僕の愛しい廃棄物

ますじ

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海の底をきみと歩く

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 手にしていた歯ブラシが床に落ちる。口の端から泡まみれの唾液が滴るのも忘れて、俺の意識は目の前の映像に釘付けだった。理解の範疇を超えたテロップが画面上部を流れている。小さな正方形に切り取られた写真は、とてもよく見慣れた、そして少しだけ懐かしい顔だった。
『――代表は、昨年運命の番と出会ったばかりでした。その後の結婚生活についてメディアに露出することはありませんでしたが……』
 ◯◯財閥代表が刺殺体で発見。番の冬海真波を重要参考人として捜索中……流れるテロップも、アナウンサーの声も、すぐには受け止めることが出来ず頭からすり抜けていく。ひょっとしたら俺は悪い夢でも見ているのかもしれない。取り落とした歯ブラシを拾い上げ、覚束ない足取りで洗面所に戻る。口を濯いでリビングへ戻ったあとも、まだ同じニュースが続いていた。テレビの前に立ち尽くしたまま、ただ呆然とその映像を眺め続ける。
「なん、で……ハハッ……」
 乾いた笑みが洩れる。まるでシュールな映画でも見せられているようだった。

 最後に真波と顔を合わせたのは、今から一年くらい前のことだ。
 運命の番が見つかった、そう静かに告げられた真波の言葉を、俺は口に運んだばかりのオムライスを咀嚼しながら呆然と聞いていた。その日の夕飯は、俺が指を怪我しながら一生懸命作ったオムライスと、レタス中心のシンプルなサラダだった。真波は食事は取らず、ホットミルクの入ったマグカップを両手で支えて俯いていた。
「そうなんだ……おめでとう」
 そうとしか言えずに、視線は真波でなくオムライスに向ける。決して見栄えがいいとは言えないけれど、ケチャップと絡めて口に運べば、俺好みの優しい味わいが口内に広がった。自然とスプーンを運ぶ手が震えてしまったが、俯く真波は気づいていなさそうだ。
「それなら、別れなきゃいけないな」
 小さく息を呑む気配がする。俺は気づかないふりをしてオムライスを掻き込んだ。真波の顔をまともに見ることが出来ない。こいつがどんな表情をしていたとしても、俺はきっと立ち直れなくなる。
 真波はオメガで、俺はベータだ。十歳の頃、第二性の診断で判明したことだ。そして俺達がお互いへの感情を自覚し合って恋仲になったのは、高校を卒業した年だった。それからはずっとお互いのことだけを見て生きてきた。俺はただのベータで、真波は貴重なオメガで、そんな真波にはいつか『番』というものができることも俺は分かっていたし、そうなったら諦めるしかないと覚悟も決めたつもりでいた。それでもずるずると真波のことを手放せないで側に居続けたのは、俺の情けない未練や執着心のせいだ。
 少子高齢化が進み、半数以上をベータが占めるこの社会で、繁殖力の高いアルファとオメガはとても重要な存在だ。アルファとオメガは見た目の上ではベータの男女と大差なく見えるが、オメガ男性とアルファ女性はそれぞれ第二性のほうが強く出る傾向がある。そのためなおさらアルファとオメガは互いを強く求めあううえ、社会的地位のある人物の大半がアルファなので、オメガの人生の選択肢はアルファの番となり子を生み育てることが最終目標になっていた。
 オメガがアルファに娶られました、幸せになりました、めでたしめでたし。そんな世界だ。まして、三ヶ月に一度発情期が来て社会活動が困難になるオメガは、いくら薬や保障制度があっても苦労することが多い。一般的に、そんなオメガがアルファに見初められ縁を結ぶのは、誰もが夢見る幸せで祝福されるべきハッピーエンドだ。
 真波の番は、日本どころか海外でも広く名前の知られる大富豪だった。かたや平凡な会社に勤める一般のオメガで、かたや誰もの憧れである億万長者のアルファ……それこそ絵に描いたようなシンデレラストーリーと言えるだろう。
 俺に番のこと告げた時、真波の首には事故防止用の首輪はなくなっていた。すでに項を噛まれた後だったのだ。真波は恋人である俺の元を離れて、どこかの誰かの雌になった。それをまざまざと思い知らされて死にたくなった。
 それでも俺は大人の男だ。真波との付き合いも長い。俺の中にどれだけの汚い感情が渦巻いていても、第一に尊重すべきはこいつの幸せだ。それが本当に正しいことだったのかどうかは別として、俺は自分の意思をねじ伏せ、押し殺した。そして笑って、真波を祝福したのだ。
 俺と共同生活を送るために貯めてきた金は全額俺に渡したいと言われたので、それは強く断っておいた。俺はそこまで落ちぶれていない。俺にだってプライドはあるし、まじめに働いている一人前の男だ。ギリギリにはなるだろうが、生活はしていける。真波がいなくとも俺はやっていける。……そう言ってやらなければ、真波は俺を心配して、番のもとに行けないんじゃないか。そんなことを考えてしまう俺は馬鹿だ。本当は俺がどれだけ引き止めたって真波は行ってしまう。ただの幼馴染や恋人よりも、運命の番のほうが拘束力はずっと強い。比べ物にもならない。もうとっくに、真波の心は俺のものではないというのに、俺は最後まで夢を壊したくなかったのだ。
