僕の愛しい廃棄物

ますじ

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不幸な事故だった

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 少し離れたトイレから苦しげな嗚咽が聞こえてくる。俺は暗い天井から視線を逸らすと、痛む体に鞭打って体を起こした。カーテンも開けたままの窓からは淡い月明かりが差し込んでいる。フローリングに転がっていたせいで、歩くたび背中と腰に鈍い痛みが走った。いいや、違う。原因はそれだけじゃない。ぱたりと何か、水滴が俺の足元に落ちた。それが自分の股から垂れた白濁だと分かって、一瞬、足が止まる。
「……隆明」
 その場で小さく声をかけた。返事はなく、嘔吐を繰り返す音がしている。もう胃の中身も空になって上手く吐けないのだろう。その嗚咽は非常に弱々しいものだった。
 もう一度、足を踏み出す。たった数メートルの距離がひどく遠く感じられた。トイレの前に立ち、便座を抱える友人を見下ろす。止まらない嗚咽が俺の胃袋まできりきりと締め上げた。
 傍にしゃがみこみ、背中に手を置く。宥めるように擦ってやると、ようやく隆明がこちらを向いた。顔中が液体でぐしゃぐしゃになり、せっかくの美形が台無しになっている。
「……し、のぶ」
「うん」
 俺を呼んだ声は可哀そうなほど震えていた。隆明はまたひとつ大粒の涙を瞳からこぼすと、震えながら口を開いた。
「おれたち、友達、だよな……?」
 頷くことしかできなかった。

 すべての発端となったのは、数日前から続いていた俺の体調不良だ。微熱と倦怠感、そしてあまり言いたくないが、性欲が普段よりもほんの少しだけ増進していたことで、嫌な予感はありつつも放置して過ごしていた。それが間違いだったわけだが、その時の俺はたいして気にも留めず、軽い風邪だろうと思っていたのだ。
 もちろん、多少の心当たりはあった。俺はいわゆるオメガ性だ。だが俺は、オメガとはいっても生殖機能が発達しておらず、発情期もなければ子供も出来ない体だ。分類上はオメガではあっても、ベータと変わらず過ごしてきた。だから油断していたのだ。いくら似た症状があるといえ今更発情期が来るはずもないし、噂に聞いているような強烈な性欲もなければ、周囲を巻き込むようなフェロモンが出ているわけでもない。だから俺は完全に自分の性を忘れていたのだ。
 今日はやたらと具合が悪く、予定を延期にして家に籠っていた。本当なら隆明と映画を見たあと一緒に洋服店を回り、夜には中華を食べて帰る予定だった。本当は楽しみにしていたのだけれど、この体調では仕方がない。隆明には風邪だと説明して布団に潜り、面倒な性欲も増してきたので少し処理しようと思っていたときだ。家のチャイムが鳴り、俺はなにも考えずにドアを開けた。心配した誰かが訪ねてきたのだろうと思ったのだ。実際、そこに立っていたのは隆明だった。左手には薬局のビニール袋をさげて、目を丸くして俺を見ていた。
「たか、あき」
 その時の自分は、さぞ情けない声を出していたことだろう。足元も覚束なくて、ただ目の前に隆明がいて、なぜか俺を見て固まっていること、それくらいしか分からなかった。
 どのくらい見つめあっていたのかは覚えていない。気が付くと俺は隆明に手を引かれていた。がさりと音がして、隆明の提げていた袋が床に落ちる。熱さましシートやスポーツドリンクが散らばって、俺達はそれを蹴飛ばしながら部屋の奥に向かった。
 すぐそばに布団があるのに、固いフローリングに投げ捨てられた。覆いかぶさってくる相手が「親友」だと気づいたのは、すでに服を脱がされてしまってからだ。やめてくれと声を張り上げても、隆明は手を止めなかった。突き飛ばそうとすれば腕を捻り上げられ押さえつけられるから、逃げるだなんて不可能だった。
 熱いものが腰に擦り付けられ、項に痛みが走る。噛みつかれたのだと分かったのと同時に、全身に痺れが走った。痛みと快感が混ざり合う、今までに感じたことのない衝撃だ。
 その時はじめて俺は隆明の性別を思い出した。アルファ性……雌である俺とは対になる、雄だ。そのアルファに、項を噛まれた。それは、つまり――
 そこから先のことは、あまり覚えていない。気が付くと暗い天井を見上げていて、体中が体液まみれで、あちこちが鈍い痛みを訴えていた。とくに腰の痛みが最悪で、腹の奥のほうにまだ異物感が残っていた。かろうじて思い出せるのは、出来損ないの子宮の入り口まで犯されたことと、そこに大量の精子を注がれたこと、それから、俺を見つめる隆明の、怖いくらいにぎらついた瞳だ。
 ようやく理解できた。体調不良だと思っていたのは今まで来なかったはずの発情期で、今日はとくに症状が強くて、隆明はそのフェロモンにあてられてしまった。俺が自己管理を怠ったせいで、隆明は俺を犯さなければならなくなった。発情期のオメガのフェロモンはアルファを狂わせる。隆明の意志ではなく、本能が俺を求めて、レイプに至ったのだ。
 オメガは本能的にアルファに逆らえない。どれだけ心が拒否しても、体は隆明を喜んで受け入れた。腹の奥を突かれてよがって泣き喘いで、何度も何度も達して快感に溺れた。レイプだなんて言ったが、あれはもう違うだろう。セックス、いいや、交尾だ。お互いに本能しか残っていない、動物的な行為だった。
 すべてが終わったあと、隆明はトイレに駆け込んでいった。やがて聞こえてきたのは、苦しげな嗚咽と、悲痛な謝罪の声だった。

