僕の愛しい廃棄物

ますじ

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ゴミはゴミ箱へ

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※一作目『僕の愛しい廃棄物』の番外編。和泉カナトの独白。




 同級生である和泉カナトの部屋は、男子高校生にしては綺麗に整理整頓されており、フローラル系のいい香りがしていた。促されるままローテーブルの前に座ると、テーブルの中央に置かれた菓子の入った籠が視界に入る。和泉は甘いものが好きだったなと思い出しながら、こざっぱりとした部屋を見渡した。必要最低限のものしか置かれていない質素な空間だ。背の高い本棚には多種多様の本が敷き詰められている。ノートやファイルも同じく棚に並んでいた。綺麗に掃除された部屋は居心地のいいものだったが、僕はそわそわと落ち着かない気持ちでいた。今日ここへやってきたのはある目的のためだ。目の前にいるのは、自分の、想い人。しかし思いを打ち明けるためにきたのではない。彼がいつも制服の下にタートルネックを着ている理由、そして時々学校を休む理由、その原因に当たるであろう、とある人物について、聞くためだ。
 
 
 ――それで、突然あの人の話が聞きたいなんて、どうしたの。別に構わないけれど、あの人の話なんてなにも面白くなんてないよ。聞くだけ時間の無駄になるかもしれない。だってあの人は、ただちょっと馬鹿で最低で顔以外に取り柄のない人間の屑ってだけで、それ以外に何の評価のしようもないんだ。いいところなんて何一つない、本当にただの無価値な廃棄物なんだよ。そんな人の話、聞いてどうするのさ。え? ただ知りたいだけ? 君はどこまでも物好きだね。変わってる。僕が言えることじゃないけど。
 でも、そうだね、少しくらいならいいかな。君、僕のこと好きなんでしょう。なら知る権利はあるよね。え? 知っていたよ。丸わかり。ごめんね、僕は性格が悪いんだ。だから今言っておくけど、君の気持ちには応えられない。もっとまともな人を探すといいよ。これで僕が君を騙してどうにかしてやろうと思ったら、どうするの? きっと僕の話を聞いたら、君は僕に変な同情をして、簡単に罠にかかってくれるだろうね。気を付けてよ。君は隙だらけだから、すぐに付け込まれる。
 さて、いじめるのはこのくらいにするよ。これからの話は、友達として君に共有しよう。途中で眠くなるだろうから、コーヒーでも飲んでおいたほうがいいんじゃないかな。なに、どうしてそんな顔するの? だから言っただろう、僕の話はつまらないって。別に君に話したくないわけじゃなくて、本当につまらない話だから言わなかっただけだよ。隠していたわけじゃない。必要がないから話さなかっただけ。それくらい価値のない話なんだよ。それでも聞きたいならコーヒーでも飲んで頑張って眠気に耐えてね。別にコーラでもなんでもいいけれど、途中で寝たら僕は一生きみにこの話はしないよ。君以外の誰かに話すこともきっとないだろうね。墓場まで持っていくつもりだ。
 話すことを整理したいから、五分だけ待ってくれるかな。お菓子も食べていいよ。その間に僕は紅茶をいれてくる。君は何にする? コーラはないけれどコーヒーならあるよ。高いだけの不味いコーヒーだ。

 ……お待たせ。砂糖とミルクはいる? ここに置いておくから好きに使ってね。無糖とかブラックとか、みんな大人ぶるよね。風味がどうとか言われても、砂糖もミルクも好きなように入れればいいんだ。自分の味覚に嘘をついたって意味がない。美味しいものを美味しいと思える状態で味わうのが一番いいのに。あの人もそうだったなあ。あの人が飲んでいたコーヒー、一口貰って吐き出したことがある。思い切り笑われたけどね。あの時から僕はコーヒーが嫌いだ。
