僕の愛しい廃棄物

ますじ

文字の大きさ
上 下
7 / 12

雨よ、彼の靴を濡らして。

しおりを挟む
 雨がふります 雨がふる
 遊びにゆきたし 傘はなし
 紅緒の木履も 緒が切れた

 ――北原白秋『雨』



『というわけで、各々十分に注意して捜査を続けるように』
「はい」
『では解散。睡眠は取れる時に取るんだぞ』
 須東さんの一言のあと、通話から一人二人と参加メンバーが抜けていく。パソコン画面に映るのは署内の独自システムで作られたオンラインミーテイングアプリで、このルームには須東さんの率いる捜査班が登録されている。俺も当然その一人で、元々は須東さんとバディを組んでの行動をしていたが、風邪で高熱を出したことから今日はオンライン会議のみ参加していた。
 たいして役にも立てないという意識で、会議中はずっと気持ちが塞がっていた。とはいえ情報を取り逃したり、遅れたりすれば余計に足手まといになるだけだ。本当は寝ていろと言われていたが、どうしても会議だけ参加したいと言ったのは俺だ。猶更置いて行かれたくなくて、必死で取ったメモの内容を整理していたら、いつのまにかルームには俺と須東さんだけになっていた。
「あっ……すみません、おつかれさまです。待たせてましたか」
『いや、大丈夫だ。ちょっとお前に用があってな』
「えっ」
 そう須東さんにそう言われては抜けるに抜けられず、相手の発言を待つことになった。しかし須東さんが続いて口を開くことはなく、気まずい沈黙が流れ続ける。
「あー、いや、やっぱいいわ」
 長い沈黙の末、吐き出された須東さんの言葉はそれだった。思わず「は?」と上ずった声が出てしまう。須東さんは「おつかれ」とだけ言い残すと、さっさと通話を抜けてしまった。ルームに接続しているメンバーはついに俺一人になる。
「えぇ……なんだそりゃ……」
 椅子の背に凭れ掛かり、深々と大きなため息を吐く。何か他の捜査員には言えない情報の共有か、それとも……プライベートなことなのか。結局分からずじまいなんてひどい話だ。俺の緊張を返して欲しい。
 暫くそのまま疲れた目蓋を閉じていると、今度はスマートフォンが通知音を鳴らした。送り主は須東さんだ。プライベートで使っているメッセージアプリへの通知である。
 つい、心臓が小さく跳ねあがった。情けなく震える手で須東さんとのチャットを開けば、そこに並んでいたのはあくまでも事務的な文章だった。『今週金曜の17時、須東班で〇〇居酒屋』……いや、そんなの別に、さっき言ってくれればよかったじゃないか。
「……ほんともう、なんなんだよ……」
 一人で勝手に感情を揺らす自分が馬鹿みたいだ。こんな些細なことで簡単に期待してしまった俺自身を全速力で殴りに行きたい。
 了解しましたと、同じく事務的な返事を送る。馬鹿だなぁ……誰にともなく呟いたその言葉は、ただ虚しく空気に溶けるだけだった。


 可愛がられている自覚はある。しかしそれは、あくまでも「後輩として」だ。俺があの人にどんな感情を抱いているかはまったくの別問題だった。
 食事にもよく連れて行ってくれるし、何かと気に掛けてもらえる。須東さんはぶっきらぼうに見えて意外と面倒見のいい人だ。その対象は俺だったり、他の部下や同僚だったり、あるいは捜査で関わってきた有象無象だったりするが、その中でも俺はとくに構われている自信があった。
 食事に誘われる回数も他よりずっと多い。大人数での飲み会の後も、二人で別の店に行くこともあった。須東さんの自宅に招かれたこともある。だから何だと聞かれたら答えに詰まるけれど、注がれる視線や、時々甘くなる口調、それらを統合して考えても、きっと他の誰かよりは特別な扱いをされているはずだ。恐らくは、きっと。

