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7.「しょうがないじゃん、赤ちゃんなんだから」
しおりを挟むふと聞こえた砂利を踏む音に、足元を見つめていた少年がゆっくりと顔を上げる。年の頃は五つか六つ程度といったところだろうか。彼が振り向いた先には、十代半ば頃に見える青年が立っていた。派手な金色の髪とピアスが特徴的で、人好きしそうな明るい笑みを浮かべている。
「舞人くん、何見てるんすか?」
「くさってる」
といって舞人が指した足元にあったのは、腐敗しはじめたカラスの死骸だ。虫が集り悪臭を放つそれを、舞人はじいっと夢中で見つめていた。そんな舞人の隣に、金髪の青年、元輝がしゃがみ込む。
「珍しいっすね、カラスの死体なんて」
「はじめて見た。すげえくさい」
臭いに顔を顰めながらも、舞人は死骸を観察し続けていた。このあたりでカラスの死骸を見つけることは少ない。弱ったカラスは森林の奥深くでひっそり息絶えるか、市街地で死んだとしても共食いをしたり、すぐに死骸が撤去されたりする。こうしてはっきりと死骸を目にすることは確かに珍しい。
「舞人くんは死体見るのはじめてっすか?」
「うん」
舞人が近くに落ちていた木の棒を拾い、死骸を軽くつつく。ひしめき合うように集っていた虫が四方に飛び立ち、舞人はすぐに棒を投げ捨てた。
「うわっ」
「ばっちいんで触んないほうがいいっすよ」
飛び交う虫を払いながら立ち上がる舞人に、同じく立ち上がった元輝が手を伸ばす。背の高さに見合った大きな掌に、小さく柔らかい手が重ねられた。
「腹減ったんで帰りましょ」
「肉たべたい」
「焼き鳥でも買って帰ります?」
元輝の提案に舞人が嬉しそうに頷く。公園を立ち去ろうとしたところで、舞人はふと立ち止まり、死骸のあったところを振り返った。外灯も届かないその場所には西日すら差さず、薄闇に塗り潰され始めている。
「そういえば、よーすけいないね」
ふいに舞人が話題に上げたのは、数ヵ月前に滋賀組に所属したばかりの若い組員の名だ。舞人とは何度かボール遊びをしたことがあり、頻繁に顔を合わせていたが、ここ数日ぱたりと会わなくなった。内縁の妻と幼い娘がいると言っていた。主に雑用を任せられていた下っ端だ。舞人の相手もその一環だった。
「死にましたよ」
「しんだ?」
「はい。ぐるぐる巻きにされて海にポイッすね」
相変わらず死骸を見つめている舞人に構わず、手を引いたまま元輝が歩き出す。
「なんでしんだの?」
「さあ。殺せって言われたんで殺しただけっす」
不思議そうな顔をしている舞人に元輝が笑いかける。夕陽を背にしたその笑顔には、悪意もなければ善意もなかった。
「じゃあもう遊べない?」
「そうっすね」
「つまんねぇの」
舞人は少しむくれた顔をして、元輝に手を引かれるまま公園を出た。長く伸びた影が二人の背にぶら下がり、どこか不気味に揺らめいている。
「よーすけ、顔にボールぶつけてもおこんねぇから、おもしろかったのに」
「俺も怒んないっすよ?」
「元輝はよけるじゃん」
不満げな舞人の言葉に元輝がけらけらと笑う。赤く染まった彼らの頭上を数羽のカラスが飛び越していった。悠々自適に空を飛ぶ彼らは、土に還ろうとしている仲間のことなどまるで知らないようだった。
*
点滅を繰り返す街灯が、ビルから出てきた二人組を頼りなく照らしている。表通りから外れた狭い路地には、街灯の下で薄暗い影を落とす彼らしかいない。
二人は古ぼけた看板の前で立ち止まると、小柄な青年が軽く背を伸ばして中年の男に絡みついた。長めの髪を風に遊ばせる青年はまだ二十歳そこそこといったところで、対するくたびれたスーツを着込んだ男は彼よりも一回りは年上のようだ。
男は青年の腰を抱き寄せると、唇を奪って深く舌を絡ませる。口づけの合間に青年の甘い吐息が洩れ、彼の細長い指が男の薄い髪を乱した。彼らはしばらくそうして夢中に貪りあった後、唾液で濡れた唇を離した。
