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【番外】脆く儚く美しき者たちへ――4

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 事件が起きたのは翌日のことでした。

「てめえ、うちの女房をそそのかしやがって。この化け物が!」
「やめて!」

 夜空の下、格子窓越しに青年を罵るひょろりとした男と、それを止めようとするゆりさんの姿がありました。
 私は夢のふちからその様子を眺めています。

「なんとか言えよ、ほら! 神の化身だなんだってあがめられたって、ただの気色悪い人間じゃねえか」

 男は青年に手を伸ばし、鉄格子の隙間から白い着物を着たその胸倉を掴み上げました。
 青年はなにも言わずに、静かな瞳でじっと男を見つめています。
 ゆりさんは慌てたように男に縋りつきました。

「何してるの、放し――」
「うるせえ! 何度この蔵には近づくなって言ったって聞きやしねえ。まさかこいつに惚れてんのか?」

 男の剣幕を見て、ゆりさんの目元にあった痣の理由を、私たちはなんとなく察することが出来ました。

「私にそんな命令しないで! この人は小さな頃から私の友達なの。気色悪いだの化け物だの、そんなこと言わないで」

 ゆりさんの言葉に、男はますます激昂したようでした。
 止める間もなく空いている方の手を振り上げ、ゆりさんを突き飛ばします。

「っ……」

 青年の平静を保っていた表情が、一瞬にして崩れました。

「このひとを責めるのはお門違いです」
「ああ? 黙ってろ!」

 男が再び青年に向き直ったその瞬間。
 青年が格子窓から両腕を出し、男の胸を突き飛ばしました。

 ――それは、私から見れば運が悪かったとしか言えないものでした。

 男は仰向けに倒れ、動かなくなりました。どうやら倒れた先の地面に岩があり、ちょうど頭のあたりを打ったようでした。
 静寂が辺りを包み込み、青年もゆりさんも、その場に立ち尽くしました。
 やがて、ぴく、と男の指先が動きました。

「お前……なにを……」

 男は憔悴したような様子でゆっくりと起き上がります。
 茫然とした様子からどうやら軽い脳震盪を起こしていたようでしたが、命に別状はないようでした。
青年は深い安堵のため息を漏らしました。そして、静かな瞳をゆりさんの方へと向けます。

「ゆりさん。もう来ないでください。あなたの顔は見たくありません」
 


「私は無力です。本当に神になったつもりでいたわけではありませんけど……まさかこれほどとは」

 日が落ち暗くなった座敷牢の中で、青年はぽつりとそう零しました。
 誰に宛てたものでもないと分かってはいましたが、私はじっとその言葉の続きを待ちました。

「望まれぬ存在である自分がここに閉じこもっていれば、なにもかもうまくいくような気がしていました。私を化け物として――あるいは神としてここに幽閉することで、村の人たちはいがみ合うこともなく平和に暮らせるのだと、そんな思い込みの上に日々を積み上げていました」

 それは、この座敷牢から出られない己を納得させるためだったのでしょうか。

「この牢の外には、平和で穏やかな世界が広がっているものだと、そう思っていました。私のような異形が目にすることは出来ない楽園がそこにあるのだと。愚かですね」

 私は彼の悪夢を思い出しました。
 美しく空虚で曖昧な世界。
 彼が思い描いていたそれは、自分は決して存在することのできない理想郷だったのでしょう。
 今思えば、あの悪夢の中で青年が空として存在していたかも定かではありません。
 青年は『自分のいない美しい世界』を思い描いていたのですから。

「ここに度々訪れるゆりさんは、いつも周囲からそれを咎められてきました。時には暴力を受けてまで。……私は、存在することそのものが罪なのでしょうか」
「憎めばいい」
「え?」

 私の言葉に、青年は驚いたように顔を上げます。

「自分の存在に罪悪感を抱くよりも、村人達を憎めばいい。お前は何一つ悪いことなどしていないだろう」

 私が知る限りの人間の心理と照らし合わせても、それは当然のことのように思えました。
 蔑ろにされたなら怒りを示すべきです。
 その怒りすらぶつけることが出来ないのなら、せめて憎んでしまえばよいと、私は青年に言いました。
 けれど青年は、静かに首を横に振りました。

「そういうわけにはいきません。みんな、ただ怖いだけなんです」
「は?」

 青年の言葉に、今度は私が素っ頓狂な声を上げます。

「自分と違う存在に恐怖を抱くその気持ちは、きっと本能的なものです。自分のため、ひいては自分が属する共同体を守るためのもの。それはきっと、身近な誰かを愛する気持ちと通じています」
「だから虐げられても憎むことは出来ないと言うのか。愚かなことだ」
「人間はせいぜい100年しか生きられませんから。正しい選択はもちろん、自分にとって一番都合の良い選択を選ぶことすら、容易ではありません。村人たちも、もちろん私も」

 青年の理論は、自らの感情とは切り離されていました。
 自分自身に刃を向ける者たちの側に立つようなその発言を優しさと言って良いのかどうか、私には判別がつきませんでした。

「触るか?」

 当時人間を慰める言葉など持たなかった私は、迷った末に肉球を差し出しました。
 青年は一瞬きょとんとした後、笑みを浮かべます。

「あなたは優しい獣ですね」
「人間にそんなことを言われたのは初めてだ」

 私は少し驚きましたが、悪い気分ではありませんでした。



 青年の悪夢が傷み始めていることに気付いたのは、数日後のことです。

 かつて歪みながらも美しさを誇っていた景色は荒み、濁って、一面に赤黒い絵の具をぶちまけたような異様な光景に塗り替えられていました。
 以前偶然出会った老獣の言葉が頭をよぎります。

『こいつの悪夢はもう駄目だ。傷んじまってる。本人もそう長く持たないだろう』

 食べられることのない悪夢に気付いた私は、再び現実へとやってきました。
 まだ眠っている青年の脇をすり抜け、私は座敷牢から抜け出しました。
 現実においては、私は人間が夢を見ている時と同じように、ある程度物理的な制限から逃れることができます。

 蔵を離れた私は、村の中心に向かいました。
 もう夜更けをまわっていましたが、いくつかの家に蝋燭の明かりが灯っています。
 私は手近な家の村人の夢の中に入り込みました。

 青年の言う通り、悪夢を一目見て察することが出来るほど、村人たちの間には恐怖が蔓延っていました。

 しかしその原因は青年ではないようです。

 ふと、ゆりさんが言っていた『伝染病』についての話が脳裏をかすめました。
 私は村人の夢から夢へとうつり、悪夢の中にまで死の匂いを運んでくる恐怖の正体を突き止めました。
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