「そう思いたいだけなんだろうなあ」
 ふと掛けられた言葉で箸が止まる。思考を断ち切ったその声に釣られて顔を上げると、酔いが回り据わった目をした同期がいた。
 何の話をしていたか忘れてしまっていたが、酔っぱらった彼が弱音を吐きはじめたのだった。途中で思考が逸れて別のことを考えていた。たしか、両想いだと思っていた相手に恋人がいたんだったか。その話は今年に入ってもう三回くらい聞いている気がする。
「俺はあいつにとって特別なんだって、勝手に思ってたんだ……」
「ちょっと琉希、飲みすぎじゃない……?」
 琉希はグラスの淵をなぞりながらうつらうつら船をこいでいる。吐き出された言葉には深い落胆と少しの自嘲が混ざっていて、俺に対しての放言じゃないことは理解できた。ただ俺が他のことを考えていたせいで、意味もなく冷や水を浴びた気分になっただけだ。
「情けねえよな、俺……なんでいつもこうなるんだ……」
 琉希は酒のせいでうっすら赤い顔をして、涙を滲ませていた。あいにく俺にはどう声をかけてやるのが正解か分からない。俺と琉希は同期ということもあって励まし合うことは多かったが、こと恋愛問題に関しては俺も琉希も不器用なほうだ。
「うーん……琉希はさ、なんていうか……優しいんだけどさ……うん……」
 これ以上は言えずにウーロン茶を流し込んでいると、手洗いに立っていた須東さんが戻ってきた。もう一人、須東さんと同期の篠宮さんも来ているが、そちらはもう長電話でずっと戻ってきていない。
「なんだ、かなり出来上がってんな。大丈夫か?」
「うううーっ……慰めるなら彼女をくれぇー!!」
「うるっせぇ大声出すな」
 わっと泣き出す琉希の後頭部を叩きながら、須東さんがその隣に座る。琉希はよほど酔っているのか、しつこく須東さんに絡んでは支離滅裂な言葉を繰り返していた。須東さんも琉希と同じかそれ以上のペースで飲んでいるので、次第に言動が怪しくなってくる。あっという間に、酔っぱらいは二人に増殖していった。
「おーいお前ら、外まで声聞こえてんぞ」
「あっ篠宮さん! 助けてください!」
「いやすまん俺は帰るわ」
 電話から戻ってきた篠宮さんがすまなそうに顔の前で手を切る。硬派なこの人が三次会まで来てくれたのは珍しくて、それで二人とも普段より飲みすぎたところはあった。だから責任を取ってほしい、とまでは言わないけれど、結局ほとんど席を外していたのでちょっと恨めしい。少しくらいは二人の相手をしてほしかった。
「そんなぁ! 俺一人でこいつらの面倒みるんですか!?」
「まあ……がんばれ」
 低い声に似合わない中性的な顔には同情の色が浮かんでいる。だったらせめてお開きにしてくれればいいのに、変なところで気を遣うこの人は、楽しそうな雰囲気に水を差したくないと思っているのだろう。篠宮さんはまるで逃げるように襖を引くと、「がんばれよ」と手を振って個室を出てしまった。
「なんだ篠宮帰るのかぁ~!?」
「かえんないでくださいよぉ~俺の話をきいてくれぇ!」
「ああもうあんたらうるさい! 他のお客さんに迷惑です!」
「青山のほうがうるさいぞ」
「も゛~~~!!」

 約一時間後。賑やかすぎる飲み会がようやく終わって、俺は琉希と須東さんを乗せた車を走らせていた。琉希の家は居酒屋からわずか数分の距離ですぐに到着した。ふらつく琉希を玄関前で降ろしたら、次は須東さんの家を目指して走り出す。
「琉希のやつ、大丈夫かな……」
 中には入っていったのを見届けたので、最悪外で寝るようなことはないだろう。しかしだいぶ酔っていたように見えるので、明日はひどい二日酔いで出勤してきそうだ。かくいう俺もようやく風邪が治ったばかりなので、あまり偉そうなことは言えない。
 しばらくすれば水滴がぽつりぽつりとフロントガラスを叩きはじめた。そういえば夜遅くから雨が降る予報だったのを忘れていた。水滴は一瞬で勢いを増して、酷い土砂降りに変わる。ワイパーが必死で首を振り、視界を奪う水流を左右に押し流していった。
 助手席からは須東さんの静かな寝息が聞こえてくる。窓に頭を預けていて、非常に寝苦しそう姿勢だ。後ろで寝ればよかったのにと思いながら、仕方ないのでそのままそっとしておくことにした。
 時折大きないびきが混ざるので、かなり深く眠っているようだ。須東さんの呼気からは濃いアルコールの匂いが漂っている。本当はあとで消臭剤をまいた方がいいかもしれないが、なんだか勿体ないと思ってしまった。自分でも女々しい思考だと思うが、須東さんの残り香を消してしまうのが惜しいのだ。隣から感じる穏やかな呼吸や、時々上がるおじさん臭いいびきも愛しくて、つきりと胸が痛くなる。
 俺がこんな感情を隠しているなんて、この人は考えてすらいないだろう。
 何も知らないくせに俺のことを構うから、俺はいつまでも諦められず女々しい感情を抱き続けるしかない。須東さんに名前を呼ばれるだけで胸が高鳴って、食事や家に誘われるたびにまた期待して、きっと俺はほんの少しくらいは特別扱いされているんだと都合よく思い込む。馬鹿なことだと思ってもやめられない。悟られなければいいことで、一人で勝手に好きでいることは罪にならないはずだ。これじゃあ琉希のことも笑えない。
 須東さんは優しい人だ。もし俺の気持ちを知ってしまったらきっと困らせてしまう。だからこの気持ちは、どこにも出さずに墓場まで持っていくつもりだ。優しくて優秀な先輩を尊敬する後輩として、これから先も背中を追い続けられれば、それで……。

