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第一二章 武士妖怪、異世界での妖怪との邂逅
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Ⅰ
吟はセレーナと別れてから要の元へと訪れていた。馬小屋に背を預け、腕を組むと簡単に今までの状況を説明する。そして、今からこの学校内を巡回することを告げれば、要は一つため息をついた。それから、残念そうに頭を垂れて、肩を落とすように動く。
「……私も行きたいところではありますが、学校内を歩くとなれば、セレーナ様にもご迷惑がかかるでしょう。大人しくここで待つこととします」
「そうだな。巡回したらまた戻ってくる。その際に何か気になったことがあれば報告して欲しい」
「かしこまりました。……吟様」
要が静かに名前を呼ぶ。吟は首を傾げて次の言葉を待った。要がじっと自分に向けてくる視線は、真剣そのものである。吟はこれは何かあるのだろうと踏んでいた。
「……どうかしたのか」
吟は要に視線を向けて言葉を紡ぐ。組んでいた手をゆっくりと解き、刀に左手を添えて壁に預けていた背をしゃんと立たせた。
刀に手を添えたのは、何も要に向けたものではない。ただ、警戒を解かないように、そして慣れた位置に手を置いてしまったというだけであった。
吟が向き直ったのを見て、要は再度ため息をつく。吟は要がため息をついている理由に見当がつかず、思わず目を細めていた。
……そんなに深刻なことがあったというのか。
吟は本気で心配になってきた。要はこの学校に来てからはずっと馬小屋にいるわけだし、窮屈で退屈なのかもしれない。もしかしたら、吟が知らない情報を得ている可能性もある。となれば、話を聞かない理由はない。
吟はとにかく要の言葉を待つことにした。あまり急かしてはさらに話しにくくなるだろうと考えてのことである。特に、要は主従関係をしっかりと守っている節がある。吟があまり急かしたり、態度を変えたりすれば気にする可能性もあった。吟としては、そんなつもりはまったくないし、むしろ主従関係なんて不要なのだが、要からしたらそうもいかないらしい。となれば、吟がする行動とすれば、要が話すのを待つだけである。
吟がじっと待っていれば、要はようやく肩を落としてから口を開いた。
「……吟様、私があまり言うことではないのでしょうが、セレーナ様の、いえ、女性のお気持ちをもう少し考えてあげてくださいね」
「待て、何の話だ」
吟は要の言葉を聞いて、間髪入れずに聞き返していた。要から届いた言葉は、予想をはるかに超えていて。吟にはまったく思い当たる節がなかったのである。むしろ、どうしてその話になった、とすら思っていた。
要は吟の言葉を聞いて、再三ため息をついた。要から発せられる声音は、呆れているものに聞こえた。
「吟様は鈍感な部類にあたりますから。恐れながら申し上げますが、乙女心と呼ばれるものを理解しておられないと存じています」
「……要の口からそのような言葉が出てくるとは思いもよらなんだ。しかし、我は人の気配には――」
「それとこれとは話が別です」
吟は要の言葉を否定するために口を開いたが、要はその言葉を予想していたようで。吟の言葉を遮ってまでピシャリと否定するように強く言い放つ。吟はそれに目を瞬きつつも、つい苦笑してしまった。
……どうにも、要には言葉で勝てぬな。
それが嫌なわけでもなくて、不快な思いを抱くこともなく、ただ聞き入れている。それは、相手が要だからこそ、信頼しているものだからこそということを吟は理解していた。
吟が一人思考の海で納得していれば、要から不服そうな視線を向けられる。
「聞いておられますか、吟様」
「すまぬ、聞いてはいた」
「とにかく、吟様とセレーナ様では、相当な年の差があります。少しは考えてあげなければ、セレーナ様が可哀想です」
吟は要の言葉にふむと頷いた。頭を働かせてみる。