 あの人は……僕の兄は特別に優しい人だった。男の兄弟なんて喧嘩が絶えないものだろうけれど、僕は一度もあの人と喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。僕が一方的に癇癪を起してあの人に当たり散らすことはあっても、向うから僕に手を上げることはたったの一度もなかった。歳が離れているせいもあっただろうね。僕がまだ欲しいものが手に入らなくて泣いて拗ねていた頃、あの人は自分のお小遣いでこっそり僕にそれを買い与えてくれた。僕がようやく小学校に上がって男女の区別がつくようになってきた頃には、あの人はもうとっくに精通も迎えて、同級生を妊娠させたなんて騒ぎを起こしていた。
 そうそう、僕とあの人の部屋は、僕が小学校に上がった頃から別々になったんだ。それまでは同じ部屋に二段ベッドを置いて、下に僕が、上にあの人が寝ていた。僕は上で寝るのが羨ましくて仕方なくて時々こっそり潜り込んだりしていたけれど、今思うとぞっとすることだよね。僕は自分から餌になりにいっていたんだ。あの頃の兄が僕をそういう目で見ていたかどうかなんて知らないけれど。
 話していなかったっけ? 僕はあの人と寝ている。血の繋がった実の兄とセックスしているんだ。もうずっとね。回数だってもう思い出せない。気持ち悪いと思った? 別に気を遣う必要はないよ。……ああ、違うか。嫉妬しているんだね。君はどこまでも分かりやすい目をしていて、好きだよ。
 あの人は高校に上がると少しずつ家に帰らなくなっていった。僕とあの人の部屋は隣同士だから、あの人が帰ってくるとすぐに物音で分かる。だいたい深夜にこっそり帰ってくるか、朝になるまで帰ってこないかだ。父さんと母さんも最初こそ注意していたけれど、あの人が話を聞かないと分かったらもう放置だ。あの人が落ちこぼれなのはとっくにみんな知っているから、弟の僕さえ頑張っていればいいんだ。塾や習い事も僕にはものすごくお金をかけたけれど、あの人は一度もそんなもの通ったことがない。本人もやりたくないって言っていたし、父さんも母さんも手を掛けるつもりがなかった。すごいよね、ぞっとするくらい分かりやすい贔屓だ。落ちこぼれの兄にはもう価値はない。用済みだ。一作目が失敗なら二作目に力を入れればいい。そういうことさ。だから僕は優等生でいなくちゃいけない。今度はもう失敗出来ないんだ。三作目は……ひょっとすればあるかもしれないけれど、誰もそんなに待っていられない。それに二作目も失敗だなんてなったら、一度の失敗よりもよほどショックだろう。
 話がずれたね、戻そうか。
 その頃になると、あの人はもう殆ど父さんや母さんと顔を合わせていなかったかな。でもあの人は、帰ってくると必ず僕の部屋には顔を出した。僕が起きていれば一緒に少し話をしたり、あの人がこっそり持ってきたゲームを少しやって、それからあの人は僕が寝るまで黙って漫画を読んでいた。僕はそれが嬉しかった。家には帰って来なくなったけれど、僕には会いにきてくれるんだ。僕はゲームも漫画も触らせてもらえなかったから、あの人がこっそり持ち込んでくれるものが物珍しくて楽しみだったのもある。
 あの人が帰ってくると、次の日の朝にはもういなくなっている。たまにこっそり部屋を見に行ったりもするけれど、人が出入りしているような気配はなかった。あの人は僕の部屋に帰ってきて、親に見つかる前にまた僕の部屋から出ていくみたいだ。あの人の部屋にはもうほとんど荷物もない。色々な「友達」の家を点々としているらしかった。どんな友達かは話してくれたことはないけれど、たまにお酒くさくなって帰ってくることがあったから、僕はあの人の言う「友達」のことが少し嫌だった。
 そんなところ行かないで、もう家に帰ってこればいいのに。一度だけそう話したことがある。あの人は「一人部屋は寂しいから」なんてことを言っていたと思う。それなら僕の部屋にいればいいよ、前みたいに二段ベッドで、二人部屋でいいじゃないか。そんなことを言ったらあの人はすごく複雑そうな顔をした。さっきの君みたいに。言葉を選んでいるみたいだった。何も言わなかったけれど。
 結局あの人は家に帰ってくることはなかった。そもそも、そのうち帰りたくても帰れなくなるんだけれどね。あの人は時々ふらりと僕の部屋にきて、そのまままたどこかに消える。父さんと母さんももうあの人に干渉することはなかった。たまに帰ってきていることは知っていたようだけれど、あの時はまだ、追い出そうとも連れ戻そうともしていなかったから。
