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12話 離別
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床に倒れる息子をのぞき込む夫婦の顔は不安げだ。
なにぶん睡眠薬など初めて使ったため量は間違っていないものの、倒れ伏せる姿をみると心配になってしまう。
どうしたものかと困惑していると玄関から二人にとって救いの人物が現れる。
このタイミングで入ってきたところを見ると恐らくこれより以前に到着してどこかで様子を伺いつつ待機していたのだろう。
その証拠に窓から彼が乗ってきたであろう車が確認できた。
「どうやらうまくいったようだな」
黒絵那岐は自身より倍ほど年の離れた二人に対しても尊大な態度を崩すことなく接する。
彼らもそれを当然のように受け入れているところをみるとこの主従関係は当然のものなのだろう。
とはいえ、黒絵那岐は恐らく誰に対しても態度を変えることなどないだろうが。
「透がここに帰ると思っていたからな。貴方たちに薬を持たせて良かった。こいつはなんだかんだで貴方たちと居たいと思っているようだったから」
そんな子供をだましてしまった親としては居心地の悪さを感じてしまう。
「そんな、思いつめた顔をするな。これはあくまで透を助けるためなんだから」
那岐は倒れた透を起こしながら狼狽する二人にそう言い聞かせた。
那岐は意識のない透を肩に担ぎ自らの車へと運ぼうとするも、意識を失っていたはずの透が突如としてその首を締め上げる。
「『貴様ら!この体に何をしたぁ!』」
それは確かに透の口から発せられた彼の声だったが、口調や雰囲気は全くの別人のものだった。
まるで誰かが透の声真似でもしているかのような感覚だったが、目の前にいるのはもちろん本人なのでそんなはずもない。
息子の豹変に驚く両親をよそに首を絞められている那岐は息苦しそうにしながらも笑った。
「やっぱり現れたか。お前がナキだろ?透の体に寄生している神。まっていたぞ。これでようやく話ができる」
「『そうか、だが私はお前なんぞに用はない。このまま落ちろ』」
透を介して現れたナキは那岐の首をさらに締め上げその意識を刈り取ろうとする。
だが、那岐はそんな透の体を肘で殴りつけひるんだ隙に逆に首に手を回し背負い投げのようにその体を前方へと投げ飛ばした。
ふわりと宙に浮くからだ、投げ飛ばされたナキはいったい自分の身に何が起きたのかわからなかっただろう。
もしかしたら地面が消えたという感覚に陥ったかもしれない。
これが透本人であったならこのような結果にはならなかっただろう。
武術の心得がある彼なら何らかの返し技を繰り出し投げ飛ばされることだけは避けたに違いない。
だがそんなすべを知らないナキは受け身もとることができず廊下にたたきつけられる。
その激しい衝撃音はあばらや背骨が折れたのではかと心配になるほどの勢いだったが、たたきつけられた透の体はすぐに起き上がろうと体勢を立て直そうとする。
しかし那岐はすかさず馬乗りになり手をねじり上げるとその体を完全に捕縛した。
「透には悪いことをしたな。一応加減はしたが後で医者に見せるとしよう」
口調こそ穏やかだが透の体を縛り上げるその力はもう一ひねりすれば彼の腕を追ってしまいそうなほど強い。
だが、透の体はなおも抜けそうと抵抗していた。
「『貴様、離せ!この私にこのような恰好をふざけるな!』」
本来なら動くことも出来ないであろうこの体勢での抵抗、それを見て那岐は己の予測に確信を持てた。
「やはりか、ナキお前、この体の痛みを感じていないな?」
そうこんな動き痛みを感じていたらできるはずがない。
ナキ自身に痛覚があるのかは定かではないが、今使っている透の体にはあってしかるべき機能だ。
だというのに感覚を共有しているはずのナキは痛みを感じていない。
つまりは完全に肉体を共有している訳ではないということだ。
少なくとも痛覚は共有してはいない。
そのことについてはナキ自身も思うところがあったのか彼女の動きは止まった。「そう、痛みを共有できないお前は気づいていないだろう透の体の事を」
「『透の体?』」
「いいか、お前の使っている体は」
そうして彼は神にその事実を告げた。
頭に走るしびれるような痛み、その不快さから透は重い瞼を開いた。
目こそ開いたものの透の焦点は全く定まっておらず、その目に映る光景を脳がきちんと認識しているのかも疑わしい。
どうやらまだ完全に薬が抜き切ってはいないようだ。