確かに、セレーナはまだ一〇代の少女だ。まだまだ人生先は長く、今は青春を謳歌している時だろう。対する吟はといえば、今世は一八歳であるものの、前世の記憶を持っている。つまり、前世を含めれば、何百年単位で生きているということになるのだ。長く生きている吟とは違い、まだ考え方も視野も、過ごし方にもすでに差が出ていることだろう。それに、吟自身が気にしていないことであったとしても、彼女は気にしているかもしれない。
そこまで考えて、吟はようやく理解した。それから、要へと向き直る。
「……肝に銘じておこう」
「はい、そうしていただけると幸いです。……私からはそれだけです。吟様、どうかお気をつけて」
「ああ」
吟は要に頷いてみせると、背を向けて歩いて行く。やがて、地面をトンと蹴って、木へと飛び移った。木から木へとリズム良く飛び移っていく。
音が遠ざかって行く中、鹿は主人の行く先をじっと静かに見送ったのであった。
Ⅱ
吟はある程度木を飛び移って移動した後、今度は建物へと足を向けた。足がかけられる部分を見極め、飛び移り、危なげなく屋根の上へと辿り着く。屋根の上でぐるりと周囲を見渡して確認するが、やはり景色以外に何も見えなくて。学校全体を覆う気配はあるものの、敵を特定することはできずにいた。
吟は一つ息を吐き出すと、屋根の上を走り始める。そして、次の建物の屋根へと危なげなく飛び移り、そのまま足を止めることなく、前へ前へと駆けて行く。気配の存在は、どこを走っても、周囲へと意識を向けても、変わることはなかった。
嫌な気配よ……。
吟は左手を刀に添えたまま、スピードを落とすことなく駆けて行く。見えない敵との間合いの取り方が分からないためだった。一度も対峙したことのない敵。武器が何なのか、間合いはどうなのか、どれほどの手練なのか――。何もかもが不明であった。
吟はそれらを考えつつ、一つ疑問が生じていた。
……何故、あの一瞬だけ気配を出して我らに近づいてきたのだろうか。
普段から姿を見せていない敵だ。気配すら感じさせないようにしているというのに、あの一度だけ、吟がアンドレたちと食堂で対峙したあの時だけ気配を出して自分たちに近づいてきたのである。存在感をあらわにし、吟たちに近づいて近くにいることを知らせてきたのだ。
何故――。
吟は足を止めることなく、前を向いたまま、目を細める。見えない敵を睨むかのようにすっと視線が鋭くなった。
吟の中で考えられる理由としては、二つ。
一つは、吟の実力を測るため。
もう一つは、あの場所に敵が狙っている者がいたため。
前者の理由だとするなら、理解することはできた。吟がこの場所に来て、まだ二、三日しか経過していない。ほかの者に関して情報を集めていたとするなら、自分の実力についても情報を集めに来てもおかしくない。それほどにあの場面は絶好の機会であったと思う。そう思えば、あの時に様子を見に来たのはおかしくないことだろうと考えていいはずだ。
だが、後者だとするのであれば――。
「……誰を狙う、か」
吟はそこまで考えてはたと気がつく。グロリアたちに行方不明になっている生徒の情報を聞いていないことに気がついたのだ。足を止めて、再度ぐるりと学校全体を見渡す。たくさんの建物が敷き詰められているこの場所に、隠れられそうなところはたくさんあるだろう。
だが――。
「行方の分からない者に何か共通点があるのか……。それにしても、行方が分からなくなった者の気配がないのも不思議なものだ」
――そう、吟がこの学校の敷地内に入ってから、行方不明になっているといった生徒たちの気配はないのだ。隠れていそうな、助けてほしそうな、そんな気配が一切ないのである。
吟のように、自ら気配を消すことなどできる者はそうそう限られてくるだろうし、ましてや助けて欲しいなら気配を消すことはないはずだ。
となれば、考えられるのは三つ。
一つは、この場所にはすでにいないということ。
一つは、魔法とやらで気配を消されているということ。
そして、もう一つは――。
――存在を消されている可能性がある、ということだ。
「……無差別に手にかけるような者であれば、相当危険な相手と見ていいだろうな。……もしかすれば、一刻の猶予もないのやもしれぬ」