 そうそう、家に帰れなくなったと言ったけれど、そろそろその話をするね。というかこっちが本題になるのかな。前置きが長くてますます退屈だよね。これから先はもっとつまらないよ。
 ええと、そうだね。
 僕がはじめてあの人に犯されたのは、僕がやっと十歳になったその日のことだ。
 父さんと母さんは医療従事者で、緊急の仕事に駆り出されていたから、家には僕一人だった。誕生日だからと言って何か特別なことをする必要もないから、いつも通り勉強して、いつも通り寝た。深夜、日付が変わる寸前くらいだったかな。ごそごそと物音がして僕は目を覚ました。多分僕も少しくらいは期待していたんだろう。普段なら起きるような物音ではないのに、僕は真っ先に飛び起きてベッドを出た。そうすればすぐに部屋のドアが開いて、思い描いた通りの顔がある。あの人だ。父さんと母さんは病院にいるが、あの人は、僕の兄さんはやっぱり来てくれた。皆勤賞なんだよ。すごいよね。家を出てからも兄さんは僕の誕生日にだけは毎年絶対に帰ってきた。今でもね。そうだね。どんなに手を尽くして締め出しても、あの人は入ってくるよ。
 今思うとあの時の兄は少し様子がおかしかった。僕は来てくれたのが嬉しい一心で何も気付かなかったけれど、少し嫌な臭いがするな、とは思っていた。アルコールだ。またよくない「友達」とつるんできた帰りだったんだろう。顔が赤くて、熱があるようにも見えた。てっきり体調が悪いんだと思って、僕はあの人をベッドに寝かせた。僕のことはいいから兄さんは休んでよ。でも来てくれてありがとう。おめでとうって言ってくれたのは兄さんだけだよ。僕はそんなようなことを話した気がする。
 それからあの人はどろっとした目……そう、今思い出しても寒気がする、本当にどろどろした目だ。暗くて、からっぽで、冷たくて、でも何もないだけならまだよくて、その氷の底で何か黒くて恐ろしいものがぐるぐると渦を巻いていた。そんな怪物を宿したみたいな目で僕を見ると、ベッドの中に僕を引きずり込んだ。気が付いたら僕はあの人と一緒にベッドの中にいて、寝間着の中に手が、入って来て、あのひとが、兄さんが何か喋っていて、……ええと、それで、何だっけ。兄さん、ずっと僕の名前を呼んでいたけれど、そういえば少し声が掠れていたかな。風邪かなあ、なんて僕は思っていた。兄さんの体は可哀想なくらい震えていて、寒いの? って聞いたら、寒い、こわい、いたい、ごめん、って返ってきた。多分、そんなような内容だった。よく覚えていないんだ。それから多分、たすけて、なんて言われた気がするけれど、もう上手く思い出せないや。
「お前だけは俺を見捨てないよな、俺にはカナトしかいないんだ」……ああ、そうだ、思い出した。確かそんなことも言っていた。兄さんはなんだか子供みたいだったな。かたかた震えながら僕に縋って、捨てないでくれ許してくれとずっと懇願していた。兄さんの息は不自然なくらいに荒くて、それが僕の耳に当たるのがとても気持ち悪かったのを覚えている。兄さんは訳も分からずにいる僕を脱がして、体中を舐め回してきた。はじめてお尻の穴に指を突っ込まれたときは、さすがに僕も泣き叫んで兄さんを突き飛ばそうとしたよ。でも力では兄さんに勝てなかった。
 月のない夜だった。枕元の照明がないと何も見えなかったろうけど、橙色の明かりで浮かび上がる兄さんの姿は、いっそう不気味だった。僕の兄さんのはずだ。それなのに何だか違う。いつもの兄さんじゃない。怖い。素直にそう思った。嫌で怖くて逃げたくてたまらなかったけど逃げられないんだ、兄さんなのに兄さんじゃなくて、そんな訳の分からないなにかが僕の体を……、……。……僕はその時、殺されると思った。あの行為の意味が僕には分かっていなかったから、気持ち悪くて痛いだけで、きっとこいつは兄さんの姿を借りた化け物か何かだと思った。そいつに殺されるんだと思ったら怖くて泣き叫ぶことも出来なかった。その間兄さんはずっと僕の顔を見ていた。食い入るみたいに、ずうっと見ているんだ。兄さんの目はやっぱりぞっとするほど真っ暗で、本当は何も見えていないじゃないかと思うくらいだった。けれどその兄さんの闇の中で、僕は確かに僕自身と目があった。怯えて縮こまり動けない間抜けな僕がそこにいたんだ。