そんな状態が五分ほど続いたころだろうか、数度の瞬きの後死人のようだったその瞳にだんだんと生気が戻ってきた。
やっと意識が覚醒したのか、起き上がろうと体を起こそうとしたところで彼は呻き顔をゆがめた。
背中を中心に呼吸が止まるほどの痛みが走る。
起き上がるのは無理だと判断した透は背中をかばうようにゆっくりと再びベッドへ横になる。
横になり痛みも引いたところで彼はやっと一息付け周囲の様子をうかがうことができた。
先ほどまでの異様な眠気も痛みで吹っ飛んだことで彼は目を覚ましてから五分もたってここが自宅ではないことに気づいたのだった。
広々とした座敷はやけに暗く今が夜だということが分かった。
部屋の明かりは燭台に立てられた蝋燭のみで、それは宝石のように美しく部屋中に広がる和室独自の畳の香りとあいまり、とても心を落ち着かせる。
電気ではなく蝋燭にしたのは電気のような強く無機質な光より、陽炎のような子のやさしい光のほうが安心感があるだろう配慮なのだろうか。
「どうして俺はここで寝てるんだ、那岐さん?」
恐らく透が目を覚ます以前からそこにいたのだろう。
湯呑を片手に茶をすする那岐に話しかける。
「今は安静にしてろ、骨折やヒビはなかったが背中を強打したんだ無理はしない方がいい」
そんな覚えはない、というかなぜ自分がこんなところにいるのかが透にはよく理解できなかった。
どうも記憶が飛んでいるようだ。
今の状況がどうゆうことなのかを考える透を横に那岐は話を続ける。
「そうだ、お前に一つ報告があってな。今日嫁を取ることにした。お前にもかかわりのあるやつなんでな紹介をさせてくれ」
自動ドアのようにスッと開く襖、その奥から現れたのはここにいるはずのない人物、白き神ナキだった。
「なぜ、ここに?」
その問いに彼女は答えず、代わりに那岐が口を開いた。
「言っただろう彼女は今日より私の妻だ。黒絵家にいるのは当然のことだ」
「じゃなくて、なんでそんなことになってるんだ?」
この二人に面識などあるはずがない。
だのにどうして、こんな状態になっているのかが全く分からなかった。
「なんでか、すべてを説明するのは大変だが。透、私もこの島の住人だ黒絵の人間と言えどヒルという神は信じて以上妹神であるナキのことも知っていた。そして彼女がまだ生きているであろうことも。我らは長い間彼女を探し求めてきた」
本当に長かった、那岐はまるで重い荷物を下ろしたかのように疲れ切った心労の刻まれた表情を見せた。
「なんでナキを探してた?研究のためか?いや、今の話しぶりだと研究はナキを見つけるためにやってた?」
その答えに満足したのか那岐は正解だと笑う。
「そう、今までの事は全てナキを探すためにあった。彼女が眠る場所が蔵星の屋敷だということも塔の昔に調べがついていた。だが場所が悪かったな。相手は我が黒絵と並ぶ星蔵の家、手を出せば星蔵につく島の者たちも黙っていないだろう、下手をすれば戦争だ」
戦争というのは大げさかもしれないが、島が二つに割れる争いになるのは確実だった。
それだけの影響力が彼らにはあるのだから。
「それはあまり好ましい結果ではないからな。もし争いによってナキを失うことにでもなればそれこそ本末転倒というものだ。だから我ら黒絵は待った。いずれ来るであろう好機を、子から親へと何代も血を重ねながら」
それはもはや人ではない獣のような執念。
穴蔵から獲物が通るのを待ち続けるかのようなその根気の強さいったいどこから来るのだろうか。
「そしてその好機が私の代にしてやっと来た。ナキが目覚め友人である透がその契約者になるなどこれ以上のチャンスはないと私は考えた。ナキの目覚めとお前との関係は今までの言動で気づけたからな」
「俺を利用したのか?」
にらみつけながら問う透。
その目には怒りが灯ってきていた。
「結果的には。だが言い訳をするならば、お前との友情は決して嘘ではないものだ。減にナキの事はお前との交流を通して気づいたしな。優先順位の問題だ透。お前との友情と一族の悲願、私にとって大切だったのは後者だった。それだけの話だ」
「何のために、なぜそこまでナキを欲する?」
「しんじんを生み出すため」
「しんじん?」
それはどういった字でどう言った意味のある単語だろうか?
透が眉間にしわを寄せていると、那岐は説明を続ける。
「神に人と書いて神人。人でありながら神の領域に踏み込んだ新たな人類の呼称だ。知力体力あらゆる面で人を超えた彼らは必ずや人類の希望となりそれを生み出す私はこの世界の救世主となるだろう」
自己陶酔でもしているのだろうか?