吟がそこまで考えていれば、急速に自分に近づいてくる気配に気がついた。探しているものではなさそうだが、自分に向かって突進してきているのを感じ取る。
吟は添えていた左手でしっかりと鞘を握った。左手の親指で鍔を押し、右手は刀の柄に添える。いつでも抜刀できるように身構え、すっと目を閉じた。
気配を探り、そして――。
――気配が自分に一番近づいた瞬間、吟は目をかっと開いて抜刀し、相手に斬りかかった。キィンと刀が金属に当たる音が響き渡る。武器が交わって、お互いに距離を取った。吟はすかさず振り返って、相手と対峙する。
そこには――。
Ⅲ
「お主は……!」
吟は相手の姿を見て、驚きの声を上げた。
そこにいたのは、人間ではなかった。自分たちの世界、つまり前世によくいた彼らのことを、吟はよく覚えている。
吟は名を呼んでいた。
「……鎌鼬か!」
吟の言葉に、相手もピクリと反応を示した。
――鎌鼬。
旋風と共にやってきて、人の足や腕などを斬りつける妖怪のこと。実際の現象としても、その名で呼ばれる。その名の通り、鼬が鎌を持っているかのような姿をしているといわれていた。
吟が名前を呼べば、鎌鼬もようやく相手が吟だと理解したようで、ぱあっと顔を輝かせた。
「これはこれは、夜刀神様!」
鎌鼬は鎌をしまうと、ぴょこぴょこと吟に近づいた。吟も刀を鞘に収めると、鎌鼬と向き合う。吟は首に巻いた布を鼻までグイッと引き上げつつ言葉を紡ぐ。
「その名はとうに捨てた。我は今、ただの人間だ」
「そうでございましたか。いやはや、それにしてもお懐かしゅうございます」
鎌鼬は嬉しそうに言葉を紡ぐ。懐かしそうに目を細め、吟へとペコリと頭を下げた。吟はそれを見て、思わず口元を緩めた。
吟と鎌鼬は顔なじみである。友人ではないし、仲間というわけではないが、この鎌鼬は吟を慕っていた。というのも、前世で吟が鎌鼬を人間から救ったことがすべての始まりだったからであった。人間を斬りつける鎌鼬が人間に見つかって追われていたのを、吟が救出し、怪我を見て手当をしたのである。鎌鼬からすれば、吟は恩人同然であったのだ。
吟はそれにしても、と思う。
「鎌鼬よ、何故お主がここにいる」
吟が口にしたのは、単純な疑問であった。ここは、前世とは違い、吟ですらいまだによく分かっていない異世界なのである。鎌鼬は吟の問いかけに、片手を上げて答えた。
「そのことなのですが、吟様」
吟は不思議そうに鎌鼬を見つめた。鎌鼬は両手を大きく広げて、声を大きくして告げた。
「この世界にはきっと何かあるのです。妖怪の我らが、何故かこの世界に吸い寄せられているのです。すでに、私以外の妖怪も、何人もこちらに来ております」
「何……?」
鎌鼬の言葉に、吟は目を細める。ピクリと反応して、眉を寄せた。もし、この鎌鼬の話が本当だとするなら、この学校全体を覆っている気配すら、彼らのものとなってくる可能性も出てくる。吟が感じ取っている気配は、妖怪のものに近いと考えているからだ。
だが、吟はなんだか腑に落ちなかった。
本当に、それだけだというのだろうか……。
鎌鼬を前にして、彼の気配をしっかりと感じ取っている吟は、納得できずにいた。隠れている気配が、妖怪たちのものだとは信じ難い。それに、彼ら妖怪たちが、そうそう悪事に手を染めるとは考えにくいのである。だが、鎌鼬の言葉には嘘偽りないようにも感じていた。
妖怪の中には、悪事に手を染める、つまり人間に害するものや恨みを向けるものも確かにいる。だが、すべての妖怪がそれに該当するわけではない。この、吟の目の前にいる鎌鼬ですら、人間に追われた過去があるにせよ、人間に復讐をしようと考えたことがないのである。
吟の中で不可解な点が多い。すぐには解明できないものの、時間をかけて一つ一つ疑問を解消していくしかないと考えた。それと同時に、まず鎌鼬に確認しておくべきことがあると思ったのである。
「……鎌鼬よ、この世界に妖怪たちはどれほどいる」
「日に日に増えておりますので、なんとも……。しかし、私が知るほどでは、およそ五〇ほどかと……」
