足りないと評されるのは決して気分の良いものではない。それでも微笑みは絶やさず、そうですねと短く受け答えた。
自警団が役場の仕事を兼ねるような小さな小さな村。中央政府勤めのエルフを怒らせたらどうなるか分からない。村のためにも自分のためにも、ここで感情を露にするより受け流す方が賢い。リアはそう自分に言い聞かせ、耐えた。
リアよりもずっと背の高いゼルドリックは、屈むようにしてリアの顔を覗き込んだ。野生的で、威圧感のある顔がリアを見据えている。
肌も髪も服も黒いけれど、ゼルドリックの瞳の色は深い青色だった。その色はきらきらと輝く青い宝石のようで、とみに美しかった。サファイアのような美しさに惹かれ、思わず彼の瞳に見入ってしまったが、ふと、リアは自分のそばかすだらけの顔をじっと見られていることに気がついた。
朝早くから農作業をしていたから化粧もしていないし、もしかしたら汗臭いかもしれない。リアはそう思い、忽ち居た堪れなくなった。
「ブラッドスター様、そろそろ……」
ゼルドリックは羞恥から顔を背けたリアの顔をわざわざ追って覗き込み、ささくれに少しだけ力を込めてなぞった。リアはじくりとした痛みに思わず眉をひそめ、ゼルドリックの目をまた見てしまう。そして自分を見つめる青い瞳の力強さに、リアは思わず息を止めた。
「ああ、離してやるとも……。ただ、この硬い、硬いささくれた指に触れて思い出したことがある。今日は君にこれを恵んでやろう。わざわざこの私が、君のために持ってきてやったものがあるのだ」
ゼルドリックは片手でリアの手をしっかりと握りこんだまま、もう片方の手で胸元から美しい細工が施された貝殻を取り出し、器用にそれを開けた。中には白い軟膏のようなものが詰まっている。ゼルドリックは軟膏をたっぷりと拭い、リアの指一本一本、そして手の平と甲、手首にまで丹念に塗り始めた。ぬるついた軟膏の冷たさとゼルドリックの指の感触に、リアは小さく身体を震わせた。
「あの、これは……?」
訝しげにリアが訊くと、ゼルドリックは唇の端を歪め、リアの耳元まで顔を近づけて囁いた。
「リローラン、分からんかね? これは手に塗るための軟膏だ。全く大したものではないが、こんな田舎に住んでいたらまず見かけることはないような、それなりに良い軟膏だ。君の手がそれ以上硬くなる前にこれを塗ってしっかり治せ。君のひび割れで、私の手に傷が付くようなことがあったら堪らんからな……」
ゼルドリックの指が、リアの手を余すことなくなぞる。温まった軟膏が緩やかに解け、ゼルドリックの指がなめらかにリアの掌を擦った。下から上に、上から下に、強く弱く。その塗り方に対して執拗な何かを感じ、リアの体がじくじくと疼いた。思わず震えてしまうと、ゼルドリックはなお意地悪く唇を歪ませた。
「私手ずから、君のひび割れに指を傷つけられるリスクを冒して丁寧に塗ってやったのだ。感謝したまえよ」
「あ……ありがとうございます」
ゼルドリックはやたらに真白い歯を見せて笑うと、リアの手にしっかりと貝殻を握らせた。軟膏を塗りこまれた手が熱い。化粧を施していない顔をじっくり見られた羞恥、自分の手を揶揄われたことへの悲しさが混じり合い、リアはじくじくと自分の心が痛むのを感じた。
ゆっくりとゼルドリックの手が開かれ、リアの手が空気に晒される。リアが落ち着かない気持ちを必死に抑えつけていると、端で縮こまっていたマルティンが恐る恐る口を開いた。
「ぶ、ブラッドスター様、パルナパ様……。このはずれの村までようこそいらっしゃいました。今週も宜しくお願いいたします。どうぞ、こちらにお掛け下さい……」
マルティンは、軋む椅子をなるべく音を立てないように静かに引きながら、丁寧な姿勢でゼルドリックとその付き人、アンジェロ=パルナパに着席を促した。
「ふん」
リアの手を弄り回した時とは打って変わって、ゼルドリックはマルティンに挨拶を求めることもなく、小さくも嘲るような低い声を出して乱暴に椅子に座った。椅子が軋み耳障りな音を立てると、ゼルドリックは苛立ちを隠そうともせず腕組みをした。たっぷりとした口髭の中で、マルティンがゼルドリックには聞こえないくらいの声で「辛辣だなあ」と呟いたのをリアは聞き取った。