彼の口調はとても軽やかで時頼笑みも見せる、普段は冷静な彼からは考えられないその態度に恐怖にも似た寒気を感じる。
「知ってるか透?かつてこの島にいた神であるヒルは幾人かの人間の女を身ごもらせ幾人かの神人が生まれた、その子孫たちが今この国で王族をやっているらしい」
和州国の王族は神の血が流れている。
その話は聞いたことがあった。
神の血が流れる王族たち、故に彼らは凡夫たちとは違い尊き存在なのだとこれは学園で幼少期から教わる事でもあるのだが、そんな話は神話の話で世界中の王族にもある箔付けの類のものだと認識していたのだが、まさかヒルがかかわっていたなどと流石の透も予想にしていなかった。
「つまり、彼らの血はそれだけで世界を変えうる存在を生み出すことが可能ということだ」
「つまり那岐はナキに自分の子供を産ませるつもりなの?」
「ああ、わくわくするだろ。己の子が世界を変えうる存在となるのだ。興奮が収まらない」
そう笑う那岐を透は心底理解できず、その態度があまりに芝居じみているせいか不気味に思えてしまう。
「ナキはそんなの望んでいないだろ」
話の中心にいるのに全く会話に参加する気配のないナキに透は聞く。
傲慢ながらも気高い彼女がこんなことを承諾するはずがない、そう思う透だが彼の予想に反して彼女は首を横に振る。
『透、私は神であるが同時にお前たちと同じ生物であり女なのだ。はるか昔に兄ヒルをなくした今私の種族はもはや私一人なのかもしれない、そうなると我が子を欲するのは女の性いや生物として当然のものだろう?』
「それで、割り切れと?ふざけるな。俺に共生関係を敷いたのはお前だ、そんなお前が勝手にそんな理由で終わらせるのか」
透自身何でここまでの怒りをナキに覚えるのかがよくわからなかった。
ただ、はじめはあまりに理不尽な関係性だったけど、気づけば彼女がいるのが当たり前になっていて、傲慢でけれど外の世界にあこがれを持つ神様をかわいいやつだと思えてきて、こんな日々も悪くない楽しいと思えるようになってきたのに。
「一方的すぎるだろ」
その一言はもう泣き出す寸前なほど情けないものだった。
そんな透にナキは一度だけ目を見張ると、
『私が一方的なのは知っているだろ』
そう冷たく言いのけた。
そして、もう語ることはないといわんばかりに部屋を出ていく。
当然、透は後を追おうとするが、体の痛みと那岐に肩を押し付けられてそれは叶わなかった。
「落ち着け透、無茶はするなと言ったはずだ。お前、自分の体の事わかっているんだろう?」
それは一体、どちらの事を言っているのか?
透は少し疑問に思う。
「いっとくが、今の状態の事じゃないぞ。そんなボケはなしだ。今までのお前の事だよ」
わずかに残った思考の逃げ道の先回りされ塞がれた。
これはもう観念するしかないとため息をつく。
「気づいてたのか?」
「当たり前だ。お前の健康管理は私がしてたんだ気づかんはずがないだろう」
確かに自分でも自覚できるほどの体の異常を那岐が見過ごすなんて考えてたのは甘かったと透は今になって遅すぎる後悔をする。
「そうか、それで俺の状態はどんなもんなの?悪いってのはわかってるけど正確の事はさっぱりでね。教えてよ」
自分の体の事なのに他人事のように聞く透は半ばこの後何を言われるのか大方予想がついているようだった。
「その前に、お前自身はどんな自覚症状があったんだ?今さら隠すなよ」
なんだか本物の医者みたいだなずいぶん口が悪く偉そうだけど。
こういうことを知りあいに真剣に話すのは少しこそばゆい感じがしたがそれはお互い様だろうと透はあきらめることにした。
「違和感は始めからあったよ。得にナキと契約をさせられた初日は死ぬほど苦しかった。熱は出るは体中痛いは最悪だったね」
あの時ほどの苦しみ、拷問など経験したことはないがそれに匹敵する痛みだと勝手に思う。
何しろ文字通り気が狂うほどの苦痛だったのだから。
「それは当然だな。ナキが言ってただろうがアレはお前の体を彼女の意識と共有するために作り替えるもの。痛みを伴うのは当たり前だ、死ななかったことに感謝するべきだ」
「九死に一生ってやつか」
ハッと透は笑って見せる。
「その後も慢性的な頭痛は続いた。最初の頃は頭の前側、前頭葉の部分だけだったけど日がたつにつれてどんどん全体に広がっていったな。最近じゃ感覚も薄れてきて、手先はしびれるし、目はかすむ味覚も少し変なんだ」
まさにぼろぼろといってもいいその状態だった。
彼の体は日常生活が困難になるほど悲鳴を上げていたのだ。
「痛みが広がるか、それは一体いつ頃の話だ」
「たぶん、一年ほど前」
那岐は少し考えるように自身の唇をさすりながらぼやく。
「一致してるな。お前の運動神経が異常に良くなったころと」
「ああ、俺もそう考えてた。体に不調が増えるのと比例するように俺の体は俺が思うままに動かせることができるようになった。それでも那岐には勝てんなかったからナキにも協力してもらったけど」