鎌鼬の言葉に、吟はふむと頷く。頭を抱えたくなるところではあるが、それをぐっと堪えて頭を働かせる。妖怪の数が増えていくことと、この世界に集まっていることの理由は不明だ。だが、その内容を聞いて吟の頭に浮かんだのは、ただ一つであった。
「……百鬼夜行、をするつもりではあるまいな」
妖怪の数がそこまで増えていると考えれば、それを最初に思い浮かべてしまう。鎌鼬学校把握しているだけで、五〇だというのだ。それよりも増えているに違いない。
だが、そもそも誰が何のために……。
吟が思考を巡らせていれば、鎌鼬が目を輝かせて声を上げる。
「もしや、吟様が百鬼夜行を率いると……!」
「何故そうなった。我にそのつもりはない」
吟は鎌鼬の言葉を即座に否定する。
……冗談だとしても聞きたくないものだ。
百鬼夜行、その言葉に胸を躍らせるものもいるかもしれないが、吟からしたら御免こうむりたいものである。冗談で言われたことが現実になったらたまったものじゃない。
吟は痛む頭を今度こそ抱えて、深くため息をつくのであった。
Ⅳ
吟は落ち着くと、気を取り直して鎌鼬へと問いかけた。
「……お主、ほかの妖怪たちの場所を把握しているか」
「えっと、すべては分かりませんが――」
その時、鎌鼬の言葉を遮るかのようにして、悲鳴が耳に届く。吟たちの場所からは近いようで、やけに大きく悲鳴が聞こえた。女性のつんざくような悲鳴に、鎌鼬は耳を抑えていたが、吟はそれを聞いて反応する。女性であることは分かっても、誰の声なのかまでは把握できなかった。
しかし、吟がすぐに頭に思い浮かべた人物は、ただ一人であった。その声の主でなくても、心配するのは、あの少女のみ。
「セレーナ殿……!」
吟はすぐに駆け始めた。背後で鎌鼬が呼ぶ声が聞こえたが、それに反応している暇さえ惜しい。今は一刻も早く前に進むことに専念したかった。
――吟は風のように駆けて行く。ただ一人の少女の無事を確認するまで、彼の足が止まることはなかった。
吟はセレーナと別れてから要の元へと訪れていた。馬小屋に背を預け、腕を組むと簡単に今までの状況を説明する。そして、今からこの学校内を巡回することを告げれば、要は一つため息をついた。それから、残念そうに頭を垂れて、肩を落とすように動く。
「……私も行きたいところではありますが、学校内を歩くとなれば、セレーナ様にもご迷惑がかかるでしょう。大人しくここで待つこととします」
「そうだな。巡回したらまた戻ってくる。その際に何か気になったことがあれば報告して欲しい」
「かしこまりました。……吟様」
要が静かに名前を呼ぶ。吟は首を傾げて次の言葉を待った。要がじっと自分に向けてくる視線は、真剣そのものである。吟はこれは何かあるのだろうと踏んでいた。
「……どうかしたのか」
吟は要に視線を向けて言葉を紡ぐ。組んでいた手をゆっくりと解き、刀に左手を添えて壁に預けていた背をしゃんと立たせた。
刀に手を添えたのは、何も要に向けたものではない。ただ、警戒を解かないように、そして慣れた位置に手を置いてしまったというだけであった。
吟が向き直ったのを見て、要は再度ため息をつく。吟は要がため息をついている理由に見当がつかず、思わず目を細めていた。
……そんなに深刻なことがあったというのか。
吟は本気で心配になってきた。要はこの学校に来てからはずっと馬小屋にいるわけだし、窮屈で退屈なのかもしれない。もしかしたら、吟が知らない情報を得ている可能性もある。となれば、話を聞かない理由はない。
吟はとにかく要の言葉を待つことにした。あまり急かしてはさらに話しにくくなるだろうと考えてのことである。特に、要は主従関係をしっかりと守っている節がある。吟があまり急かしたり、態度を変えたりすれば気にする可能性もあった。吟としては、そんなつもりはまったくないし、むしろ主従関係なんて不要なのだが、要からしたらそうもいかないらしい。となれば、吟がする行動とすれば、要が話すのを待つだけである。
吟がじっと待っていれば、要はようやく肩を落としてから口を開いた。
「……吟様、私があまり言うことではないのでしょうが、セレーナ様の、いえ、女性のお気持ちをもう少し考えてあげてくださいね」