 引っ越しの準備をする間、真波は珍しいほど俺に甘えようとした。これから番と暮らすなら他の男に甘えたら駄目だと何度諭したかも分からない。俺だってこのまま真波を手元に置いておきたいと思っていたが、運命がそうさせてくれないのは分かりきっていた。理性の範疇を超えた繋がりの前に、幼馴染や恋人だなんて言葉はあまりにも無力だ。
 このまま時が止まってしまえばいいのにとどれだけ願っても、運命の日は残酷にもやってきた。大きな荷物は業者に託し、身なりを整えマンションの前で待つ真波を迎えにきたのは、テレビでしか見ることのないような容姿端正な男だった。そこそこ年は取っていたけれど、それがまた大人の男の貫禄を纏っていた。傍目にも分かるような典型的なアルファで、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。
 男が高級車から降り立つと、これまで隣に並んでいた真波が離れ、その肩にしなだれかかった。それを俺はただ絶望的な気持ちで眺めていた。男は俺を一瞥すらしなかった。まるではじめから存在していないような扱いだ。たった一言の挨拶さえもなかった。男はそのまま真波を車に連れ込み、去っていった。車のエンジン音が遠ざかる中、がくりと膝が折れて、俺はその場にへたり込んだ。もう真波はいない。連れて行かれた。あの男の所有物になってしまった。ずっと一緒にいたのに。真波と、俺と、二人で一つみたいに生きてきたのに。
 性別なんて関係ない、ベータとオメガでも、愛し合っていれば一緒にいられる……そんな夢物語を、俺はずっと、信じていたんだ。
「あ……ああぁぁああ……っ!!!」
 目の前が真っ暗になって、心臓を刃物でぐちゃぐちゃにされるようだった。大量の雫で視界が滲んで、前が見えなくなる。息が苦しくて呼吸ができない。冷たい水底で溺れているみたいだ。
「いやだ……まなみ、いかないで……おいてかないでぇ……っ!!」
 マンションの下で、俺は一人バカみたいに泣きわめいていた。まるで俺の心情をなぞるみたく雨まで降り出した。いつだって俺が泣いて迷っていれば真波が駆けつけてくれたのに、もうそんな真波は側にいない。あの男に連れて行かれてしまった。それが運命だと、俺も納得して諦めたはずだ。それのにどうしても嗚咽が止まらない。もういっそこの場で死んでしまおうかとも思った。けれど結局俺は臆病で、舌を噛み切るのも、非常階段を駆け上がって飛び降りるのも、怖くてできなかった。ただひたすら、人目もはばからず泣きわめくことしかできなかった。
 それからは自然と真波とも疎遠になり、顔を合わせることもなくなった。一般的にアルファはオメガへの執着心や独占欲が強く、軟禁に近い状態で囲うことも少なくない。真波が人前に顔を出したのは、テレビで見た結婚報告が最後だった。電話番号も変えたようで、連絡を取るすべもなくなった。
 俺は真波と暮らしていた部屋を引き払い、家賃の安いアパートへと越した。住む場所が変わって、真波がいなくなって、部屋が散らかって、眠れない夜に抱きしめてくれる人がいなくなった。どうにか気を紛らわせようと仕事に忙殺されても、真波を忘れることはできなかった。俺の心にはずっと穴が空いていた。世界は色あせて、何を食べても砂を噛むようで、好きだった映画や読書にも興味をなくして、まさしく俺は生きる屍だ。真波がいない、ただそれだけのことが、俺の精神を蝕んでいった。

 しばらく呆然とテレビを眺めているうち、呑気な旅番組に変わっていた。テーブルの上でスマートフォンがしつこく唸っている。苦手な上司の名前が表示されていたが、電話に出る気は起きない。頭が思考することを拒否していた。子供達のはしゃぐ声がアパートの下を通り過ぎていく。世界はどこか虚ろで、膜の中にいるように不明瞭だった。自分の手足さえ感覚が遠くて、夢を見ているのか、現実なのかがよく分からない。
 どれだけの間そうしていたのだろうか。突然響き渡ったチャイムの音が俺の意識を引きずり戻した。朝の出勤時間で、宅配の届く予定もなくて、こんな時間帯の訪問者なんか無視してもよかったはずだ。しかし俺は突き動かされるように玄関へ向かい、モニターを確認もせず扉を開けていた。
「はい……どちらさま、で……」
 舞い込んだ風と共に、ふわりと柔らかな金糸が揺れた。あまりにも理解しがたい光景に世界の時間が止まる。そこには、朝日に照らされ嬉しそうに微笑む、愛しい真波の顔があった。
「ただいま、ヒロ」
「ま、なみ……」
 どこか舌足らずで蕩けた声に、胸の奥が燃え上がるような激情に襲われる。ぽすりと胸に倒れ込んだ体を抱きしめ、その場に崩れ落ちそうになったが、目が眩むほどの朝日に気づいて素早く扉を閉ざした。外の光が遮られた途端、膝から力が抜けて、真波と抱き合ったままへたりこんでしまう。
「え……な、なんで……?」
「あいたかった……ひろ……」
 抱きしめた体はやけに温かく、熱を持っていた。少し上ずった声で、真波が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。俺のシャツに縋る手が小さく震えていた。
「僕、ね……自分で、うんめい、選んできたよ……」
「は……」
 無意識のうちに、俺の手は真波の項に向かっていた。優しく指先で撫で上げると、真波の体がびくりと震え上がる。甘い息を吐き出して、とろけた瞳を俺に向けた。間違いなく発情している。これは番を持つオメガの反応ではない。番以外に項を触られて、こんなにも蕩けた声を出すオメガはいない。
「な、なんで……おまえ……あ、そ、そうだ、もう番は……」
「そうだよ……僕の運命は、ヒロだけだよ……」
