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第一〇章 不安の募る女性

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    Ⅰ

    祈李は「あやかし図書館」で、本を開いていた。日常となりつつあるこの光景に、自分もすっかり慣れてしまっていた。穏やかな時間を常日頃から提供してくれる「あやかし図書館」は、とても居心地が良い。
    そして、最近ようやく分かったことではあったが、この図書館を訪れる妖怪たちは、礼儀正しく、しかもルールをしっかりと守る者ばかりであった。人間の世界でよく聞く妖怪のイメージとは、だいぶかけ離れているように思える。どちらかといえば、妖怪たちは悪く描かれているものが多い気がしていたからだ。人間の中で、何人の者が妖怪を見ることができるのか、もしかしたら誰も見たことがないのかもしれない。
    想像で描かれているにせよ、せめて多少のイメージは払拭したいところである。妖怪たちを知る者の一人としては、悪いイメージではなく、良いイメージを同じ人間に教えてあげたいものであった。とは言っても、それを言ったところで信じる人間のか少なそうだし、自分が変な目で見られる気もしているので、結局口が裂けても言えない気はしていたのだが。
    結局、人の想像や捉え方によるんだろうなあ……。
    祈李がぼんやりとそんなことを考えていれば、そこに別の声が届く。
「おや」
    一階を見下ろしていた紫雲から楽しそうな声が聞こえたのだ。彼は本日、茜色の着物に身を包み、桜色の羽織を肩にかけていた。その格好を見た時、祈李は珍しい組み合わせだと思った。あまり同系色を重ねるところを見たことがなかったからだ。祈李はそれをまた不思議そうに見つめてから、首を傾げた。
    あれから、結局祈李は疑問を解消できずにいた。前回訪問した男性が帰ってから、何度となくこの場所を訪れている祈李は、紫雲に聞く機会は幾度となくあった。数えられる程度、なんてことはなく、ほとんど毎日のように通い、彼と顔を見合わせているのである。つまり、言い換えれば、いつでも聞けたのであった。だが、いざとなったら、言葉が出てこないのである。
    聞いたら関係が壊れてしまうのではないか。
    ここに二度と来ることができなくなってしまうのではないか。
    紫雲が嫌な顔をするのではないか。
    考え始めたら、嫌な方向にどんどん考えてしまって、心は暗くなる一方である。不安に次々と襲われていく祈李は、結局紫雲の顔を見ても、聞くに聞けないでいたのだ。
    後悔する前に聞きたいのに……。
    以前来訪した男性の時のことを思い出す。あの時、確かに祈李は決心したのだ。紫雲に疑問に思っていることを聞く、ということを。なのに、そう思っていても、何度も口を開こうとしても、最終的に出てくるのは違う言葉であった。
    祈李はそう思いつつも、とりあえず紫雲が零した言葉を拾う。
「どうしたの、紫雲」
    紫雲は煙を吐き出してから、ゆっくりと振り返った。彼のアメジストが、祈李を捉える。にこやかに笑う彼は、とても楽しそうであった。
「――今日は、お客さんが来るようだよ」
「……人間のお客さん、ってことだよね?」
「さてさて、誰だろうね」
    紫雲はどこか人間の来訪を望んでいるように見えた。
    楽しいんだろうな……。
    祈李はそんな彼を見て、心が温かくなる。だが、すぐにその彼に聞きたいことを聞けずにいる事実を思い出してしまい、温かかった心は冷えていってしまった。
「……祈李?」
    紫雲の不思議そうな声が耳に届く。祈李は今かもしれないと思い、口を開いた。だが、その時重々しい扉の開く音が、図書館内に響き渡ったのであった。