「待て、何の話だ」
吟は要の言葉を聞いて、間髪入れずに聞き返していた。要から届いた言葉は、予想をはるかに超えていて。吟にはまったく思い当たる節がなかったのである。むしろ、どうしてその話になった、とすら思っていた。
要は吟の言葉を聞いて、再三ため息をついた。要から発せられる声音は、呆れているものに聞こえた。
「吟様は鈍感な部類にあたりますから。恐れながら申し上げますが、乙女心と呼ばれるものを理解しておられないと存じています」
「……要の口からそのような言葉が出てくるとは思いもよらなんだ。しかし、我は人の気配には――」
「それとこれとは話が別です」
吟は要の言葉を否定するために口を開いたが、要はその言葉を予想していたようで。吟の言葉を遮ってまでピシャリと否定するように強く言い放つ。吟はそれに目を瞬きつつも、つい苦笑してしまった。
……どうにも、要には言葉で勝てぬな。
それが嫌なわけでもなくて、不快な思いを抱くこともなく、ただ聞き入れている。それは、相手が要だからこそ、信頼しているものだからこそということを吟は理解していた。
吟が一人思考の海で納得していれば、要から不服そうな視線を向けられる。
「聞いておられますか、吟様」
「すまぬ、聞いてはいた」
「とにかく、吟様とセレーナ様では、相当な年の差があります。少しは考えてあげなければ、セレーナ様が可哀想です」
吟は要の言葉にふむと頷いた。頭を働かせてみる。
確かに、セレーナはまだ一〇代の少女だ。まだまだ人生先は長く、今は青春を謳歌している時だろう。対する吟はといえば、今世は一八歳であるものの、前世の記憶を持っている。つまり、前世を含めれば、何百年単位で生きているということになるのだ。長く生きている吟とは違い、まだ考え方も視野も、過ごし方にもすでに差が出ていることだろう。それに、吟自身が気にしていないことであったとしても、彼女は気にしているかもしれない。
そこまで考えて、吟はようやく理解した。それから、要へと向き直る。
「……肝に銘じておこう」
「はい、そうしていただけると幸いです。……私からはそれだけです。吟様、どうかお気をつけて」
「ああ」
吟は要に頷いてみせると、背を向けて歩いて行く。やがて、地面をトンと蹴って、木へと飛び移った。木から木へとリズム良く飛び移っていく。
音が遠ざかって行く中、鹿は主人の行く先をじっと静かに見送ったのであった。
Ⅱ
吟はある程度木を飛び移って移動した後、今度は建物へと足を向けた。足がかけられる部分を見極め、飛び移り、危なげなく屋根の上へと辿り着く。屋根の上でぐるりと周囲を見渡して確認するが、やはり景色以外に何も見えなくて。学校全体を覆う気配はあるものの、敵を特定することはできずにいた。
吟は一つ息を吐き出すと、屋根の上を走り始める。そして、次の建物の屋根へと危なげなく飛び移り、そのまま足を止めることなく、前へ前へと駆けて行く。気配の存在は、どこを走っても、周囲へと意識を向けても、変わることはなかった。
嫌な気配よ……。
吟は左手を刀に添えたまま、スピードを落とすことなく駆けて行く。見えない敵との間合いの取り方が分からないためだった。一度も対峙したことのない敵。武器が何なのか、間合いはどうなのか、どれほどの手練なのか――。何もかもが不明であった。
吟はそれらを考えつつ、一つ疑問が生じていた。
……何故、あの一瞬だけ気配を出して我らに近づいてきたのだろうか。
普段から姿を見せていない敵だ。気配すら感じさせないようにしているというのに、あの一度だけ、吟がアンドレたちと食堂で対峙したあの時だけ気配を出して自分たちに近づいてきたのである。存在感をあらわにし、吟たちに近づいて近くにいることを知らせてきたのだ。
何故――。
吟は足を止めることなく、前を向いたまま、目を細める。見えない敵を睨むかのようにすっと視線が鋭くなった。
吟の中で考えられる理由としては、二つ。
一つは、吟の実力を測るため。
もう一つは、あの場所に敵が狙っている者がいたため。