「細胞変異の影響か。透、お前の体はな、最初に影響を受けた脳を起点として徐々に変化が生じている。未知の細胞がお前の正常な細胞を変貌させながら増殖していってるんだ。恐らくナキとのシンクロを高めるための変貌だろうが・・・その運動性の高まりと体の痛みの原因はそれだ」
変貌、そのおどろおどろしさに透は自身の手を見つめるそぶりを見せるがやはり傍目では何も変わらないように見える。
「正常な細胞の変貌か。なんかそれだけ聞けばガンみたいだな」
「結果としては一緒だ。浸食された細胞は元の機能を失っていく。お前の体の不調の原因はそれだ、正常な細胞が機能しなくなってきている。このままだとすぐに死ぬぞ」
死という明確な終わりを宣言されてなお透は表情を変えずにいた。
ただ頷くのみで、驚くほど素直にその事実を受け入れているように見える。
「随分と落ち着いてるな、もしかして気づいていたのか?」
「まぁうすうす。自分の体が内側から壊れていくっていうのかな命が削られるような感覚を覚えるようになってからはもう長くないのかなって考えだしたね」
「怖くはないのか死ぬことについて」
恐怖など感じていないような態度に対して那岐がこの疑問をぶつけるのは必然でもあった。
もちろん死を恐れない人間は世の中に入る。
けれどそういった人物たち悪く言えば人としてどこかしら壊れているものだ。
けれど今まで接してきた中で透にはそんな部分はないように那岐は思った。
多少大人びてはいるが怒りも笑いもするごく普通の少年だ。
そんな彼がどうしてこうも自然体でいられるのかがわからなかったのである。
「死ぬのは怖いさ。当たり前だけど。けれど、まぁなんとなくわかってたし、正直実感があまりないんだ。今こうして息をしている、それだけでどうしようもない事実でもなんとかなるんじゃないかって思ってしまう」
それを甘い考えだと那岐は思わない、透はまだ若い。
死を受け入れようと現実味がないのは仕方がないのかもしれない。
「この話、ナキにもしたの?」
那岐はうなずき肯定した。
そうするとなぜか透は少しうれしそうに『ああ、そうか』と笑った。
「だから、アイツ俺から離れたのか。馬鹿だな」
まるですべてを悟ったかのような言い方の透に那岐は違和感を覚えた。
「君は彼女が君のために自分の元を離れたと思っているのか?」
「うん、それしかありえない」
それは迷いのない返答だった。
当たり前のようにまるで決定事項のように、それがまるで自分の意思のように言い張る。
その目は瞬き一つせずまっすぐすぎてなんだか不気味にも感じられる。
「ずいぶんな自身だ。そんなに彼女を信じているのか?」
そういうとそれは違うと首を振る。
別に気恥ずかしさから否定しているようではない。
祖ひとみは相変わらず澄んでいる。
「信じてるとは違う。アイツならそうするだろうってわかるんだ。アイツと俺は他人だ。友達でも恋人でも家族でもない。それどころか種族すら違う。けれどあいつと俺は何よりも深いところでつながっている他人なんだ」
それは契約の事を言っているのだろうか?
それは那岐にはわからなかった。
「アイツが俺への干渉をやめたら、俺の命は助かるのか?」
その問いに那岐は首を振る。
透もそうだろうなと納得する。
「言っただろ、お前の細胞はすでに変異してしまっている。それを元に戻すことはできないし、細胞である以上浸食を止めることも不可能だ。それに未知の細胞である以上、処置もできない」
打つ手はなし、もしこれが癌のように腫瘍であったなら未知ではあっても切り離すことで完治と入華今でも応急処置くらいはできたかもしれない。
だが、変異した細胞はその数を増やすわけでもなくただまったく別種のものへと移り変わっている、それを取り除くには変異した細胞ごとその器官を取り除くしかない。
しかし、最も変異が激しいのは彼の脳であった。
彼女が最も干渉した場所なので変異が激しいのは当然の事ではあったが、どうあっても代替えが効かない場所、こうなっては手出しはできない。
だが不思議に思うこともある。
他の変異した部分は彼に確実な死を与えようとしているのに、最も変異の激しい脳は今なお彼を生かし続けている。
やはり理解できない部分が多すぎる、そう那岐は頭を悩ます。
「命が助かるわけじゃないがそれでも今以上に寿命を縮ませることはない。安静にしていれば二十歳までは生きることができるだろう」
それはあまりにも短い余命宣告だった。
残りの寿命がたった六年、そのあまりに短い命に彼はどう思ったのか?
反応ない沈黙に居心地の悪さを感じる那岐は、この空気を壊すように話を続けた。
「これでも、大分命は伸びたほうだ。本来のまま契約を続けていたら、お前は初日の出を見ることもなくその命を終えていただろうからな」
それがいったいどれほどの慰めになるだろうか?
