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第17話 試飲会
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世の中には、罪悪感も持たずに、科学的根拠のないことを平気でのたまうことが出来る人種がいる。
怪しい思想を妄信するがゆえに。
……あるいは、単なる金儲けのために。
後者に関しては、今俺の目の前にいるこの後輩が良い例だった。
「おばあちゃん、よかったらこのお水飲んでみませんか? 飲み続ければリューマチもたちどころに治りますよ!」
「あらまぁ、本当かい?」
「ん゛ん゛っ」
俺は思わず不自然な咳ばらいをし、紙コップを渡そうとしている後輩とおばあちゃんの間に自分の身体を滑り込ませた。
「ご興味をお持ちいただきありがとうございます。しかしですね、健康維持の助けとなるような製品ではありますが、決して不思議な力で病気が治るなどということは――」
ぽかんとしているおばあちゃんに、俺はやんわりとウォーターサーバーのミラクルな効果を否定し、現実的なメリットについて話し始めた。
――ここは、中型ショッピングモールの店内。
都内ではあるものの、栄えている駅やビル街から微妙に距離があるこの地域は、上品なお年寄りが多い街だった。
俺たちは、下りのエスカレーター近くのホールにこれ見よがしに試飲ブースを設置し、せっせと客に自社のウォーターサーバーから汲んだ水を差し出していた。
基本的にうちの会社のウォーターサーバーは業務用だが、この度個人向けにもお手頃価格で家庭内に設置できるウォーターサーバーを販売することになった。
かくしてわが社は、「健康に気を遣っていて、ある程度裕福なお年寄り」をターゲットにし、こうして宣伝活動を行っているのだ。
まあ、そこはかとなく羽毛布団の訪問販売みを感じないわけでもないが、確かに悪くない戦略だと俺も思う。
なんせ、お年寄りがスーパーで水を買うのは一苦労だ。
ウォーターサーバーを設置しておけば、定期的なメンテナンスも、水の補充も、うちの会社が請け負うことになっている。
その利便性を考えれば、怪しげな効果など吹聴しなくとも充分な宣伝ができるだろう。
この世の怪しげな話は、全て人間の希望と不安を同時に煽るようにできている。
不安を煽れば人は買わずにはいられなくなると分かっていても、俺は人間として最低限の倫理観を持って仕事がしたかった。
まあ、とはいえ……つい先日まで不思議なことなど世の中にはないと思っていた俺も、あのカフェの存在を知り、他人の悪夢の中にまで入ってしまった今となっては、非科学的なことをまるきり否定する自信はなくなってしまったが。
「丁寧に説明してくれてありがとうね。チラシもらっていくわ」
「ありがとうございます!」
俺は笑顔でおばあちゃんに礼を言ってから、後輩の腕を掴んでブースの奥へと引っ張った。
「おいこらちょっとこっち来い」
「……先輩、目が死んでるっすよ」
「死にもするわ! お前、詐欺の自覚はあるか? 薬事法って知ってるか?」
嫌味を込めてそう尋ねると、後輩はふふん、と得意げに笑った。
「口頭なら証拠もないでしょ。考えすぎですよ」
「バレるかバレないかじゃない! 道徳の問題だこれは」
年金暮らしのおばあちゃんを騙すなんて、お前は人間のクズか。
明らかにまともに働くよりも詐欺グループの下っ端の方が合ってそうなこの後輩は、入社当初から俺と反りが合わない。
しかしまあ、同じく道徳観念が欠如した小悪党みたいな一部の上層部とはうまくやっているようだ。
契約さえ取れればそれでいい。そう考える人間は少なくない。
「おれ夢だったんっすよね。こうやって適当なこと言ってるだけで儲かるちょろい商売するの。向こうも信じて水買うわけだし、win-winじゃないっすか」
しれっと言い放たれた台詞に、俺は呆れてものも言えなくなった。
ただし――へらへらした笑顔でのたまうこの台詞が、本心からのものかどうか、俺には判別がつかない。
ふとそんな考えが頭によぎったのは、マイの夢での一件があったからだろう。
人の心なんて分からない。
第一、自分の心を正確に量ることさえ、人間には難しい。
数日前に夢見から聞いた話が脳裏に蘇えった。
曰く――人間は、自分でさえも意識できない心の領域を持っている。
それは夢に現れるらしいのに、目が覚めたら自分がどんな夢を見ていたかなんて綺麗さっぱり忘れてしまうことがほとんどだ。
不可解な生き物だと、自分でもそう思う。
だいたい、なんで俺はこんな仕事に精を出してるんだ?
