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第九章 人間関係で悩む男性

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    Ⅰ

    祈李は「あやかし図書館」で本を読んでいた。もう恒例行事である。
    学校では、最近自分の周囲はだいぶ静かになってきていた。以前より、視線も感じないし、こそこそと話す声も聞こえなくなったのである。「人の噂も七十五日」とはよく言ったものだと思う。自分に興味がなくなったのか、すっかり噂事態が消滅したのか、真相のほどはよく分からないが、落ち着いたことには少しだけほっとしていた。だが、だからといってすぐに何かが変わるわけでもなく。そんな状況からか、祈李は人間の世界よりも、妖怪の世界、この「あやかし図書館」で過ごす時間のほうが長くなったと思っていた。最近では、狛犬のお出迎えがなくても、自分からこの場所を訪れているのである。
    それに、と祈李は思う。
    祈李は「あやかし図書館」に置いてある本が面白いと思うのだ。人間の世界で販売されている本もたくさんあるのだが、今は妖怪の世界で作られた本を重点的に読むようにしていた。面白いと思うからであった。視点が違い、考え方が違い、生活が違う。それを、本から知ることができるということが、とても面白く感じたのである。
「祈李」
    穏やかな声が、祈李を呼ぶ。祈李は本に向けていた意識を、声の主に向ける。視線を動かせば、本日も穏やかな表情で、煙管を吹かしている彼が視界に入った。相も変わらず柵へと身体を預け、煙管を片手に、優しい表情で祈李を見つめている。視線も穏やかで、楽しそうにアメジストの瞳が細められた。ちなみに、本日は滅赤けしあかの着物に身を包み、一斤染いっこんぞめの羽織を肩にかけていた。
    その視線にも、表情にも、声にも、祈李はだいぶ慣れてきていた。慣れてはきたのだが――。
    ……紫雲って、よく本読んでいると声かけてくるよね。何でだろう。
    祈李は不思議に思う。それと同時にふと思ったことがあった。
「……紫雲、煙管吸いすぎじゃない?」
「おや、そうかい?」
「だって、いつも片手に持っているでしょ?    吸いすぎは良くないよ」
    祈李がそう言えば、紫雲はふむと頷く。それから、思い出したかのように呟いた。
「……もう癖になってしまっているね。煙管を持ってないと変な感じがしてしまってね。吸ってないと、なんだか物足りなく感じてしまうんだよ」
「……紫雲、それ、中毒者だよ。少しやめたほうがいいと思う」
「おや、心配してくれるのかい」
    紫雲はくすりと微笑む。とても嬉しそうに笑っていた。目が先ほどより優しく細められ、穏やかな表情がさらに緩んでいく。それを見た祈李は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
    ……可愛い。
    元々、紫雲は整った顔立ちだ。だからなのか、それとも別の感情が入っているからなのか、紫雲が笑うと余計に綺麗に見えるし、可愛くも見えてしまうのである。
    少しだけ、ほんの少しだけ絆されている自覚はあるが、だんだん仕方がないと思ってしまっていた。祈李は気を取り直して、もう一度言葉を紡ぐ。
「……とにかく、吸いすぎは良くないよ」
「ふふ、祈李は可愛いね」
    話聞いてないなあ……。
    祈李はそう思いながらも、可愛いのは紫雲だ、と心の中で呟いた。紫雲はくすくすと肩を震わせて笑っている。何かが楽しかったようである。
    すると、そんな二人の会話が終わるのを見計らってか、タイミングよく図書館の扉が重々しい音を奏でながら、開かれたのであった。