 甘えて擦り寄る真波からは、噎せ返るほどの甘い匂いが漂っていた。そのあまりに強い香りに頭がくらくらして、正常な判断ができなくなっていく。このままでは危険だと分かっていても、それでも俺の中にはほの暗い歓びが確かに灯っていて、目を逸らすことは出来そうになかった。
「まなみ……」
「ヒロ……あいたかった……」
 どこでこの住所を知ったのかは不明だし、聞かなければならないことは山ほどある。けれど今の俺は、真波が帰ってきたという事実で舞い上がっていた。たとえその裏に血なまぐさい惨劇が息を潜めていたとしても、俺の腕の中に真波がいるという歓びに、心は震えるばかりだ。
「……冷えるから、ほら、奥いこう」
「うん……」
 虚ろな笑みで真波が頷く。俺の首筋に鼻先を埋めてすんすんと匂いを嗅ぎながら、何度も甘い声を上げて俺を煽っていた。じれったそうに太ももを擦り合わせながら、鼻にかかった甘い声を上げて快楽を求めている。
 この状態は三ヶ月に一度訪れる発情期とは違い、番を失ったオメガが発症する異常発情状態だ。契約を結んだ番を失ったことにより、オメガは心身のコントロールが難しくなる。酷い場合は無差別にベータやアルファを誘惑するフェロモンを発し続けて、常時発情した状態に陥ってしまうらしい。今の真波は間違いなくそれだろう。外に匂いが洩れていないか、これまでの道中無事だったのか、気が気でなかったが考え事は後回しだ。
 ふにゃふにゃになっている真波の腕を引いて、奥へと連れて行く。一人暮らしの狭いワンルームなので、廊下の扉を開けばすぐに居住空間に繋がる。書類やら洗濯物やら、食べ物のゴミや吸い殻の溜まった空き缶で埋まる床を強引に進んで、くしゃくしゃの狭いベッドに真波の体を横たわらせた。
「ひ、ろ……」
「だ、だいじょぶ……なんにもしないから……とりあえずほら、休もう?」
 真波が眠っているうちに少し頭を冷やして、これからのことを考えよう。そう思ってベッドから離れようとした矢先のことだった。強い力で裾を引かれて、バランスを崩したまま真波の上に倒れ込んだ。目を白黒させる俺の首に真波の腕が絡む。耳に唇が押し付けられ、熱い吐息と、甘く掠れた声が流し込まれた。
「ひろ……ほしい……」
「……だ、だめだってば……今の真波は……」
 正常な状態じゃない。口にしかけて、言葉を呑み込んだ。真波を引き剥がそうと体を起こすが、なぜだか絡みつく腕から逃げ出すことができない。相手は発情したオメガで俺よりも非力な存在なのに、それでも異様な拘束力で俺を絡め取った。自然と真波を組み敷く姿勢になり、火照った顔が嬉しそうに微笑むのが見えた。
「んふ……ひろ……だいすき……」
「あ゛ぁあッ、もうっ!」
 まるで後頭部を鈍器で殴られたようだ。視界が激しく揺れて理性が瓦解していく。甘い匂いが部屋に充満して、息をするだけで性欲が増していった。抱きたい。今すぐ抱きたい。めちゃくちゃにしたい。俺のものにしたい。孕ませたい。いっそ食い殺して腹の中に収めてしまいたい。俺はただのベータなのに、凶悪な衝動に襲われて理性を失いそうだった。
 震える手で真波の服を剥ぎ、その白い肌を露わにする。陽の光に殆ど当たっていなかったのだろう、俺が最後に見たのよりもずっと青白くなった皮膚には、無数の傷痕が刻まれていた。切り傷や打撲のほか、大小の火傷や縄の痕も目立ち、真新しいものから古いものまで多種多様だ。思わず息が詰まり、手が止まる。真波の濡れた瞳が俺を見上げて続きを促した。操られるように手を動かし、つんと尖った胸に触れる。最後に見たよりも大きくなった乳首には、翡翠色のピアスが嵌められていた。
「これ、あの人につけられちゃった……でもね、ヒロの目と、お揃いだよ」
 ピアスごと乳首をつまみあげると、真波の背が反って甘い悲鳴が上がった。悩ましげに眉根を寄せて、伏せられた瞼から涙が伝い落ちる。それは生理的なものなのだろうか。やめなければと頭では思っていたが、理性はもうほとんど崩れ落ちていた。
 もう片方の胸を口に含んで吸い上げる。真波の指が俺の髪をくしゃりとかき混ぜた。
「ぁ、んぅ……♡ あ、あのね、ぼく……番ができても、ずっと……んっ……ずっとヒロのこと、忘れなかったよ……ずっと……ずっとヒロのことだけ、かんがえてた……」
「真波……」
 舐っていた乳首から口を離して、ぽつぽつと話し始めた真波の言葉に耳を傾ける。真波の顔の横に手を置いて、鼻先が触れる距離で愛らしい顔を見つめた。辛抱できずキスしてしまったが、真波がまだ喋りたさそうにしているので一度だけで我慢する。真波は俺の頬に手を添えると、輪郭を確かめるようにしてそっと指先を滑らせた。
「運命の番なんて、バカみたいだよね。だって僕、番のこと愛せなかった。なにされても痛くて苦しかったの……こんな運命おかしいよね。番なんて、そんなのいらないんだ。ヒロ以外、なんにもいらないんだよ」
 真波の長い睫毛が上下に瞬く。ぽろぽろとこぼれていく雫がとても美しかった。やっと自分の手で運命を選んで、ここに戻ってこられた。そう泣きながら笑って、真波が俺にしがみつく。下半身を擦りつけられて、俺まで腰が揺れてしまった。もはや話している余裕もない。興奮のあまり震える手で真波のズボンと下着を脱がせると、虐待の痕跡がそこにまで及んでいるのが見えた。胸の奥が激しく痛みを訴え、汗が吹き出した。真波にこんな傷をつけた相手を殺してやりたいと思うが、もう死んでいるので二度は殺せない。
「ひろ……顔、こわい……」