愚痴り、会社の将来を悲観しながら仕事をするということは、もしかしたら自分の意思で進んで仕事をしているこの後輩よりも罪が重いのではないだろうか。
かと言っていますぐ職を変えようとは思えない。……それは、なぜだ?
俺の今の状態は、『全てを諦め、ゆえに絶望もしていない』のだと、夢見は以前言っていた。
深い諦念というものは、こんなにも漠然としていて、原因さえもよく分からないものなんだろうか?
それとも――俺の深層心理の奥底、不可侵の領域に、俺が忘れた何かが沈められているせいなのだろうか。
「すみませーん。このチラシ貰っていいですか?」
客に話しかけられて、俺ははっと我に返った。
「あっ、はい、どうぞ。試飲はいかがですか?」
その後は、いつも通り。
俺はそこそこ愛想のいい営業マンとして、客に笑顔を振りまいた。
◇
試飲イベントは、午後2時半に終わった。
いったん帰社してから、手早く来場者のデータや購入検討者の記入書類を整理し、早めに上がる。
時刻は夕方5時。
仕事上がりにしては随分と早い時間だが、考えてみれば土曜日の今日は本来休日だった。
冬の空はもう真っ暗だというのに、大通りは人でにぎわい、華やかな雰囲気だった。
せっかくなら俺もどこかに寄ろうかと思ったが、特に行きたい場所があるわけでも、会いたい人がいるわけでもない。
自宅のアパートに帰ってもテレビくらいしかないし、あの店に帰っても、人間のフリしたバクと毒舌幼女しかいない。
”傷んだ悪夢”の駆除を手伝うことを条件にカフェ【BAKU】の空き部屋を間借りするようになってから、いつの間にか数日が経っていた。
ウォーターベッドは相変わらず最高の寝心地だし、夢見がいるおかげか、あの現実なのか夢なのか区別がつかない明晰夢を見ることもなくなった。
朝までぐっすり眠って、スープの良い匂いで目を覚ます。
前日の帰りが遅くて寝坊しそうになった時は、開店準備のために早めにやってきた幸世が面倒くさそうに起こしてくれた。
”傷んだ悪夢”に浸食されている客も今はマイしかいないらしく、俺は特にすることもない。
正直、快適すぎてダメ人間になる予感しかしなかった。
もちろんアパートも解約はしていないが、独り暮らしの部屋に特に執着があるわけでもなく、荷物を取りに戻る時以外はすっかり入り浸りだ。
だが、気がかりなことがひとつだけあった。あれからマイが姿を見せていない。
……まあ、きっと仕事で忙しくしているのだろう。考えてみればまだ1週間しか経っていない。
けれどふとした瞬間に、現場でマネージャーに頬を叩かれ、なおも平気そうに笑っていたマイの顔を思い出してしまう。
あんな場面を見たのが最後なら、心配になるのも無理はないだろう。
「……寒っ」
冷たい冬の風は、独り身に容赦がない。
ポケットに手を突っ込んで歩いていると――唐突に、腕と体の隙間から、誰かの細い手が生えてきた。
「うお!?」
「あっはは、そんなに驚かなくてもいいでしょ」
すぐ近くで明るい声が聞こえて、やっとその手の持ち主の顔を見る。
少しずらしたサングラスから、明るい灰色の瞳がのぞき、悪戯っぽく俺を見上げていた。
「マイ……!?」
まさかこんなところで遭うとは。
マイは鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌な顔で、俺と強引に腕を組んだ。
「今はマイって呼ばないで。プライベートだから気付かれたくないんだよね」
「じ……じゃあなんて呼べばいいんだよ」
「うーん、マイコとか? まぁそのあたりで!」
適当なことを言って、マイはそのままぐいぐいと俺を引っ張っていく。
「ちょっと待て。どこに行くつもりだ?」
「え? だってせっかく会ったんだし、ちょっと付き合ってよ」
「なにに」
「デート」
「はぁ!?」
「ほら行くよっ」
さも当然だと言わんばかりに返されて、あとはもう、俺に拒否権などありはしなかった。
怪しい思想を妄信するがゆえに。
……あるいは、単なる金儲けのために。
後者に関しては、今俺の目の前にいるこの後輩が良い例だった。