「ありがとう、さつきくん。次もよろしくね」
男が青年の頬を撫でてもう一度唇を重ねる。今度は触れるだけで離れていき、さつきと呼ばれた準夜が媚びた笑みを浮かべた。
「おじさんもありがとぉ」
そんな準夜に男は紙袋と封筒を渡し、人の目から隠れるようにしながら路地裏を出ていった。その背中が人ごみに消えていくのを見送ると、準夜の顔からすうっと笑みが消える。感情が抜け落ちた空虚な顔を、薄暗い街灯が不気味に照らしていた。
彼はブランドのロゴが印刷された紙袋を投げ捨てると、振り返りもせず表通りへと足を運ぶ。いくつもの靴がすれ違っていく地面を見つめながら、人の流れに乗ってゆっくりと歩いた。虚ろな視界に映るのは、雨上がりの湿ったアスファルトと、はりぼてのような高級品に包まれた足元だ。そのどれもが作り物めいていて、周りのすべてが薄皮一枚を隔てて存在しているように感じた。すれ違う人間も機械仕掛けの人形のようで、今動かしている自分の身体でさえ、まるで他人のもののようだ。
準夜はふと立ち止まると、手にしていた封筒を開ける。中身は数枚の皺ひとつない紙幣で、準夜は無表情のままそれを確認したあと、傍を通りがかった大学生らしき青年に押し付けた。
「あげる」
「え?」
足を止めることなく、困惑する相手を置いて立ち去る。背後から「うそだろ」と声が聞こえるが、準夜の耳には入っていなかった。
先を急ぐように追い越していく会社員や、談笑しながら歩く若者達の中でも、半ば足を引きずる準夜の歩みは特別に遅い。すれ違いざまに若い男と肩がぶつかり、頼りない体が大きくよろけた。傍にいた中年の女性が迷惑そうな視線を向けるが、すぐに興味をなくして立ち去っていく。支えをなくしたようにふらふらと歩く彼は、雑踏に紛れてしまえば誰の視界にも映らない幽霊だった。
大きなビルの前までやってきたところで、一台の高級車が路肩に寄って一時停止する。これまで地面に落とされていた準夜の視線がそちらに向けられ、後部座席の窓から顔を出した男を虚ろに見上げた。
「こんなところで何をしているんだい?」
「……かいものです」
仕立てのいいスーツに身を包んだその男は、垂れ目と柔和な雰囲気が準夜との血の繋がりを感じさせる。男に手招きされると、準夜は引き寄せられるようにして車へと歩み寄った。目の前に辿り着くと同時に、開いた扉から伸びた手に腕を掴まれる。そのまま引きずり込まれ、恰幅のいい体に抱き留められた。
「嘘は吐いちゃいけないよ。今日も遊んできたんだね?」
運転席との間には仕切りがあり、こちらの姿が向こうに見られることはない。それをいいことに、男の手は準夜の首筋から背中へとゆっくり辿ったあと、服の上から尻をやらしく撫で回した。
「お父さんは心配だよ。君は放し飼いの猫みたいだから」
「ごめんなさい」
抑揚のない声で準夜が謝ると、その息を奪うように男が口を塞いだ。舌を絡ませるというよりも、小さな口を文字通り貪るようだった。鼻にかかった吐息と水音が車内に響く中で、男に跨った腰が強く抱き寄せられる。逃げ道を奪うような拘束と、息継ぎする暇すら与えられない深い口づけに、準夜の身体から少しずつ力が抜けていった。
「ん、ぅ……ふっ、んン、んっ……」
しっかり躾けられた体は少しの抵抗もできず、細い腰が小さく揺れる。粘り気のある唾液が口の端から首筋へと垂れていき、服の襟を濡らした。
「ぁ、ん……んんっ、ぅ、ふっ……」
ろくに息すらできず頭がぼんやりとしてきたところで、ようやく唇が解放される。手入れの行き届いた彼の髪を節くれ立った指が愛しそうに優しく梳いた。
「お父さん今日は帰れないけど、ちゃんといい子にしているんだよ」
鳥肌が立つような猫なで声だ。しかし準夜は何の感情も宿らない空虚な顔で、されるがまま髪を弄ばれていた。
「家まで送っていくかい?」
「いいえ、だいじょうぶです」
