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【番外】脆く儚く美しき者たちへ――7
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彼の悪夢に、百合が咲きました。
曖昧な輪郭の他の木々や家々とは違って、現実と同じく細部まで鮮明な百合の花でした。
初めは一輪だった百合は、やがて悪夢のすべてを埋め尽くして、彼の心の奥深くを白く明るく照らし出しました。
そして――どういうわけか、傷んでいたはずの悪夢はすっかり消え失せていました。
「ありがとうございます。私を眠らせてくれて」
夢の中、私の隣に佇んだ青年が、穏やかに私に笑いかけます。
「……いや」
――現実の座敷牢は、村人に放たれた火によってもう崩れかけていました。
現実での彼の身体も、もうじき燃え尽きるでしょう。
見ていられなくなった私は、青年を無理やり夢の中に引きずり込んだのです。
これで死の苦痛は和らぐことでしょう。
「人間に失望したんじゃないのか?」
青年は、村の人々を救おうとしたのに。
あまりの仕打ちに、私は今度こそ青年が同意すると確信していました。
ですが――
「いいえ。みんな恐怖に我を忘れているだけです。このまま病が治まるならよかった」
「死の間際でさえ神様ごっこをするつもりか」
「違いますよ。どうでもいいんです。どうでもいいから、優しく寛容であれる。今の私にとって重要なことはゆりさんのことだけです」
青年は百合を一輪手に取りました。
「ゆりさんは、私を救おうとしてくれました。ゆりさんにとって私はなんだったのか、今もわかりません。家族のように思っていてくれたのか、大切な幼なじみなのか、もしくは――私と同じように、恋をしてくれていたのか。
でも、ゆりさんがどんな気持ちだったとしてもいいんです。私のことを、人間として愛してくれました。醜い心をあらわにしても許してくれました。
こうして美しい百合を見せてくれました。絶対に、そんなことは叶わないと思っていたのに……っ」
青年の声が涙で揺れました。
それは哀しみではなく、幸せを持て余したせいであふれる涙でした。
「私は、幸せを感じられる今このときに死にたい。村の人たちは、自分でも気づかないうちにその願いを叶えてくれているんです」
一面に咲いた百合の花を、まばゆく優しい夢の中の月光が照らします。
今頃現実で彼の身体を焼いている、村の人々が持つ松明から放たれた赤く醜い炎とはまるで違いました。
◆
こうして、彼は誰一人恨むことなく幸せそうな顔で死んでいきました。
その様はとても儚く、脆く、美しいもので、私の心に強烈に焼き付きました。
私は納得出来ませんでした。
今まで人間はかわいらしいほどに無力で愚かな存在だと思っていましたが、このとき初めて私は人間に対して底の知れない恐ろしさのようなものを感じました。
同時に、絶望の中で青年を救った絶対的な希望――人間が愛と呼ぶものを、その正体を、どうしようもなく知りたくなったのです。
それから私は人間に執着するようになりました。
ただの可愛らしい食料保管庫だとは思えず、もっと彼らを知りたくなりました。
――私は青年を通じて、いつの間にかどうしようもなく人間に魅せられていたのです。
それからまた途方もない年月が経ちました。
人間の社会はあっという間に移り変わっていくものです。
戦争も終わり、穏やかな時代がやってきて、悪夢も気楽なものになっていくかと思われました。
けれど私の予想を裏切って、人間たちは自らを痛めつけることに余念がありませんでした。
痛んだ悪夢は今までと同じように、いえ、今まで以上に蔓延し、人間たちは知らず知らずのうちに悪夢に蝕まれその命を散らしていきました。
私はもどかしく思い、考えました。
孤独に悪夢を渡り歩き過ごすこの永遠とも言える年月を、人間たちの側で過ごす事は出来ないだろうかと。
そしてあわよくば、人間たちが傷んだ悪夢から解放される手伝いを出来ないかと。
幸いにして私は現実で過ごすことができます。
長い年月を生きる中で、人間の姿を真似る術も身につけました。
……そう。私のこの口調と姿は、あの人を真似ているんです。
髪の色と目の色だけは、うまく化けきれなかったんですけども。
でも、今でも鏡を覗き込むととても懐かしい気持ちになります。
想像してみたんです。もし彼が現在に生きていたらどんな人間になっていただろうかと。