「青山、俺のこと好きだろ」

 雨音が消えて時間が止まる。耳が、脳の血管が、神経が塞がれたような感覚に陥った。何を言われたのか瞬時には理解できなくて、それでも唐突な声の主が誰なのかだけは明確に分かった。
「……え?」
 急激に視界が狭まって、ただ赤く光る信号だけを見つめる。寝言だろうか。過剰反応してしまった。相手は酔っぱらいだ。落ち着け。落ち着け。落ち着け。ハンドルを握る手に嫌な汗がにじむ。
「寝言じゃねえぞ。ずっと起きてた」
「な、に……」
「分かりやすいよな、本当に」
 まだ信号は変わらない。無意識のうちに呼吸が浅くなって、下手なことを口走りそうな唇を強く噛みしめた。いつの間に起きていたのか知らないが、須東さんがするりと手を伸ばして俺の頬に触れる。それだけのことで体が大袈裟に飛び上がった。逃げようにも逃げられない閉鎖空間のなか、心臓が破れるような絶望に襲われる。
「ここなら青山の家のほうが近いよな」
 須東さん、酔っぱらっていたんじゃないんですか。そう訊ねることはできなかった。須東さんが少なからず酔っていたのはこの目で確かめた筈だが、今はもう呂律も回っているし意識もはっきりしている。それでも酒の匂いは濃いままで、眠そうに目を細めているから、どこまで酔っているのか、理性がどのくらいあるのか、全く推測ができない。
「さすがに歳だな。眠くてたまんねえし、早く休みたいんだがな」
 ずるい。無意識のうちに溜まった唾液を飲み干して、強くハンドルを握りしめる。そんなことを言われたら、俺が出せる返答は一つしかないって、須東さんも分かっているはずだ。
「……俺んち、寄っていきますか?」
 声を絞り出したのと同時に、信号が青に変わった。須東さんのことをずるいと言っておきながら、俺だって少し道を変えて自分の家の近くを通っていた。どうせ寝ているなら多少遠回りしてもいいだろうと調子に乗っていたのだ。
「あ、あの……須東さん、どうして」
「ん?」
「俺が、その……須東さんのこと」
 好きだってどうして知っているんですか。須東さんの落とした爆弾のせいで俺の頭の中はめちゃくちゃだ。まともに思考できる余裕はなくなって、ただ自分の家を目指して車を走らせた。須東さんはそれ以上は何も言ってくれない。ただ無言で俺の横顔を見つめている。その視線が落ち着かなくて、家まであとほんの数分の距離が永遠のように長く感じた。
 やがて見慣れたマンションが近づいて、駐車場に車を滑り込ませる。玄関まで少し歩かなければならないが、外は相変わらず土砂降りのままだった。車内に常備していた傘はつい先日壊れて捨てたばかりだ。
「走るか」
 呟きながら車を降りる須東さんを追って、俺も土砂降りの外に出る。走って玄関ホールを目指す間も激しい雨が俺達を襲い、頭から足の先まで濡れ鼠になった。玄関ホールに滑り込んで、エレベーター内に乗り込んでからはひたすら無言だ。足元に小さな水溜りが出来ていく。じっとりとした雨の匂いが、アルコールの匂いを掻き消していった。
 やがてエレベーターが止まり、ひたひたと濡れた足音を立てながら廊下を歩く。あっという間もなく自室の前に着いてしまう。鍵を取り出そうとする手はみっともなく震えていた。
 須東さんは何も言っていないのに急かされているような気がして、慌てながら鍵を差しこんで回す。この扉を開けたらもう戻れないような、奇妙な緊張感だった。濡れた前髪が邪魔で手元がよく見えない。頼りない視界で須東さんを見上げると、いつもはきっちりと撫でつけられている前髪が乱れていて、思わずどきりとした。
 もたつきながら扉を開いて須東さんを招き入れる。震える手で鍵をかけると、途端に背後から抱きしめられた。耳元に触れる吐息からはまだアルコールの匂いがしている。
「……須東さん、酔ってます?」
「んー」
 雨で酔いがまわったかもな、そう須東さんが少し笑う。バカなことを言うひとだ。普通は醒めるところだろう。
 水分を吸って重くなった服が邪魔で仕方なかった。須東さんに手を引かれて、床を濡らしながら寝室に向かう。そのままベッドに投げ飛ばされ、冷たい服を剥ぎ取られた。一連の動作はどれも乱暴だったが拒否できなかった。いや、拒否なんてできるはずもない。ずっと恋焦がれ、憧れていた相手だ。流されてはいけないと理性が警告する一方で、このまま一夜の過ちを犯してしまいたいと願う自分がいた。