前者の理由だとするなら、理解することはできた。吟がこの場所に来て、まだ二、三日しか経過していない。ほかの者に関して情報を集めていたとするなら、自分の実力についても情報を集めに来てもおかしくない。それほどにあの場面は絶好の機会であったと思う。そう思えば、あの時に様子を見に来たのはおかしくないことだろうと考えていいはずだ。
だが、後者だとするのであれば――。
「……誰を狙う、か」
吟はそこまで考えてはたと気がつく。グロリアたちに行方不明になっている生徒の情報を聞いていないことに気がついたのだ。足を止めて、再度ぐるりと学校全体を見渡す。たくさんの建物が敷き詰められているこの場所に、隠れられそうなところはたくさんあるだろう。
だが――。
「行方の分からない者に何か共通点があるのか……。それにしても、行方が分からなくなった者の気配がないのも不思議なものだ」
――そう、吟がこの学校の敷地内に入ってから、行方不明になっているといった生徒たちの気配はないのだ。隠れていそうな、助けてほしそうな、そんな気配が一切ないのである。
吟のように、自ら気配を消すことなどできる者はそうそう限られてくるだろうし、ましてや助けて欲しいなら気配を消すことはないはずだ。
となれば、考えられるのは三つ。
一つは、この場所にはすでにいないということ。
一つは、魔法とやらで気配を消されているということ。
そして、もう一つは――。
――存在を消されている可能性がある、ということだ。
「……無差別に手にかけるような者であれば、相当危険な相手と見ていいだろうな。……もしかすれば、一刻の猶予もないのやもしれぬ」
吟がそこまで考えていれば、急速に自分に近づいてくる気配に気がついた。探しているものではなさそうだが、自分に向かって突進してきているのを感じ取る。
吟は添えていた左手でしっかりと鞘を握った。左手の親指で鍔を押し、右手は刀の柄に添える。いつでも抜刀できるように身構え、すっと目を閉じた。
気配を探り、そして――。
――気配が自分に一番近づいた瞬間、吟は目をかっと開いて抜刀し、相手に斬りかかった。キィンと刀が金属に当たる音が響き渡る。武器が交わって、お互いに距離を取った。吟はすかさず振り返って、相手と対峙する。
そこには――。
Ⅲ
「お主は……!」
吟は相手の姿を見て、驚きの声を上げた。
そこにいたのは、人間ではなかった。自分たちの世界、つまり前世によくいた彼らのことを、吟はよく覚えている。
吟は名を呼んでいた。
「……鎌鼬か!」
吟の言葉に、相手もピクリと反応を示した。
――鎌鼬。
旋風と共にやってきて、人の足や腕などを斬りつける妖怪のこと。実際の現象としても、その名で呼ばれる。その名の通り、鼬が鎌を持っているかのような姿をしているといわれていた。
吟が名前を呼べば、鎌鼬もようやく相手が吟だと理解したようで、ぱあっと顔を輝かせた。
「これはこれは、夜刀神様!」
鎌鼬は鎌をしまうと、ぴょこぴょこと吟に近づいた。吟も刀を鞘に収めると、鎌鼬と向き合う。吟は首に巻いた布を鼻までグイッと引き上げつつ言葉を紡ぐ。
「その名はとうに捨てた。我は今、ただの人間だ」
「そうでございましたか。いやはや、それにしてもお懐かしゅうございます」
鎌鼬は嬉しそうに言葉を紡ぐ。懐かしそうに目を細め、吟へとペコリと頭を下げた。吟はそれを見て、思わず口元を緩めた。
吟と鎌鼬は顔なじみである。友人ではないし、仲間というわけではないが、この鎌鼬は吟を慕っていた。というのも、前世で吟が鎌鼬を人間から救ったことがすべての始まりだったからであった。人間を斬りつける鎌鼬が人間に見つかって追われていたのを、吟が救出し、怪我を見て手当をしたのである。鎌鼬からすれば、吟は恩人同然であったのだ。
吟はそれにしても、と思う。
「鎌鼬よ、何故お主がここにいる」
吟が口にしたのは、単純な疑問であった。ここは、前世とは違い、吟ですらいまだによく分かっていない異世界なのである。鎌鼬は吟の問いかけに、片手を上げて答えた。
「そのことなのですが、吟様」
吟は不思議そうに鎌鼬を見つめた。鎌鼬は両手を大きく広げて、声を大きくして告げた。
