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第八章 少女が通う学校内の第一関門
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Ⅰ
吟がセレーナに返答してから二日後、吟はセレーナと共に屋敷を後にした。セレーナを乗せた馬車を要が引き、吟は御者の位置を陣取っている。
屋敷を出る際、警備の者たちからは大層嘆かれた。吟は内心引きつつも表情には出さず、別れを告げたのである。メイドたちからは何やら寂しげな眼差しを送られたが、意味が理解できておらず、それに触れることはなかった。
一番厄介だったのは、なんと言ってもセレーナの父親であるウィリアムで、セレーナとの別れに一時間弱、吟への注意喚起兼説教に三〇分近くの時間を要した。これには、吟もセレーナも重いため息をついたし、吟にいたっては慣れない説教に疲れてしまった。
吟が御者の位置を陣取ったのは、護衛も兼ねてであった。御者の代わりを買って出たのは、記憶に新しい。今回は本当に吟とセレーナのみで向かうことになるらしく、エミリーと呼ばれていたメイドは屋敷の前で控えていた。吟が挨拶をしに歩み寄れば、エミリーは「お嬢様のことをどうかお願いいたします」と簡単に、だが重たく言葉を発しただけであった。吟はその声音を聞いてしっかりと頷いてみせた。元々自分が引き受けた依頼だ、セレーナを守ることはとうに覚悟を決めていた。それに、自分の意思でもある。それを行動で示せば、エミリーは安堵したようで頭を下げていた。
こうして、時間はかかったものの、何とか屋敷から出発した吟たちは、セレーナの通う学校を目指して馬車を走らせた。吟は道中警戒しつつ進んだが、大したことはなく、強いて言うならモンスターが襲いかかってきたのを吟が難なく撃退したぐらいである。
要曰く、「そう強いモンスターではない」とのことだったが、名前を聞いても吟はすぐに忘れてしまった。妖怪やお化けの類とは違う、カタカナのモンスターは吟にとって覚えにくいものでしかなかったのである。
難なく順調に進むことができた吟たちは、予定よりも早くに目的の地へ到着することができた。吟は大きな門がそびえ立っているのを確認し、その近くに受付があるのを見つけた。御者の位置から飛び降り、受付へと声をかける。
「セレーナ殿を連れて参った。中に入る許可をいただきたい」
「セレーナ・ディ・ヴァンダーウォールです。帰省から戻りました。こちらは学生証です」
セレーナが吟を手助けするかのように窓から受付へ声をかける。学生証と呼ばれるものを出したので、吟はそれを受け取り、受付へ見せれば、受付にいた男は頷いて門を開けてくれる。
重々しい音を立てて開く扉を見つめ、吟は再度御者の位置へと座り、馬車を走らせる。門を潜りつつ、少しずつ見えてきた目の前に広がる大きな建物に、呆気に取られるのであった。
Ⅱ
吟は建物の前で馬車を止める。それから、ぐるりと周囲を見渡して、ぽつりと呟いた。
「……妙に大きいな」
「やっと着きましたわ! ウタ様、ありがとうございます」
「礼は不要だ。……それにしても、セレーナ殿。妙にここは広いと思うのだが」
「いいえ、ウタ様。これぐらいは普通かと思いますわ。人数も多いですし、少し小さいぐらいではないかと」
普通とは、一体……。
吟はセレーナの言葉に、疑問を抱く。だが、それを口に出すことはなかった。再度建物を見て、呆気に取られて言葉を紡ぐこともできずに、ただ黙って見つめるだけだ。
セレーナの屋敷ですら、広くて迷いそうだと思っていたのに、ここはその何倍あると言うのだろうか。五倍、下手したら一〇倍ほどの広さがあるかもしれない。庭らしきものもあるし、建物だけでも大きく広いものがここから見るだけでも五つ、六つほどはそびえ立っている。高さは違えど、それを確認できるのだ。吟はそれを見ただけで、気が遠くなる。
これは、また道やら何やらを覚えるのに一苦労だな。
吟は一つため息をついた。
――だが、それよりも、吟は気になることがあった。
