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色彩和

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第六章 図書館の主の旧友

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    Ⅰ

    祈李は目の前にいる獣と向き合って立ったまま、動けずにいた。目の前にいるのが、紫雲だということは理解している。
    だが――。
    初めて、妖怪だと思った……。
    怖いとか、嫌だとか、そういった感情はまったくない。一切そんなことは思わなかった。ただ、驚いていたのである。目の前にいる獣の大きさに、鋭さに、威圧感に――。何もかもに圧倒されてしまっていた。
    海牛うんむしはいまだに地に沈んでいる。ぴくりとも動かない。気絶してしまっているのだろう。呼吸していることだけは、胸の辺りが動いていることによって分かった。生きている。だが、今の海牛からは何も感じられなかった。先ほどまでの恐怖も、突進してくる際の圧も、勢いも、何もかも感じないのである。今は無に等しかった。
    その海牛を、紫雲は難なく地に沈めた。たった一撃で、あの凶暴な海牛を仕留めていたのである。
    だが、そんな紫雲のことを、祈李は怖いと思わなかった。海牛に恐怖を覚えていたはずなのに、紫雲には一切恐怖を覚えることはなかったのである。目の前で地に沈められたところを目撃していても、いつもより幾分か低い声音で話すのを聞いても、一度も恐怖を感じることはなかった。逃げ出したいとも、近づかないでほしいとも思わなかった。
    ただ、目の前にいる獣に圧倒され、あまつさえ――。

    ――美しいとも、思った。

「……祈李」
    不安そうな紫雲の声が、祈李の耳に届く。祈李はその声に、はっと我に返った。
    そうだった、自分は呆然としていていいわけがない。不安なのは、紫雲だろう。祈李はそう考えた。
    紫雲に、ちゃんと伝えなくちゃ……!
    祈李は紫雲に向かって、歩き始める。ゆっくり、確実に、一歩ずつ。彼との距離を確実に詰めて行った。紫雲の目の前に立つ。祈李は彼の毛でおおわれた手を握った。いつもの人の手ではなく、獣の手。いつもは犬神だからなのだろうか、人の手ではあるが爪が異様に長く気をつけていた。だが、今回はれっきとした犬の手だ。肉球もある。その手が目の前にあった。
    ……うん、温かい。
    姿や形は違っても、確かに体温を感じる。祈李はそっと手を優しく撫でながら、アメジストの瞳を覗き込んだ。不安そうに揺れるアメジストを見つめながら、にこりと笑いかける。
「……大丈夫、怖くないよ」




    Ⅱ

    紫雲はゆっくりと目を見開く。目の前にいる少女のか口から発せられた言葉は、予想外のものであった。
    てっきり、拒絶されると思っていたのだ。今まで、彼女の前でこの姿になったことはなかった。初めて見る姿に、恐怖を与えてしまったのではないかと不安に駆られたのである。
    嫌われると思っていた。拒絶されると思っていた。今日で、この関係にも終止符が打たれると思ってしまった。人間と妖怪、いずれは終わりが来るだろうとは考えていた。自分が甘えている、そんなこともよく理解していた。だが、まだ終わって欲しくないと、願っていた。だから、彼女の口から発せられる言葉に、怯えていた。
    だが、目の前の少女は、祈李は――。
    私を、受け入れてくれると、言うのだろうか……。
    祈李はいまだに紫雲の手を優しく撫でてくれている。じっと見つめる紫雲の瞳に気がついたのだろうか、再度にこりと笑ってくれた。
    彼女の名前を呼んでみる。
「祈李……」
「怖くないよ。驚いただけ。紫雲は紫雲だから。けど、本当に犬神だったんだね。普段の姿からは全然そんな感じしなかったから、びっくりしたよ」
    祈李は難なく告げる。手も、身体も、声も、震えてはいなかった。
    ああ、この子は――。
    紫雲が思っていたよりも、祈李は強かったのかもしれない。
    妖怪である紫雲たちから見れば、人間は自分たちよりも寿命が遥かに短い。力も弱くて、脆いと思っていた。おそらく、大半の妖怪たちはそう思っていることだろう。紫雲も例外ではなかった。
    自分たち妖怪よりも短い年数しか生きられず、毎日忙しく生きている想像しかできない。


    ――実は、紫雲は毎日煙管を片手に、人間のことを考えていた。
    図書館に相談者として来訪することがあるからだった。だが、書物でいくら人間のことを勉強しようとも、目の前で見ようとも、彼らのことを理解できずにいた。今では、人間の相談者という立場になりつつあるが、だからといって人間を理解していたわけではなかったのである。
    ……分からないな、人間のことは。
    気長に生き、煙管をふかし、図書館の中で忙しくすることもなくゆったりとした時間を過ごす。
    それだけであった。