    Ⅱ

「おや、随分と早かったね」
「……うん」
    祈李は言葉にすることができずに、苦々しい気持ちで頷くしかできなかった。タイミングの話も確かにあるのだが、自分の口から声が一瞬出なかったのである。言葉にすることが怖いと思ってしまったからだった。
    このままじゃ……。
    祈李の心に焦りが生じる。どんどんと暗くなる一方だ。それに気がついたのか、紫雲が祈李の手を掬うように取った。祈李の横に腰かけることはないものの、身体を屈めて祈李の顔を覗き込む。
    視線が交わった。
「……大丈夫かい、祈李」
「……うん、平気」
    力なく笑う祈李の表情を見ながら、紫雲は何も言わなかった。
    気がついてはいる。彼女の様子がおかしいことに。だが、無理に聞いたところで、言わないだろうと思ったから、何も言わないことにしたのだ。
    それでも、一つだけ彼女に伝えておきたいと思った。
「……祈李、一つだけ伝えておくよ。……私は、祈李の相談者にはなれないのだろうか」
「……紫雲?」
「無理に聞くつもりはない。だが、話したくなったら、いつでも言っておくれ。私はいつまでも待つから」
「……」
「祈李が苦しくなる前に、私に頼ってくれ」
「……うん、ありがとう」
    紫雲が祈李に話しかければ、祈李は少しだけ表情を和らげた。先ほどよりも明るくなった表情で、お礼を述べてくる。それに満足そうに頷いた紫雲は、屈めていた身体をしっかりと伸ばして動き始める。背筋を伸ばせば、普段と変わらない景色が目に入った。
「――さて、とりあえず、彼女を迎えに行くとしようか」
    紫雲がちらりと一階へ視線を向ければ、一人の女性がおろおろとしながら立ち尽くしていた。祈李は紫雲の言葉に素直に頷いたのであった。



    Ⅲ

    女性を二階へと案内した後、いつもの如く紫雲はこの図書館について説明を始めた。祈李は自己紹介のみをし、その女性に付き添った。
    女性は戸惑いながらも、恐る恐る口を開いた。彼女の名前は、明空みよく縁莉ゆかりといった。それから、ぽつり、ぽつりと語り出した。
「……私ね、常日頃からすべてが不安になってしまうの。心配性というのもあるけど、自分がしたこと、自分が行ったこと、すべてに自信が持てなくて……。人にどう思われているのか、どんな風に見られているのか……、そればっかり気になってしまうの……」
「……なるほど」
    紫雲はその話を聞いて、ふむと頷く。一度煙管を口につけて煙を吐き出してから、静かに問いかけた。
「何かきっかけがあったとか、あるかい?」
「お、覚えてない、です。いつの間にか、こんな感じだった、から……」
「……でも、確かに人の視線って怖いですよね。なんか、分かる気がする……」
    祈李が共感するようにぽつりと呟けば、それを聞いていた縁莉はこくこくと何度も頷いた。紫雲はそんな二人を見てにこやかに笑う。
「ならば、解決策を探してみるとしようか。この図書館で見つかるかもしれないからね。祈李、頼めるかい?」
「うん」
    祈李は縁莉と共に、一階へ下りていく。その後ろ姿を、紫雲は無言で見送るのであった。



    IV

「縁莉さんは本を読みますか?」
「一人の時間は好きだから、よく読むかな。でも、周囲の視線が気になることが多いし、集中できないこともあるんだけど……」
「……何でしょうね、人の視線があると思うと怖く思えてしまうのって」
    祈李がぽつりと呟けば、縁莉はまたこくこくと何度も頷いてみせた。それから、小声で熱弁した。
「そうなの。社会に出る前だって、学校とかで周囲の視線があったはずなのに、社会に出たら余計に怖くなってしまって……。そうしたら、自分の行動がどう思われているのか気になっちゃうようになったの」
「分かる気がします……。人の視線って、なんか――」