吟はセレーナの姿を確認しつつ、要の元へと歩みを進める。横に並ぶように立ち、それから要へぽつりと小声で確認する。
「……気がついているか、要」
「はい、何やら妙な気配がしておりますね」
吟はその言葉に一つ頷く。
吟が学校の領域に入ってから感じ取っていたもの。セレーナは感じ取っていなさそうではあったが、気配を探ることに慣れていた吟は、その気配を何かビシバシと感じ取っていた。
……妙に嫌な気配がする。
道中ではまったく感じ取ることがなかったそれに、吟は眉間に皺を寄せてしまう。嫌な気配だけは感じ取るものの、隠しているのか正確に感じ取れないその気配に気分が悪くなる。邪悪な、嫌な気配、それだけは分かっても、どこでどんなものなのか分からないというところが歯痒い。吟は思わず首に巻いていた布を鼻先まで引き上げた。
要が耳をピクリと反応させた。それから、言葉を紡ぐ。
「あのローブの者とは違う気配ですね。それにしても……」
「……ああ、無視はできぬな」
吟は要の言葉に同意しつつ、気配を再度探ってみる。正確な位置は分からないものの、その気配に既視感があった。吟は記憶を手繰り寄せ、何に似ているのかと当てはまるものを探った。
そして、「ああ、そうか」と小さく呟いた。
この気配は――。
――妖怪の気配に、近いのか。
吟は既視感のある気配に気がつき、自然と目が細くなる。姿も形も分からないが、それだけでも気がつけば進歩だ。
吟がちらりと要を見れば、要は頷く。意思は一緒のようだ。それに安堵しつつ、要へと声をかけようとしたその時、セレーナに呼ばれる。
「ウタ様、先生方にお話しに行きたいので、一緒に来てくださいませんか?」
「……今行く」
吟は要に馬車や荷物を任せることにした。要を見れば、自信満々に頷いている。吟はそれに頷き返すと、セレーナの元へと足を進めるのであった。
Ⅲ
「しかし、ヴァンダーウォールさん、この方を中に入れるのは――」
「ですから、申し上げております、先生! ウタ様は――」
この言い合いを聞き続けて、一時間をとうに越えただろう。吟はセレーナと先生たちの言い合いを聞きつつ、げんなりとしていた。表情は基本的にマスクや首に巻いている布が隠してくれているので、気づかれることはないだろう。
吟がセレーナと「職員室」と記載されている部屋へ入れば、中にいた者たちは目を丸くしていた。セレーナと歩いているときですら、吟は何やら視線を感じ取っていたが、ここはそれ以上であった。だが、吟にとってみれば、そんなことはどうということはないのである。
それよりも――。
なんと、頑固な……。
吟は意見を曲げない両者を見て、少しばかり疲れていた。吟を護衛として連れてきたと言い張るセレーナと、吟を不審者と認識して頷こうとはしない先生たち。両者お互いに一歩も譲ろうとはしなかった。
セレーナは先生たちが一人は護衛を連れてきていいと言っていたことを主張するが、吟の姿を見てなのか、はたまた別の理由なのか、先生たちはなかなか頷こうとはしない。それどころか、吟を見る視線は鋭いものだ。もっとも、吟はそんなことをまったく気にしていなかったが。
だが、吟はそんな中でもセレーナが自分を信じてくれているという点について、少しばかり自分が喜んでいるのを感じ取っていた。それを理解しつつ、自然と口元が緩んでしまう。
吟がそんなことを考えている間も、彼らの言い合いはどんどん激しくなっていく。吟は躊躇いつつも、彼らの会話に口を挟むことにした。セレーナの肩に手をぽんと置き、宥めるかのように優しく触れる。そのままの状態で、吟は先生たちをじっと見つめた。吟の視線を受けて、彼らはビクリと身体を震わす。吟は気にすることなく、口を開いた。
「すまないが、口を挟ませてもらう。……セレーナ殿に依頼を受けて、我はここまで来た。そしてこの領域に入ってから我は一つ感じ取っているものがあるが、主らは感じ取っているのだろうか」
その言葉にその場にいた全員が息を呑んだ。ただ一人、セレーナだけが声を上げる。
「ウ、ウタ様! 何か分かりましたの!?」
吟はセレーナの言葉にすぐに横に首を振る。それから、言葉を紡いだ。