    ――祈李が来るまでは。


    祈李が来てからは、だいぶ違った。心にも、あらゆる変化が起きる。まだそれを表に出すことはないが。
    紫雲は祈李を見つめたまま、ゆっくりと姿を変えていく。大きさから、姿から、少しずつ獣の姿から人の姿へと変化していった。元の姿に戻れば、それを見た祈李は花が咲くかのように笑いかけてくれる。おそらく、怖くはなくとも、見慣れた姿を見てほっとしたのだろう。
    紫雲は自分の姿が戻ったことを確認すると、ゆっくりと彼女の手を取り、それから自分の腕の中に自分より小さな身体を閉じ込めたのであった。



    Ⅲ

    祈李はゆっくりと頭の中で理解した。紫雲に抱きしめられていることを。驚きはしたが、暴れることもなく、彼の名前を呼んでみる。
「……紫雲?」
    祈李は驚きつつも、彼の背中におずおずと手を回した。そうしてないと、また誤解を与えてしまうのではないかと危惧したのである。余計な不安を、今の紫雲に与えたくないと思ったのだ。
    紫雲の腕の力が強くなる。彼の口から、言葉が紡がれた。
「……すまなかった。怖い思いをさせてしまったね」
「大丈夫だよ。紫雲は怪我してない?」
「私は問題ないよ」
    紫雲が一つ息をつく。ほっとしたのだろうか。少し腕の力が緩んでいた。祈李は紫雲の背中に回していた手を、撫でるように動かす。それから、図書館の中へと視線を動かした。
    図書館の中は大惨事だった。倒れている棚たち、散らばっている数々の本、至るところの壁は破壊されている。海牛が地に沈んでいる場所に関しては、木製の床に大きな穴ができている。そこからひびが四方八方に伸びており、修復作業は相当時間がかかるはずだろう。おまけに、本に関しては、表紙が汚れているだけならまだしも、中が破れていたり、汚れていたらそれにも修復作業の時間がかかるはずだ。
    修復作業は建物だけではない、そう考えたら祈李は気が遠くなってしまった。
    いまだに解放されることはない腕の中から、紫雲に話しかける。
「紫雲、図書館が――」
「大丈夫、問題ないよ」
    紫雲がそう言えば、今まで姿を消していた狛犬たちが姿を現す。指示を受けることもなく、彼らは修復作業を開始した。海牛は相当大きく、小柄な狛犬たちでは運べないのではないかと祈李は心配になったが、大きな狛犬が現れ、難なく海牛を運んでいく。
    祈李は紫雲の腕の中でそれを見ながら、呆気に取られていた。
    紫雲はそれに気がついたらしく、くすくすと楽しそうに笑っている。少しは気分が良くなったらしい。ゆっくりと紫雲から離れていく。それが少しだけ、祈李は名残惜しく感じたのであった。祈李の秘密の話である。
「さてさて、気を取り直して動くとしようかね」
「手伝うよ、紫雲」
「ありがとう、祈李」
    紫雲は煙管を右手に持ち、ゆっくりと動き始める。だが、すぐに足を止めた。空気が再度張り詰める。一瞬で変わったそれに、祈李も空気を察知する。だが、祈李には何が起きたのか、いまいちよく分かっていなかった。
「……紫雲?」
    祈李が名前を呼んだ、その瞬間――。

「――これはこれは、面白いものが見れたな」

    ――第三者の声が、二人の耳に届いたのであった。



    Ⅳ

    ゆったりとした足取りで、二人に近づいてくる。下駄の音が、ヒールのように高らかに奏でられた。その音は少しずつ近づいてきて、相手の姿が近づくにつれてはっきりと分かるようになった。青鈍色と珍しい色の髪をたなびかせた相手は、ニヤリとした笑みを顔にたたえている。紫雲のように、顔の整った青年であった。しかし、紫雲とは違い、姿は人間にしか見えない。耳も、尻尾もなく、何の妖怪なのか見ただけでは分からなかった。
「だ、誰……?」
    思わず、祈李の口から戸惑いの声が発せられる。相手は楽しそうに、愉快そうに告げた。
「おやおや、お嬢さんを怖がらせるつもりはなかったのだがね」
「何をしに来たのだ――青威あおい
    紫雲の口からは、いつもより幾分か低い声が出てくる。知り合いなのだろうか、おそらく名前を呼んだのだろうということだけは、祈李も理解することができた。「青威」、それが青年の名前なのだろう。だが、知り合いだとしても、とても仲が親しいようには見えなかった。
「紫雲、この人は――」
「こやつは青威。青鷺火あおさぎのひと呼ばれる妖怪だ。青く光る鷺の化け物と言われている」
「酷いな、紫雲。旧友をそのように紹介するとは」
「誰が旧友か」
    紫雲はいつもより幾分か口が悪かった。祈李は珍しいと思いながら、相手の青年を見て言葉を繰り返す。
「旧友……ってことは、紫雲の友達?」
「違う」
「そうだ」
    祈李が聞けば、同じタイミングで二人が別々の言葉を口にする。否定する紫雲と、肯定する青威と呼ばれた青年。表情も正反対であった。渋い顔をしている紫雲と、ニヤリと口角を上げている青威。何故こうも正反対なのか分からないが、あまり気は合わないらしい。
    祈李はとりあえず、どっちなのだろうと首を傾げるだけに留めておいた。
    そんな祈李を見て、紫雲は青威へ怒りをぶつける。
「青威、祈李に変なことを吹き込むな。貴様は教育に悪い」
「よく言う。紫雲、貴様も似たようなものだろうが」
「一緒にするな。人聞きの悪い」
    口々に言い合いを続けている二人を、祈李は見つめているだけだった。二人の関係性がよく分からないので、様子を窺っているのである。しばらく言い合いが終わる気配はなく、祈李はただただ呆然と眺めているだけであった。