再び深く口づけられて、強引に唾液を流し込むように口内を舐めまわされる。男の興奮した息遣いが車内に響き、準夜を乗せた腰が欲望を押し付けるように揺れた。男のそこはすっかり固くなっていて、入れる穴を探すように準夜の尻を押し上げていた。
「遊んできたなら怪我がないか確認しないといけないね」
男の指が準夜のベルトを外す。手早く下半身の衣服が取り払われ、男もいきりたった陰茎を晒した。男は荒い息をしながら準夜を跨らせ、されるがままの彼に自身を挿入して小刻みに揺さぶる。男に縋る準夜からは自然と上擦った声が洩れた。
「ぁ、……ッ、ん……」
窓から隠れるように男の肩へと顔を埋める。外には大勢の人々が行き交っていて、いつ誰に気づかれるかも分からない。はじめは普段よりも控えめな行為だったが、次第に腰の動きも激しくなり、嬌声を押し殺すのもつらくなっていった。
「ふっ、ぅ、ンんッ、んっ……!」
「はぁ……こんな場所なのに、いやらしいね、準夜……かわいいよ……」
自身の口元を押える指先に力が入る。先ほどまでの行為で出すものを出し切った性器は全く勃起しなかったが、内側から与えられる快感だけはしっかりと拾い、全身に甘い痺れが走った。
「気持ちいいかい、準夜……ほら、こっそりお父さんに教えてごらん」
「っあ、ふっ……き、きもちい、れす……っあ! ~~ッ!」
言うと同時に小さな悲鳴があがり、準夜の腰が小刻みに震える。くたりと力の抜けきった体を男の腕が強く抱き寄せ、奥を抉るように激しく揺さぶった。震えの止まらない体を、太い腕が押さえつけて欲望のまま犯す。
「ふーっ、ぅッ、うっ……!」
「駄目だろう、準夜。イくときはきちんと言わなきゃ」
「っぁ、あ、ごめ、らさ……っ、ぁっ、いく、いくのっ、またイっ……!」
低いうめき声と共に注がれた熱を受け入れながら、準夜の身体は小さく達し続ける。条件反射だった。自分の中を犯すこの熱に準夜は逆らえないし、そうなるように作り上げられた。出し切ったものを塗り付けるように小さく腰を動かされるだけでも、全身が震えて止まらない余韻の中で喘いだ。
「はーっ……はぁ……ぁ、あ……ぁ、んっ……」
咥えていたものがずるりと抜き取られ、それに対しても小さな嬌声が洩れる。短い行為で男は満足したのか、それとも時間を気にしたのか、中に出したものはそのままにして準夜に服を着せると、まだ呼吸の整っていない彼を車から降ろした。
「気を付けて帰るんだよ」
そうとだけ言って男が運転手に指示を出し、車は静かに去っていく。準夜は震える足で歩き出そうとしたが、耐え切れずその場に崩れ落ちた。いくつかの視線が準夜に向けられたが、そのどれもが一瞬で逸らされて立ち去っていく。
「あのぉ……大丈夫ですか……?」
しばらくそうしていると、若い女性が戸惑いながら準夜に声を掛けた。うつろに俯いていた準夜はゆっくりと顔を上げると、その女性に向かってへらりとした笑みを見せる。
「え~? ぜんぜん大丈夫じゃなーい。お姉さんがキスしてくれたら大丈夫になるかも~」
一瞬にして女性の表情が凍り付く。彼女は静かに後ずさると、逃げるようにその場を去っていった。
「人を殺した気分はどうだった?」
どこからともなく聞こえた声に、準夜は虚ろな顔を上げる。彼一人しかいないリビングは薄暗く、マグカップを包んだ指先に淡い月明かりが落ちていた。
「そういえば、直接殺したのははじめてだよね」
向かいの椅子に腰かけて笑みを浮かべているのは自分自身だった。姿形も声も表情もしぐさも全てが栗栖準夜という男と同一だ。目の前にもう一人の自分がいても、準夜が驚くことはなかった。ただ虚ろな視線をそちらに向けて、感情のない声を上げる。
「そんなこと聞かれても困るよ。殺したから死んだだけ」
「どうでもいい人を殺しちゃったよね。はじめてがアレでよかったの?」
「そんな特別みたいな言い方しないでよ。人殺しなんて世の中にありふれてるんだから」
