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3.「なら僕達と代わってみる? きっと楽しいよ」
しおりを挟む舞人と初めて身体を繋げたのは、二人がまだ小学生の頃だ。
今日も舞人がいるだろうと立ち寄った公園で、丸まった小さな背中を発見した。彼の目の前には一匹の黒猫の姿があり、皿に出されたドライフードを一生懸命に貪っていた。しかしいつもならもう一匹、靴下模様の猫がいたはずである。舞人の腕にはもう一匹分の餌が抱えられたままだった。
「こいつさ、弟が死んだんだよね」
そこで冷たくなってた、と、舞人が茂みの奥を指差す。どうりで妙にカラスが多いわけだ。近くの看板には「餌付け禁止」と書かれている。
「……そう」
「興味なさそー」
「それどころじゃないもん」
準夜は舞人の隣に小さく蹲り、身を守るように膝を抱えた。日が沈んでも不快な蒸し暑さが残る季節だというのに、その準夜は袖の長いブラウスと長ズボンといった暑苦しい姿だ。
「だいたいさ、舞人くんって、猫が死んだくらいで悲しむの?」
「どういうこと?」
準夜の問いかけに、舞人は深々と首をかしげる。質問の意図がいまいちよく分かっていないらしい。準夜はもう一度、次は簡潔に「今、悲しい?」と尋ねた。それに対して舞人は、明確に首を振って否定した。
「べつに」
「でも可愛がってたんでしょ」
「うん、猫はかわいい」
「死んじゃってどう思った?」
「死んだって思った」
てっきり感傷に浸っているのだと思ったら、普段の彼と変わらないやり取りに少しだけ安心した。ただでさえ今は準夜自身に余裕がないのだ。あまり調子を狂わされたくない。
「つか、準夜がこの時間まで帰んないとか珍しいじゃん」
「うん……」
準夜はいっそう強く自分の膝を抱える。その隣にしゃがむ舞人は、準夜のことは気にもかけずに猫を見下ろしていた。
皿の中身を平らげた猫は、舞人に甘えるでもなければ逃げ出すでもなく、その場で優雅に毛づくろいを始める。食事を与えてくれた人間にはあまり興味がないようで、舞人が呼びかけても軽く耳を動かすだけだ。
「……帰れない」
短い沈黙を挟んで、準夜が答える。か細く消え入りそうな声はわずかに震えていて、袖口から覗いた細い手首には縛られたような痣が浮かんでいた。
「家すぐそこじゃん」
「そうだけど……だって、帰ったら……」
蒼白した顔で言い淀み、強く唇を噛みしめる。身体の震えが大きくなり、息も荒く、苦しそうなものに変わっていった。そんな様子を尻目に舞人が黒猫に手を伸ばすが、指先が触れる前にするりと躱して茂みの奥へと走り去ってしまう。黒猫が姿を消し、残ったのは空になった皿と二人の少年だけだ。
「ね、ねえ、舞人くん」
猫を見送った舞人が立ち上がろうとしたところで、膝を抱えていた準夜が舞人のシャツを掴んだ。彼はずっと俯けていた顔を上げ、縋るような瞳を向ける。今にも零れ落ちそうなほど涙を溜めて、唇を震わせながら舞人に訴えた。
「あ、あのね……僕、きっと今日こそ殺されちゃうんだ。黙って逃げてきたから、だからお父さん、絶対すごく怒ってて……」
「ふーん」
しかし舞人から返ってきたのは心底興味なさげな返事で、準夜は小さく目を見開いて身体をこわばらせた。それでもシャツは掴んだままで、構わず立ち去ろうとする舞人に縋りつく。
「ま、待って! あのね舞人くん、僕、お父さんに……」
「知ってる知ってる、親父とセックスしてんでしょ」
「そ……」
言葉を失った準夜の手が舞人のシャツから力なく外れる。舞人は準夜を一瞥すると、何を思ったのか、へたりこんで呆然としている身体を軽く蹴り飛ばした。
「う゛っ……」
「お前の身体、どうなってんの?」
舞人が倒れ込んだ準夜のブラウスを掴んでたくし上げると、幼く薄い腹に痛々しい痣が浮かんでいるのが見えた。大人の拳ほどの大きさがある鬱血は、今しがた舞人が蹴り飛ばしたからではなく、もう少し前に付けられた痕だと分かるものだ。
「いたそ~」
「ぅ……うっ……」
小さくすすり泣く声が聞こえはじめる中、舞人はブラウスだけでなくズボンと下着も手早く脱がせていく。痣は足首や太腿にまでくっきりと刻まれていた。
「俺さ、せーえき出るようになったんだよね」
「え」
