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第1話 悪夢のような日々と、いつかのウォーターベッド
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『この世に嫌な人なんていない。いるのは寂しい人と、悲しい人だけ』
浴びせかけられるやかましい雑音を聞き流しながら、俺はいつか見たドラマの台詞をぼんやりと思い出していた。
それは、商店街の人々の人間関係を描く、ハートフルなストーリーだった。
ある日、近くにできた大型ショッピングセンターによって、昔ながらの商店街は経営の危機に陥る。
そこで商店街に軒を連ねる者たちが立ち上がり、お互いに衝突を繰り返しながら、廃れかけた商店街を盛り上げていく……というよくあるようなストーリーだ。
この性善説に基づきまくった台詞を口にしたのは、本屋の娘役をあてがわれたアイドルだった。
どこか憎めないおバカタレント兼アイドルとしてバラエティでも活躍している子だったが、このドラマでは一転真面目で知的な女の子という役柄を演じ、一時期話題になった。
そのギャップが印象的だったせいかもしれない。こんなにも同意できない台詞を、いまだに覚えているのは。
「――おい。……おい、聞いてんのかお前!」
やかましい雑音が急に大きくなって、俺の耳朶を打つ。
「あ、はい」
思わず気の抜けた相槌を打ってしまった。
目の前にいる、整体スタジオのオーナーがますます眉を吊り上げる。
妙にガタイが良く、おまけに見事なスキンヘッドでそれなりに迫力があった。
冬なのに腕まくりをしているのは、その見事な筋肉を見せびらかすためなのかもしれない。
「お前んとこのウォーターサーバーの水、変な味がするんだよ。まさか妙なもんが入ってんじゃねえだろうな?」
水素が入っておりますが。
……という答えを期待しているわけじゃないのだろう。
なぜならこの人は、薬事法に引っかかりそうな怪しい売り文句に惹かれて、こうして弊社のウォーターサーバーの水を定期購入をしているのだから。
「不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。とりあえず今日はこちらの在庫を持ち帰らせていただき、品質の調査をするお時間を頂けないでしょうか?」
「ああ!? 調査だぁ!? 俺の言うこと信じてねえってことかよ!」
そうですぅ。だってあなた来るたびに難癖つけるじゃないですか。
頭に浮かんだ言葉は、決して口にも顔にも出してはいけない。
ここの店は、なんだかんだ言いながら長いこと契約してくれている。
機嫌を損ねて競合に乗り換えられるくらいなら、素直に頭を下げて目の前のじじいのストレス解消に付き合った方がメリットが大きいのだ。
ああ。俺はいつの間にか、打算的で夢のない大人になってしまった。
整体スタジオにあった在庫のタンクを運び出し、近くのコンビニから本社へと返送する。
疲れた。ぐったりしながらコンビニを出て、俺は腕時計を確認した。
時刻はまもなく13時。
遅めの昼食を摂るべき頃合いだったが、あいにく腹は減ってない。
「それよりも、眠てえな……」
陽の光が目に沁みる。
毎日たいして良いものだと思わないような水を売り、ノルマの達成のために歩き回り、上司に理不尽な叱責を受け、深夜くたくたで家に帰るのだ。
そして夜は悪夢を見る。
最近の俺は、夢の中でさえ、説明用のパンフレットを持ち、必死で売り込みをしているのだ。時には上司に怒られもする。
一番最悪なのは、夢の中で「これは夢だ」と分かってしまうことだ。
俺は子どもの頃からそういう夢を見ることが多かった。
だから、能天気な夢ばかり見ていたころは、眠っている時間が一番楽しかった。
現実では出来ないようななこと――例えば空を飛んだり、プリンのプールに入ったり――が、自由自在に出来るからだ。
しかし、こうしてきわめて現実に近い悪夢を見るとなると、深刻な問題が浮上してくる。
最初は、夢だからと上司に罵詈雑言を返してみたり、客の前で水のタンクに穴をあけて、即席噴水よろしくひたすら放水してみたりとそれなりに楽しんだ。
しかし、次第に恐ろしいことに気づいた。
夢の状況設定が日常と酷似しているせいで、夢と現実の区別が曖昧になってきたのだ。
こうなってくると、実際に現実で奇行に走ってしまうのも時間の問題だった。
さすがにそれはまずい。
社会的生命が脅かされる恐怖から、俺は夢の中でも最低限従順な社畜を演じるようになった。
そんなわけだから、疲れがちっとも取れないのも当然といえば当然だ。
起きても眠っても、好きでもない仕事に忙殺される日々。
こんな時、愛する家族でもいれば違うのかもしれないと夢想する。
家に帰ったとたん、笑顔の嫁に出迎えられ、食卓には食事が並び、風呂に入った後に可愛い子どもの寝顔をそっと覗く。