目の前の自分が笑みを深くする。それをぼんやりと眺める準夜の手の中では、ホットミルクが静かに湯気を立てていた。
「本当はもっと殺したい相手がいるくせに、あんなので満足しちゃうんだ。自分のことながら情けないっていうか恥ずかしいっていうか……折角ならもっと、ハジメテを捧げるのにふさわしい相手がいると思うんだよね。つまんないでしょ? あんな殺人。木に死体をぶら下げるのも正直センスなさすぎっていうか、あんなのじゃ偽装にもならないし、芸術にもならないよね。何がしたかったの?」
「知らないよ。決めたのは舞人くんだもん」
「そうやって全部他人のせいにして生きていくんだ。今までもこれからもずっと」
「僕が悪かったの?」
「殺したのは君だよ。それに……」
嘲笑の混じった言葉の続きを、無機質な機械音が遮った。ハッとして準夜が顔を上げると、そこには人影などひとつもなく、ただテーブルの上でスマートフォンが震えているだけだった。表示を確認すると、よく見慣れた名前が浮かんでいる。準夜はひとつ、深く息をついたあと、画面を指でなぞって応答した。
「もしもーし。舞人くん?」
応答するなり聞こえたのは、ほとんど呂律の回っていない声だ。告げられた店名は準夜にも覚えのある場所で、舞人の顔なじみが経営している飲食店だ。
「え、来いってこと?」
たったそれだけで電話は切られてしまい、準夜は深々とため息を吐いた。
仕方なくタクシーを呼んで店を訪れると、準夜を出迎えたのは従業員の若い女だった。女は準夜の顔を見るなり呆れたように肩を竦めると、すでに営業を終えた店内へと案内する。
「ごめんね~舞人くんがいつも迷惑かけて」
「べつに? あたし達もう帰るから関係ないし」
女はそう言って店の奥を指すと、「そこで寝てるからあとよろしく」といって踵を返した。言われた通りの席へやって来れば、確かにそこにはソファーで眠りこけている舞人の姿がある。テーブルには無数の酒の残骸があり、数人の男女がせっせと後片付けをしていた。
「あちゃあ、どんだけ飲んだの? それともキメすぎ?」
「今日はそんなにかな。酒は飲んだけど薬はしてなかったと思うよ」
「え、めずらしー」
舞人の傍に腰かけると、きついアルコール臭が漂ってきた。酔ってもあまり顔色の変わらない舞人だが、今日はいつになく赤らんだ顔をしていて、手本のような酔っぱらいの姿になっている。
「も~、僕を呼んでも送っていけないよ?」
呆れながら首筋に手を当てると、想像以上の熱さを感じて驚いて手を引いた。もう一度、今度は額に手を当ててみると、やはり確かな熱を感じる。舞人は平時から体温が高めだが、それにしても異様な熱さだった。
「うわあ、明らかに病人じゃん。よく飲ませたよね」
「断って殴られたくないもん」
「それは確かに」
女が持ってきた濡れタオルで舞人の額を優しくぬぐう。ついでに水もくれたその女に礼を言い、スマートフォンのメッセージアプリを開いた。直近でやりとりのあったリストの中から元輝のトークルームを選び、試しに一通だけメッセージを送ってみる。しかし数分待っても返事もなければ既読もつかない。仕方なく通話をかけると、数回のコール音のあと低く掠れた声が聞こえてきた。
『もしもぉし、どしたっすか』
「ごめんね、寝てたよねぇ。迎えにきてあげて」
『もしかして舞人くんっすか?』
眠そうな声と一緒に、ごそごそと着替える音が聞こえる。そうだよと答えて店名を告げると、すぐに行くと返答があったあと通話が切れた。
無音になったスマートフォンをポケットに戻し、寝息を立てる舞人を見下ろす。熱が上がってきているのか、それとも悪い夢でも見ているのか、先ほどよりも苦しげな顔をしていた。額に当てたタオルもすっかり温くなっていて、近くにいた女に声をかけ、新しいものを頼んだ。
「わぁ、死にそ~。あはは」