「いや、分かったというほどのものではない。気配を感じ取っているだけだ。何やら分かりにくくしてはいるが、嫌な気配というのか、邪悪なものを感じ取ってはいる。道中はまったくなかったが、この領域に入ってから感じているものだ。それを今、この場にいる者で誰か感じ取っている者はいるのか」
吟の言葉に、誰一人として返事をしない。それは、誰一人として感じ取っている者はいなかった、ということだろう。吟はそれを見て一つ息をつく。それから、静かに告げた。
「我のことを不審がる者がいてもおかしくはない。我自身、ここに来るのは躊躇っていた。どうしても主らが中に入れぬというのであれば、許可を出さぬと言うのであれば、我はすぐに出ていこう」
「ウタ様!」
吟が淡々と告げれば、セレーナが声を上げる。吟はそれを聞きつつも、言葉を続けた。
「だが、セレーナ殿は主らの言葉を信じて我を連れてきた。セレーナ殿は何も考えずに我を連れてきたわけではない。主らの言葉の意味を考えて、我に護衛の依頼をしたのだ。……否定することなど、簡単なことだ。誰もが受け入れたくないものは否定するだろう。だが、それよりも主らがしなくてはいけないことは、セレーナ殿の考えを汲んでやることではないのか」
「……」
先生たちは誰一人、何も言わない。吟はそれでも言葉を紡いでいく。
「何故、この領域で嫌な気配がしているのかは知らぬ。我が気配を探っても、位置も分からぬ状態だ。姿も形も見えず、それ以上はいまだに探れぬ。だが、我自身、それを知って何もせずに去ろうとは思わぬ。ここで引く気は毛頭ない。主らが許可を出そうと出さなかろうと、我は一人で動くつもりだ。――後は、主ら次第だ」
吟はセレーナの肩に手を置いたまま、そう告げる。古代紫の瞳を細めて、先生たちを見据えてから、視線をセレーナへと向けた。セレーナは不安そうに吟を見つめている。吟は安心させるように少しだけ口元を緩めて見せた。それから、努めて優しい声音で語りかける。
「我のことは気にするな、セレーナ殿。セレーナ殿の気持ちが奴らに伝わらないのでは意味がない。我が口を挟むべきではなかったかもしれんが、多少でも助言となれば良いのだが。……確かに、きっかけはセレーナ殿であったが、ここに来たのは我の意思だ。セレーナ殿が気を病む必要はない」
「ですが……」
セレーナは納得がいかないらしく、言い淀む。吟は横に首を振ってから、言葉を紡いだ。
「それよりも、気がかりなのはこの気配だ。これを放置したまま、去るのは納得がいかぬ。……世話になったセレーナ殿が危険な目に遭うのは、我からすれば放っておけぬこと。となれば、我が単独で動くしかあるまい」
「ダメです! それはウタ様が――」
「疑われる可能性がある」、そう言おうとしたセレーナの言葉を、吟は人差し指で抑え込む。彼女の唇に人差し指を添えれば、セレーナは口を噤むことしかできなかった。吟はそれを見てから続ける。
「その方法でセレーナ殿を守れるのであれば、我は構わぬ。それに、我は元々そのつもりで来ているのだ。去ることは簡単だが……」
吟は話しながらも頭を働かせる。
セレーナを守る方法として、今思いついているのは大きく分けて二つ。吟が先ほど述べたように単独で動くか、先生たちに認められた状態で動くか、だ。吟が単独で動くことも、この場から去ることも、簡単なことではある。だが、認めてもらうとなれば、話は別だ。いまだに納得してもらえていない状況だとすれば、一筋縄ではいかないだろう。
さて、どうするか……。最善の策とするのであれば、奴らに認めてもらうしかあるまい。だが――。
吟が気にするのは、セレーナのこと。さすがに彼女が悪く言われるのであれば、認めてもらえたにせよ、吟は許すことはできないだろう。何とか穏便に済ませたいところではあるが、そう思っていれば、目の前にいるセレーナが吟の着物をクイッと引っ張った。吟は思考を止めて、首を傾げる。
「セレーナ殿、如何した」
「ウタ様、やはり私にお任せ下さいませ。もう少しお時間をいただけませんか?」
「いや、しかし――」