そして「明日もがんばるぞ!」と密かに決意を固めるのだ。
だが、独り身のアラサーに待っている現実はこうだ。
迎えてくれるのは掃除すら行き届いていない一人暮らしの部屋。
食事はコンビニのお惣菜と缶ビール。
風呂は沸かすのが面倒だからたいていシャワー。
寂しさの極みである。
まあ、万が一結婚できたとしても、大抵は共働きだ。
仕事から帰って癒してもらおうなんぞ、都合のいい考えである。
「はあ……」
押し寄せる虚しさが、俺のやる気をさらに削り取り、空の彼方へと連れ去っていく。
こうなったら、少しネットカフェで寝ていくか。
幸い、今日のルート営業は終えた。あとは新規開拓……になるのだが、今月はもう少しのんびりしていても大丈夫そうだ。
再び歩き始めた俺の視界に、ふと、見慣れない店の看板が飛び込んでくる。
「『お昼寝カフェ【BAKU】』……?」
素朴な木目調の看板には、ポップな文字でそう書かれていた。
隣に描かれた白い動物は、羊だろうか。
それにしてはシルエットがシュッとしている。
目を凝らしてよく見てみると、それは、豹のようなチーターのような、ネコ科と思しき生き物だった。
なぜ豹……?
そのまままじまじと看板を眺めていると、中から店員らしき眼鏡をかけた優男が出てきた。
俺に気付いて、その顔に柔和な笑みを浮かべる。
「おや……お客様ですか? いらっしゃいませ。今ならすぐベッドにご案内できますよ」
なるほど。お昼寝カフェとは、文字通りベッドでお昼寝が出来るカフェらしい。
ネットカフェよりもよほど落ち着いて体を休められそうだ。
「……お願いします」
「はい、かしこまりました」
店員はにっこりとした笑みを浮かべ、俺を店内へと案内した。
コーヒーの香りが漂ってきて、そっと鼻腔をくすぐる。どうやら他に客はいないようだ。
カウンター席4つと、奥にテーブルが2つ。こじんまりとしていて、隠れ家的な雰囲気だ。
木目調で統一されたカフェの店内は、外とは違う、ゆったりとした時間が流れているように思えた。
天井を見上げると、雲を模した形のライトが、柔らかな暖色の明かりを灯していた。
そして奥には、看板にもあった謎のネコ科の生き物が、可愛らしくデフォルメされて描かれたドアが見える。
店員の男は、俺をカウンターの前に連れていくと、店のシステムの説明を始めた。
ベッドの利用は、30分300円。
ネットカフェと比べると割高だが、こだわり抜いた最高級の寝具を使用しているらしい。
貸し出しの目覚ましは腕時計型デバイスで、起きる時間を登録しておくと振動で起こしてくれるそうだ。
それでも起きない場合には、きちんと声をかけてくれると言う。
ふむ。どんな変わり種のカフェかと思ったら、案外きちんとしている。
利用時間を問われ、俺は1時間ほど眠ることにした。
ちなみにカフェの利用は時間無制限で、ベッドの利用者にはサービスとして紅茶かコーヒーがついてくるらしい。
「飲み物はコーヒーでお願いします」
「かしこまりました。お客様によっては、先にお飲み物を飲んでカフェインを摂ってから寝るようにしている方もいらっしゃるのですが……カフェのご利用とベッドのご利用、どちらを先になさいますか?」
「ベッドが先で」
物珍しさにいったんは目が冴えてしまったが、店員の特徴ある落ち着いた声を聞いているうちに、また眠くなってきた。
最高級ベッドとやらに今すぐ寝転がりたい。
そんな俺の顔は相当眠そうだったのか、店員が小さくくすりと微笑んだ。
どこか中性的な笑い方だ。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
白いネコ科(仮)のドアの方へと案内される。
近づくと、吹き出し型のPOPに「おやすみなさい。良い夢を」というセリフが書かれているのが見えた。
「こちらがベッドのお部屋になります」
開け放たれたドアの先には、どこか非現実的な光景が待ち構えていた。
カフェスペースよりもぐっと明るさを押さえられた間接照明が、ぼんやりと3つの大きなベッドを闇に浮かび上がらせている。
どれもおしゃれな蚊帳のようなもの……天蓋、だっけか。そういうものに包まれていて、白く幾重にも張られた薄い布がベッドの中の様子を遮っていた。
静かだ。
目の前に広がる光景はまるで、いくつもの繭が、羽化を夢見ながら安全な場所で微睡んでいるようにも見える。
「今はお客様おひとりなので、どのベッドを選んでいただいても大丈夫です」
俺は一番端の壁側のベッドを使うことを告げると、腕時計型デバイスを受け取って目的のベッドに歩み寄った。
「それでは、おやすみなさい」
店員の男がそう言って、静かにドアを閉める。
カフェスペースからの明かりが完全に締め出されて、わずかに灯る間接照明だけになった。
天蓋を開けて、中に入り込む。
ベッドに膝を乗り上げた瞬間、ほよん、と沈み込んだ。
やわらかくもほどよい弾力があるこの感触。これは……まさか……!