「あ……ごめんな真波。大丈夫、大丈夫だから……」
 少し怯えた顔を見せる真波を優しく抱きしめて、あやすように顔中に唇を降らせる。最後に口を塞いで軽く舌を絡ませれば、真波は安心したようにふにゃりと笑って体の力を抜いた。
「お、俺も……この一年、ずっと……ずっと真波のことが忘れられなかった……」
 傷だらけの真波の下半身に手を伸ばし、濡れた割れ目に指を添える。ぐちょぐちょの中に指を潜り込ませると、熱く柔らかな肉に優しく包み込まれて、思わず腰が重くなった。すぐにでも突っ込んで揺さぶりたいと思ったが、ただでさえこの一年間暴力を振るわれていた真波に無理はさせられない。それに俺は、俺がただ気持ちよくなるのではなくて、ひたすら真波に優しくしたいのだ。俺がベータで良かったと、この時ばかりは思う。もしもアルファだったら、真波のフェロモンに当てられて乱暴に犯していたかもしれない。
「は、ぁっ……ひろぉ……♡ きもち……あっ、あ゛っ、あ゛ぁあッ♡♡」
「……っふー、ふっ……」
 中はもう十分すぎるくらいにほぐれているように思えた。薬指を追加して中を掻き回しながら、健気に震える小さなペニスも優しくくすぐる。尿道が刺激されるためか、真波が悶絶するように身をよじった。腰が持ち上がり、痙攣するように震える。中を探る指を三本にまで増やし、深く押し込んで少しざらついた箇所をぐりぐりと押す。しつこく同じところを強く刺激し続けていると、次第に真波の悲鳴が甲高く切羽詰ったものに変わっていった。
「あ゛、あ゛っ♡ ぁあ゛っ♡ らめっ、え゛っ♡ もれひゃう゛っ、はっ、ひッ、ひぃ゛♡ もれぇっ、ぁあ゛あっ、あ゛ぁああ゛あ~~っ!?!?♡♡」
 ぷしゃ、と水音が響いて、生暖かい液体が俺の手を汚した。ぴしゃぴしゃと噴出されたそれは無色透明で匂いもない。シーツに出来た水たまりを確認し、それから真波を見下ろす。潮吹きした衝撃からか、全身を小刻みに震わせて、ぽうっと呆けた顔で俺を見つめていた。
「はーっ♡ はぁ……っ♡ ひ、ひろぉ……♡」
「うん、うん、気持ちよかったなぁ、真波」
 濡れていないほうの手で頭を撫でると、真波が嬉しそうに目を細めて頷く。以前よりも潮をふくのが早くなったような気がしたが、考えないことにした。もう十分に柔らかくなった中から指を抜き取れば、名残惜しむように吸いつかれて生唾を呑み込んだ。ああ、もう駄目だ、無理だ。早くこの中に入りたい。慌てながらコンドームを探すべく引き出しを漁っていると、突然真波に引き倒されてしまった。
「あ、ちょっ」
「もう、がまんできない……はやく……」
「待って! す、すぐゴム探すから……っ!」
 いや、そもそも、ゴムなんてあっただろうか? 最後にセックスしたのは真波と別れる前だ。つまりは引っ越す数か月前で。引っ越し準備のときにゴムをどうしたのかなんて、覚えているはずもない。
「あ……やべ……」
「ひろ……いいから……」
 甘い香りが強くなる。雄を誘う雌のフェロモンだ。早く俺に食われたい、抱かれたい、犯されたいと、真波の全身が言っている。
「はやくちょぉらい……?」
「……っくそ!」
 もう限界だった。真波の腰を抱いて、生のままで一気に挿入する。もっと相手を気遣った優しいセックスをするつもりだったが、俺の暴走した下半身はすぐさま真波の子宮を目指して突き進んでいった。
「あ゛ぁああ~~っ!!♡♡ ぁあ゛っ♡ あっん、ぁっ♡ ひろぉ♡ あ゛♡ ひっ、きもひぃっ、きもち……♡♡」
「っはー、はぁっ……っまな、み……」
 真波の中はとろとろに蕩けていて、俺を包み込んで離そうとしなかった。少しでも腰を引けば名残惜しむように肉が追い縋ってきて、奥まで突き立てれば、子宮が精子を求めて降りているのが分かる。発情しているオメガと避妊せずセックスなんてしたら危険なのに、それでも俺の腰は止まらなかった。
「かわいい……まなみ、すき、まなみぃ……」
「ん、んっ、ぼくもぉっ♡ ぁ゛♡ ひ、ひろの、あかちゃんはらみたい……♡」
「あ゛ぁぁーーッ!! くそぉッ!!」
 自制も効かず、真波の腹が破けるんじゃないかと思うほど強く揺さぶる。降りてきた子宮口にこんこんと亀頭が触れるのが心地いい。真波もそれが嬉しいのか、女みたく甲高い声を上げて泣き喘いだ。
「ひぃいぃっ!!!♡♡♡ あ゛ぁ♡ ぁあ゛っ♡♡ っ、きもち♡ ひ、ひろのが、ぼくのしきゅー♡ ゴリゴリってぇ♡ う、うれし……っ♡」
「おま……煽りすぎだろッ!」
 真波が髪を振り乱し、だってだってとぐずる。本当に気持ちいいからもうだめ。気持ちよくて幸せで死んでしまいそう。喘ぎながら吐き出される言葉に俺自身も弾けそうになる。真波の中はぐしょぐしょに濡れていて、突けば突くほど喜んで震え上がっていた。
「ひにゃぁあっ……!?♡ ぁあ゛っ♡ やっ♡ もぉっ、ぁ゛♡ あ♡ そこりゃめぇえ゛っ♡♡ あ゛ぁっ♡ あ、あっ♡ ぁあ゛あっ!!♡♡」
 子宮口に亀頭を嵌めて、ぐちぐちと執拗に突き上げる。逃げを打つ腰を抑え込んで、隙間なく打ち込んで奥まで犯した。真波の泣き声が心地いい。気持ちいい、だめ、むり、こんなのこわれちゃう、そう泣きじゃくる真波に、俺もどうしようもなく興奮していた。
「ひぐっ、ひっ、きもひ♡ あひっ、も、ぁ、あ゛~っ♡♡ おかしくっ、なりゅう~~っ♡♡」
「ハハッ、おかしくなれよ、なあ、子宮いじめられてイきまくるの、好きだろ?」