「セックスしてみたいから使わせてよ」
待って、と出かかった言葉が声にならない悲鳴に代わる。幼いながらもしっかり勃起した性器が無遠慮にねじ込まれたのだ。
「ぁ……すげー、これ、きもちいい……」
「……、っ、ぅう……」
雑に揺さぶられながら、覆いかぶさる「友人」を見上げる。いくら暗がりで人気がないといえども、誰に見られるかも分からない公園でみだらな行為に耽っている。しかも自分たちはまだ子供だ。到底許されることではない。
愛撫もなにもない、ただ入れて擦るだけの行為だったが、準夜はじわじわと体の奥に熱が灯るのを感じていた。父親にされるのと同じことなのに、まるで違う感覚だ。
「っは、でる……!」
「ぁっ……あ……」
大人とは違う可愛らしい量の精液が注がれていく。舞人はぶるりと身震いすると、さっさと立ち上がって踵を返してしまった。射精して満足したら興味も失ったのか、準夜に声をかけるどころか一瞥すらよこさない。
「……薄情者」
それは行為後の態度のことなのか、それとも、今頃カラスにつつかれている猫についてのことなのか。
準夜はよろりと起き上がると、おぼつかない手つきで服を拾い集めた。先ほどまでは恐怖で頭が混乱していたが、よくも悪くも舞人に手を出されたせいで我に返ってしまった。いい加減にもう帰ろう。これ以上父親の機嫌を損ねたら、死ぬよりもひどい目に遭うことになる。
「あ、思い出した」
ふと立ち止まった舞人が振り返る。公園の隅に設置された薄暗い蛍光灯を背にしながら、半ズボンのポケットに手を入れて、子供らしく無邪気な笑顔を浮かべた。
「新しいゲーム買ってもらったからさ、レベル上げよろしく」
「……僕、死んじゃってるかもしれないよ?」
半笑いで準夜が答えると、舞人は笑顔を消して首を傾げる。少しつり目がちの、丸くて大きな瞳に蛍光灯の光を反射させ、小さく目を眇めた。
「やってくんねえの?」
その口ぶりは本当にただの拗ねた子供だった。少し不機嫌そうに唇を尖らせて、ポケットに手を入れたまま足元の小石を蹴る。ころころと地面を転がった小石は準夜の傍までやってきて、へたり込んだままの膝小僧にぶつかった。準夜は無言でそれを拾い上げ、小さな掌に握りしめる。
「……ううん、やるよ」
準夜が答えると、舞人は何も言わずに公園を出ていく。去っていく背中を見送ってから、準夜も身なりを整え公園を後にした。
出入口で小石を持ったままだと気づいて、足元にそっと投げ捨てる。小石は道路の隅まで転がっていくと、やがて側溝の網目に吸い込まれ、姿を消してしまった。
*
穏やかな振動に身を任せながら、準夜はぼうっと窓の外を眺めていた。車内には舞人の好む攻撃的な音楽が流れていて、それをかき消すほど大音量でゲームの音が響いている。
「元輝くんも大変だねぇ。叩き起こされたんでしょ」
「や~、いつものことなんで」
運転席の元輝に声をかけると、隣でゲーム機を操作していた舞人が大きく舌打ちするのが聞こえた。それと一緒に、ここ最近で聞き慣れてしまった情けない曲がはじまって、どうやらゲームオーバーになったらしいことが分かる。
時刻は深夜3時頃。この時間になっても活気の消えない街には、酒に酔った中年の男達や、派手な身なりをした若い男女などが行き交い、ぎらついたネオンが独特の雰囲気を作っていた。
準夜が舞人からの電話で叩き起こされたのは今から数十分ほど前だ。今から飲みに行くぞと一方的に言われ、仕方なく身支度をして迎えに来ていた車に乗り込んだ。正直あまり体調がいいとは言えず、できるなら酒も飲みたくない。三日前から父親が連休だったため、ずっとその相手をしていたのだ。父親の機嫌も悪かったので、性交というよりも暴力が続いた。今朝ようやく解放されて、上手く動かない身体で昨日できなかった家事を済ませ、夜には当然ながらベッドに連れ込まれて犯され、なんとかシャワーだけ浴びて気絶するように眠った矢先に舞人からの呼び出しだ。慣れたこととは言っても苦笑いが出た。
目的地近くのパーキングで車が停まり、もうすっかりゲームに飽きたらしい舞人と一緒に外に出る。少し歩くと数人の男女に出迎えられ、雑居ビルの階段を上って行った。やや近寄りがたい雰囲気のある扉を開けると、薄暗く狭い店内に入る。ほかに客の姿はなく貸し切りだ。テーブルにはすでに何種類かの酒とつまみが用意されていた。