(ブラッドスター様……。マルと私に対する態度は随分違うのよね)
ゼルドリックは自分に対して執拗に手や外見を貶すような言葉を口にし、こちらが傷ついた様な素振りを見せるとそれは嬉しそうにする。だが、マルティンに対してはまるで関わりたくないというような、必要最低限の言葉しか交わさない。自分にするような強引な握手も求めない。
ゼルドリックが取る態度が自分とマルティンでどうしてこんなにも違うのか、リアはずっと不思議に思っていた。
(態度が違うとはいえ、マルも私も嫌われていることに変わりはない。だからそれほど気にする必要はないのだけど……でも、どうしてだろう……)
マルティンは口髭をもごもごと動かし続けている。それは彼がひどく緊張している時の癖だった。リアは辛辣な態度を向けられ、怯えるマルティンに同情した。そして彼をゼルドリックから守らなければと、先程の覚悟を思い出し席についた。
そして、その舟からやってくるのは決まって二人のエルフの男だった。
一人は、縦にも横にも幅のある非常に大柄のダークエルフで、黒い制服をぴったりと着こなし、金の釦を首元まで留めている。肩に羽織った黒い上着が、彼の肩幅を余計に広く見せているのかもしれなかった。
黒く癖のない髪は後ろへ撫で付けられ、盛り上がった額の線と尖った眉が強調されている。整えられ、跳ね上がった口髭と少し突き出したような顎。高い鷲鼻と、黒く光沢のある肌。黒と黄金色に彩られたこの男は、相対する者に強い威厳を感じさせた。
もう一人、同じく黒い制服を纏った細身の男が、足早に歩くダークエルフの後を急いで付いていく。白く輝く肌と波打つミルクティー色の髪を持つ優男風のエルフ。長く優美な手足と首筋は気品があり、どこか鶴のような印象を抱かせた。美しい男であったが、その顔は表情らしい表情が浮かんでおらず、まるで石膏で作られた彫刻のようだった。
リアの変わり映えのしない日常は、週に一度、この二人組のエルフがはずれの村に訪ねてくることで変わっていってしまった。
二人のエルフの男は中央政府の役人である。
ダークエルフの男――ゼルドリック=ブラッドスターと、彼の後に続くアンジェロ=パルナパは、毎週始めに、必ずこのはずれの村の自警団を訪ねてきた。
エリートである中央政府の者がなぜこの平凡な村にやってくるのだと、村の住民たちは誰もがそう思った。彼等は村の財政状況を確認し、是正するべきところがあれば勧告するという名目で、毎週毎週、自警団をしつこく訪ねてくるのであった。
(……憂鬱だ)
リアは顔に感情を出さないように努めながらも、二人の役人を迎え入れることに気乗りがしなかった。
ダークエルフの役人ゼルドリック=ブラッドスターは、高慢で嫌味たらしく、些細なことで突っかかり執拗に揶揄ってくるように思われた。
特に粗相をした心当たりもないのに、いきなり彼から嫌われてしまったと思うとリアの心は痛んだが、リアは冷静に接することを心がけた。しかしそれでも毎週、彼と話をしなければならないということに対し、憂鬱な気持ちを抱いた。
リアは手早く茶の用意をしながら、年季の入った壁掛け時計を見た。
「ちょうど十時か……」
リアがひとりごちると、同じ自警団員のマルティンが机と椅子を運びながら口を開いた。
「お役人さん、今日は何時までいるんだろうね。早く帰ってくれたらいいんだけど」
「そうね。その方がありがたいわ。いつも疲れてしまうから……」
リアは小声でマルティンに同意した。
ゼルドリックという役人はとにかく高慢で面倒くさく、リアとマルティンを嫌っているように見える。ゼルドリックが取る態度はリアとマルティンで異なっているが、どちらにしてもぶつけられる感情は不快には変わりなかった。
「あの方たちも、この村を良くしようと来てくださっているのでしょうけどね……」
「リア、正気? それは絶対に違うよ。確認ごとが終わったらさっさと帰ればいいのに、お役人さんはいつまでもここに居座って事あるごとに馬鹿にしたみたいに言うだろ。僕らを貧乏な田舎者だと思って憂さ晴らししてるんだ。別にこの村のことなんて考えてくれちゃいないんだよ」