 その時僕はやっと気付いた。この兄さんは化け物でもなんでもない。本物の兄さんだ。ただ兄さんがおかしくなってしまっただけなんだ、って。
 兄さんはずっとずっと蔑まれ軽んじられ迫害されてきた。可哀想な兄さんは狂ってしまったんだ。きっと兄さんから見たら僕はとても憎い存在のはずだ。兄さんは自分の居場所を全て僕に奪われている。兄さんをこの家から遠ざけたのは他の誰でもないこの僕だ。必要な時期に必要な愛情も得られずに、味方の居ない孤独の中でただ一方的に虐げられ、憎い弟が呑気にすくすくと育っていくのを見ながら兄さんは静かに歪んでいった。それなのに兄さんは一度だって僕を罵ったり、兄さんの不幸を僕に押し付けるような真似はしなかった。いつだって優しい兄さんだった。そんな兄さんがついに壊れてしまった。僕が呑気で馬鹿で浅はかな子供だったせいで、兄さんが耐えて耐えて耐えて耐え忍んできたものを崩壊させてしまった。
 朝になると兄さんはもういなかった。夢だろうかと思ったけれど、乱暴されたところがものすごく痛かったし、お腹も壊していてすぐに現実だと分かった。父さんにも母さんにも言えないことだ。僕一人でどうにかしないといけないと思って、慌ててネットで検索した。色々調べて、あれがセックスだということも知った。セックスは知識としては知っていたけれど、兄さんの行為がそれと結びついたのはネットの記事を読んだからだ。男同士でもセックスが出来ることもその時知った。また痛いのは嫌だから色々調べて、ノートに纏めた。今思うとなんでそんなことをしたのか分からないけれど、とにかく混乱していて、自分を落ち着けるためにも整理する必要があったんだ。
 その日を境に兄さんは帰ってくるたび僕を犯すようになった。僕も色々と勉強して、兄さんとの行為でまた新しいことを知ったら、しっかりノートにもまとめるようにしていた。分からないことがあれば調べて、自分なりに考えて、おかげで僕の知識と技術もどんどん上がっていったかな。成果が見えるのはやっぱり楽しいよね。あれがセックスだと分かれば、僕はもう怖くなかった。兄さんは僕を憎んで殺そうとしたわけじゃなかったんだ。それを知れたことが僕は一番嬉しかったし安心した。
 予習、実践、復習、新しい知識は自分の中に落としこんで、自分なりに扱えるよう練習する。僕はそうやって成果を出していくことに喜びを感じていた。慣れてくると、セックスはとても気持ちいいんだ。きっと嫌いな人はいないんじゃないかな。君もそのうち分かるさ。
 僕が中学受験を目前にすると、親の監視が今までより厳しくなっていった。そのうえ伯父さんが家庭教師の代わりにほぼ一日中つくようになって、日付が変わるまで僕は勉強に追われるようになった。兄さんもその人がいる時は僕の部屋にこなかったから、兄さんと会う時間も減ってしまった。兄さんは今までよりも徹底して僕以外の血縁者を避けているようだった。
 伯父さんも父さんと同じく医者をしていた人だ。事故で右腕が動かなくなってから引退して、今は息子に病院を任せて隠居している。父さんとは歳が離れていて、確かもう五十代半ばに差し掛かるかどうかだったと思う。伯父さんはその頃とくに忙しかった親に変わって、僕の家に泊まり込みで面倒を見に来ていた。といっても家事は僕がしたから、伯父さんは僕の作ったご飯を食べて、僕の勉強を見て、少し話をして寝るだけだ。余っている部屋もあったから伯父さんはそこで寝泊まりしていた。その時はもう倉庫代わりになっていた、兄さんの部屋だ。
 そんなちょっと変わった生活をしているときに、久しぶりに兄さんが帰ってきたんだ。兄さんからは少しアルコールの匂いがしていた。その日兄さんが入ってきたのは窓からだ。僕の部屋は二階にあるけれど、塀や倉庫を伝ってこれば窓から入ってこられないこともない。鍵を開けておいて正解だった。……正解だったんだろうか。今じゃあむしろ間違っていたように思うけれど。どうでもいいか。それで僕は兄さんとセックスした。僕は久しぶりのセックスで自制がきかなくてすっかり忘れていたんだ、伯父さんがすぐ隣の部屋で寝ていることを。兄さんが僕の口をハンカチで塞いだけれど、それでも呻き声や物音を完全に消すことは出来ない。僕もすっかり頭がだめになっていて、ちょっとハンカチがずれると馬鹿みたいに喘いで泣いた。兄さんが暴れる僕を縛ったり口を塞いではくれたけれど、兄さんもきっと酔っていて理性が緩んでいたんだろう。僕は伯父さんのことなんて忘れて兄さんとの久しぶりのセックスに溺れた。気持ちがよかったんだ、仕方ないよね。