「あ、の……っ、まって、くださ」
 腰を掴もうとする須東さんの手をそっと押さえる。せめて準備がしたかった。須東さんはそれを拒絶と受け取ったのか、やや不機嫌そうに顔を顰める。
「いや、その……女みたいに濡れないから……準備したい、です……」
 恥を忍んで正直に告げると、ようやく納得した須東さんから解放された。ベッドの隣にある引き出しに一通りの道具は仕舞ってある。あまり見られたくはないので、ローションだけをさっと取り出した。一緒に入っているのは一般的なオナホールではなく、ディルドやエネマグラの類だ。出来れば見られたくない。
「俺にやらせろよ」
「……男の尻なんて触っても楽しくないし、どうせ萎えますよ……」
 ローションのボトルを渡しながら言うことではないと思うが、どうしても保険をかけておきたかった。途中で須東さんが興ざめしたなら、だから言ったのにと責めることができる。自分が傷つきたくないがための卑怯な予防線だ。
「どうだろうな。そうなったら青山が頑張ってくれよ」
「……酔っ払いめ……」
 実際もうそんなに酔ってはいないのだろう。それでも酒のせいにしなければこの行為を説明できない。
 雑にローションを垂らされて指が入ってくる。中指が根本まで入ると、須東さんは少し眉根を寄せて首を傾げた。
「なんか、慣れてねえか?」
 答えてやるものかと唇を噛む。中で指がぐにぐに動いて、絶妙にいいところを避けながら広げていった。
「自分でいじってるのか?」
「……っ、ぅ……っそう、です、よ」
 詰るように問われたので、半ば投げやりに答える。夜な夜な一人で自分を慰めていたのは事実だし、一般的な日本人男性の性器程度のものなら簡単に入るようにもなった。それで快感を拾えるくらいには自分で開発もした。それもこれも全て目の前のあんたを思ってやったんだ。もちろんこの人は何も知らず俺を組み敷いているのだけれど。
「男に抱かれてんのか?」
「……っ、そんなことしてません」
「じゃあ随分と熱心に開発したんだな」
 指が増やされて、そのまま奥のほうまで強く掻き回される。質問に答える余裕なんて一瞬で消し飛んだ。全身にぴりぴりと伝う痺れるような快感と、尿意にも似た感覚で頭が馬鹿になっていく。
「ぁああッ! あっ、あ、や、だっ! あぁっ、やめ、やだ……っ!」
「はっ、どの口が言ってんだ?」
 覆いかぶさったまま須東さんの顔が迫ってくる。あ、と思って目を閉じると、唇に柔らかいものが触れた。分厚い舌が潜り込んできて、酒と煙草の匂いに犯される。
「んんん~~っ! んっ……ふ、ぅ、ん、んっ、……っ♡」
 須東さんとキスしている。その事実に、自分でもどうかと思うほど思考が蕩けた。須東さんの指で腹の中を掻き回されて、口の中も須東さんの匂いでいっぱいになって、自然と股が開いて強請るように腰が浮いてしまう。
 普段から弄っているせいで、そこは簡単に解れて須東さんの指を三本咥えるようになった。最初は避けられていたいいところを重点的に責められて、快楽のあまり逃げようとする腰を押さえつけられる。このままだと本当に流されてしまう。どこかで止まらなければと理性が訴えかけるのに、体は正直に快感を求めてしまった。
「ん、んんっ、ふ、ぁ、あ゛っ、だ、めっ、まっ、まって、くらさ、あっ、だ、だめっ……!」
 ずるりと指が抜けて、代わりに熱いものが押し当てられる。はっとして須東さんを押し返そうとすると、簡単に手を振り払われて、頭上で一纏めにされてしまった。
「だめなのか?」
「だ、だめ……」
 その先はだめだ。
「なんでだよ」
 なんでも何も。
「だって……」
 いいや、だめじゃ、ない。
 俺だってしたい。須東さんに抱かれたい。けどだめだ。この先は本当にだめなんだ。
 今はよくても、その後はどうなる? 須東さんの理性が戻ったら、正気に戻ったら、後悔されたら、距離を置かれたら?