「おばあちゃん、よかったらこのお水飲んでみませんか? 飲み続ければリューマチもたちどころに治りますよ!」
「あらまぁ、本当かい?」
「ん゛ん゛っ」
俺は思わず不自然な咳ばらいをし、紙コップを渡そうとしている後輩とおばあちゃんの間に自分の身体を滑り込ませた。
「ご興味をお持ちいただきありがとうございます。しかしですね、健康維持の助けとなるような製品ではありますが、決して不思議な力で病気が治るなどということは――」
ぽかんとしているおばあちゃんに、俺はやんわりとウォーターサーバーのミラクルな効果を否定し、現実的なメリットについて話し始めた。
――ここは、中型ショッピングモールの店内。
都内ではあるものの、栄えている駅やビル街から微妙に距離があるこの地域は、上品なお年寄りが多い街だった。
俺たちは、下りのエスカレーター近くのホールにこれ見よがしに試飲ブースを設置し、せっせと客に自社のウォーターサーバーから汲んだ水を差し出していた。
基本的にうちの会社のウォーターサーバーは業務用だが、この度個人向けにもお手頃価格で家庭内に設置できるウォーターサーバーを販売することになった。
かくしてわが社は、「健康に気を遣っていて、ある程度裕福なお年寄り」をターゲットにし、こうして宣伝活動を行っているのだ。
まあ、そこはかとなく羽毛布団の訪問販売みを感じないわけでもないが、確かに悪くない戦略だと俺も思う。
なんせ、お年寄りがスーパーで水を買うのは一苦労だ。
ウォーターサーバーを設置しておけば、定期的なメンテナンスも、水の補充も、うちの会社が請け負うことになっている。
その利便性を考えれば、怪しげな効果など吹聴しなくとも充分な宣伝ができるだろう。
この世の怪しげな話は、全て人間の希望と不安を同時に煽るようにできている。
不安を煽れば人は買わずにはいられなくなると分かっていても、俺は人間として最低限の倫理観を持って仕事がしたかった。
まあ、とはいえ……つい先日まで不思議なことなど世の中にはないと思っていた俺も、あのカフェの存在を知り、他人の悪夢の中にまで入ってしまった今となっては、非科学的なことをまるきり否定する自信はなくなってしまったが。
「丁寧に説明してくれてありがとうね。チラシもらっていくわ」
「ありがとうございます!」
俺は笑顔でおばあちゃんに礼を言ってから、後輩の腕を掴んでブースの奥へと引っ張った。
「おいこらちょっとこっち来い」
「……先輩、目が死んでるっすよ」
「死にもするわ! お前、詐欺の自覚はあるか? 薬事法って知ってるか?」
嫌味を込めてそう尋ねると、後輩はふふん、と得意げに笑った。
「口頭なら証拠もないでしょ。考えすぎですよ」
「バレるかバレないかじゃない! 道徳の問題だこれは」
年金暮らしのおばあちゃんを騙すなんて、お前は人間のクズか。
明らかにまともに働くよりも詐欺グループの下っ端の方が合ってそうなこの後輩は、入社当初から俺と反りが合わない。
しかしまあ、同じく道徳観念が欠如した小悪党みたいな一部の上層部とはうまくやっているようだ。
契約さえ取れればそれでいい。そう考える人間は少なくない。
「おれ夢だったんっすよね。こうやって適当なこと言ってるだけで儲かるちょろい商売するの。向こうも信じて水買うわけだし、win-winじゃないっすか」
しれっと言い放たれた台詞に、俺は呆れてものも言えなくなった。
ただし――へらへらした笑顔でのたまうこの台詞が、本心からのものかどうか、俺には判別がつかない。
ふとそんな考えが頭によぎったのは、マイの夢での一件があったからだろう。
人の心なんて分からない。
第一、自分の心を正確に量ることさえ、人間には難しい。
数日前に夢見から聞いた話が脳裏に蘇えった。
曰く――人間は、自分でさえも意識できない心の領域を持っている。
それは夢に現れるらしいのに、目が覚めたら自分がどんな夢を見ていたかなんて綺麗さっぱり忘れてしまうことがほとんどだ。
不可解な生き物だと、自分でもそう思う。
だいたい、なんで俺はこんな仕事に精を出してるんだ?