「この世界にはきっと何かあるのです。妖怪の我らが、何故かこの世界に吸い寄せられているのです。すでに、私以外の妖怪も、何人もこちらに来ております」
「何……?」
鎌鼬の言葉に、吟は目を細める。ピクリと反応して、眉を寄せた。もし、この鎌鼬の話が本当だとするなら、この学校全体を覆っている気配すら、彼らのものとなってくる可能性も出てくる。吟が感じ取っている気配は、妖怪のものに近いと考えているからだ。
だが、吟はなんだか腑に落ちなかった。
本当に、それだけだというのだろうか……。
鎌鼬を前にして、彼の気配をしっかりと感じ取っている吟は、納得できずにいた。隠れている気配が、妖怪たちのものだとは信じ難い。それに、彼ら妖怪たちが、そうそう悪事に手を染めるとは考えにくいのである。だが、鎌鼬の言葉には嘘偽りないようにも感じていた。
妖怪の中には、悪事に手を染める、つまり人間に害するものや恨みを向けるものも確かにいる。だが、すべての妖怪がそれに該当するわけではない。この、吟の目の前にいる鎌鼬ですら、人間に追われた過去があるにせよ、人間に復讐をしようと考えたことがないのである。
吟の中で不可解な点が多い。すぐには解明できないものの、時間をかけて一つ一つ疑問を解消していくしかないと考えた。それと同時に、まず鎌鼬に確認しておくべきことがあると思ったのである。
「……鎌鼬よ、この世界に妖怪たちはどれほどいる」
「日に日に増えておりますので、なんとも……。しかし、私が知るほどでは、およそ五〇ほどかと……」
鎌鼬の言葉に、吟はふむと頷く。頭を抱えたくなるところではあるが、それをぐっと堪えて頭を働かせる。妖怪の数が増えていくことと、この世界に集まっていることの理由は不明だ。だが、その内容を聞いて吟の頭に浮かんだのは、ただ一つであった。
「……百鬼夜行、をするつもりではあるまいな」
妖怪の数がそこまで増えていると考えれば、それを最初に思い浮かべてしまう。鎌鼬学校把握しているだけで、五〇だというのだ。それよりも増えているに違いない。
だが、そもそも誰が何のために……。
吟が思考を巡らせていれば、鎌鼬が目を輝かせて声を上げる。
「もしや、吟様が百鬼夜行を率いると……!」
「何故そうなった。我にそのつもりはない」
吟は鎌鼬の言葉を即座に否定する。
……冗談だとしても聞きたくないものだ。
百鬼夜行、その言葉に胸を躍らせるものもいるかもしれないが、吟からしたら御免こうむりたいものである。冗談で言われたことが現実になったらたまったものじゃない。
吟は痛む頭を今度こそ抱えて、深くため息をつくのであった。
Ⅳ
吟は落ち着くと、気を取り直して鎌鼬へと問いかけた。
「……お主、ほかの妖怪たちの場所を把握しているか」
「えっと、すべては分かりませんが――」
その時、鎌鼬の言葉を遮るかのようにして、悲鳴が耳に届く。吟たちの場所からは近いようで、やけに大きく悲鳴が聞こえた。女性のつんざくような悲鳴に、鎌鼬は耳を抑えていたが、吟はそれを聞いて反応する。女性であることは分かっても、誰の声なのかまでは把握できなかった。
しかし、吟がすぐに頭に思い浮かべた人物は、ただ一人であった。その声の主でなくても、心配するのは、あの少女のみ。
「セレーナ殿……!」
吟はすぐに駆け始めた。背後で鎌鼬が呼ぶ声が聞こえたが、それに反応している暇さえ惜しい。今は一刻も早く前に進むことに専念したかった。
――吟は風のように駆けて行く。ただ一人の少女の無事を確認するまで、彼の足が止まることはなかった。
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24歳OLの立花由芽は、ある日異世界転生し「ユメ」という名前の16歳の魔女として生きることに。その世界は魔王の脅威に怯え…ているわけでもなく、レベルアップは…能力値がカンストしているのでする必要もなく、能力を持て余した彼女はスローライフをおくることに。そう決めた矢先から何やらイベントが発生し…!?

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