吟が言い淀むも、セレーナは首を横に振る。それから、自信満々に告げた。
「必ず説得してみせますわ。先生方は一度連れて来ていいと仰っていたのですから。もう少しお待ちください」
セレーナは有無を言わさずにニコリと微笑む。吟の言葉を待たずに、セレーナは先生たちへと向き直った。吟はその背中を見送ることしかできなかった。
それから、ものの一〇分ほどで、セレーナは彼らを納得させることに成功した。
後に、吟は「この時のセレーナ殿の威圧感は、そうそう見られるものではない」と語ったのは、余談である。
IV
吟とセレーナは職員室から出て、次の目的地に向けて足を進めていた。吟は隣で歩く少女へ、頭を下げる。
「かたじけない、セレーナ殿」
「私からお願いしたんですもの。これぐらいはさせて下さいませ。納得していただけて良かったですわ」
セレーナの笑みを見て、吟は心中でセレーナを怒らせないことを誓う。今まで見てきた彼女とは違い、饒舌に語る少女は少々恐ろしく思えたのである。
吟がそんなことを思っているとはセレーナは露知らず、二人で要を馬小屋に預けに行く。馬車は別の馬が送り届けてくれるようだ。要を預けた後、吟はセレーナとともに到着した次の建物を見上げる。
「こちらですわ、ウタ様」
「……まだ、行くところがあるのだな」
「次はこの寮内を説得しませんと! ウタ様に文句を言う方がいれば、完膚なきまでに論破してやりますわ!」
セレーナが意気込んで中へと入っていく。吟はその後ろ姿を見て頼もしいと思いつつも、恐ろしいとも思ってしまう。
なんとも、強すぎるな……。
悪いことではないと思うが、こうも強い女子が今までにいただろうか。少なくとも、吟の記憶にはない。
一つため息をつきつつ、吟はちらりと背後を見た。何もないが、気配が残っていて違和感がある。姿も形も見えない相手で、それでも気配が残っているというこの状況に苛立ちが募った。
……見えぬ相手に苛立ったところで致し方ない。まずは、目の前のことに専念するか。
吟は少し先で待っているセレーナの後を追って歩み出す。
気配を早く見つけたい、そんな急く気持ちを今はとにかく押し殺すのであった。
吟がセレーナに返答してから二日後、吟はセレーナと共に屋敷を後にした。セレーナを乗せた馬車を要が引き、吟は御者の位置を陣取っている。
屋敷を出る際、警備の者たちからは大層嘆かれた。吟は内心引きつつも表情には出さず、別れを告げたのである。メイドたちからは何やら寂しげな眼差しを送られたが、意味が理解できておらず、それに触れることはなかった。
一番厄介だったのは、なんと言ってもセレーナの父親であるウィリアムで、セレーナとの別れに一時間弱、吟への注意喚起兼説教に三〇分近くの時間を要した。これには、吟もセレーナも重いため息をついたし、吟にいたっては慣れない説教に疲れてしまった。
吟が御者の位置を陣取ったのは、護衛も兼ねてであった。御者の代わりを買って出たのは、記憶に新しい。今回は本当に吟とセレーナのみで向かうことになるらしく、エミリーと呼ばれていたメイドは屋敷の前で控えていた。吟が挨拶をしに歩み寄れば、エミリーは「お嬢様のことをどうかお願いいたします」と簡単に、だが重たく言葉を発しただけであった。吟はその声音を聞いてしっかりと頷いてみせた。元々自分が引き受けた依頼だ、セレーナを守ることはとうに覚悟を決めていた。それに、自分の意思でもある。それを行動で示せば、エミリーは安堵したようで頭を下げていた。
こうして、時間はかかったものの、何とか屋敷から出発した吟たちは、セレーナの通う学校を目指して馬車を走らせた。吟は道中警戒しつつ進んだが、大したことはなく、強いて言うならモンスターが襲いかかってきたのを吟が難なく撃退したぐらいである。
要曰く、「そう強いモンスターではない」とのことだったが、名前を聞いても吟はすぐに忘れてしまった。妖怪やお化けの類とは違う、カタカナのモンスターは吟にとって覚えにくいものでしかなかったのである。
難なく順調に進むことができた吟たちは、予定よりも早くに目的の地へ到着することができた。吟は大きな門がそびえ立っているのを確認し、その近くに受付があるのを見つけた。御者の位置から飛び降り、受付へと声をかける。