愚痴り、会社の将来を悲観しながら仕事をするということは、もしかしたら自分の意思で進んで仕事をしているこの後輩よりも罪が重いのではないだろうか。
かと言っていますぐ職を変えようとは思えない。……それは、なぜだ?
俺の今の状態は、『全てを諦め、ゆえに絶望もしていない』のだと、夢見は以前言っていた。
深い諦念というものは、こんなにも漠然としていて、原因さえもよく分からないものなんだろうか?
それとも――俺の深層心理の奥底、不可侵の領域に、俺が忘れた何かが沈められているせいなのだろうか。
「すみませーん。このチラシ貰っていいですか?」
客に話しかけられて、俺ははっと我に返った。
「あっ、はい、どうぞ。試飲はいかがですか?」
その後は、いつも通り。
俺はそこそこ愛想のいい営業マンとして、客に笑顔を振りまいた。
◇
試飲イベントは、午後2時半に終わった。
いったん帰社してから、手早く来場者のデータや購入検討者の記入書類を整理し、早めに上がる。
時刻は夕方5時。
仕事上がりにしては随分と早い時間だが、考えてみれば土曜日の今日は本来休日だった。
冬の空はもう真っ暗だというのに、大通りは人でにぎわい、華やかな雰囲気だった。
せっかくなら俺もどこかに寄ろうかと思ったが、特に行きたい場所があるわけでも、会いたい人がいるわけでもない。
自宅のアパートに帰ってもテレビくらいしかないし、あの店に帰っても、人間のフリしたバクと毒舌幼女しかいない。
”傷んだ悪夢”の駆除を手伝うことを条件にカフェ【BAKU】の空き部屋を間借りするようになってから、いつの間にか数日が経っていた。
ウォーターベッドは相変わらず最高の寝心地だし、夢見がいるおかげか、あの現実なのか夢なのか区別がつかない明晰夢を見ることもなくなった。
朝までぐっすり眠って、スープの良い匂いで目を覚ます。
前日の帰りが遅くて寝坊しそうになった時は、開店準備のために早めにやってきた幸世が面倒くさそうに起こしてくれた。
”傷んだ悪夢”に浸食されている客も今はマイしかいないらしく、俺は特にすることもない。
正直、快適すぎてダメ人間になる予感しかしなかった。
もちろんアパートも解約はしていないが、独り暮らしの部屋に特に執着があるわけでもなく、荷物を取りに戻る時以外はすっかり入り浸りだ。
だが、気がかりなことがひとつだけあった。あれからマイが姿を見せていない。
……まあ、きっと仕事で忙しくしているのだろう。考えてみればまだ1週間しか経っていない。
けれどふとした瞬間に、現場でマネージャーに頬を叩かれ、なおも平気そうに笑っていたマイの顔を思い出してしまう。
あんな場面を見たのが最後なら、心配になるのも無理はないだろう。
「……寒っ」
冷たい冬の風は、独り身に容赦がない。
ポケットに手を突っ込んで歩いていると――唐突に、腕と体の隙間から、誰かの細い手が生えてきた。
「うお!?」
「あっはは、そんなに驚かなくてもいいでしょ」
すぐ近くで明るい声が聞こえて、やっとその手の持ち主の顔を見る。
少しずらしたサングラスから、明るい灰色の瞳がのぞき、悪戯っぽく俺を見上げていた。
「マイ……!?」
まさかこんなところで遭うとは。
マイは鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌な顔で、俺と強引に腕を組んだ。
「今はマイって呼ばないで。プライベートだから気付かれたくないんだよね」
「じ……じゃあなんて呼べばいいんだよ」
「うーん、マイコとか? まぁそのあたりで!」
適当なことを言って、マイはそのままぐいぐいと俺を引っ張っていく。
「ちょっと待て。どこに行くつもりだ?」
「え? だってせっかく会ったんだし、ちょっと付き合ってよ」
「なにに」
「デート」
「はぁ!?」
「ほら行くよっ」
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