    Ⅱ

「……紫雲」
「ふふ、来たね」
「……教えてって、言ったのに」
「ふふ、すまない」
    思ってなさそう……。
    紫雲はくすくすと笑っている。詫びている様子ではなさそうであった。なんとなくだが、祈李の反応を見て楽しんでいるようである。
    祈李は諦めて一つ息をついた。それにしても、と思う。
「……最近、多いよね。人の訪問」
「……そうだね。まあ、人の世も変化しつつあるということだろう、ね」
「……?    どういうこと?」
「さてさて、ね」
    あ、これは教えてくれない感じだな……。
    祈李は紫雲の言葉を聞いて、そう直感した。はぐらかされたように感じたのである。それについても一つため息をついて、祈李は柵へと近寄り、下を見る。一階を覗き込むかのようにして見ていれば、一人の男性がゆっくりと歩いていた。驚きながらも、中へ中へと足を踏み入れている。怖がったり、叫んだりしている様子はなさそうであった。
「……行くよね?    紫雲」
    祈李は紫雲の顔を覗き込みながら確認する。紫雲は満足そうに頷いた。
「そうだね。彼は大丈夫そうではあるが、妖怪たちが気になるだろうし、戸惑うだろう。……迎えに行くとしようか、祈李」
「はーい」
    紫雲はゆっくりと階段を降り始める。祈李はその背中を追いかけるのであった。



    Ⅲ

    祈李は紫雲とともに、男性を二階へと連れてきていた。祈李は男性と向かい合うようにソファに腰かける。男性は対でおいてあるソファに落ち着かなさそうに腰かけていた。紫雲は通常通り柵に身体を預けていて、男性の様子を窺っているようであった。
    男性はちらちらと祈李や紫雲を見ながら、様子を窺っていた。彼から何か言おうとしている感じはない。二人が誰なのか、自分に一体なんの用なのか、その辺を気にしているのだろうと祈李は思っていた。
    紫雲が一度煙管を口にし、静かに煙を吐き出す。それから、穏やかな声で告げた、
「さて、まずは自己紹介といこうかな」
    紫雲は簡単に自己紹介をして、それから祈李に自己紹介をさせた。そして、この場所、「あやかし図書館」について説明をする。男性は驚きながらも、紫雲の説明をしっかりと聞いて頷いた。それから彼は、四月一日わたぬき晴仁せいじと名乗った。
    彼は説明をすべて聞き終わると、「悩みかあ」とぽつりと呟いた。紫雲がそれに反応を示す。
「心当たりがあるかい?」
「……ありすぎるかなあ。毎日そればっかり」
「おや」
    これには紫雲も驚いたようで、短く声を発しただけであった。祈李はなんとなく何も言わないほうがいいだろうと口を噤んでいる。
    晴仁は見た感じ、人が良さそうで、明るそうに見えた。だが、彼は紫雲の短い言葉に頷くと、熱が入ったかのように語り始める。
「もうね、人間関係がマジでやばいんですよ!    自分勝手な人が多いし、話聞いてくれねえし、理不尽だし!    パワハラみたいなのもあるしさー、完全にブラック企業だよ!」
「……ふむ、晴仁はストレスがよっぽどたまっているようだな」
    紫雲が呟けば、晴仁は急に立ち上がって紫雲の前へと歩いていく。それから、目の前に立つと、がっしりと紫雲の何も持っていない左手を両手で握った。
「分かってくれますか!?    マジで、やばいんですよお……!」
「……少し心配になるのだが」
    ……熱い人なのかな。
   祈李はその様子を見ながら、ぼんやりと思う。珍しく紫雲が困ったような表情をしていた。「たじろいだ」、という言葉のほうが正しいのかもしれない。
    半分泣き始めている晴仁を見て、紫雲と祈李は距離があるにもかかわらず、顔を見合せた。それから、同じタイミングで苦笑してしまう。まずは彼を宥めることが先決かもしれなかった。
    晴仁を落ち着かせると、恒例行事のように、紫雲は図書館の中を歩くことを勧めた。晴仁はそれはもう首が取れてしまうのではないかと、心配になるレベルで首を縦に振った。何度も何度も頷く彼を見て、また二人が苦笑してしまったのは、余談である。ただ、今回いつもと違ったのは、祈李が二階でお留守番となったことであった。紫雲が一緒に行くと言うのである。もちろん、祈李が断る理由もなく、それでいいのならと頷いた。
    そして、紫雲は晴仁を連れて、一階へと降りていくのであった。