少なくとも、よかったなんて思えることはないだろう。
どちらにせよ短命のことに変わりはない。
まだまだ先の長い人生を歩むはずだった二十歳までは生きれるといわれて、それを喜べるはずがない。
だというのに透の頬はまるで安心したように微笑んでいるように見えた。
「そうか、教えてくれてありがとう」
その言葉に那岐は少し面食らってしまった。
正直今回の事は彼から感謝されるようなことは一切ないと考えている。
結果的には彼の寿命を伸ばすことにつながりはしたが、状況が違えば見殺しにすることもありえただろう。
本気で助ける気があったならもっと早くに行動していた、だがナキを手に入れる確実性を優先した彼は透の命がここまで削られるのをあえて見過ごしたのだ。
そんなことは透もわかっていた。
だが彼は礼を言った、表面的なものではなく心から。
その真意が那岐にはわからなかったのである。
「体ももうしばらく安静にすれば動くようになる。後から君の両親には迎えに来るよう連絡してるので、それまでゆっくりとすればいい」
両親という単語が出た瞬間今までほとんど崩れなかった透の顔があからさまにいやそうに歪む。
「そんな顔をするな。アレで君のことは心から心配してる。だから今回の件も恨まれることを承知で手を貸してくれたんだ、少し距離を縮めてもいいんじゃないか?」
そんな助言はうるさいと言わんばかりに顔を背ける透だったが、那岐が部屋を出る直前『考えとく』と少しの肯定を示して見せたのだった。
なにぶん睡眠薬など初めて使ったため量は間違っていないものの、倒れ伏せる姿をみると心配になってしまう。
どうしたものかと困惑していると玄関から二人にとって救いの人物が現れる。
このタイミングで入ってきたところを見ると恐らくこれより以前に到着してどこかで様子を伺いつつ待機していたのだろう。
その証拠に窓から彼が乗ってきたであろう車が確認できた。
「どうやらうまくいったようだな」
黒絵那岐は自身より倍ほど年の離れた二人に対しても尊大な態度を崩すことなく接する。
彼らもそれを当然のように受け入れているところをみるとこの主従関係は当然のものなのだろう。
とはいえ、黒絵那岐は恐らく誰に対しても態度を変えることなどないだろうが。
「透がここに帰ると思っていたからな。貴方たちに薬を持たせて良かった。こいつはなんだかんだで貴方たちと居たいと思っているようだったから」
そんな子供をだましてしまった親としては居心地の悪さを感じてしまう。
「そんな、思いつめた顔をするな。これはあくまで透を助けるためなんだから」
那岐は倒れた透を起こしながら狼狽する二人にそう言い聞かせた。
那岐は意識のない透を肩に担ぎ自らの車へと運ぼうとするも、意識を失っていたはずの透が突如としてその首を締め上げる。
「『貴様ら!この体に何をしたぁ!』」
それは確かに透の口から発せられた彼の声だったが、口調や雰囲気は全くの別人のものだった。
まるで誰かが透の声真似でもしているかのような感覚だったが、目の前にいるのはもちろん本人なのでそんなはずもない。
息子の豹変に驚く両親をよそに首を絞められている那岐は息苦しそうにしながらも笑った。
「やっぱり現れたか。お前がナキだろ?透の体に寄生している神。まっていたぞ。これでようやく話ができる」
「『そうか、だが私はお前なんぞに用はない。このまま落ちろ』」
透を介して現れたナキは那岐の首をさらに締め上げその意識を刈り取ろうとする。
だが、那岐はそんな透の体を肘で殴りつけひるんだ隙に逆に首に手を回し背負い投げのようにその体を前方へと投げ飛ばした。
ふわりと宙に浮くからだ、投げ飛ばされたナキはいったい自分の身に何が起きたのかわからなかっただろう。
もしかしたら地面が消えたという感覚に陥ったかもしれない。
これが透本人であったならこのような結果にはならなかっただろう。
武術の心得がある彼なら何らかの返し技を繰り出し投げ飛ばされることだけは避けたに違いない。
だがそんなすべを知らないナキは受け身もとることができず廊下にたたきつけられる。
その激しい衝撃音はあばらや背骨が折れたのではかと心配になるほどの勢いだったが、たたきつけられた透の体はすぐに起き上がろうと体勢を立て直そうとする。
しかし那岐はすかさず馬乗りになり手をねじり上げるとその体を完全に捕縛した。
「透には悪いことをしたな。一応加減はしたが後で医者に見せるとしよう」
口調こそ穏やかだが透の体を縛り上げるその力はもう一ひねりすれば彼の腕を追ってしまいそうなほど強い。
だが、透の体はなおも抜けそうと抵抗していた。
「『貴様、離せ!この私にこのような恰好をふざけるな!』」
本来なら動くことも出来ないであろうこの体勢での抵抗、それを見て那岐は己の予測に確信を持てた。
「やはりか、ナキお前、この体の痛みを感じていないな?」
そうこんな動き痛みを感じていたらできるはずがない。
ナキ自身に痛覚があるのかは定かではないが、今使っている透の体にはあってしかるべき機能だ。
だというのに感覚を共有しているはずのナキは痛みを感じていない。
つまりは完全に肉体を共有している訳ではないということだ。