 兄さんが僕の中で二回くらいイった頃かな、僕の部屋のドアが乱暴に開いた。朦朧としたままそっちを見ると、まるで鬼みたいな顔をした男の人が立っている。僕はその人が自分の父親だと認識するのに暫く時間がかかった。その背後には伯父さんと母さんもいる。なんだ今日は帰ってきたんだ、なんて思いながら僕は何もしなかったし言わなかった。というより、できなかった。僕の口には唾液塗れのハンカチが押し込まれていたし、両手はタオルで縛られていた。ぼうっとしていると兄さんの体が飛んでいった。それからすぐに僕の体が誰かに抱き上げられて、ハンカチとネクタイが取り払われた。地面に兄さんの体が転がると、その上に鬼みたいな顔の人が乗り上げて何度も拳を振るっていた。僕はそれをぼうっと見ていた。何が起きているのかよく分からない。頭の芯が痺れて何も考えられなかった。それで、ええと……後は、覚えていない。寝たのかな。分からない。でももうちょっと、何か……僕も起きていた、ような気はするけれど……分からない。覚えていないから多分寝たのかなあ、分からない、ごめん。……頭が痛いから、薬飲んでくるね。

 お待たせ。長くなってごめんね、胃がむかむかして。何か変なものでも食べたのかな? でも大丈夫だよ、もうなんともない。続けようか。
 それで、なんだっけ。ああそうだ、兄さんとセックスしているのが見つかったところまで話したんだっけ。
 想像通りだと思うけれど、父さんにしこたま殴られた兄さんは今度こそ文字通り家を追い出された。その日から兄さんは和泉家との縁を完全に切られて、この家だけでなく町に立ち寄ることも禁じられた。僕がその事実を聞かされたのは伯父さんからだ。伯父さんは僕が無事志望校に受かるまで僕の面倒を見てくれた。お世話になりました。そうだね伯父さんは色々と教えてくれた。兄さんがもう入ってこられないように鍵を変えてくれたのも伯父さんだ。おかげで僕は無事中学にも受かったし、高校だっていいところに入れたから、父さんと母さんも一安心だ。
 兄さん? 兄さんは、相変わらず来ているよ。伯父さんももうとっくにいないし、父さんと母さんもあまり帰らないからね。鍵は定期的に変えているよ。そのたびに破られるけど。部屋なんて盗聴器と監視カメラだらけだ。取り除いてもまた新しいのが増えているから、探偵でも雇っているんじゃないかな? いわゆるストーカーだね。本当にたちが悪い。
 僕は自分の兄の人生を奪って壊した。今の兄さんは、おかげでもう価値のない人間の屑になった。僕のせいで今の兄さんになったんだ。僕が兄さんを駄目にした。本当にどうしようもない駄目な人なんだよ、僕の兄さんは。たまに僕が家に行って掃除してあげないとゴミだらけになるし。ゴミの住む部屋ってどうしてあんなにゴミだらけになるのかな。住んでいる人がゴミだからかな。
 僕が兄さんを壊して駄目にしてしまった分、僕には立派になる義務がある。僕は兄さんみたいにはならない。僕は兄さんの代わりに和泉家を継いで、立派な医者になるんだ。それから僕はゴミを引き取りにいく。僕が出したゴミだ、自分で管理しないといけないよね。今はまだこの立場だけど、僕は必ず立派になって、兄さんを……兄さんを引き取って……それで……。
 いやだなあ。そんな顔しないでくれるかな。途中で寝たらそのコーヒーぶかっけてやろうと思ったのに。それ、兄さんが持ってきたやつだよ。お客さんに貰ったんだって。僕は嫌いだ。絶対に飲まない。あ、言っていなかったっけ。兄さんは『ウリ専』やら『出張ホスト』やらをやっているんだよ。男女関係なく体を売って生活しているんだ。
 ほらもういい時間だし君も帰りなよ。僕はまだ塾の課題が少し残っているから片づけないといけないし。
 え、なに? 兄さんをどう思っているか? どうしてそんなことを聞くの? へんなの。熱でもあるんじゃないの?