 俺を抱いた後悔に苛まれる須東さんなんて見たくない。須東さんは優しいから、どうにかして責任を取ろうとするだろう。そんな義務感で構われるのは絶対に嫌だ。確かに俺は須東さんのことが好きだ。いつからかなんて自分でも分からないし覚えていない。少しぶっきらぼうだけど優しくて、どんな犯罪にも真摯に向き合って、頼もしくて安心感のある須東さんのことが大好きだ。硬派な人かと思いきや実は結構おちゃめなところがあって、お酒と煙草が大好きで、非番の日には潜入捜査だなんて言って時々麻雀を打ちにいく。警察学校出身で交番勤務から這い上がってきた須東さんの、そういう人間らしくてちょっと泥臭い部分も大好きだ。
 気が付いたら須東さんのことばかりを想うようになった。けれど須東さんは違う。ただの勢いで、この場限りの性欲だ。だから嫌なんだ。こんな中途半端な夢なんて、見せられたくなかった。
「やめ……っあんた警察だろ! こんなのレイプだぞ!」
 このまま一線を越えてしまったら俺達はもう後戻りできない。体を重ねた事実は一生消えないのに、暴走した性欲はほんの一時のものでしかないのが、あまりにも残酷だ。
「…………」
「なんとか言えよっ! ッあ、ほ、んとにっ、だめっ、あ゛っ、だっ、だめって……~~ッッ!?!?」
 息が詰まるほどの重みだ。弾けるような衝撃のあと、自分の中に熱くて固いものがしっかりと存在しているのを自覚した。大きく肩で息をしながら、薄暗い天井を呆然と見つめる。伸し掛かる須東さんの身体が重くて、それが悲しいくらいに心地よかった。
「……ッッ、ぁ゛……う゛……っ♡」
「はっ、入れただけでイったな。欲しかったんじゃねえか」
 意地の悪い言葉が、馬鹿になった頭にじわりと沁み込む。ああ、そうだ、欲しかった。ずっと欲しかった。こうされるのを何度も夢想した。無機質な道具では足りなくて、泣きながら自分を慰めて、このひとを想った。ずっとこれを願っていたんだ。
 それなのに、どうして空虚な気持ちになるのだろう。
「ぅ゛……ご、めんなさ……ぁっ、あ゛っ、きもち、ぃ、ぁあ゛っ、ぁーっ、あ゛、あっ、……ッ!!」
 本来入ってはいけないようなところまで須東さんの熱が来ている気がする。嬉しさと気持ちよさで理性は完全に溶けて消えてしまった。須東さんの性器で奥を叩かれて、ひどく乱暴な律動なのにたまらなく興奮する。須東さんに抱かれている事実がなにより俺をおかしくさせた。頭はもう使い物にならないし、体は快感ばかりを貪欲に追いかける。
「ひっ、ひぃっ、ぁ、だめ、ぇ、あっ、あ゛っ、あぁあっ、あ、あ゛ぁ~~ッッ!!」
「おっまえ……感じすぎだろ」
 内臓が押し上げられるほどの強さで揺さぶられても、すべてが快楽に塗り替わって脳が痺れた。シーツを掴んで腰を逃がそうとすると、すかさず須東さんが追いかけてきて、奥が破れそうなくらいの律動が来る。みっともない喘ぎ声が止まらなくて、仰け反りながら甲高い悲鳴を上げ続けた。
 気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。
 頭の中がそれで塗り潰される。
 駄目だと分かっているのに、後悔すると知っているのに、それでも流されてしまう。
「も、や、やめっ、もぉイけな……っあ、あ゛ぁあっ、だめ、ゆるし、って、ひっ、あっ……!」
「許すって、何を許すんだ? ん?」
 耳元で須東さんの荒い息遣いが聞こえる。俺で興奮しているんだ。そう思うと腹の奥が切なく疼いて、中を締め付けてしまった。くすりと須東さんが笑って上体を起こす。解放されるのかと一瞬思ったが、矢先に強く奥を突きあげられて息が詰まった。
「~~~ッッ!?!?」
「ハハッ……かわいいな、マジで」
 ぼやける視界に須東さんを捉える。性欲に染まった男の凶悪な笑みが見えた。抱いている相手が誰なのか、ちゃんと自覚しているのだろうか。
 ……ああ、もしも。もし本当に自覚していて、それで俺に興奮してくれているなら……。
「ぅ……」
 ああ、もう、いいかな。
「あお……、……邦広……ッ」
「ぁ……ッ♡」
 名前を呼ばれて、奥に、須東さんの熱が来る。それだけでは止まらなくて、バカになったそこを再び揺さぶられた。気持ちいい。すき。須東さんがすき。気持ち、いい。快楽以外のことが、もう分からない。頭の中が真っ白になって、須東さんに抱かれている幸福で狂ってしまう。
 なにもわからない。わからないんだ。そうしたのは須東さんだ。
 ねえ、須東さん。あんたは分かってるんですか?
 誰を抱いてるのか、ちゃんと分かってくれてるんですか?