改めて手で押し返してみる。ほよん。
これは、子どもの頃家具屋で出会って以来、密かに憧れまくってたウォーターベッドじゃないか……!
残念ながら、大人になっても手に入れることは叶わなかった。俺の年収じゃまず贅沢品だし、メンテナンスも面倒だ。
それが、1時間600円で満喫できるなんて!
いそいそとスーツの上着を脱ぎ、近くのハンガーにかけてから、靴も脱ぐ。
……いざ。
体をそっと横たえると、ゆらゆらと波打った後、まるで俺を包み込むようにシーツが安定した。
独特の浮遊感がある。最高。
枕はまるでマシュマロのような触り心地だった。
まじで最高。万歳。天国はここにあったのか。
何かに平伏してひたすら褒め讃えるような気持ちで、俺はぎゅっと枕を抱きしめた。
ああ、いい場所見つけちまったな……。
ウォーターベッドのおかげだろうか。久しく感じたことがなかったような安らぎに包み込まれる。
俺の意識は、すぐに夢の中へと沈み込んだ。
浴びせかけられるやかましい雑音を聞き流しながら、俺はいつか見たドラマの台詞をぼんやりと思い出していた。
それは、商店街の人々の人間関係を描く、ハートフルなストーリーだった。
ある日、近くにできた大型ショッピングセンターによって、昔ながらの商店街は経営の危機に陥る。
そこで商店街に軒を連ねる者たちが立ち上がり、お互いに衝突を繰り返しながら、廃れかけた商店街を盛り上げていく……というよくあるようなストーリーだ。
この性善説に基づきまくった台詞を口にしたのは、本屋の娘役をあてがわれたアイドルだった。
どこか憎めないおバカタレント兼アイドルとしてバラエティでも活躍している子だったが、このドラマでは一転真面目で知的な女の子という役柄を演じ、一時期話題になった。
そのギャップが印象的だったせいかもしれない。こんなにも同意できない台詞を、いまだに覚えているのは。
「――おい。……おい、聞いてんのかお前!」
やかましい雑音が急に大きくなって、俺の耳朶を打つ。
「あ、はい」
思わず気の抜けた相槌を打ってしまった。
目の前にいる、整体スタジオのオーナーがますます眉を吊り上げる。
妙にガタイが良く、おまけに見事なスキンヘッドでそれなりに迫力があった。
冬なのに腕まくりをしているのは、その見事な筋肉を見せびらかすためなのかもしれない。
「お前んとこのウォーターサーバーの水、変な味がするんだよ。まさか妙なもんが入ってんじゃねえだろうな?」
水素が入っておりますが。
……という答えを期待しているわけじゃないのだろう。
なぜならこの人は、薬事法に引っかかりそうな怪しい売り文句に惹かれて、こうして弊社のウォーターサーバーの水を定期購入をしているのだから。
「不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。とりあえず今日はこちらの在庫を持ち帰らせていただき、品質の調査をするお時間を頂けないでしょうか?」
「ああ!? 調査だぁ!? 俺の言うこと信じてねえってことかよ!」
そうですぅ。だってあなた来るたびに難癖つけるじゃないですか。
頭に浮かんだ言葉は、決して口にも顔にも出してはいけない。
ここの店は、なんだかんだ言いながら長いこと契約してくれている。