 泣きながら真波が頷いて腰を揺する。その姿がまた俺を煽って、噛みつく勢いで唇を塞ぐ。深く舌を絡ませあいながら、真波を潰す勢いで伸し掛かって腰を振りたくった。苦し気に呻く声がしても止められない。真波をめちゃくちゃに犯したい、ただそれだけの気持ちに突き動かされていた。しこった性感帯も、奥の子宮口もまとめて何度も激しく犯す。真波が気をやるたびに軽く頬を叩き、意識を無理やり連れ戻しては行為を繰り返した。
「はひっ……ひっ……♡ ひぃっ……♡ ぁ、や、ひっぐ……うぅっ……ひっ……ひ、っく、ひっ……えぐっ……」
「え、まなみ……?」
 ふと真波の様子がおかしいことに気づいて、慌てて律動を緩めた。急に頭が冷静になってひどく狼狽える。もしかして本当に痛かったのだろうか。優しく気持ちよくしてやろうと決めたはずがなんて愚かなんだ俺は。アルファでもないのに、強烈すぎるフェロモンにあてられて暴走してしまうなんて最悪だ。
「あっ……ごめん……やめる? 休憩する?」
 頭を撫でながら尋ねると、真波はゆるゆると首を左右に振って否定した。
「ちが……ちがう……」
「じゃあどしたんだよ? 嫌なこととか、不満とか、あるなら言って」
「ん……ちがう……ちがうんだ……」
 顔を両手で覆い、ついに真波がしゃくりあげて泣き始める。たとえセックスの最中でも真波が泣くのは珍しかった。俺はそんな真波に狼狽し、腰の動きは止めたものの、息子は立派に勃起したままだ。正直なところ、真波の涙にも興奮していた。俺はどうしようもない男だ。
「ごめ、ひろ……ごめん……」
「ど、どしたの?」
「ぼくね……」
 人、殺した。
 そう吐き出された言葉に、俺は心臓が潰れそうな気持ちになった。真波がこんなにも傷つく前に、俺があの男を殺すことができたらよかったのに。けどそんなことを今更悔やんでもどうにもならないから、今はただ、目の前で泣く真波をめいっぱい愛することだけ考えたい。
「泣くなよ真波……大丈夫だから、な? 続き、してもいい?」
「ん、ぐっ……い、ぃよ……っふぅ゛♡」
 口にかぶりついて舌を吸いながら、腰を掴んで奥を激しく突き上げる。奥に亀頭を押し付けてぐりぐりと刺激すれば、腰に脚が回されて強くホールドされた。俺自身からはこれでもかというほど先走りも溢れていて、多少の精子もそこに混ざっていることだろう。これからなんとか耐えて外に出したとしても、俺の精子はもう真波の卵子を目指している。
「……め、ごめ、ね……ごめん……っ」
「もう……どうしたんだよ、真波ぃ」
 奥をくちくちと亀頭で捏ね回していると、またも真波が泣きながら謝りだした。この情緒不安定も番を失った後遺症の一つだろうが、俺の腕の中で泣いていると、俺のせいで不安定になっているようで辛くなるのと同時に嬉しくも思ってしまう。奥を嬲るのはそのままで瞼に口付けると、真波は泣き腫らして赤くなった目元からまた大粒の涙をこぼした。
「ほかのやつと、エッチ、しちゃった……ご、ごめん、ね……」
「ふは……いいよ。これからはもう、俺としかしないんでしょ?」
「うん……」
 次から次へと溢れていく真波の涙に、本当なら律動を止めて慰めるべきだと分かっていたが、俺はがつがつと腰を打ち付けて真波を貪った。真波もそう願っているように思えたのだ。一年前よりずっと痩せた体を押さえつけて、太ももが胸に付くほど体を折り曲げる。奥に亀頭を押しつけて優しく突いてやると、真波は気持ちよさそうに蕩けた笑みを浮かべた。
「心配しないでいいよ……ここ、好きだよね?」
「ぁ、あ゛♡ すき、しゅきぃ……♡ やさしく、くちゅくちゅされるのも、ごつごつってされるのも……♡ す、すきぃ……♡♡」
 少し焦らすくらいの弱さで中を捏ね回す。浮いた腰がかくかく揺れるのが可愛かった。投げ出された手足は小刻みにびくついていて、体の隅々にまで快感が走り抜けている様子が分かる。
「真波ぃ……子宮で俺のことぎゅってしてんの……すげーエロい、かわいい……」
「は、ぁっ……♡ おれも、うれし……あ゛♡ ぅ♡ ひ、ひろ♡ ひろのちんぽでぇ♡ あかちゃんのへや、こりこりって……♡ うれし……♡♡」
 ぐちゅんと子宮口を亀頭で強く突き上げると、真波の体が跳ね上がって中を激しく締め付けられた。無意識に逃げようとする腰を掴んで、容赦なく腰を叩きつけ追い詰めていく。先程の一撃で達したことは分かったが、それでも責め苦をやめることはない。はひはひと息も絶え絶えになりながら、それでも快楽に染まりきっただらしない顔を晒す真波に、俺の興奮はいよいよ限界まで増していった。
「ぁっあっ♡ あ゛ぁあっ♡ い゛っ、いってぅ♡ ひぃ゛っ♡ いってうのぉっ!!♡ ひゃっ、んっ、あ゛♡ んんっ、あっ♡ あ゛っ、あ゛~~っ!!♡♡」
「っは、はーっ、まなみ、まなみぃ……」
 子宮口に亀頭を押し付けたまま、びゅるびゅると精子を注ぎ込む。自分でも引くほど大量に出た。真波は肉の落ちた自分の腹に手を這わせると、濡れそぼり火照った顔のままうっとりと微笑んだ。
「ひろの赤ちゃん……はらん、じゃったかな……」
「……ッまなみ!」
 堪え性のない俺自身がまたも勃ち上がってしまう。中の質量が増したことで、真波も小さく喘いで腰を揺らした。たっぷり中出ししたことで、結合部から白濁した体液がこぼれている。手を伸ばされて即座に抱きすくめた。甘い匂いはまた強くなっている。雄を誘う雌の香りだ。理性を溶かして、凶悪な欲望を引きずり出す、危険な媚薬だ。
「ずっと、一緒にいてね……ひろ……はなればなれは、イヤ、だよ……」
「……っ当たり前だろ!」