少なくとも痛覚は共有してはいない。
そのことについてはナキ自身も思うところがあったのか彼女の動きは止まった。「そう、痛みを共有できないお前は気づいていないだろう透の体の事を」
「『透の体?』」
「いいか、お前の使っている体は」
そうして彼は神にその事実を告げた。
頭に走るしびれるような痛み、その不快さから透は重い瞼を開いた。
目こそ開いたものの透の焦点は全く定まっておらず、その目に映る光景を脳がきちんと認識しているのかも疑わしい。
どうやらまだ完全に薬が抜き切ってはいないようだ。
そんな状態が五分ほど続いたころだろうか、数度の瞬きの後死人のようだったその瞳にだんだんと生気が戻ってきた。
やっと意識が覚醒したのか、起き上がろうと体を起こそうとしたところで彼は呻き顔をゆがめた。
背中を中心に呼吸が止まるほどの痛みが走る。
起き上がるのは無理だと判断した透は背中をかばうようにゆっくりと再びベッドへ横になる。
横になり痛みも引いたところで彼はやっと一息付け周囲の様子をうかがうことができた。
先ほどまでの異様な眠気も痛みで吹っ飛んだことで彼は目を覚ましてから五分もたってここが自宅ではないことに気づいたのだった。
広々とした座敷はやけに暗く今が夜だということが分かった。
部屋の明かりは燭台に立てられた蝋燭のみで、それは宝石のように美しく部屋中に広がる和室独自の畳の香りとあいまり、とても心を落ち着かせる。
電気ではなく蝋燭にしたのは電気のような強く無機質な光より、陽炎のような子のやさしい光のほうが安心感があるだろう配慮なのだろうか。
「どうして俺はここで寝てるんだ、那岐さん?」
恐らく透が目を覚ます以前からそこにいたのだろう。
湯呑を片手に茶をすする那岐に話しかける。
「今は安静にしてろ、骨折やヒビはなかったが背中を強打したんだ無理はしない方がいい」
そんな覚えはない、というかなぜ自分がこんなところにいるのかが透にはよく理解できなかった。
どうも記憶が飛んでいるようだ。
今の状況がどうゆうことなのかを考える透を横に那岐は話を続ける。
「そうだ、お前に一つ報告があってな。今日嫁を取ることにした。お前にもかかわりのあるやつなんでな紹介をさせてくれ」
自動ドアのようにスッと開く襖、その奥から現れたのはここにいるはずのない人物、白き神ナキだった。
「なぜ、ここに?」
その問いに彼女は答えず、代わりに那岐が口を開いた。
「言っただろう彼女は今日より私の妻だ。黒絵家にいるのは当然のことだ」
「じゃなくて、なんでそんなことになってるんだ?」
この二人に面識などあるはずがない。
だのにどうして、こんな状態になっているのかが全く分からなかった。
「なんでか、すべてを説明するのは大変だが。透、私もこの島の住人だ黒絵の人間と言えどヒルという神は信じて以上妹神であるナキのことも知っていた。そして彼女がまだ生きているであろうことも。我らは長い間彼女を探し求めてきた」
本当に長かった、那岐はまるで重い荷物を下ろしたかのように疲れ切った心労の刻まれた表情を見せた。
「なんでナキを探してた?研究のためか?いや、今の話しぶりだと研究はナキを見つけるためにやってた?」
その答えに満足したのか那岐は正解だと笑う。
「そう、今までの事は全てナキを探すためにあった。彼女が眠る場所が蔵星の屋敷だということも塔の昔に調べがついていた。だが場所が悪かったな。相手は我が黒絵と並ぶ星蔵の家、手を出せば星蔵につく島の者たちも黙っていないだろう、下手をすれば戦争だ」
戦争というのは大げさかもしれないが、島が二つに割れる争いになるのは確実だった。
それだけの影響力が彼らにはあるのだから。
「それはあまり好ましい結果ではないからな。もし争いによってナキを失うことにでもなればそれこそ本末転倒というものだ。だから我ら黒絵は待った。いずれ来るであろう好機を、子から親へと何代も血を重ねながら」
それはもはや人ではない獣のような執念。
穴蔵から獲物が通るのを待ち続けるかのようなその根気の強さいったいどこから来るのだろうか。
「そしてその好機が私の代にしてやっと来た。ナキが目覚め友人である透がその契約者になるなどこれ以上のチャンスはないと私は考えた。ナキの目覚めとお前との関係は今までの言動で気づけたからな」
「俺を利用したのか?」
にらみつけながら問う透。
その目には怒りが灯ってきていた。
「結果的には。だが言い訳をするならば、お前との友情は決して嘘ではないものだ。減にナキの事はお前との交流を通して気づいたしな。優先順位の問題だ透。お前との友情と一族の悲願、私にとって大切だったのは後者だった。それだけの話だ」
「何のために、なぜそこまでナキを欲する?」
「しんじんを生み出すため」
「しんじん?」
それはどういった字でどう言った意味のある単語だろうか?
透が眉間にしわを寄せていると、那岐は説明を続ける。
「神に人と書いて神人。人でありながら神の領域に踏み込んだ新たな人類の呼称だ。知力体力あらゆる面で人を超えた彼らは必ずや人類の希望となりそれを生み出す私はこの世界の救世主となるだろう」
自己陶酔でもしているのだろうか?