情事中を思わせるような悩ましげな顔だった。思わず笑ってしまいながら、右手で無意識に自分の唇をなぞる。寝る前に塗ったリップクリームの甘い香りがふわりと漂った。
「僕達、いつ死ぬんだろうね」
もう片手で汗ばんだ舞人の髪を梳きながら、ぼんやりと口を開く。新しいタオルを持ってきた女は気まずそうな顔で目を逸らし、そそくさと立ち去っていった。一体どうしたのかと思って舞人の姿を確認すれば、眠っているのにも関わらず下半身だけ元気になっているのが見えて、準夜は思わず噴き出した。
「あら~そっちは元気~」
しばらくして元輝が到着すると、彼はへらへら笑いながら準夜に頭を下げ、舞人を抱き上げた。少し離れたところで見守っていた店員の女が呆れたようなため息を吐く。
「ほんとすんません~。ほら舞人くん帰るっすよ」
元輝に呼びかけられても、舞人はむにゃむにゃと寝言をいうだけだ。舞人を担いだ元輝が困り果てながら店の人間に声をかける。準夜も彼らに続いて外に出て、当然のように元輝の車に乗り込んだ。
「もー舞人くん、なんで寝ててくれないんすかぁ……」
「しょうがないじゃん、赤ちゃんなんだから」
「俺まで明音ちゃんにシバかれるんすけど~……」
元輝が車を出し、先に準夜の家のほうへ向かう。しばらく心地よい振動に揺られていると、一瞬だけ舞人が目を覚ました。寝ぼけた目で準夜を見たかと思うと、唐突に握りしめた拳を振り上げる。
「あう゛っ!」
すぐに鈍い衝撃が頬に走り、殴られた箇所に手を当てる。殴られるようなことはしていないので、本当にただ寝ぼけていただけだろう。そんなことで殴られるなんて理不尽もいいところだが、それを非難しようにも舞人は再び眠りの底に沈んでいた。
「も~……赤ちゃんより厄介だよ」
頬を擦っていた手を離し、舞人の鼻先に触れる。軽くつついてから、指を滑らせ、しっとりとした頬を撫でる。熱を出しているせいか、それとも酒のせいか、肌は汗ばんでいて普段以上に柔らかかった。そんな大きな赤ん坊を眺めつつ、身体の力を抜いてシートに沈み込む。お互いに寄りかかる体勢になり、準夜もゆっくりと目を閉じた。急激な睡魔に襲われて、意識が遠のいていく。車内に流れる音楽も、外からの雑踏も小さくなっていった。
「弁明を聞かせてくれるかしら?」
翌日、準夜が舞人の部屋を訪れると、そこには青筋を当てて微笑む明音と、壁に寄りかかってうたたねしている元輝、そしてだらだらと冷や汗を流して黙りこくる舞人の姿があった。ベッドに力なく横たわり視線を彷徨わせる舞人は、ここしばらくで一番弱っているように思う。これは面白いものが見られそうだと、準夜は黙って近くの椅子に腰かけることにした。
「……つまんねえんだもん、だっ……げほげほげほッ! っひゅ、げふっ、おぇっ……!」
話の途中で激しく咳込む舞人に、明音はますます呆れたように天を仰いだ。苦しそうに丸まった背中を優しくさすって、諭すように声を掛ける。
「つまらないで身体を壊したら元も子もないわよね?」
「けほっ……うっせぇババア」
「あらあらこんな悪いお口からはお薬も飲めないかもしれないわね、点滴だって抜いてしまうだろうしやっぱりお尻から……」
畳みかける明音の言葉に舞人が青ざめ、ぶんぶんと激しく首を左右に振る。そして「飲める!」と聞いたこともないくらい素直な返事をして、明音の手から薬をふんだくった。
「そうよねえ。子供じゃないんだから飲めるわよね」
「飲めるつってんだろバーカ!」
勢いのまま錠剤を口に放り投げて、ペットボトルの水をぐびぐびと飲み干していく。舞人がちゃんと水を飲んでいるところもかなり久しぶりに見た気がする。水はまずいから嫌だの、酒じゃないと飲みたくないだの、いつもの我儘はなりを潜めているようだ。
「くっそ……げふっげふ……っあ゛ーーさいあく……ン゛ンッ」
「お医者さんの言うことはちゃんと聞かなきゃだめだよー」
茶々を入れる準夜に飲みかけのペットボトルが投げつけられる。思い切り額にヒットしたが、中身も少なかったのでそれほど痛くはなかった。