「わりぃ、記憶飛んだ」
 予測できていたことでも、実際に直面するとひどくショックを受けるものらしい。須東さんがそこまで酔うのは珍しいと思うが、昨晩の言動を考えれば、素面ではありえないとすぐに分かることだ。勝手に一人で流されて期待した俺が馬鹿だった。
 須東さんによれば、俺と琉希、篠宮さんと四人で三次会に行って、解散したところまでは覚えていたらしい。だが俺の車でひと眠りしてからの記憶が一切ないと言う。
「……そうでしょうね。珍しいくらい酔ってましたから……」
「悪いな……迷惑かけただろ。俺、変なことしてないか?」
 しましたよ、セックスを。とはさすがに言えなかった。
 行為のあと、須東さんは沈み込むように眠ってしまった。それだけ酔っていたのだと言われれば確かに納得できてしまう。目覚めてから気まずくならないように、痛む腰をさすりながら念入りに片付けた俺を誰か褒めて欲しい。もちろん褒めてくれる人間なんてどこにもいないし、居たとしてもかえって困るけれど。
 夜のことはただの過ちだったのだ。まさしくこのベッドで身体を繋げたのに、須東さんはそんなこと少しも覚えていないし、もうあの時の欲なんて少しも残っていないのだろう。
 ……虚しいだなんて、俺が言える立場ではない。
「ほんと大変だったんですよ。須東さん勝手にベッド上がったら一瞬でいびきかいて寝始めるし、俺も須東さんもびしょ濡れだから脱がせて乾かして……」
「うわマジか……すまねえ……今度メシ奢らせてくれ……」
「じゃあ焼肉でお願いします」
「あんま高いところは勘弁な……」
 地味に主張している腰の痛みは無視して、あくまでも普段通りに振舞う。どう転んでもいい道には行かなかったのだから、忘れてくれたならそれでいいのかもしれない。このまま何事もなく分かれて、これまで通りの関係に戻れるのなら、きっとそれが一番いい。
 ……俺は忘れられないけれど。
 須東さんはとくに何も疑いもせず納得した様子で、帰るわと言って立ち上がった。須東さんの服は夜のうちに干しておいたので、もう乾いていることだろう。
 寒そうにしている須東さんに服を渡して、着替えを横目に眺めていると、ふと思いだすことがあった。
「あ……靴、まだ乾いてないかも。確か今日は非番でしたよね? もうちょっと休んでいったらどうですか」
 服とは違って干していたわけではないし、中敷きがたっぷり水を含んでしまっている。確認してみたが、確かにまだ乾き切っていなかった。身支度を終えた須東さんも隣に立って、濡れたままの靴を困ったように見下ろしている。
「あー……いや、まあいいわ」
「えっ」
「靴くらい濡れてても帰れるからな。んじゃ、邪魔したな」
 須東さんは濡れたままの靴を履くと、玄関先に立っていつもの調子で笑った。こうなってしまったら、もう引き留める理由はない。呆然としていると、扉をあけた須東さんが振り返った。
「ああそうだ、青山。こないだ言いかけたことなんだが」
「……え? 飲み会のことじゃなかったんですか?」
「ああ」
 ぼうっとしている俺の手を須東さんが引く。バランスを崩して転びそうになった先で、須東さんの胸に抱きとめられた。
「あぶね! っつかお前少し痩せたな。こないだの風邪といい、体調管理ちゃんとしろよ。刑事としての自覚を持て」
 短い説教のあと、近かった須東さんの匂いは遠ざかった。結局「言いかけたこと」は聞かせてもらえないまま、引き留めたい背中が消えてしまう。仕方がない。もう、呼び止める理由はない。服は乾いた。靴は濡れているけれど、須東さんが構わないと言った。もう俺は見送るしかない。何も言えずに。
 ――ふざけんな。
「ばか……須東さんの最低野郎……性犯罪者!」
 須東さんの姿はもうどこにもない。あっさりと簡単に、何事もなく去っていった。いや、須東さんにとっては本当に何もなかったのだから、俺が一人で情けなくぐるぐるしているだけだ。悔しい。虚しい。情けない。寂しい。寂しい。寂しい。
 忘れんなよ、アホ!
 部屋の中にいるのに、まるで土砂降りの中に立っているようだった。目の前がよく見えなくて、ただひとり、アホみたいに玄関でへたり込んでいた。