    Ⅴ

    三人はとりあえず二階に移動した。狛犬たちの邪魔になってしまうし、あのままではいつ終わるかも分からなかったからである。何とか説得した祈李は内心ほっと一つ息をついていた。
    三人はソファに腰掛けていた。珍しく、紫雲がソファに座っている。祈李が座った右隣に陣取るかのようにすぐに座ったのである。反対側のソファには、青鈍色の髪を持った青年、青威が腰掛けていた。ニヤニヤと笑っている表情は変わらない。浅葱色の着物に身を包み、瓶覗色の羽織を上に重ねている。帯は卯花色で締まっていた。
    常に羽織を肩にかけている紫雲とは違い、しっかりと着込んでいる。着物の色の選び方も、紫雲とは違うようであった。
    紫雲は先ほどから鋭い目で青威を睨んでいる。よほど嫌いなのだろうか。それとも、ただ単に気に食わないのか。どちらにせよ、紫雲が嫌な顔をしていることだけは、祈李も理解していた。対する青威は、それ自体も楽しんでいるようで、笑みが深くなる一方である。怖いイメージも、嫌なイメージも、祈李にはなかった。
    静寂を破ったのは、意外にも青威であった。
「して、紫雲?    いつから、人間の女子おなごに興味を持つようになったのだ」
「変なことを吹き込むなと言っている、青威。祈李の耳が汚れる」
「し、紫雲、大丈夫だってば……」
    紫雲は心底嫌そうな顔をして、空いている左手で祈李の耳を塞ぐ。そのまま抱きしめるように引き寄せて、ぎろりと青威を睨んだ。祈李はぼんやりと過保護だなあと思いつつ、自分が大丈夫だと伝える。だが、紫雲は聞くつもりはないようだった。視界も塞がれそうで、祈李は顔を覆われないように自分の手で顔を死守する。その姿さえも、青威は面白そうに、愉快そうに笑って見ているだけであった。
    次に口を開いたのは、不愉快そうな紫雲である。
「大体にして、青威。貴様、何をしに来た」
「気になるだろうよ、貴様のことが。雰囲気が変わったと話題になっていればな」
「帰れ」
「そう邪険にするな。別に女子を取ろうと言うつもりはない」
「元々貴様に渡すつもりもない」
「紫雲……」
    祈李は困っていた。紫雲の様子がいつもと違いすぎて、どうしたらいいのか分からずにいた。青威という妖怪が、そんなに悪い妖怪には見えない。紫雲も青威からしたら似たようなものだと言っていたが、紫雲だって悪い妖怪には見えたことがない。なのに、こんなにも毛嫌しているように見えて、しかも話が一向に進まないとは思わなかったのである。
    どうしよう……。
    祈李の戸惑いに気がついたのか、青威は再度ニヤリと笑って話を進めた。
「まあ、それだけではなくてな。貴様も気になるだろう、紫雲?    あの、海牛のことが」
「……何?」
    紫雲がぴくりと反応した。祈李もその言葉にごくりと息を呑む。何が語られるのか、今から怖くなったのだ。紫雲が静かに目を細めた。すっと細められた瞳は、青威を睨んでいるのか、はたまた違うものを見つめているのか。どちらにせよ、青威はそれに気をよくしたらしく、くくっと楽しそうな声を漏らす。
「……何か、知っているのかい」
「……聞くか?」
    紫雲の言葉に、青威は楽しそうに聞き返す。紫雲は無言であったが、旧友である青威はそれを肯定と受け取ったらしい。
    再度くくっと笑った青威は、目の前にいる二人の前で楽しそうに語り始めたのであった。
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