 そうだね。僕は兄さんのことが大嫌いだ。顔も見たくないし会いたくなんてない。家に入ってこられるの、困るんだよ。本当に。兄さんは生きている価値もないようなゴミ屑人間だ。どうしようもなくてだらしなくて変態で人格破綻者の屑だ。どうしようもないダメ人間だから、兄さんは僕がいないと駄目なんだ。僕のせいで全部奪われた可哀想な兄さん。僕じゃないと助けられない兄さん。僕が壊した兄さん。僕のせいでゴミになっちゃった兄さん……、………………。
 ねえ、教えてよ。僕はどうすればよかったのかな。ねえ! 黙ってないでよ! どうすれば兄さんを救えたの? 僕はどうすればよかった? 全部僕が悪かったからこうなっちゃったの? 僕がいなければ兄さんはもう少し真っ当に生きていけた? でもさ、でも、真っ当ってなんだろう。どうすれば正しくてどうすれば間違っているんだろう。清く正しく生きていれば幸福なのかな。もしも兄さんが間違っていて僕が正しいなら、今の僕は幸せなの? もしそうなら僕はこんな正しさも幸福もいらなかった!
 ……ごめん。ちょっと取り乱したね。ともかく僕は立派にならなきゃいけないから、どうしても兄さんと同じにはなれない。僕はまともでいなくちゃいけない。僕の歩いているこちら側が「正しい」なら、僕はその道を守らないといけないんだ。僕は医者になって立派になって和泉家を継いで最後までまともでいる。僕は失敗作になれない。僕は絶対に狂ったりなんかできない。
 ……ああ、それで、何の話だったっけ。ああ、ゴミ箱はそこにあるから、お菓子の袋はちゃんと捨てていってね。ゴミはゴミ箱へ。きちんと正しく分別しないといけないからね。自分で出したゴミは自分で片づけよう。間違っちゃだめだよ。正しい場所に、正しいゴミを捨てるんだ。
 長くなったね、話はここまでにしようか。
 
 
 和泉はそこで言葉を切ると、暗い目を伏せて薄く笑った。それはどこか自罰的な響きを孕んでいる。つまらない話をしたと謝罪する顔は青白く、額には薄らと冷たい汗が滲んでいた。引き攣った口元だけが歪な笑みの形を守っている。
 彼の震える手の中では、一度も減っていないアールグレイが揺れていた。かちゃかちゃと神経質な音を鳴らすティーカップの中身は、無意味に並々と注がれている。それは時折カップの淵から零れて、彼の青白い指先を濡らしていった。赤い水が指を伝い、ソーサーに小さな水溜りを作る。
 声一つない重苦しい停滞の部屋。僕はただ、僕の予想を超えた闇を目の前にして圧倒されていた。僕にはどうすることもできない。儚く散った淡い恋心が完膚なきまでに打ちのめされて燃やされた。この兄弟の間には、誰も干渉し得ない。いいや、してはいけない。彼等は地獄の炎のような赤い糸で、雁字搦めに結ばれ合っている。きっといつかは壊れてしまうだろう。和泉の張り詰め、ひりついた精神が、僕の心臓に冷たい水を注ぎ込んだ。誰も触れることができない断崖絶壁で、互いの首を締め合い口づける二人が見えた気がした。

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