 思わず強い声が出てしまい、びくりと真波の肩が震えた。安心させるように抱きしめたまま、優しく頭を撫でる。焦れたように真波が腰を揺すり始めたので、奥に入ったまま、あくまでも快感だけを引き出すようにそっと突き上げた。
「俺は、真波が傷つくことは、絶対にしない……俺は……」
「しってるよ……だってひろは、ぼくの……ぁっ♡」
 優しく小刻みに奥を突いて、何度も真波を甘イキさせる。そのたび中が締め付けられて俺も絶頂へと連れて行かれた。真波と同じだけ達するのはさすがに無理だったが、中がどろどろになって、精液が溢れるほど注いで、真波の腹はわずかに膨れていた。それこそ、まるで孕んだみたいだ。自然と俺の口元も緩んだ。
「っはー、はっ、はぁーっ、まなみ、好き、まなみぃ、好きだ、好き……!」
「ぁ゛♡ ん、んっ……ひろ……♡ ひっ、ぁ、すきぃ♡ ぼくも♡ しゅき、ぁ゛、あんっ、あ゛っ……!?」
 蕩けきった顔で真波が舌足らずに俺を強請る。身体の隅から隅まで全部繋がって、少しも離れたくないと思った。だらしなく突き出された舌に噛みついて吸い上げて、甘く感じる唾液を啜る。真波の体力のことさえ、途中から考えられなくなっていた。
「はひっ、ひぃ゛っ!?? れひゃう゛う゛ぅっ、だめらのれひゃ、あ゛ぅっ、ひっ♡ ひぃっ♡ ぁあ゛っ!?♡♡」
 ポルチオをしつこく叩きながら、真波の下腹を手で押し込む。ごりごりと中を貫く異物の感触が伝わると同時に、真波が半狂乱になったように暴れ始めた。だめ、でちゃう、もれちゃう、ひんひん泣きじゃくりながら身を捩る真波に興奮が倍増し、構わず腹を押し込んで奥を抉った。
「ひぁあ゛ぁあ゛あ゛~~っ!?♡♡ あぁあ゛あっ……ぁあ゛……あ……あっ……ぁ゛……?」
 先程の潮とは違う、黄色く色づいた液体が弧を描いて噴射される。腹とシーツに水たまりを作っていくそれを眺め、俺はまた真波の中に射精していた。独特のアンモニア臭さえ甘いフェロモンを纏っていて、萎えるどころか更に煽られて止まれなくなる。
「かわいい……真波、気持ちよすぎて、おしっこ漏らしたんだね……」
「も、もう、いけないよぉ……♡ もうだめ、だめ、ぇ……♡♡」
 もう無理だと泣き喚く真波を押さえつけて、強引に腰を叩きつけた。駄目だなんだと言いながら真波の中は俺を甘く優しく締め付けて、奥を貫き種をつけるのを強請っていた。何発出しても収まりそうにないだなんて、恐ろしい性欲だ。薬で守られていないむき出しのフェロモンが、こんなにも強烈だとは知らなかった。
「は、はふっ、もぉ、ぁ、んっ……も、もぉ、むりぃ……こあれりゅ……♡」
「ん……すこし休む……?」
 奥に突き刺していた性器を抜き取り、真波を抱きしめて息を整える。重なり合った肌から相手の体温と鼓動が伝わり安心した。真波も少しずつ呼吸が落ち着いていき、甘えるように俺に擦り寄ってきた。俺の性器はまだガチガチに固くなったままだ。思わず腰を擦りつけてしまいそうになるが、ギリギリの理性で耐える。
「はあ……まなみ……まなみの匂い、いいなぁ……」
「ん……」
 真波を抱きしめていると、愛しさと幸せが溢れ出して泣きそうな気持ちになった。頭を撫でながら身元で囁けば、真波から甘く掠れた吐息が聞こえた。
「真波はすごいよ。運命があんなんでもさ……自分の手で、自分の本当に大切なものを選んだから……」
「う……んぅ……」
 そのために人を殺したとしても、それでも真波が俺を選んでくれたという事実が嬉しい。だから構わない。真波以外の命なんて、なんの価値もないのだから。
「真波が俺のとこ戻ってきてくれて嬉しい。また真波を抱けて嬉しい。ねえ、大好きだよ、真波。真波を奪ったあの野郎、本当は俺が殺してやりたかった。それくらい失ってつらかったんだ。だから本当にうれしい。ねえ真波? 俺、真波が好き。真波のことだけ好き。愛してる。ホントどうにかなりそうなくらい愛してる。俺の世界には真波だけいればいい。他の何もいらないよ。好き。あいしてる。なあ、真波……」
「ぁ……ッ♡♡」
 溢れ出る激情を、そのまま耳元で吐き出す。すると何故か真波の体がびくびくと跳ね上がったあと、脱力してシーツに沈み込んでいった。その反応を見て、何が起きたのかなんとなく理解する。
「え、真波もしかして……今のでイった?」
「あ……うぅ……ひろぉ……♡」
 俺は何もしていない。ただ喋っていただけだ。抱きしめてはいたけど性器には触れていないし、いやらしいことも言っていない。それなのに真波は、俺の言葉に感じて達したのだ。そのあまりの愛しい反応に、また気が狂いそうだった。
「ははっ……最高……!」
 もう一度奥までぶち込んで、激しい律動を再開する。生き物みたいにうねった内壁に招かれて、どれだけ俺を好きなんだお前の体は、と変な悪態まで吐きそうになった。真波はもはや意識も朦朧としていて、嬌声もどこか虚ろだ。それでも俺は止まらなかった。
 蕩けた瞳と見つめ合う。少し伏せられた長いまつげが濡れていた。ぽろりとこぼれた雫を舐め取ると、不思議なほど濃密な甘さを感じた。頭がくらくらする。愛しさが精神を蝕んでいくとはこういうことかと思った。
 このままセックスし続けて死んでしまうかもしれない。でもそれはそれで幸せだよなあ。暴走した頭が、そんな馬鹿げたことを考えていた。
 

 いい加減、職場に連絡くらいはしないといけない。そう思ってスマートフォンを手にしたとき、隣から小さくむずかるような声がした。朝日が眩しいのか、真波が窓に背を向けるように寝返りを打っている。なんだか可哀相に思って、開けていたカーテンをしっかりと閉ざした。