彼の口調はとても軽やかで時頼笑みも見せる、普段は冷静な彼からは考えられないその態度に恐怖にも似た寒気を感じる。
「知ってるか透?かつてこの島にいた神であるヒルは幾人かの人間の女を身ごもらせ幾人かの神人が生まれた、その子孫たちが今この国で王族をやっているらしい」
和州国の王族は神の血が流れている。
その話は聞いたことがあった。
神の血が流れる王族たち、故に彼らは凡夫たちとは違い尊き存在なのだとこれは学園で幼少期から教わる事でもあるのだが、そんな話は神話の話で世界中の王族にもある箔付けの類のものだと認識していたのだが、まさかヒルがかかわっていたなどと流石の透も予想にしていなかった。
「つまり、彼らの血はそれだけで世界を変えうる存在を生み出すことが可能ということだ」
「つまり那岐はナキに自分の子供を産ませるつもりなの?」
「ああ、わくわくするだろ。己の子が世界を変えうる存在となるのだ。興奮が収まらない」
そう笑う那岐を透は心底理解できず、その態度があまりに芝居じみているせいか不気味に思えてしまう。
「ナキはそんなの望んでいないだろ」
話の中心にいるのに全く会話に参加する気配のないナキに透は聞く。
傲慢ながらも気高い彼女がこんなことを承諾するはずがない、そう思う透だが彼の予想に反して彼女は首を横に振る。
『透、私は神であるが同時にお前たちと同じ生物であり女なのだ。はるか昔に兄ヒルをなくした今私の種族はもはや私一人なのかもしれない、そうなると我が子を欲するのは女の性いや生物として当然のものだろう?』
「それで、割り切れと?ふざけるな。俺に共生関係を敷いたのはお前だ、そんなお前が勝手にそんな理由で終わらせるのか」
透自身何でここまでの怒りをナキに覚えるのかがよくわからなかった。
ただ、はじめはあまりに理不尽な関係性だったけど、気づけば彼女がいるのが当たり前になっていて、傲慢でけれど外の世界にあこがれを持つ神様をかわいいやつだと思えてきて、こんな日々も悪くない楽しいと思えるようになってきたのに。
「一方的すぎるだろ」
その一言はもう泣き出す寸前なほど情けないものだった。
そんな透にナキは一度だけ目を見張ると、
『私が一方的なのは知っているだろ』
そう冷たく言いのけた。
そして、もう語ることはないといわんばかりに部屋を出ていく。
当然、透は後を追おうとするが、体の痛みと那岐に肩を押し付けられてそれは叶わなかった。
「落ち着け透、無茶はするなと言ったはずだ。お前、自分の体の事わかっているんだろう?」
それは一体、どちらの事を言っているのか?
透は少し疑問に思う。
「いっとくが、今の状態の事じゃないぞ。そんなボケはなしだ。今までのお前の事だよ」
わずかに残った思考の逃げ道の先回りされ塞がれた。
これはもう観念するしかないとため息をつく。
「気づいてたのか?」
「当たり前だ。お前の健康管理は私がしてたんだ気づかんはずがないだろう」
確かに自分でも自覚できるほどの体の異常を那岐が見過ごすなんて考えてたのは甘かったと透は今になって遅すぎる後悔をする。
「そうか、それで俺の状態はどんなもんなの?悪いってのはわかってるけど正確の事はさっぱりでね。教えてよ」
自分の体の事なのに他人事のように聞く透は半ばこの後何を言われるのか大方予想がついているようだった。
「その前に、お前自身はどんな自覚症状があったんだ?今さら隠すなよ」
なんだか本物の医者みたいだなずいぶん口が悪く偉そうだけど。
こういうことを知りあいに真剣に話すのは少しこそばゆい感じがしたがそれはお互い様だろうと透はあきらめることにした。
「違和感は始めからあったよ。得にナキと契約をさせられた初日は死ぬほど苦しかった。熱は出るは体中痛いは最悪だったね」
あの時ほどの苦しみ、拷問など経験したことはないがそれに匹敵する痛みだと勝手に思う。
何しろ文字通り気が狂うほどの苦痛だったのだから。
「それは当然だな。ナキが言ってただろうがアレはお前の体を彼女の意識と共有するために作り替えるもの。痛みを伴うのは当たり前だ、死ななかったことに感謝するべきだ」
「九死に一生ってやつか」
ハッと透は笑って見せる。
「その後も慢性的な頭痛は続いた。最初の頃は頭の前側、前頭葉の部分だけだったけど日がたつにつれてどんどん全体に広がっていったな。最近じゃ感覚も薄れてきて、手先はしびれるし、目はかすむ味覚も少し変なんだ」
まさにぼろぼろといってもいいその状態だった。
彼の体は日常生活が困難になるほど悲鳴を上げていたのだ。
「痛みが広がるか、それは一体いつ頃の話だ」
「たぶん、一年ほど前」
那岐は少し考えるように自身の唇をさすりながらぼやく。
「一致してるな。お前の運動神経が異常に良くなったころと」
「ああ、俺もそう考えてた。体に不調が増えるのと比例するように俺の体は俺が思うままに動かせることができるようになった。それでも那岐には勝てんなかったからナキにも協力してもらったけど」
「細胞変異の影響か。透、お前の体はな、最初に影響を受けた脳を起点として徐々に変化が生じている。未知の細胞がお前の正常な細胞を変貌させながら増殖していってるんだ。恐らくナキとのシンクロを高めるための変貌だろうが・・・その運動性の高まりと体の痛みの原因はそれだ」
変貌、そのおどろおどろしさに透は自身の手を見つめるそぶりを見せるがやはり傍目では何も変わらないように見える。
「正常な細胞の変貌か。なんかそれだけ聞けばガンみたいだな」
「結果としては一緒だ。浸食された細胞は元の機能を失っていく。お前の体の不調の原因はそれだ、正常な細胞が機能しなくなってきている。このままだとすぐに死ぬぞ」
死という明確な終わりを宣言されてなお透は表情を変えずにいた。