「準夜だって聞かないくせに」
「僕は結構ちゃんと聞いてるよ。ねー明音ちゃん」
気安くそう問いかければ、明音は腰に手を当て深々とため息をついた。
「そうねえ。私の目の前だけではね? 隠れていけないことしているみたいだけれど」
「あちゃーバレてら」
「当たり前よ。じゃないとあなた達の身体、そんなふうになってない」
明音の表情が陰る。その視線はまっすぐ舞人に落とされていた。その舞人はというと、頭から布団を被って引きこもっており、眠っているのかどうかも分からない。
「舞人くんのは真菌が由来の肺炎ね。これは免疫がちゃんと働いてる人なら簡単にかからないの。あなた達ふたりとも、よく体調崩すわよね?」
「そうだね。病気なんでしょ、僕たち」
明音は苦しむように細く息を吐き出すと、準夜を振り返り頷いた。彼女の唇が「それ」を告げる前に、部屋の隅からゴトリと鈍い音がする。
「いってぇ~~!」
「え? 元輝くん大丈夫?」
「あらあら……」
音のほうに目を向ければ、大きな体を丸めて頭を抱える元輝の姿があった。どうやらうとうとしている内に姿勢を崩してぶつけたらしい。張りつめていたはずの空気が一気に緩んで、明音も準夜も苦笑を洩らした。唯一、布団の中にいる舞人だけが無言だ。
「しょうがないわねぇ……ちょっと見せてちょうだい」
「すごい音したもんね。たんこぶ出来てるんじゃない?」
身もだえる元輝の頭を明音が丁寧にチェックしていく。大きな傷はないので大丈夫そうだが、もし身体の異変があったらすぐ言うようにと元輝に釘を刺した。よほど痛かったのか元輝は少し涙目だ。彼は舞人とは違って素直なので、きっとまた不具合があれば迷わず明音を頼るだろう。
「……本当はね、表の病院へ行って治療を受けてほしいの」
元輝の怪我を見終えた明音が準夜に向き直る。長い睫毛に縁どられた瞳には、深い悲しみの色が滲んでいた。
「でもあなた達は、私の言うことなんて聞いてくれないでしょう?」
「そうだね。舞人くん次第かな」
「……あはは。そんなのもう、無理じゃないの」
乾いた笑い声は降参の合図だ。明音はまだ何か言いたげではあるものの、振り払うように髪をかき上げ、大きなため息をついた。
「私そろそろ戻るわね。患者さんが待っているだろうから」
「はーい。ありがとね」
ひらりと手を振って明音を見送る。準夜よりもさらに小柄な彼女だが、背負うものはずっと重い。ここは大きな病院のような最新設備はないものの、それでも彼女の腕で何人もの裏の住人を救ってきた。しかし闇社会の天使なんて呼ぶのは、なんとなく違うような気がする。結局は彼女も裏側の人間で、完全な善人ではない。
「……さて。舞人くーん、僕もヒマだからやっぱり帰るね」
いつまでも布団に引きこもっている舞人に声をかけるが反応はない。近づいて捲ってみると、すやすやと眠りこける幼い顔立ちがあった。
「ふふ。ほんと子供みたいだなぁ」
帰るなら送っていくと言う元輝に頷きながら、汗ばんだ白い頬に指を這わせる。めちゃくちゃな生活のせいで肌は荒れているが、従来の整った顔立ちが損なわれる気配はない。自分も彼も短命なのはきっと間違いない。お互いにこの美しさを保ったまま、過去の思い出になれるだろう。
「……思い出って、誰の?」
「はい? なんすか?」
先に部屋を出ようとした元輝から声をかけられ、なんでもないよと頭を振る。準夜も元輝の後を追うと、退出する前にもう一度ベッドを振り返った。寝返りを打ったらしく、小さく丸まった背中がこちらに向けられている。そういえば少し痩せたなあ。骨格が一回りくらい小さくなったような気がする。そのまま少しずつ縮んでいって、苦しみもなく消えることができたらいいのにな。病気で死ぬのは、やっぱりかわいそうだ。
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