機嫌を損ねて競合に乗り換えられるくらいなら、素直に頭を下げて目の前のじじいのストレス解消に付き合った方がメリットが大きいのだ。
ああ。俺はいつの間にか、打算的で夢のない大人になってしまった。
整体スタジオにあった在庫のタンクを運び出し、近くのコンビニから本社へと返送する。
疲れた。ぐったりしながらコンビニを出て、俺は腕時計を確認した。
時刻はまもなく13時。
遅めの昼食を摂るべき頃合いだったが、あいにく腹は減ってない。
「それよりも、眠てえな……」
陽の光が目に沁みる。
毎日たいして良いものだと思わないような水を売り、ノルマの達成のために歩き回り、上司に理不尽な叱責を受け、深夜くたくたで家に帰るのだ。
そして夜は悪夢を見る。
最近の俺は、夢の中でさえ、説明用のパンフレットを持ち、必死で売り込みをしているのだ。時には上司に怒られもする。
一番最悪なのは、夢の中で「これは夢だ」と分かってしまうことだ。
俺は子どもの頃からそういう夢を見ることが多かった。
だから、能天気な夢ばかり見ていたころは、眠っている時間が一番楽しかった。
現実では出来ないようななこと――例えば空を飛んだり、プリンのプールに入ったり――が、自由自在に出来るからだ。
しかし、こうしてきわめて現実に近い悪夢を見るとなると、深刻な問題が浮上してくる。
最初は、夢だからと上司に罵詈雑言を返してみたり、客の前で水のタンクに穴をあけて、即席噴水よろしくひたすら放水してみたりとそれなりに楽しんだ。
しかし、次第に恐ろしいことに気づいた。
夢の状況設定が日常と酷似しているせいで、夢と現実の区別が曖昧になってきたのだ。
こうなってくると、実際に現実で奇行に走ってしまうのも時間の問題だった。
さすがにそれはまずい。
社会的生命が脅かされる恐怖から、俺は夢の中でも最低限従順な社畜を演じるようになった。
そんなわけだから、疲れがちっとも取れないのも当然といえば当然だ。
起きても眠っても、好きでもない仕事に忙殺される日々。
こんな時、愛する家族でもいれば違うのかもしれないと夢想する。
家に帰ったとたん、笑顔の嫁に出迎えられ、食卓には食事が並び、風呂に入った後に可愛い子どもの寝顔をそっと覗く。
そして「明日もがんばるぞ!」と密かに決意を固めるのだ。
だが、独り身のアラサーに待っている現実はこうだ。
迎えてくれるのは掃除すら行き届いていない一人暮らしの部屋。
食事はコンビニのお惣菜と缶ビール。
風呂は沸かすのが面倒だからたいていシャワー。
寂しさの極みである。
まあ、万が一結婚できたとしても、大抵は共働きだ。
仕事から帰って癒してもらおうなんぞ、都合のいい考えである。
「はあ……」
押し寄せる虚しさが、俺のやる気をさらに削り取り、空の彼方へと連れ去っていく。
こうなったら、少しネットカフェで寝ていくか。
幸い、今日のルート営業は終えた。あとは新規開拓……になるのだが、今月はもう少しのんびりしていても大丈夫そうだ。
再び歩き始めた俺の視界に、ふと、見慣れない店の看板が飛び込んでくる。
「『お昼寝カフェ【BAKU】』……?」
素朴な木目調の看板には、ポップな文字でそう書かれていた。
隣に描かれた白い動物は、羊だろうか。
それにしてはシルエットがシュッとしている。
目を凝らしてよく見てみると、それは、豹のようなチーターのような、ネコ科と思しき生き物だった。
なぜ豹……?