ただ頷くのみで、驚くほど素直にその事実を受け入れているように見える。
「随分と落ち着いてるな、もしかして気づいていたのか?」
「まぁうすうす。自分の体が内側から壊れていくっていうのかな命が削られるような感覚を覚えるようになってからはもう長くないのかなって考えだしたね」
「怖くはないのか死ぬことについて」
恐怖など感じていないような態度に対して那岐がこの疑問をぶつけるのは必然でもあった。
もちろん死を恐れない人間は世の中に入る。
けれどそういった人物たち悪く言えば人としてどこかしら壊れているものだ。
けれど今まで接してきた中で透にはそんな部分はないように那岐は思った。
多少大人びてはいるが怒りも笑いもするごく普通の少年だ。
そんな彼がどうしてこうも自然体でいられるのかがわからなかったのである。
「死ぬのは怖いさ。当たり前だけど。けれど、まぁなんとなくわかってたし、正直実感があまりないんだ。今こうして息をしている、それだけでどうしようもない事実でもなんとかなるんじゃないかって思ってしまう」
それを甘い考えだと那岐は思わない、透はまだ若い。
死を受け入れようと現実味がないのは仕方がないのかもしれない。
「この話、ナキにもしたの?」
那岐はうなずき肯定した。
そうするとなぜか透は少しうれしそうに『ああ、そうか』と笑った。
「だから、アイツ俺から離れたのか。馬鹿だな」
まるですべてを悟ったかのような言い方の透に那岐は違和感を覚えた。
「君は彼女が君のために自分の元を離れたと思っているのか?」
「うん、それしかありえない」
それは迷いのない返答だった。
当たり前のようにまるで決定事項のように、それがまるで自分の意思のように言い張る。
その目は瞬き一つせずまっすぐすぎてなんだか不気味にも感じられる。
「ずいぶんな自身だ。そんなに彼女を信じているのか?」
そういうとそれは違うと首を振る。
別に気恥ずかしさから否定しているようではない。
祖ひとみは相変わらず澄んでいる。
「信じてるとは違う。アイツならそうするだろうってわかるんだ。アイツと俺は他人だ。友達でも恋人でも家族でもない。それどころか種族すら違う。けれどあいつと俺は何よりも深いところでつながっている他人なんだ」
それは契約の事を言っているのだろうか?
それは那岐にはわからなかった。
「アイツが俺への干渉をやめたら、俺の命は助かるのか?」
その問いに那岐は首を振る。
透もそうだろうなと納得する。
「言っただろ、お前の細胞はすでに変異してしまっている。それを元に戻すことはできないし、細胞である以上浸食を止めることも不可能だ。それに未知の細胞である以上、処置もできない」
打つ手はなし、もしこれが癌のように腫瘍であったなら未知ではあっても切り離すことで完治と入華今でも応急処置くらいはできたかもしれない。
だが、変異した細胞はその数を増やすわけでもなくただまったく別種のものへと移り変わっている、それを取り除くには変異した細胞ごとその器官を取り除くしかない。
しかし、最も変異が激しいのは彼の脳であった。
彼女が最も干渉した場所なので変異が激しいのは当然の事ではあったが、どうあっても代替えが効かない場所、こうなっては手出しはできない。
だが不思議に思うこともある。
他の変異した部分は彼に確実な死を与えようとしているのに、最も変異の激しい脳は今なお彼を生かし続けている。
やはり理解できない部分が多すぎる、そう那岐は頭を悩ます。
「命が助かるわけじゃないがそれでも今以上に寿命を縮ませることはない。安静にしていれば二十歳までは生きることができるだろう」
それはあまりにも短い余命宣告だった。
残りの寿命がたった六年、そのあまりに短い命に彼はどう思ったのか?
反応ない沈黙に居心地の悪さを感じる那岐は、この空気を壊すように話を続けた。
「これでも、大分命は伸びたほうだ。本来のまま契約を続けていたら、お前は初日の出を見ることもなくその命を終えていただろうからな」
それがいったいどれほどの慰めになるだろうか?
少なくとも、よかったなんて思えることはないだろう。
どちらにせよ短命のことに変わりはない。
まだまだ先の長い人生を歩むはずだった二十歳までは生きれるといわれて、それを喜べるはずがない。
だというのに透の頬はまるで安心したように微笑んでいるように見えた。
「そうか、教えてくれてありがとう」
その言葉に那岐は少し面食らってしまった。
正直今回の事は彼から感謝されるようなことは一切ないと考えている。
結果的には彼の寿命を伸ばすことにつながりはしたが、状況が違えば見殺しにすることもありえただろう。
本気で助ける気があったならもっと早くに行動していた、だがナキを手に入れる確実性を優先した彼は透の命がここまで削られるのをあえて見過ごしたのだ。
そんなことは透もわかっていた。
だが彼は礼を言った、表面的なものではなく心から。
その真意が那岐にはわからなかったのである。
「体ももうしばらく安静にすれば動くようになる。後から君の両親には迎えに来るよう連絡してるので、それまでゆっくりとすればいい」
両親という単語が出た瞬間今までほとんど崩れなかった透の顔があからさまにいやそうに歪む。
「そんな顔をするな。アレで君のことは心から心配してる。だから今回の件も恨まれることを承知で手を貸してくれたんだ、少し距離を縮めてもいいんじゃないか?」
そんな助言はうるさいと言わんばかりに顔を背ける透だったが、那岐が部屋を出る直前『考えとく』と少しの肯定を示して見せたのだった。
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