マルティンは拗ねたように口を利くと、その後ぼそりとリアに呟いた。
「それに……あのダークエルフの役人さんは、僕と二人きりになった時にすごく睨んでくるんだから」
リアはぱちりと目を瞬かせた。自分は外見を馬鹿にされることは頻繁にあるけれど、強く睨まれたことは一度も無かった。柔和で温厚な礼儀正しいマルティンに対し、なぜそんな態度を取るのだろうとリアは不思議に思った。
「そうなの? マルに対して? ……何でだろう?」
「分からない。何か気に入らないことをしてしまったんだろうけど……。あんな嫌味な奴から嫌われたって、気にするだけ損さ。報告することだけ報告して今日はさっさと切り上げようよ。こんな暑い日に一日がかりでお役人さんたちの応対をするなんて、耐えられない!」
マルティンが汗を拭い、面倒くさそうに報告書をまとめているのを横目で見ながら、リアはそうねと頷いた。
二人の役人は朝訪ねてきて、陽が傾くまでこの村に居座る。
四十人ほどが暮らす小さな村の帳簿には、特に変わり映えのしない収支が記載され続けている。財政状況の確認などすぐ終わるのにも拘らず、ダークエルフの役人ゼルドリックは、重箱の隅を突くように執拗に説明を求め、畑や村の湖畔、山の麓を実際に確認したいと、リアとマルティンに村の案内をさせた。村の隅から隅までを歩き回る羽目になるため、応対の日は肉体的にも精神的にも疲れ切ってしまう。
マルティンと小声で会話をしながら、自警団の朽ちかけた机の上に、茶と報告書を用意して役人たちの到着を待った。少し後ろに倒れただけで嫌な音を立てて軋む小さな椅子に、マルティンが大きな身体を縮こませるようにして座っている。
「僕は……こんなことを言うのは良くないことだって分かっているんだけど、あのダークエルフの役人さんが怖いんだ。エルフって寿命が長くて、皆頭も良くて、色々な魔法が使えるんだろ? 怒らせたら、その魔法で何をされるか分からないから……」
マルティンは緊張した様子で口をもごもごと動かした。
「それに、あのダークエルフの役人さんは僕よりずっと背が大きいし。横は、同じくらいかもしれないけど……」
「マル、大丈夫よ。彼に面倒なことを言われた時は私が対応するからね。それに安心して。力はハーフドワーフの私の方がきっと強いわ。何かあったら任せなさい」
リアは慰めるようにマルの肩を軽く叩いた。マルティンは軽く笑って、リアは頼りがいがあるねと呟いた。
マルティンは今年成人を迎えたばかりの若者だが、一見リアよりもずっと歳上に見えるほど貫禄のある風貌をしていて、横幅が広くたっぷりとした体毛を生やしている。
彼の外見をまるで熊のようだと揶揄う人間もいるが、本人は気弱で心優しく真面目な青年だった。垂れ下がった分厚い眉毛と豊かな髭がドワーフの母を思わせるので、リアはマルティンに強い親しみを感じていた。
リアはマルティンのことをマルという愛称で呼び、このはずれの村に来てからずっと仲良くしてきた。彼はリアにとって、実の弟のような存在だった。
彼は猟銃の扱いが秀でていて、年若いながらも立派に自警団を勤め上げている。自警団内での若者はリアとマルティンの二人だけ。そのため体力の要る役人の応対は、専らリアとマルティンに任されていた。
マルティンが、本当に嫌だというように椅子の上で縮こまり、しきりに窓から外の様子を伺っている。リアは、ゼルドリックから悪意をぶつけられる気弱なマルティンが可哀想だと思った。自分がいくら嫌味を言われようとも、なるべく彼が傷付けられないように守ろうと誓った。
(そろそろかなあ……)
リアが外向きの微笑みを作って扉の方を見ると、ちょうど自警団の扉が乱暴に叩かれた。
「リローラン! ゼルドリック=ブラッドスターだ! 入るぞ!」
こちらの返事も待たずに、ダークエルフの役人ゼルドリックは、ずかずかと狭苦しい自警団の事務所の中に入ってきた。そしてぶつかってしまいそうな程の勢いでリアに近づき、挨拶の言葉を交わさぬままリアの両手を握りこんだ。