彼の優しさは、生き神として祭り上げられたから作られたものではなく、生来のものでした。
座敷牢に閉じ込められながらも世界を美しいものとして捉えるその感性も。
彼はきっと、現代においても、人を慈しみ見守ることを選びます。
初めて彼の姿を借りて現実にやってきた時、私はふとコーヒーの匂いに興味を惹かれてカフェに入りました。
個人経営の喫茶店で、マスターはとても気さくな人でした。
お客さん達がみんなほっとしたような顔でコーヒーや軽食を楽しんでいたことが印象的でした。
人間達にとっての憩いの場。
彼が現代に生きていたらこんな仕事をしていたのではないかと、私はそう感じました。
実は私、それがきっかけになって、今は人間の世界でカフェを開いているんです。
いつもは人間に悪夢を食べさせていただいている身ですが、少しでもお返しがしたくて料理も勉強しました。
ぜひ食べに来てください。ふかふかのベッドもありますよ。
……とお伝えしても、きっと夢から覚めたら私のことなど忘れてしまいますけど。
私は人間達を愛していますが、姿と同じようにこの優しさは借り物です。
けれどこうして真似をすることで、あの人が胸に抱いた希望を、愛を、いつか私も見てみたいんです。
本音を言うと、もう一度あの人に会ってもっと色々と話をしてみたいんですけども。私にとって、初めての人間の友人でしたから。
でも……もし再び出会うことが出来たとしたら、あの人は今の私を見てなんて言うんでしょうね。
私もきっと、昔の私のように素直じゃない言葉を返してしまいそうです。
――寂しそう、ですか? 私が?
大丈夫ですよ。
今の私は、もう一人じゃないので。
友人が出来たんです。二人目の、人間の友人です。
一人目のあの青年とは全く違いますけど、なにもかもを諦めて冷めているフリをするくせに、困っている人を放っておけない、優しい子ですよ。
さてと。
少し長い話になってしまいましたね。あなたを退屈させていないといいのですけど。
さあ、そろそろ目覚めの時間です。
あなたの今夜の悪夢は綺麗さっぱり食べ尽しましたが――もし、明日も悪夢を見てしまいそうだったら。
お昼寝カフェ【BAKU】に来てください。
あなたにまた会えることを、何よりも楽しみにしていますよ。
曖昧な輪郭の他の木々や家々とは違って、現実と同じく細部まで鮮明な百合の花でした。
初めは一輪だった百合は、やがて悪夢のすべてを埋め尽くして、彼の心の奥深くを白く明るく照らし出しました。
そして――どういうわけか、傷んでいたはずの悪夢はすっかり消え失せていました。
「ありがとうございます。私を眠らせてくれて」
夢の中、私の隣に佇んだ青年が、穏やかに私に笑いかけます。
「……いや」
――現実の座敷牢は、村人に放たれた火によってもう崩れかけていました。
現実での彼の身体も、もうじき燃え尽きるでしょう。
見ていられなくなった私は、青年を無理やり夢の中に引きずり込んだのです。
これで死の苦痛は和らぐことでしょう。
「人間に失望したんじゃないのか?」
青年は、村の人々を救おうとしたのに。
あまりの仕打ちに、私は今度こそ青年が同意すると確信していました。
ですが――
「いいえ。みんな恐怖に我を忘れているだけです。このまま病が治まるならよかった」
「死の間際でさえ神様ごっこをするつもりか」
「違いますよ。どうでもいいんです。どうでもいいから、優しく寛容であれる。今の私にとって重要なことはゆりさんのことだけです」
青年は百合を一輪手に取りました。
「ゆりさんは、私を救おうとしてくれました。ゆりさんにとって私はなんだったのか、今もわかりません。家族のように思っていてくれたのか、大切な幼なじみなのか、もしくは――私と同じように、恋をしてくれていたのか。
でも、ゆりさんがどんな気持ちだったとしてもいいんです。私のことを、人間として愛してくれました。醜い心をあらわにしても許してくれました。
こうして美しい百合を見せてくれました。絶対に、そんなことは叶わないと思っていたのに……っ」
青年の声が涙で揺れました。
それは哀しみではなく、幸せを持て余したせいであふれる涙でした。
「私は、幸せを感じられる今このときに死にたい。村の人たちは、自分でも気づかないうちにその願いを叶えてくれているんです」
一面に咲いた百合の花を、まばゆく優しい夢の中の月光が照らします。