「自分ちで飲めばいいのに」
どかりとソファーにふんぞり返る舞人の隣に腰かけ、何飲むの、と準夜が問いかける。何ともいえない表情で自分達を見ている男女は無視して、言われた通りの酒を注いだ。店内にいる人間の中で、舞人と準夜は見るからに一番若く、子供だった。ただ、彼らよりもずっと年上であろう周りの人間は、どこか恐れた様子でこちらの機嫌を伺うようにしている。バランスが悪く、不気味な空間だ。
「そういえば、舞人くんもうすぐ誕生日だよね。何買ってもらうの?」
「あー、じゃあ山」
舞人の咥えた煙草に準夜が火を点ける。残り僅かとなった煙草の箱を準夜が無言で振ってみせると、それに気付いた若い男がすぐに店を出ていった。
「清々しいほどの無茶振りだね~。別に欲しくもないくせに」
「何か埋めるんすか?」
唐揚げを頬張りながら元輝が問いかける。どこか呆れた顔をした中年の女が大盛のチャーハンを彼の前に置いた。元輝は「ども」と軽く礼を言い、飢えた子供のごとく豪快にかき込んでいく。
「う~ん……あ、猫飼う」
「山で? なんで?」
疑問符を浮かべる準夜に、舞人が酒の入ったグラスを押し付ける。つんとしたアルコールの匂いに準夜は顔を顰めつつ、渋々グラスを受け取って口を付けた。
「……う゛っ、げほっ!」
一口飲んだだけでも強烈な刺激が喉や鼻を刺激して、軽くむせ込んでしまう。受け取ったグラスを置いて水を飲もうとすると、目の前に舞人のスマートフォンがつきつけられた。画面に映っていたのは、緑豊かな山の中で撮られたらしい野良猫の写真だ。
「俺の山に野良猫集める」
「舞人くんのそういう頭弱いところ僕は好きだよ」
舞人がスマートフォンを仕舞うのを横目で見ながら、酒の匂いが纏わりつく喉に冷たい水を流し込む。グラスをテーブルに戻すついでに、さりげなく酒の入ったほうのグラスを隅に追いやった。
傍にあった元輝のスマートフォンが震え、着信を知らせる。口にものを詰め込んだままの元輝が、もしもーし、とのんびりした声で通話に応じた。
「去年なに買ってもらったかも覚えてないでしょ」
「うん」
当然のように答える舞人に、準夜はくすくすと笑い声を上げる。そんな準夜に先程出ていった男が声をかけ、真新しい煙草の箱を差し出した。ありがとう、と微笑みながら受け取り、古いほうの箱と重ねて置く。
「田代の奴、逃げたらしいっすよ」
通話を切った元輝が舞人にそう声をかけると、これまで上機嫌だった舞人の眉間に皺が寄る。つい先日、舞人と揉め事を起こして殺されかけていた男の名前だ。舞人の腹に切り傷を付けたあとは、両者取り押さえられて引きずり剥がされた。舞人との一件とは別に、田代にはスパイ疑惑もかかっている。拘束後は滋賀組の敷地内で手当てと尋問を受けていたはずだが、見張りの目を盗んでこっそり逃げ出したらしい。
「は? 連れ戻せよ早く」
「今追ってるらしいっすけど。あっそうだ、準ちゃん田代の奴と会ってましたよね?」
唐突に話を振られ、準夜は自分のスマートフォンを手に取った。そこには一件の不在着信とメッセージが届いており、話したいことがある、と短い一言が表示されていた。送り主の名前は田代喜一、今まさに話題になっている男であり、準夜のことを女性だと信じ想いを寄せている可哀相な男でもある。
「うん。何ならすぐにでも呼び出せそうだけど」
「ここに呼びます?」
「今酒飲みてぇから明日でいい。準夜引き止めといて」
舞人は面倒くさそうに言うと、行儀悪くテーブルに足を乗せてふんぞり返った。もしここで完全に逃げられたら癇癪を起こして八つ当たりするくせにと思いつつ、明日会って聞きたいという旨を男に送信する。短い了承の返事が来たのを確認してスマートフォンを置くと、舞人は「しょんべん」とだけ言って席を立ち、店の奥に向かっていった。
「やりたい放題かよ」
舞人の姿が見えなくなった直後、部屋の隅のほうからそう呟く声が聞こえた。準夜を除いたほとんどの視線がそちらに集まる。声の主は先ほど煙草を買ってきた男で、つい最近見かけるようになった新入りらしい若い青年だ。どこかの飲食店の従業員だったか、それともどこかの誰かの連れだったか、よく覚えていない。先ほどの発言は無意識だったのだろうか、顔を真っ青にして震えている姿は、あまりに頼りなく情けないものだった。