    ――そう、鏡みたい。

    祈李はそう思いながらも、言葉にすることはなかった。
    自分の行いを、人の目によって映されている気がする。それは、何度か祈李が思ったことであった。そんなことがあるはずもないのに、そう思えて仕方がないのである。
「……鏡の怖い話とか、ありますよね」
「たしかにそうね。でも、それを見てるとなんだか余計に自信が持てなくなりそう」
    縁莉は困ったように笑った。それから、祈李を見て告げる。
「……不思議だよね、祈李ちゃんぐらいの頃はなんとも思ってなかったはずなのに」
「縁莉さん……」
「……けど、それって裏返せば慎重って言う人もいるよね」
    縁莉はおもむろに一冊の本を手にする。それは、言い方を変えてみる、そんな内容の本であった。妖怪でも、心配になることがあるのだろうか、祈李はその本を見て思わず別のことを考えてしまった。すぐに頭を切り替える。
「心境の変化って、難しいよね……」
    縁莉がそう零して、祈李は一つだけ分かったことがあった。それは、自分の心境の変化があったということに、気がついたことだった。
    祈李は口を開いた。
「……私は、少しだけ自分が変わったと、今思いました」
「……え」
    祈李の言葉に、縁莉は聞き返す。本を手にしたまま、祈李を見つめた。祈李もおもむろに一冊の本を手にする。それは、鏡を題材にした妖怪の物語で、妖怪の世界で作られた本であった。
「ここに来るようになって、たくさんの人や妖怪に出会って、自分の世界が狭いことに気がついて……。この世界の本に触れて、知識を増やしていくうちに、自分の考え方次第なのかもって、思うようになったんです。……この地毛も、元々は嫌いになりかけてたんですけど、これも私なんだって……」
「……そっか。祈李ちゃんは強いね」
    話を聞き終わった縁莉は、ふわりと笑った。それから、天井を見上げてぽつりと呟く。
「私も、そうなれるかな……」
「きっと、大丈夫ですよ」
「……そうだね。祈李ちゃん、ありがとう」
「……え」
    今度は祈李が聞き返す番であった。お礼を言われることなんてなかったばすだ、そう不思議そうに縁莉を見れば縁莉はにこやかに笑う。
「祈李ちゃんのおかげだから」
    縁莉はそう言ってから、そのまま図書館の扉へと向かって行った。ゆったりとした足取りは、自信に満ち溢れているように見えた。悩みがなくなったと物語っているようでもあった。

    ――彼女の姿は、すぐに見えなくなった。



    Ⅴ

「おかえり、祈李。無事に終わったようだね」
「……紫雲」
「……どうかしたのかい」
    祈李がぽつりと名前を呼ぶのを、紫雲は不思議そうに問いかける。すると、祈李は少しだけ顔を赤くして告げた。
「……私、ここで初めてお礼を言われた気がする。私のおかげだって……」
    相当嬉しかったのだろう。ニヤつきそうな口元を抑えつつ、祈李はそう告げた。紫雲はそれを見てふわりと笑った。
「――祈李にも力があるということだよ。同じ悩みも、迷いも、持つ人間が何人もいる。それは妖怪たちも一緒だ。自分の言葉が、誰かを救うこともある。決して、言葉は傷つけるためにあるわけじゃないからね。
それ自身も、使い方次第ということだよ」
「――紫雲」
    紫雲の言葉の後、祈李は緊張しながらも彼の名前を呼んだ。紫雲が不思議そうに煙管を手にしたまま、祈李を見つめる。煙管を口につけようとして、そのまま手を止めていた。
    祈李は時間をかけながらも、紫雲へぽつりと告げた。
「……今度、少し聞きたいことがあるんだ。今日じゃないけど……。でも、聞いてくれる?」
    祈李が不安そうに告げれば、紫雲はくすりと笑った。それから、優しく祈李の手を掬いとる。そして、優しい声音で告げた。
「私は言ったはずだよ、祈李」
    紫雲は優しい眼差しで彼女を見つめた。
    視線が交わる。
「――いつでも待つ、と。祈李が聞きたい時で構わないよ」
    紫雲の言葉を聞いて、祈李はほっと一息ついた。緊張していた表情が和らぐ。
    紫雲は彼女の顔を見て、心が温かくなるのであった。
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