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第29話 王太子の妃

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 正気に戻ったニールは額から血が出るんじゃないかと心配してしまうほど、土下座をして何度も頭を床にこすり付けていた。そんな状況に陥りながらも時間を捻出《ねんしゅつ》できた理由を教えてくれた。

 彼はこの九年間で王族としてやるべき公務の大半を終わらせていた。魔女に関する法律の廃止や、十七歳になってからは半年もの間、樹海を往復しながらである。その残りわずかな公務も終わらせたことで、彼はしばしの自由を手にすることができた。まだ公務自体は残っているらしいが、それは他の王族でも行えるようで、彼じゃなくても問題ないらしい。

 この時の私はその説明を受けても「ふ~ん、そうなの」と相槌を打つことしかできなかった。彼の真っ赤にはれ上がった額に目が行ってしまい、それどころではなかったからだ。

 ニールは私への謝罪や説明を終えたとしても、一向に顔を上げようとしなかったので、額の手当をするのに思いのほか時間がかかってしまった。

 最終手段として私は両手で彼をほっぺをつねりながら、強制的に顔を上げさせた。手当といっても消毒液を濡らしたガーゼで患部を拭いて、大きな絆創膏を貼っただけであとはなにもしていない。

 私が手当をしている間、彼はずっと呆けた顔でこっちを見てきたので、手当が終わった合図として最後にその絆創膏に向かってデコピンをしてやった。

 彼はその痛みにうずくまり悶絶もんぜつしていたけど、私はそれを見てケラケラと笑ってしまった。

 傍から見れば、私がニールをいじめているような構図、これがヴィヴィアン姉さんが言っていた、あの悪役令嬢ムーブってやつかしら? どうしよう……案外楽しいかもしれない……。

 アリシャがそんなことを考えていた隣で、ニールもまたよからぬことを考えていた。

 アリシャは気づいていなかったのだ。
 
 ニールは契約満了までの約五か月間、自由を手に入れたということに――。

 公務という鎖によって繋ぎ止められていた王太子が、法律を変えるほどの権力を持った人物が野に放たれる。九年間という年月を耐え続けた彼の片想いは、恐るべき進化を遂げていた。

 その恋愛感情が自分に向けられるという意味を魔女は甘くみていた……。

 その日を境に、ニールのアリシャに対する溺愛っぷりは日に日に苛烈を極めていった。





 一週間後には――目覚まし時計と朝ご飯に畑作業が追加された。

 二週間後には――上記に加えてお昼ご飯が追加された。

 三週間後には――さらに上記に加えて木工作業が追加された。

 四週間後には――さらにさらに上記に加えて晩ご飯が追加された。





 三か月後には――週六で樹海の家に滞在するようになり、一日だけ王宮に帰るようになった。



 その頃になると……私は自然と彼に頼るようになっていた。ニールとの暮らしが楽しいとさえ思うようになった、なってしまった。



 そんな日々が続く中で、私は王太子ニールの妃になることを決定づける体験する。





 私はあの日、季節外れの雪が身体に降り積もる中で彼とキ――。



 そこで私は記憶のアルバムを閉じると、こんな私を妃にしようと翻弄ほんろうした彼に視線を向けた。





 私は眠る彼の耳元に顔を近づけて……ささやいた。

「……死がふたりを分かつまで、一緒にいてあげるわ。愛しているわ、あなた」

「僕も愛しているよ、アリシャ」

「って……あなた、起きてたの⁉ さっきのは忘れなさい、分かった? 忘れるの!」

「それはちょっと無理ですね。愛しの妃からの愛の言葉を、この僕が忘れられると本気でお思いですか?」

「あぁぁぁぁぁぁぁ! あなたはそういう人だったわね⁉」

 二人の痴話げんかは窓の外が明るくなるまで続いた。翌日夫婦そろって寝不足、充血が確定した。



 魔女と王太子の前途多難な結婚生活はまだまだ始まったばかり――。
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