 いつまでも便座を抱えている隆明を促し、部屋まで連れていく。汚れた口元は湿らせたタオルで拭い、布団に寝かせた。隆明はいまだ精神的なダメージから抜け出せていないようで、ぶつぶつと俺に謝りつづけ、いつまでも泣いていた。こんな隆明の姿ははじめて見る。しきりに「友達だよな」と確認する隆明に、胸の奥が締め付けられた。そうだ、俺達は友達なんだ。友達だった。この項の痛みさえ、なければ。
 この状況では犠牲者は俺じゃない。俺が自己管理を怠りフェロモンを垂れ流しにしていたのだから、いわば隆明は罠にかかったのと同じだ。俺は確かにレイプされたが、深く心を傷つけられたのは隆明のほうだ。友達だった相手を襲わざるを得なかった、あまつさえ、番にしてしまった。ずっと隣に並んできた存在を失ったも同然のことだ。それがどれだけ隆明を傷つけただろう。
 なにも大丈夫じゃないが、大丈夫だからと慰め、隆明が寝るまで背をさすった。しばらくすれば寝息が聞こえ始めて、やっと一息つく。
 伏せられた長いまつげを眺めていると、ふっと、忘れかけていた体中の痛みを思い出した。本当はもう起き上がるのもつらいが、震える膝を叱咤して風呂場を目指す。まずは中のものを掻きださなければ。それから。それから、どうすればいいんだっけ。
「あ……」
 頭を冷やそうと水を浴びた途端、何かがぶわりとあふれ出て視界が滲んでいった。震える手で首の後ろに触れる。そこにはしっかりと、隆明の歯形が残っていた。覆いかぶさる「親友」の姿が脳裏に浮かぶ。抵抗する手を捻り上げられ、腹の奥を突き上げられ、何度も何度も腹が膨れるまで中出しされた、あの光景がフラッシュバックした。
「あ……あぁぁぁ……っ」
 情けない己の声が風呂場に反響した。膝から崩れ落ち、濡れた床に蹲る。冷たい水が体を冷やしていった。腰も背中も、捻られた手首も痛くてたまらなかったが、体の痛みよりも息が苦しくて、胸の奥に太い棘が刺さったような痛みがずっと続いていた。
「ごめん……隆明っ、ごめん、ごめん……っ」