 番を殺して逃げてきた真波を家に招き入れたのが昨日の朝のこと。仕事を無断欠勤した俺は真波を抱き潰し、それ以降も何度か目を覚ました真波を繰り返し抱いて、ほとんどベッドから出ないまま一日を過ごした。やりすぎた自覚はある。ぐったりした真波を見ると罪悪感も覚えたが、それを上回る性欲に襲われるので、もはや制御のしようがなかった。
 深い眠りに落ちている真波に近づき、汗ばんだ額に手を置く。張り付いた前髪をかきあげると、悪い夢でも見ているようで苦悶の表情を浮かべ魘されていた。スマートフォンは枕元に置いて、真波の体を優しく抱きしめる。背中に手を回して擦ってやれば、ようやく悪夢から開放されたのか安らかな寝息が聞こえ始めた。
 胸に真波の頭を抱き寄せ、起こさないようにスマートフォンを操作する。SNSを立ち上げてみると、真波の話題がトレンドに上がっていた。名前で検索して出てきたニュース記事に目を通す。『殺人容疑で指名手配』……ついにここまで来てしまった。番を殺したオメガの末路に人々は興味をそそられているようだが、野次馬連中はあくまでも娯楽感覚である。他人の不幸は蜜の味だ。
「……よし」
 決意を固め、ベッドをそっと抜け出す。クローゼットからスーツケースを取り出したところで、目を覚ましたらしい真波に名前を呼ばれた。適当な衣服や食料、金銭などを詰め込みながら、なるべく優しい声でおはようと返す。まだ寝ててもいいと言いかけたところで、部屋の呼び鈴が鳴った。
 心臓が凍りつく。真波も何か感じ取ったようで、布団に包まったまま硬直していた。
「……クローゼットに隠れて」
「わ、わかった……」
 そっと足音を殺して扉に近づく。上司かもしれない、と思いモニターを確認したが、やはり望まぬ客人だったようだ。スーツ姿の男性が二人、硬い表情で立っている。
 溜息すら出ない。生唾を飲み込んで、モニターを切った。背後からはなぜか部屋を行き来する真波の足音が聞こえて少し苛立った。早く隠れろよ。しばらく深呼吸してから振り返り、真波がやっと隠れたことを確認する。心を落ちつけ、扉を少しだけ開けた。
「はい……なんでしょうか」
「おはようございます。突然すみませんねぇ。お伺いしたいことがありまして、少しだけお時間よろしいでしょうか」
 そういって見せられた警察手帳に、自然と顔がこわばりそうになる。ひとりは黒髪を後ろに撫でつけた大柄の男で、三十代後半くらいだろうか。柔和そうな笑みを浮かべているが、だからこそ探られているようで恐ろしかった。もうひとりも同じ黒髪だが、前者よりは小柄で見るからに若そうだ。突き刺さるほど鋭い視線をこちらに向けている。
「構いませんが、仕事の時間があるので手短にお願いします」
「ええ、もちろんです。すみませんね、お忙しいところ」
 中に入られないよう、玄関に立ったまま対応する。明らかに警戒している様子が伝わっているのではないかと心配になった。男はあくまでも穏やかな口調だが、俺を油断させるための演技にしか見えなくて緊張が高まる。
「冬海真波さんの行方を追っているのですが、見かけたり、連絡を受け取ったりしていないかな、と思いまして」
「あいにくですが、あいつとは一年前から連絡すら取っていません」
「そうですか……」
 オールバックの男が、柔和な笑みを浮かべたまま同情の顔を見せる。今回の事件はとても残念でしたね、お友達のこともご心配でしょう、そう声を掛けられるがどうしても白々しく聞こえてしまった。
「あの、確か幼馴染でしたよね? ずっと同居もしていたって。それなのにこんな疎遠になってしまうんですか?」
 口を挟んだのは若い方の刑事だ。もう一人とは違って、取り繕いもせず疑いの目を俺に向けている。
「まあ、あいつはオメガですし、そういうものなんですよ」
 男の視線が部屋の奥に向かう。背筋を嫌な汗が伝った。
「……オメガにとって、ベータの幼馴染なんかよりも、運命のアルファのほうがよっぽど強いんです。あいつに番が出来た時点で、俺はもうただの他人なんですよ」
「それは違う!」
 若い刑事が突然、食い気味に大きな声を上げる。まだ二十代前半といったところだろうか。新人なのだろう。若さゆえの暑苦しさを感じて、思わず眉根を寄せた。
「オメガとかベータとか、性別とか、立場とか、友情にそんなもの関係ないじゃないですか! たとえ番が出来たって、大切な友達は……」
「あなたになにが分かるんですか?」
 意図せず冷めた声が出た。若い男はそんな俺にも構わず、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「番を失ったオメガの死亡率が高いことは知ってますよね? いちばん多いのは、自殺です。間違いが起きる前に絶対に見つけたいんです。ねえ、あなた本当は春海さんの行方知ってるんでしょう?」
 食ってかかろうとする彼を、隣の男性が苦い顔で止めようとする。しかし興奮した若手刑事は先輩まで振り払うと、靴を脱いで強引に上がりこんできた。慌てて引き留めようとするが、諦めたのか腹をくくったのかもう一人もリビングまで侵入していく。
「ちょ、ちょっと! 勝手に上がるなよ!」
「すみませんね……あいつ、まだ若くて常識を知らないんだ」
 あろうことかクローゼットの前に立った二人を見て、目の前が真っ赤に染まった。若いほうの男が取っ手を掴む。視界がぐるりと回って、ふと、ローテーブルの灰皿が目に入った。年配のほうが何かに気づいて声を荒げる。手にした灰皿は何故だか存在を感じないほど軽かった。