    IV

    珍しいなあ。
    祈李は一階から二人の様子を見ながら、そう思った。紫雲が自ら一緒に行くと、祈李は待っていてくれと言ったのは初めてだったのである。今までそんなことを言われたこともなく、驚いたことは事実ではあったが、嫌だとは思わなかった。きっと、紫雲には紫雲の考えがあるのだろうと、思ったからであった。
    そんな紫雲は、晴仁の話を聞きながら、図書館の中を穏やかな表情で歩いている。
    祈李はそれを眺めながら、ふと思った。
    ……この場所って、どういう経緯で、どうしてできたんだろう。どうして、紫雲がこの場所を管理しているんだろう。
    祈李は今さらながらに疑問に思った。彼からそれを話す素振りもなく、祈李も今の今までなんとも思っていなかった。だが、祈李はそれを考えて、紫雲は話さないような気がしていた。何故そう感じたのかは、よく分からない。
    ……試しに、今度聞くだけ聞いてみようかなあ。
    ダメ元で聞いてみよう、そう決意した祈李の元に、二人が姿を現した。あまりに早くに帰ってきたため、祈李は目を瞬いてしまう。
「あれ、おかえり」
「ただいま、祈李」
    祈李が紫雲を見れば、紫雲は嬉しそうに目を細めた。だが、すぐに晴仁の言葉がそこに飛んでくる。
「いや、紫雲さん、さすがですね!    なんか、人生の先輩って感じ!」
「あながち間違っていないだろうね。……人も、妖怪も、いろんな者がいる。考え方も、姿も違うだろう。もしかしたら、今は次に進む好機なのかもしれない。少し考えてみると良いだろう」
「ありがとうございます!」
    元気な声で答えた晴仁は、晴れ渡った表情で勢いよく頭を下げる。それから、階段を駆け下りていって、そのまま勢いよく扉を開けて外に駆け出して行った。すぐに彼の姿は見えなくなった。
    祈李は紫雲とともに、その姿を静かに見送ったのであった。



    Ⅴ

「紫雲、なんの話しをしたの?    晴仁さん、すごく喜んでいたように見えたけど」
「なに、たいしたことは話していないさ。……そうだね、彼はその問題となっている職場について悩んでいたようだ。転職も考えたらしいが、転職をして仕事がきちんと見つかるかどうかも分からない。それに、一度決まった職場を離れるということにも、なかなか勇気が出せなかったようだね」
「そうなんだ……」
    祈李はなんと言っていいのか分からなかった。自分がまだ経験していない職場のこと。何を言っても違う気がして、頷くことしかできなかった。紫雲はそれに対しては触れることなく、さらに話を続けた。
「だから、彼に何を取りたいのかを自分に問いかけてみれば良いと、少し話をしたんだよ。……確かに、職場が変わるということは、なかなか勇気がいることだ。自分に合っていると思って入社したとしても、合わないことだってたくさんあるはずだからね。だが、自分の心が壊れる前に決断をすることも重要なことだ。――誰かの人生ではなく、自分の人生のことだから、ね。そう伝えただけなんだよ」
    紫雲は言い終わると微笑んだ。祈李はその言葉を聞いて、妙に納得してしまった。誰かのために生きていると考えたことはなかったが、結局すべては自分の人生なのだ。自分のやりたいことも、自分のしたいことも、最終的には自分で決める必要がある。自分の人生とは、そういうものなのだろう。
    ……私も、今度紫雲に聞いてみよう。聞かない後悔じゃなくて、聞いてから後悔するほうが、きっと悔いが少ない。
    祈李は紫雲の横顔を見つめる。その横顔を目に焼き付けながら、彼女は静かに意思を固めるのであった。
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