「セレーナ殿を連れて参った。中に入る許可をいただきたい」
「セレーナ・ディ・ヴァンダーウォールです。帰省から戻りました。こちらは学生証です」
セレーナが吟を手助けするかのように窓から受付へ声をかける。学生証と呼ばれるものを出したので、吟はそれを受け取り、受付へ見せれば、受付にいた男は頷いて門を開けてくれる。
重々しい音を立てて開く扉を見つめ、吟は再度御者の位置へと座り、馬車を走らせる。門を潜りつつ、少しずつ見えてきた目の前に広がる大きな建物に、呆気に取られるのであった。
Ⅱ
吟は建物の前で馬車を止める。それから、ぐるりと周囲を見渡して、ぽつりと呟いた。
「……妙に大きいな」
「やっと着きましたわ! ウタ様、ありがとうございます」
「礼は不要だ。……それにしても、セレーナ殿。妙にここは広いと思うのだが」
「いいえ、ウタ様。これぐらいは普通かと思いますわ。人数も多いですし、少し小さいぐらいではないかと」
普通とは、一体……。
吟はセレーナの言葉に、疑問を抱く。だが、それを口に出すことはなかった。再度建物を見て、呆気に取られて言葉を紡ぐこともできずに、ただ黙って見つめるだけだ。
セレーナの屋敷ですら、広くて迷いそうだと思っていたのに、ここはその何倍あると言うのだろうか。五倍、下手したら一〇倍ほどの広さがあるかもしれない。庭らしきものもあるし、建物だけでも大きく広いものがここから見るだけでも五つ、六つほどはそびえ立っている。高さは違えど、それを確認できるのだ。吟はそれを見ただけで、気が遠くなる。
これは、また道やら何やらを覚えるのに一苦労だな。
吟は一つため息をついた。
――だが、それよりも、吟は気になることがあった。
吟はセレーナの姿を確認しつつ、要の元へと歩みを進める。横に並ぶように立ち、それから要へぽつりと小声で確認する。
「……気がついているか、要」
「はい、何やら妙な気配がしておりますね」
吟はその言葉に一つ頷く。
吟が学校の領域に入ってから感じ取っていたもの。セレーナは感じ取っていなさそうではあったが、気配を探ることに慣れていた吟は、その気配を何かビシバシと感じ取っていた。
……妙に嫌な気配がする。
道中ではまったく感じ取ることがなかったそれに、吟は眉間に皺を寄せてしまう。嫌な気配だけは感じ取るものの、隠しているのか正確に感じ取れないその気配に気分が悪くなる。邪悪な、嫌な気配、それだけは分かっても、どこでどんなものなのか分からないというところが歯痒い。吟は思わず首に巻いていた布を鼻先まで引き上げた。
要が耳をピクリと反応させた。それから、言葉を紡ぐ。
「あのローブの者とは違う気配ですね。それにしても……」
「……ああ、無視はできぬな」
吟は要の言葉に同意しつつ、気配を再度探ってみる。正確な位置は分からないものの、その気配に既視感があった。吟は記憶を手繰り寄せ、何に似ているのかと当てはまるものを探った。
そして、「ああ、そうか」と小さく呟いた。
この気配は――。
――妖怪の気配に、近いのか。
吟は既視感のある気配に気がつき、自然と目が細くなる。姿も形も分からないが、それだけでも気がつけば進歩だ。
吟がちらりと要を見れば、要は頷く。意思は一緒のようだ。それに安堵しつつ、要へと声をかけようとしたその時、セレーナに呼ばれる。
「ウタ様、先生方にお話しに行きたいので、一緒に来てくださいませんか?」
「……今行く」
吟は要に馬車や荷物を任せることにした。要を見れば、自信満々に頷いている。吟はそれに頷き返すと、セレーナの元へと足を進めるのであった。
Ⅲ
「しかし、ヴァンダーウォールさん、この方を中に入れるのは――」
「ですから、申し上げております、先生! ウタ様は――」
この言い合いを聞き続けて、一時間をとうに越えただろう。吟はセレーナと先生たちの言い合いを聞きつつ、げんなりとしていた。表情は基本的にマスクや首に巻いている布が隠してくれているので、気づかれることはないだろう。