強引な、握手と言えないようなものを終えてリアは手を離そうとするものの、ゼルドリックはリアの手首から先を大きな手で握り込み、豆だらけで硬い彼女の手を指でゆっくりと力強くなぞりながら、口の端をくいっと曲げた。
「久しいなあ、リローラン。相変わらず随分と畑仕事に精を出しているようだな。鍬でも持ち続けていたような田舎者の手だ。あれほど手入れには気をつけろと言ったのに、先週よりも硬くなっているな? 挨拶を交わすには、些か硬すぎるのではないか?」
ゼルドリックは嬉しそうに、ねっとりとした言い方でリアの手を腐した。
(……また始まったわ)
ゼルドリック=ブラッドスターは毎週顔を合わせる度に、こうして自分の手を貶して喜ぶ。いちいち傷付いてはいられない、いつものことだとリアは受け流した。
「お世話になっております。ブラッドスター様。仕事が立て込んでおりまして、ここ最近ずっと農具を持っていたので硬くなってしまったのでしょう。不快に思われたなら申し訳ありません」
そう言ってリアは手を引っ込めようとするが、ゼルドリックはなおもリアの手を握り続けた。
リアの小さくて白い手は、ゼルドリックの黒く大きな両手にすっぽりと覆い隠されてしまっている。彼の熱くしっとりとした手の中で、自分の手の皮膚がぐにぐにと弄り倒される感覚を覚えながら、リアは落ち着かない心を鎮めることに努めた。
ゼルドリックは骨張った親指でリアの手の隅々をなぞり、ひび割れやささくれを見つけるとそこをさわさわと擦った。少し痛かったが、リアは微笑んだままこの行為が終わるのを待った。このような強引で不躾な接触を受けるのは、毎週のことであった。
「相も変わらず木の皮のような……硬くてひび割れた手だ。触れている私の手に、傷が付いてしまいそうになるほどにひび割れている。女の手とは思えんな。そして今週は右手にささくれが二つ、左手にささくれが一つ増えている。手入れが足りないのではないか、リローラン?」
ゼルドリックはゆっくりとしつこさを感じさせるような口ぶりでリアの手を評した。リアは彼にこうして貶されることに慣れているとはいえど、やはり傷付いた。異性から身体の手入れが足りないと評されるのは決して気分の良いものではない。それでも微笑みは絶やさず、そうですねと短く受け答えた。
自警団が役場の仕事を兼ねるような小さな小さな村。中央政府勤めのエルフを怒らせたらどうなるか分からない。村のためにも自分のためにも、ここで感情を露にするより受け流す方が賢い。リアはそう自分に言い聞かせ、耐えた。
リアよりもずっと背の高いゼルドリックは、屈むようにしてリアの顔を覗き込んだ。野生的で、威圧感のある顔がリアを見据えている。
肌も髪も服も黒いけれど、ゼルドリックの瞳の色は深い青色だった。その色はきらきらと輝く青い宝石のようで、とみに美しかった。サファイアのような美しさに惹かれ、思わず彼の瞳に見入ってしまったが、ふと、リアは自分のそばかすだらけの顔をじっと見られていることに気がついた。
朝早くから農作業をしていたから化粧もしていないし、もしかしたら汗臭いかもしれない。リアはそう思い、忽ち居た堪れなくなった。
「ブラッドスター様、そろそろ……」
ゼルドリックは羞恥から顔を背けたリアの顔をわざわざ追って覗き込み、ささくれに少しだけ力を込めてなぞった。リアはじくりとした痛みに思わず眉をひそめ、ゼルドリックの目をまた見てしまう。そして自分を見つめる青い瞳の力強さに、リアは思わず息を止めた。
「ああ、離してやるとも……。ただ、この硬い、硬いささくれた指に触れて思い出したことがある。今日は君にこれを恵んでやろう。わざわざこの私が、君のために持ってきてやったものがあるのだ」
ゼルドリックは片手でリアの手をしっかりと握りこんだまま、もう片方の手で胸元から美しい細工が施された貝殻を取り出し、器用にそれを開けた。中には白い軟膏のようなものが詰まっている。ゼルドリックは軟膏をたっぷりと拭い、リアの指一本一本、そして手の平と甲、手首にまで丹念に塗り始めた。ぬるついた軟膏の冷たさとゼルドリックの指の感触に、リアは小さく身体を震わせた。