「やめろッ!!」
 叫んだのが誰だったのか分からない。体当たりを受けて体が地面に叩きつけられる。灰皿が床に転がったのと同時に、クローゼットが勢いよく開いた。頭の中が真っ白になる。取り押さえられているせいで身動きが取れない。視線だけをクローゼットに向けた。かろうじて、真波の頭が見える。俯いていて表情が見えない。しかしなぜか若い刑事の姿がない。ぐるりと見渡し、ようやく、真波の足元で膝をつく人影を見つけた。誰かの怒声が聞こえる。体の拘束が急に外れた。ぶれる視界で真波を見る。白く美しい頬に赤いなにかが飛び散っていた。
「真波! 逃げろッ!」
 真波に向かい駆け出した人影を見て叫ぶ。しかし自失した真波の耳には届いていないのか、それとも動けないのか、ただ真波の手から包丁が滑り落ちただけだった。咄嗟に転がっていた灰皿を掴む。男が真波の腕を捻り上げた。銀色の何かを取り出すのが見える。それが真波の手首を犯す前に、灰皿を渾身の力で振り上げた。
 

「救急車を二台お願いします。一人は腹を刺されて、もう一人は頭を強く打って意識不明です。場所は……、……はい。よろしくおねがいします」
 通話を切り、スーツケースを手に玄関へ向かう。それぞれ目立たない服装に着替えを済ませ、俺はやぼったいダッフルコート、真波は地味なダウンコートを羽織ってフードを被り、外に出た。玄関を出るときんと冷え切った空気に出迎えられ、吐く息が白くなる。灰色の空からはひらひらと白い華が舞い落ちていた。初雪だ。かじかむ指先で、隣の手を握った。
「行こう、真波」
「ひろ……」
「振り返らなくていい」
 何か言いげな真波の手を引いて歩きだす。遠くに救急車のサイレンが聞こえた。真波が不安にならないよう、できるだけ優しく、そして強く手を握りしめる。
 他にも待機している警官がいるかもしれないと思ったが、何事もなくバスに乗り込むことができて、ひとまずほっと息を吐いた。車内には俺と真波しか乗客はいない。俺達は後部の座席まで進むと、窓際に真波、その隣に俺の順で並んで腰掛けた。どこか寂しげなバスの中に、ぽつんと俺達二人だけが座っている。窓から差し込む強い日差しが俺達を照らした。暖房の効いた車内はとても温かく、窓は曇りかけていた。
 やる気のないアナウンスのあと、車体がエンジンを唸らせ走り出す。求める者のいないつり革が虚ろに揺れていた。途中、救急車とすれ違った。あの二人が生きているのか死んでいるのか、もう興味もない。他人の命にこんなにも無関心になれるとは思わなかった。
「どうしてヒロは、僕と一緒に地獄を選んだの?」
 しばらく物思いに耽っていたら、ふいに真波が切り出した。窓の外を見ていたはずの真波は、俺を振り返り、目を細めている。下がった眉からは不安が、潤んだ瞳からは期待が滲んで見える気がした。
「何、急に」
「ヒロまで犯罪者になる必要、なかったでしょう」
 真波が静かに視線を落とす。バスはガタガタと揺れながら、大通りを静かに走行していった。かつて暮らしていた住宅街とは違って、工場や大型店舗などが所々に立ち並ぶ広い道路だ。次のバス停が読み上げられる。停車ボタンを押す客はもちろんいない。
「君は僕のこと、警察に突き出してもよかったんだ」
「馬鹿いうなよ」
 思わず笑ってしまった。俺がそんなことをするはずがないのは、真波だって分かっているはずだ。
「俺が選んだのは地獄なんかじゃない。どこへ行ったって、どんな道だって、真波さえいればそこは楽園なんだよ」
 少しだけ悪戯っぽく告げれば、真波の長い睫毛が上下に瞬く。それからくしゃりと泣き顔みたいな笑みが浮かんだ。かわいいなあ、なんて、いま言ったら怒られそうだけど。
「あのさ、ヒロ」
「うん?」
「ぼく、殺したの、一人だけじゃないんだ」
 真波の指先がそっと薄い腹に置かれる。それだけで何もかも察してしまって、喉の奥が詰まるような息苦しさを覚えた。
「ごめんね……」
 ぱたりと、真波の手に雫が落ちる。その上から自分の手を重ねて、細すぎる指を絡めとった。止まらない水滴が俺の手まで濡らしていく。今はなにも言うべきじゃないだろうから、せめて真波が凍えないよう体温を伝えることにした。
 無人のバス停を通り過ぎ、俺達だけを乗せたバスは進んでいく。終着の駅で降りたら、列車を使って出来る限りの遠くまで行こう。またいつ真波が発情してしまうかも分からないから、なるべく人のいるところは避けなければ。そうだ、海なんかもいいかもしれない。冬の海も、きらきらしていて綺麗なんだろう。
「俺たち、いつかどこかで一緒に死のう」
 真波は何も答えなかったが、かわりにそっと肩に頭を預けてきた。いつの間にか泣き止んでいたみたいで安心する。まだ少しだけ鼻を啜っているけれど、呼吸はいくぶんか落ち着いていた。
「それまでは、二人で生きていこう」
 絡ませ合った指先に力がこもる。真波がゆっくり頷き、柔らかい髪の毛が俺の頬をくすぐった。
 今、隣に真波がいて、繋いだ手が温かくて、これ以上の幸せなんて世界中のどこにもない。離れ離れになるのが運命だったなら、そんな運命なんて壊してしまえばいい。そして二人で手を取り合って、俺達だけの楽園を探しにいくんだ。
 たとえそこが海の底でも、二人ならきっと温かいから。

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