 ぼふんと虚しい音を立ててベッドに倒れ込む。そこには須東さんの残り香があって、より強く感じる孤独で胸が締め付けられた。
「あーあ……」
 ローションの滑りも、精液の青臭さも、一人で綺麗に拭った自分が馬鹿らしい。いっそのことすべての証拠を残しておいて、須東さんに迫ればよかった。優しいあのひとならきっと俺を拒絶できなかっただろう。
「なんなんだよ……ほんとに……」
 悪態をつきながら布団に潜り込む。未だに消えない須東さんの匂いが虚しくてたまらない。ここで何をしたのか、懇切丁寧に説明してやればよかったのだろうか。そんなことをしても結局虚しいことには変わりない。
「さいあくだ……マジでさいあく……」
 何か熱いものが込み上がってきて目蓋が濡れる。ぎゅっと強く目を閉じると、勝手に溢れ出した雫がぼたぼたとシーツに落ちていった。
「クソ須東! あほ! ばか! ばか……ぅ……ぅ゛っ……ひぐっ……」
 誰があんな男のために泣いてやるものかと、意地を張っても溢れるものは止められない。しゃくりあげながら枕を殴って、それだけでは気が済まなくて、掴んだそれを壁に向かって投げつける。
「ほんと、に……さいあく……須東さんのアホぉ……!」
 どうやっても気は収まらない。涙腺が馬鹿になったように、ボロボロと雫が頬を伝う。顎や唇まで濡れて、鼻水が滴って、きっと酷く汚い顔をしているのだろう。須東さんが帰ったあとでよかった。
「アホなのは俺だ、ちくしょう……」
 いっそのこと全部さらけ出して、洗いざらい吐いて、責任を取れと詰め寄ればよかったのだろうか。そんなことをしても須東さんの心は得られない。分かっている。全部分かっているんだ。
「靴、もっとびしょびしょにしてやれば良かったな」
 中途半端に湿ったままの靴を思い出す。俺も須東さんも、駐車場から玄関までの短い間で濡れ鼠になったのは本当だ。けれど須東さんの靴があそこまで濡れることはなかった。
 本当は、夜中のうちにほんの少し水を足していたのだ。
 帰ってほしくなかった。靴が乾いていなければ帰れないだろうと、そんな女々しい自分の行動を思い返して、強い嫌悪感に頭を抱える。服よりも靴のほうが乾きづらいので意図的に濡らしても自然だと思った。それでも帰ってしまった須東さんを思うと、尚更、自分の行動が愚かに思えて死にたくなる。
 須東さんの残り香がどうしても辛くなり、ベッドを降りて窓に近づく。雨粒が窓を叩く音がしてきた。カーテンを開けば、案の定曇天が広がっている。昨日と負けず劣らずの激しい雨だ。ノイズのような雨音に混ざって、どこからかゆるやかなメロディーが聞こえてくる気がした。
「……あーめがふーります、あーめがふーる……」
 脳裏に過るそれに釣られて、ぽつりと口ずさむ。
「べーにおの、かーっこも、おーがきーれーた……」
 雨の中、差すための傘もなく、木履かっこの緒も切れてしまった。外へ出る手段がないなら、仕方なく家で遊びましょうと誘う、どこか哀愁の漂う童謡だ。
 窓を叩く雨粒は次第に強さを増していく。思い返すのは、濡らした靴のことだ。