「あの、これは……?」
訝しげにリアが訊くと、ゼルドリックは唇の端を歪め、リアの耳元まで顔を近づけて囁いた。
「リローラン、分からんかね? これは手に塗るための軟膏だ。全く大したものではないが、こんな田舎に住んでいたらまず見かけることはないような、それなりに良い軟膏だ。君の手がそれ以上硬くなる前にこれを塗ってしっかり治せ。君のひび割れで、私の手に傷が付くようなことがあったら堪らんからな……」
ゼルドリックの指が、リアの手を余すことなくなぞる。温まった軟膏が緩やかに解け、ゼルドリックの指がなめらかにリアの掌を擦った。下から上に、上から下に、強く弱く。その塗り方に対して執拗な何かを感じ、リアの体がじくじくと疼いた。思わず震えてしまうと、ゼルドリックはなお意地悪く唇を歪ませた。
「私手ずから、君のひび割れに指を傷つけられるリスクを冒して丁寧に塗ってやったのだ。感謝したまえよ」
「あ……ありがとうございます」
ゼルドリックはやたらに真白い歯を見せて笑うと、リアの手にしっかりと貝殻を握らせた。軟膏を塗りこまれた手が熱い。化粧を施していない顔をじっくり見られた羞恥、自分の手を揶揄われたことへの悲しさが混じり合い、リアはじくじくと自分の心が痛むのを感じた。
ゆっくりとゼルドリックの手が開かれ、リアの手が空気に晒される。リアが落ち着かない気持ちを必死に抑えつけていると、端で縮こまっていたマルティンが恐る恐る口を開いた。
「ぶ、ブラッドスター様、パルナパ様……。このはずれの村までようこそいらっしゃいました。今週も宜しくお願いいたします。どうぞ、こちらにお掛け下さい……」
マルティンは、軋む椅子をなるべく音を立てないように静かに引きながら、丁寧な姿勢でゼルドリックとその付き人、アンジェロ=パルナパに着席を促した。
「ふん」
リアの手を弄り回した時とは打って変わって、ゼルドリックはマルティンに挨拶を求めることもなく、小さくも嘲るような低い声を出して乱暴に椅子に座った。椅子が軋み耳障りな音を立てると、ゼルドリックは苛立ちを隠そうともせず腕組みをした。たっぷりとした口髭の中で、マルティンがゼルドリックには聞こえないくらいの声で「辛辣だなあ」と呟いたのをリアは聞き取った。
(ブラッドスター様……。マルと私に対する態度は随分違うのよね)
ゼルドリックは自分に対して執拗に手や外見を貶すような言葉を口にし、こちらが傷ついた様な素振りを見せるとそれは嬉しそうにする。だが、マルティンに対してはまるで関わりたくないというような、必要最低限の言葉しか交わさない。自分にするような強引な握手も求めない。
ゼルドリックが取る態度が自分とマルティンでどうしてこんなにも違うのか、リアはずっと不思議に思っていた。
(態度が違うとはいえ、マルも私も嫌われていることに変わりはない。だからそれほど気にする必要はないのだけど……でも、どうしてだろう……)
マルティンは口髭をもごもごと動かし続けている。それは彼がひどく緊張している時の癖だった。リアは辛辣な態度を向けられ、怯えるマルティンに同情した。そして彼をゼルドリックから守らなければと、先程の覚悟を思い出し席についた。
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それどころか、シルヴァードはセレフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。
「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」
「お願い、セレフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」
※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
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