吟がセレーナと「職員室」と記載されている部屋へ入れば、中にいた者たちは目を丸くしていた。セレーナと歩いているときですら、吟は何やら視線を感じ取っていたが、ここはそれ以上であった。だが、吟にとってみれば、そんなことはどうということはないのである。
それよりも――。
なんと、頑固な……。
吟は意見を曲げない両者を見て、少しばかり疲れていた。吟を護衛として連れてきたと言い張るセレーナと、吟を不審者と認識して頷こうとはしない先生たち。両者お互いに一歩も譲ろうとはしなかった。
セレーナは先生たちが一人は護衛を連れてきていいと言っていたことを主張するが、吟の姿を見てなのか、はたまた別の理由なのか、先生たちはなかなか頷こうとはしない。それどころか、吟を見る視線は鋭いものだ。もっとも、吟はそんなことをまったく気にしていなかったが。
だが、吟はそんな中でもセレーナが自分を信じてくれているという点について、少しばかり自分が喜んでいるのを感じ取っていた。それを理解しつつ、自然と口元が緩んでしまう。
吟がそんなことを考えている間も、彼らの言い合いはどんどん激しくなっていく。吟は躊躇いつつも、彼らの会話に口を挟むことにした。セレーナの肩に手をぽんと置き、宥めるかのように優しく触れる。そのままの状態で、吟は先生たちをじっと見つめた。吟の視線を受けて、彼らはビクリと身体を震わす。吟は気にすることなく、口を開いた。
「すまないが、口を挟ませてもらう。……セレーナ殿に依頼を受けて、我はここまで来た。そしてこの領域に入ってから我は一つ感じ取っているものがあるが、主らは感じ取っているのだろうか」
その言葉にその場にいた全員が息を呑んだ。ただ一人、セレーナだけが声を上げる。
「ウ、ウタ様! 何か分かりましたの!?」
吟はセレーナの言葉にすぐに横に首を振る。それから、言葉を紡いだ。
「いや、分かったというほどのものではない。気配を感じ取っているだけだ。何やら分かりにくくしてはいるが、嫌な気配というのか、邪悪なものを感じ取ってはいる。道中はまったくなかったが、この領域に入ってから感じているものだ。それを今、この場にいる者で誰か感じ取っている者はいるのか」
吟の言葉に、誰一人として返事をしない。それは、誰一人として感じ取っている者はいなかった、ということだろう。吟はそれを見て一つ息をつく。それから、静かに告げた。
「我のことを不審がる者がいてもおかしくはない。我自身、ここに来るのは躊躇っていた。どうしても主らが中に入れぬというのであれば、許可を出さぬと言うのであれば、我はすぐに出ていこう」
「ウタ様!」
吟が淡々と告げれば、セレーナが声を上げる。吟はそれを聞きつつも、言葉を続けた。
「だが、セレーナ殿は主らの言葉を信じて我を連れてきた。セレーナ殿は何も考えずに我を連れてきたわけではない。主らの言葉の意味を考えて、我に護衛の依頼をしたのだ。……否定することなど、簡単なことだ。誰もが受け入れたくないものは否定するだろう。だが、それよりも主らがしなくてはいけないことは、セレーナ殿の考えを汲んでやることではないのか」
「……」
先生たちは誰一人、何も言わない。吟はそれでも言葉を紡いでいく。
「何故、この領域で嫌な気配がしているのかは知らぬ。我が気配を探っても、位置も分からぬ状態だ。姿も形も見えず、それ以上はいまだに探れぬ。だが、我自身、それを知って何もせずに去ろうとは思わぬ。ここで引く気は毛頭ない。主らが許可を出そうと出さなかろうと、我は一人で動くつもりだ。――後は、主ら次第だ」
吟はセレーナの肩に手を置いたまま、そう告げる。古代紫の瞳を細めて、先生たちを見据えてから、視線をセレーナへと向けた。セレーナは不安そうに吟を見つめている。吟は安心させるように少しだけ口元を緩めて見せた。それから、努めて優しい声音で語りかける。
「我のことは気にするな、セレーナ殿。セレーナ殿の気持ちが奴らに伝わらないのでは意味がない。我が口を挟むべきではなかったかもしれんが、多少でも助言となれば良いのだが。……確かに、きっかけはセレーナ殿であったが、ここに来たのは我の意思だ。セレーナ殿が気を病む必要はない」