 ――いっそ壊してしまえばよかった。

 そうすれば、まだ隣にいてくれたのだろうか。




「今、なんて?」
 とある焼き鳥屋の一角。カウンターの奥を陣取っているのは、一方は中性的な顔立ちをした細身の男で、もう一方は黒髪をオールバックにした大柄の男だ。
「だから、青山抱いた」
「は?」
 騒がしい店内が一瞬静まり返ったような顔をして、中性的な男……篠宮が頬を引きつらせる。大柄な男……須東は煽っていたジョッキを置くと、加熱式タバコのカートリッジを取り換えた。
「酔ったフリして抱いた。可愛かったぞ」
「……はっ!? それは……えっ? どういうことだ!?」
 困惑する篠宮の口からぽろりと食べかすがこぼれる。須東はその様子を笑いながら眺め、取り換えたタバコを深く吸った。
「それは……アレか? 一夜のお付き合いとかいう……?」
「いや、ちげーよ」
 青山が自分を好いているのは知っていたこと、抱くだけ抱いて翌朝忘れたふりをしたこと、何事もなかったように帰ったこと。そのときの青山の傷つきながらも必死に繕おうとする顔が可愛かったこと。つらつらと回想しながら、須東は運ばれてきた串焼きに手を伸ばす。篠宮は酒を飲む手も止まっていて、どことなく青ざめていた。
「須東お前……何考えてんだ……」
「あ? 青山、いいよなって」
「じゃあなんで突き放したんだ」
 少しの沈黙が走る。篠宮は串を握ったまま、鋭い視線を須東に送っていた。可愛い後輩が弄ばれていると感じたなら当然の反応だ。須東はそれを物ともせず、飲みかけのジョッキを傾けた。
「あとからリカバリすんだよ」
「なんのために……」
 須東が煙草を置いて笑う。信じられないものでも見るように篠宮の瞳が見開かれた。その手元では、冷えたねぎま串が今にも落ちそうになっていた。

「だってそのほうが、あいつも俺に執着するだろ?」


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】まつりくんはオメガの自覚が無い

BL / 完結 24h.ポイント:752pt お気に入り:134

乱れ狂う花

BL / 連載中 24h.ポイント:198pt お気に入り:73

なんだか泣きたくなってきた 零れ話集

BL / 連載中 24h.ポイント:63pt お気に入り:159

奇跡に祝福を

BL / 連載中 24h.ポイント:1,172pt お気に入り:155

【BL】Real Kiss

BL / 連載中 24h.ポイント:469pt お気に入り:13

奇跡を信じて

BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:5

【完結】あなたの妻(Ω)辞めます!

BL / 完結 24h.ポイント:825pt お気に入り:2,182

僕は超絶可愛いオメガだから

BL / 連載中 24h.ポイント:347pt お気に入り:194

運命とは強く儚くて

BL / 連載中 24h.ポイント:113pt お気に入り:361

もう一度を聴きながら

BL / 連載中 24h.ポイント:335pt お気に入り:127

処理中です...