 大好きで、大切な親友だった。
 馬鹿をして笑いあうのが好きだった。
 隣に並んで歩いていきたいだけだった。

 番になりたいわけじゃ、なかった。



 翌日になり、少し冷静になってきたところで、隆明も連れて病院に駆け込んだ。全ての事情を説明して念のために薬を出して貰うことになったが、いいのか悪いのか妊娠の心配はないそうだ。ただ、一度結んでしまった番の関係を切ることはできないと、医者はきっぱり俺達に言い放った。
「番にもなれば、自然と愛情もわいてくるものですから」
 愛情ならすでにある。ただしそれは友達としての感情だ。そう言いたかったが、俺は黙って医者の話を聞いていた。隣にいる隆明も思うところはあるのか、医者から顔を逸らして斜め下辺りをじっと睨んでいた。
「昨日まで友達だった相手が番に、っていう話も少なくないですからね。受け入れていきましょう」
 医者はそうとだけ言うと、俺達を追い出すように診察を終えた。看護師に促され待合に戻れば、すぐにまた次の患者が入っていく。高校生くらいの若い二人組だった。どちらも深刻な顔をしていて、俺達も似たようなものだろうなとすぐに目を逸らした。 
「受け入れろ、だってさ」
 処方箋を貰い、薬局へと向かう途中、ずっと黙っていた隆明に声をかける。隆明は地面から俺へと目線を映すと、日差しが眩しいのか目を眇めて口を開いた。
「志信はできるわけ?」
 不貞腐れた子供のような声をしていた。すぐには言葉が出てこずに、無言のまま足を進める。隆明の視線がちくちくと刺さって痛い。
 薬局について処方箋を渡し、待合椅子に腰かける。隆明は立ったまま落ち着きなく薬局内を見渡していた。俺の返答を待っているのかもしれない。俺は顎に手を当てながら、自分の内側に向かって問いかけた。今すぐにすべてを割り切れるのかと聞かれると、少し難しいかもしれない。ただ、昨日よりは気持ちも落ち着いてきた。隆明のことは今でも友達だと思っているが、それと同時に番でもあることを、少しずつだが受け入れ始めているようだ。
 悔やんでも仕方のないものはある。番という関係が解消できない以上、あとは自分や隆明の気持ちとどう向き合っていくかでしかない。俺は一晩でだいぶ心の整理もついてきた、はずだ。全く見知らぬ相手と番になってしまったわけじゃないのだ。隆明が相手ならばそれほど困ることもない。だからといってまた隆明とセックスしたいとかは全く思わないけれど、その辺りの問題とどう付き合っていくかさえ解決できれば、番だからといって今までと何かが変わるわけでもないんじゃないだろうか。
「もう、なっちゃったものは仕方ないよ」
「俺は絶対に受け入れられない」
 俺を遮るようにして発せられた隆明の言葉に、一瞬、息が止まった。頭上から隆明の視線を感じるが、なぜかそちらを見ることが出来ない。体の横で握られた隆明の拳には強い力が込められていた。怒りを抑えているようでもあった。
「志信はそんな簡単に諦めるわけ」
「諦めるっていうか……番を解消する方法はないんだし」
「俺達、友達だって言ったよな」
 それはそうだが、だから俺に何をしろと言うのだろう。隆明の気持ちも分からなくはないが、番という関係はどうあがいても解消できるものではない。あの夜を消すことは不可能なのだ。そうなるとあとはどうにかして折り合いをつけていくしかない。俺と隆明ならそれが出来ると、俺は思って……
「俺はお前と番になんてなりたくなかった」
 隆明の言葉が、嫌に大きく頭に響いた。直後に名前を呼ばれ、何故だかふらつく足で立ち上がる。カウンターで説明を聞きながら受け取ったのは、抑制剤と避妊薬だ。オメガなら一般的に処方されている薬だが、今までの俺には不要だったものだ。
 薬局を出ると強い日差しに出迎えられ、一瞬だけ目の前が真っ白になった。隆明も同じく日差しを手で遮るようにしたあと、俺を置いてすぐに歩き出した。
「なあ、隆明はさ」
 慌てて追いかけ、隣に並ぶ。視線だけ寄越されて、話かけていいものか不安になる空気になったが、気にせず言葉を続けた。