そのまままじまじと看板を眺めていると、中から店員らしき眼鏡をかけた優男が出てきた。
俺に気付いて、その顔に柔和な笑みを浮かべる。
「おや……お客様ですか? いらっしゃいませ。今ならすぐベッドにご案内できますよ」
なるほど。お昼寝カフェとは、文字通りベッドでお昼寝が出来るカフェらしい。
ネットカフェよりもよほど落ち着いて体を休められそうだ。
「……お願いします」
「はい、かしこまりました」
店員はにっこりとした笑みを浮かべ、俺を店内へと案内した。
コーヒーの香りが漂ってきて、そっと鼻腔をくすぐる。どうやら他に客はいないようだ。
カウンター席4つと、奥にテーブルが2つ。こじんまりとしていて、隠れ家的な雰囲気だ。
木目調で統一されたカフェの店内は、外とは違う、ゆったりとした時間が流れているように思えた。
天井を見上げると、雲を模した形のライトが、柔らかな暖色の明かりを灯していた。
そして奥には、看板にもあった謎のネコ科の生き物が、可愛らしくデフォルメされて描かれたドアが見える。
店員の男は、俺をカウンターの前に連れていくと、店のシステムの説明を始めた。
ベッドの利用は、30分300円。
ネットカフェと比べると割高だが、こだわり抜いた最高級の寝具を使用しているらしい。
貸し出しの目覚ましは腕時計型デバイスで、起きる時間を登録しておくと振動で起こしてくれるそうだ。
それでも起きない場合には、きちんと声をかけてくれると言う。
ふむ。どんな変わり種のカフェかと思ったら、案外きちんとしている。
利用時間を問われ、俺は1時間ほど眠ることにした。
ちなみにカフェの利用は時間無制限で、ベッドの利用者にはサービスとして紅茶かコーヒーがついてくるらしい。
「飲み物はコーヒーでお願いします」
「かしこまりました。お客様によっては、先にお飲み物を飲んでカフェインを摂ってから寝るようにしている方もいらっしゃるのですが……カフェのご利用とベッドのご利用、どちらを先になさいますか?」
「ベッドが先で」
物珍しさにいったんは目が冴えてしまったが、店員の特徴ある落ち着いた声を聞いているうちに、また眠くなってきた。
最高級ベッドとやらに今すぐ寝転がりたい。
そんな俺の顔は相当眠そうだったのか、店員が小さくくすりと微笑んだ。
どこか中性的な笑い方だ。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
白いネコ科(仮)のドアの方へと案内される。
近づくと、吹き出し型のPOPに「おやすみなさい。良い夢を」というセリフが書かれているのが見えた。
「こちらがベッドのお部屋になります」
開け放たれたドアの先には、どこか非現実的な光景が待ち構えていた。
カフェスペースよりもぐっと明るさを押さえられた間接照明が、ぼんやりと3つの大きなベッドを闇に浮かび上がらせている。
どれもおしゃれな蚊帳のようなもの……天蓋、だっけか。そういうものに包まれていて、白く幾重にも張られた薄い布がベッドの中の様子を遮っていた。
静かだ。
目の前に広がる光景はまるで、いくつもの繭が、羽化を夢見ながら安全な場所で微睡んでいるようにも見える。
「今はお客様おひとりなので、どのベッドを選んでいただいても大丈夫です」
俺は一番端の壁側のベッドを使うことを告げると、腕時計型デバイスを受け取って目的のベッドに歩み寄った。
「それでは、おやすみなさい」
店員の男がそう言って、静かにドアを閉める。
カフェスペースからの明かりが完全に締め出されて、わずかに灯る間接照明だけになった。
天蓋を開けて、中に入り込む。
ベッドに膝を乗り上げた瞬間、ほよん、と沈み込んだ。
やわらかくもほどよい弾力があるこの感触。これは……まさか……!
改めて手で押し返してみる。ほよん。
これは、子どもの頃家具屋で出会って以来、密かに憧れまくってたウォーターベッドじゃないか……!
残念ながら、大人になっても手に入れることは叶わなかった。俺の年収じゃまず贅沢品だし、メンテナンスも面倒だ。
それが、1時間600円で満喫できるなんて!
いそいそとスーツの上着を脱ぎ、近くのハンガーにかけてから、靴も脱ぐ。
……いざ。
体をそっと横たえると、ゆらゆらと波打った後、まるで俺を包み込むようにシーツが安定した。
独特の浮遊感がある。最高。
枕はまるでマシュマロのような触り心地だった。
まじで最高。万歳。天国はここにあったのか。
何かに平伏してひたすら褒め讃えるような気持ちで、俺はぎゅっと枕を抱きしめた。
ああ、いい場所見つけちまったな……。
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