「ですが……」
セレーナは納得がいかないらしく、言い淀む。吟は横に首を振ってから、言葉を紡いだ。
「それよりも、気がかりなのはこの気配だ。これを放置したまま、去るのは納得がいかぬ。……世話になったセレーナ殿が危険な目に遭うのは、我からすれば放っておけぬこと。となれば、我が単独で動くしかあるまい」
「ダメです! それはウタ様が――」
「疑われる可能性がある」、そう言おうとしたセレーナの言葉を、吟は人差し指で抑え込む。彼女の唇に人差し指を添えれば、セレーナは口を噤むことしかできなかった。吟はそれを見てから続ける。
「その方法でセレーナ殿を守れるのであれば、我は構わぬ。それに、我は元々そのつもりで来ているのだ。去ることは簡単だが……」
吟は話しながらも頭を働かせる。
セレーナを守る方法として、今思いついているのは大きく分けて二つ。吟が先ほど述べたように単独で動くか、先生たちに認められた状態で動くか、だ。吟が単独で動くことも、この場から去ることも、簡単なことではある。だが、認めてもらうとなれば、話は別だ。いまだに納得してもらえていない状況だとすれば、一筋縄ではいかないだろう。
さて、どうするか……。最善の策とするのであれば、奴らに認めてもらうしかあるまい。だが――。
吟が気にするのは、セレーナのこと。さすがに彼女が悪く言われるのであれば、認めてもらえたにせよ、吟は許すことはできないだろう。何とか穏便に済ませたいところではあるが、そう思っていれば、目の前にいるセレーナが吟の着物をクイッと引っ張った。吟は思考を止めて、首を傾げる。
「セレーナ殿、如何した」
「ウタ様、やはり私にお任せ下さいませ。もう少しお時間をいただけませんか?」
「いや、しかし――」
吟が言い淀むも、セレーナは首を横に振る。それから、自信満々に告げた。
「必ず説得してみせますわ。先生方は一度連れて来ていいと仰っていたのですから。もう少しお待ちください」
セレーナは有無を言わさずにニコリと微笑む。吟の言葉を待たずに、セレーナは先生たちへと向き直った。吟はその背中を見送ることしかできなかった。
それから、ものの一〇分ほどで、セレーナは彼らを納得させることに成功した。
後に、吟は「この時のセレーナ殿の威圧感は、そうそう見られるものではない」と語ったのは、余談である。
IV
吟とセレーナは職員室から出て、次の目的地に向けて足を進めていた。吟は隣で歩く少女へ、頭を下げる。
「かたじけない、セレーナ殿」
「私からお願いしたんですもの。これぐらいはさせて下さいませ。納得していただけて良かったですわ」
セレーナの笑みを見て、吟は心中でセレーナを怒らせないことを誓う。今まで見てきた彼女とは違い、饒舌に語る少女は少々恐ろしく思えたのである。
吟がそんなことを思っているとはセレーナは露知らず、二人で要を馬小屋に預けに行く。馬車は別の馬が送り届けてくれるようだ。要を預けた後、吟はセレーナとともに到着した次の建物を見上げる。
「こちらですわ、ウタ様」
「……まだ、行くところがあるのだな」
「次はこの寮内を説得しませんと! ウタ様に文句を言う方がいれば、完膚なきまでに論破してやりますわ!」
セレーナが意気込んで中へと入っていく。吟はその後ろ姿を見て頼もしいと思いつつも、恐ろしいとも思ってしまう。
なんとも、強すぎるな……。
悪いことではないと思うが、こうも強い女子が今までにいただろうか。少なくとも、吟の記憶にはない。
一つため息をつきつつ、吟はちらりと背後を見た。何もないが、気配が残っていて違和感がある。姿も形も見えない相手で、それでも気配が残っているというこの状況に苛立ちが募った。
……見えぬ相手に苛立ったところで致し方ない。まずは、目の前のことに専念するか。
吟は少し先で待っているセレーナの後を追って歩み出す。
気配を早く見つけたい、そんな急く気持ちを今はとにかく押し殺すのであった。
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