「友達だけど番で、番だけど友達、それじゃあダメなわけ?」
 隆明が足を止める。ゆっくりと振り返り、少し強い風がさらさらの髪を揺らした。丸くて大きな瞳が鋭く細められている。薄く開いた唇が小さく震えているのが見えた。
「なんだよ、それ……」
「……や、別にそれでもいいんじゃないかな、とか、思ったり」
「いいわけないだろ!!」
 隆明の怒声が静かな路地に響く。思わず肩がびくりと跳ね上がり、脱力感に似たものに襲われた。アルファの怒りを前にして体が本能的な恐怖を抱いている。
「お前と俺はそんなんじゃない! 番になんてなっちゃいけないんだよ! 番になるって、俺達の積み重ねてきた関係ぶち壊すってことだぞ!? それをなんでお前は平気で受け入れられるんだよ! お前は誰とでも簡単に番になれるってのか!?」
 通行人が不審げな目で俺達を見ている。隆明の言葉は、まるで意味を持たない音節になってぐるぐると頭を回るだけだった。隆明は肩で息をしながら俺の反応を待っている。しばし呆然と隆明を見つめて、意味のない音節のようなものが、ようやく言葉に変わって浸透してきた。
 それと同時に、腹の奥からなにか熱いものがこみ上げて、視界が狭まる。
「平気じゃないし、簡単でもないよ」
 震える手を持ち上げ、項に触れる。隆明の表情が変わり、怒りから躊躇いへと移行するのが見えた。
「でも、ここを噛んだのは、隆明だ」
「そ、れは」
 違う。そんなことが言いたいんじゃない。隆明は悪くない。俺が自己管理を怠ったせいで招いた事故だ。隆明を責めるつもりなんて、本当は少しもないのに。
「これは、隆明がやったんだ」
 項に爪を立てる。がり、と皮膚が小さく抉れて痛みが走った。隆明の顔が絶望に染まる。違う。そんな顔をさせたいんじゃない。こんなことを言いたいんじゃない。ただ俺は、番になってしまったことはもう諦めて、それでも友達でいられたらと、そう願っただけで、けれど隆明はそれを受け入れてくれなくて、だから、俺は、
「番の解消がしたいんだったら、一つだけ方法がある。やってやろうか?」
 頬に衝撃が走った。
 そっとそこに指で触れる。じんじんと痛みを訴えていた。多分赤くなっているだろう。俺を平手打ちしたあと、隆明はその手をぎゅっと強く握りしめ、体の横に置いた。
「それだけは、言うなよ」 
 何も言い返せなかった。番の解消とはつまりどちらかが死ぬことだ。それをやってやろうと言ったのだ。殴られて当然だ。謝るべきだとも思ったが、声が凍り付いてなにも出てこない。
「俺は、お前のことは親友だと思ってる。失いたくないだけなんだ」
 それだけ言って、隆明が俺に背を向ける。足早に歩き出した隆明を追いかけることができなかった。その場に立ち尽くしたままの俺を置いて、隆明が信号を渡る。やがて青から赤へと信号が変わり、車が流れ込んできた。
「……番だからって、親友の俺が消えるわけじゃないだろ」
 今更呟いても隆明はもうここにいない。遅れてやってきた苛立ちが頭を回って鼓動を速めた。拳を握りしめ、自分の太ももを軽く殴る。鈍い痛みが少しだけ頭をすっきりさせた。
 隆明は、何をそんなに思いつめているのだろう。確かに俺達は親友だ。番になりたいわけじゃなかった。その気持ちは俺も同じだ。まるで大切な親友を失ってしまったみたいな絶望感は、あの夜確かに味わった。だが、物理的にどちらかが消えるわけでもなければ、番だからといって必ずしも恋愛に発展しなければならないわけでもない。けれど隆明の気持ちはそれで片付くものではないらしい。もっと複雑で、もっと面倒なことを考えているみたいだ。
 確かに、俺だってまだ、完全に割り切れたわけじゃない。親友だった相手が番だと言われて、戸惑いがないわけじゃないんだ。それでも、どんなに悔やんで嘆いたところで、この現実が変えられるわけじゃない。それに、俺は、
「隆明だから、受け入れようと思ったんだよ、ばか……」
 俺の言葉を拾う人間は、どこにもいなかった。
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