今頃現実で彼の身体を焼いている、村の人々が持つ松明から放たれた赤く醜い炎とはまるで違いました。
◆
こうして、彼は誰一人恨むことなく幸せそうな顔で死んでいきました。
その様はとても儚く、脆く、美しいもので、私の心に強烈に焼き付きました。
私は納得出来ませんでした。
今まで人間はかわいらしいほどに無力で愚かな存在だと思っていましたが、このとき初めて私は人間に対して底の知れない恐ろしさのようなものを感じました。
同時に、絶望の中で青年を救った絶対的な希望――人間が愛と呼ぶものを、その正体を、どうしようもなく知りたくなったのです。
それから私は人間に執着するようになりました。
ただの可愛らしい食料保管庫だとは思えず、もっと彼らを知りたくなりました。
――私は青年を通じて、いつの間にかどうしようもなく人間に魅せられていたのです。
それからまた途方もない年月が経ちました。
人間の社会はあっという間に移り変わっていくものです。
戦争も終わり、穏やかな時代がやってきて、悪夢も気楽なものになっていくかと思われました。
けれど私の予想を裏切って、人間たちは自らを痛めつけることに余念がありませんでした。
痛んだ悪夢は今までと同じように、いえ、今まで以上に蔓延し、人間たちは知らず知らずのうちに悪夢に蝕まれその命を散らしていきました。
私はもどかしく思い、考えました。
孤独に悪夢を渡り歩き過ごすこの永遠とも言える年月を、人間たちの側で過ごす事は出来ないだろうかと。
そしてあわよくば、人間たちが傷んだ悪夢から解放される手伝いを出来ないかと。
幸いにして私は現実で過ごすことができます。
長い年月を生きる中で、人間の姿を真似る術も身につけました。
……そう。私のこの口調と姿は、あの人を真似ているんです。
髪の色と目の色だけは、うまく化けきれなかったんですけども。
でも、今でも鏡を覗き込むととても懐かしい気持ちになります。
想像してみたんです。もし彼が現在に生きていたらどんな人間になっていただろうかと。
彼の優しさは、生き神として祭り上げられたから作られたものではなく、生来のものでした。
座敷牢に閉じ込められながらも世界を美しいものとして捉えるその感性も。
彼はきっと、現代においても、人を慈しみ見守ることを選びます。
初めて彼の姿を借りて現実にやってきた時、私はふとコーヒーの匂いに興味を惹かれてカフェに入りました。
個人経営の喫茶店で、マスターはとても気さくな人でした。
お客さん達がみんなほっとしたような顔でコーヒーや軽食を楽しんでいたことが印象的でした。
人間達にとっての憩いの場。
彼が現代に生きていたらこんな仕事をしていたのではないかと、私はそう感じました。
実は私、それがきっかけになって、今は人間の世界でカフェを開いているんです。
いつもは人間に悪夢を食べさせていただいている身ですが、少しでもお返しがしたくて料理も勉強しました。
ぜひ食べに来てください。ふかふかのベッドもありますよ。
……とお伝えしても、きっと夢から覚めたら私のことなど忘れてしまいますけど。
私は人間達を愛していますが、姿と同じようにこの優しさは借り物です。
けれどこうして真似をすることで、あの人が胸に抱いた希望を、愛を、いつか私も見てみたいんです。
本音を言うと、もう一度あの人に会ってもっと色々と話をしてみたいんですけども。私にとって、初めての人間の友人でしたから。
でも……もし再び出会うことが出来たとしたら、あの人は今の私を見てなんて言うんでしょうね。
私もきっと、昔の私のように素直じゃない言葉を返してしまいそうです。
――寂しそう、ですか? 私が?
大丈夫ですよ。
今の私は、もう一人じゃないので。
友人が出来たんです。二人目の、人間の友人です。
一人目のあの青年とは全く違いますけど、なにもかもを諦めて冷めているフリをするくせに、困っている人を放っておけない、優しい子ですよ。
さてと。
少し長い話になってしまいましたね。あなたを退屈させていないといいのですけど。
さあ、そろそろ目覚めの時間です。
あなたの今夜の悪夢は綺麗さっぱり食べ尽しましたが――もし、明日も悪夢を見てしまいそうだったら。
お昼寝カフェ【BAKU】に来てください。
あなたにまた会えることを、何よりも楽しみにしていますよ。
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