「羨ましい?」
緊迫した空気の流れる中で、準夜が柔らかく言葉を発する。舞人がろくに火消しもせず捨てた吸い殻を処理し、氷が解け切って水だけが残っていた彼のグラスを新しいものと取り換えた。
「なら僕達と代わってみる? きっと楽しいよ」
準夜の言葉に男が小さく息を呑む。すぐに戻って来た舞人は、その場の張りつめた空気に気づいていないのか、それとも無関心なのか、少しも触れることなく次に呑む酒を選んで準夜に注がせた。透明なグラスを琥珀色の液体が満たしていく。
「寝起きのしょんべんみたい」
「やだ~きたな~い」
何がそんなにおかしいのか舞人はげらげらと笑い出し、一口飲んだあと、そのグラスを準夜に押し付けた。仕方なく準夜も口にして、咳き込みながらグラスを突き返す。舞人はそれすら面白がって笑っていた。つられて準夜も笑いだす。
いつの間に用意されたのか、別の酒が入ったグラスがテーブルに置かれた。中身は準夜でも飲める甘いカクテルだ。甘いものは好きだが、酒は苦手だ。飲みたくはなかったが、舞人に促されるまま胃袋に流し込んだ。世界が回るような酩酊感は、薬でトリップするのとなんとなく似ていて、嫌いとは言い切れなかった。
「やらぁ~まらかえんにゃいのぉ~!」
「あーはいはい、おんぶします?」
「だっこぉ~」
空も白みはじめた繁華街の一角に、呂律の回らない甘えた声が響く。元輝に肩を担がれているのは、自力で立てないほど泥酔した準夜だ。彼はつい先程、背後にあるビルの陰で盛大に嘔吐したばかりである。舞人は寒いからと言ってさっさと先に車に戻っており、このままでは埒があかないと判断した元輝が準夜に肩を貸して引きずりはじめたところだ。
「おひめさまだっこらにゃいとやらもんね~」
「ゲロまみれでそんなこと言われてもって感じなんすけど」
とは言いつつも、元輝はすっと準夜の身体を横抱きに持ち上げる。するとすかさず準夜が元輝の首に腕を回し、あろうことか唇を奪おうとした。それにはさすがの元輝も顔を逸らし、やめてくださいよ、と拒否反応を示す。
「なんれぇ~?」
「吐いたばっかでキスはちょっと」
「ちぇ~」
さすがにこれ以上やったら落とされると思ったのか、その後準夜は元輝の腕の中で大人しく揺られていた。しかしだからと言って黙るわけでもなく、しきりに頬を摺り寄せて甘えたり、据わった目で元輝を見上げてはふにゃふにゃと笑っている。
「ねえねえ、それじゃーさ、ハメるのはぁ?」
「あ~そっちならまぁアリっすかね」
「やったぁ~ちんちんらしてぇ~」
いや舞人くんが待ってるんで、と元輝が断ると、準夜はじたじたと足を揺らして駄々をこね始めた。元輝の顔に「面倒くさい」という言葉が浮かび上がる。駐車場まではそう距離もないため、すぐに車まで到着し、酔っぱらいはもう一人の酔っぱらいの隣へと押し込まれた。
「あ~まいとくんらぁ~! あそぼぉ~」
早速舞人に絡みだした準夜だが、一方の舞人は完全に寝こけていて無反応だ。しかし何が面白いのか準夜はけらけらと一人で笑い、舞人の膝の上に寝転がりはじめた。
「うふふ~おひざかたぁ~い」
「準ちゃん吐くなら袋に吐いてくださいね~」
はぁい、と聞いているのかいないのか分からない返事が上がり、車はゆっくりと走り出す。車通りの少ない道路の向うからは眩しい朝日が顔を出していて、車内で揺れる二人の酔っぱらいを穏やかに照らしていた。
*
「も、もうやめてくださ、すみませ、ひっ、ひぃ……っ」
薄暗い部屋に弱々しく震えた声が響いていた。床には一人の男がうつ伏せており、派手な龍が掘られた背に舞人の黒い靴が置かれている。両手を後頭部に乗せたその男は下着しか身に付けておらず、身体にはいくつもの傷が作られていた。這いつくばる男の腹からは赤黒い血が流れ、薄汚れたフローリングをさらに汚していた。
「それ痛い?」
舞人はぐりぐりとその背を踏みにじりながら、飯の味を尋ねるような気安さで問いかける。その周囲は数人の男達によって取り囲まれており、それに混ざって女が一人ソファーに腰かけていた。
男は質問にも答えられないほど怯え切っており、舞人の名を呼びながら何度も何度も謝り続けている。そのうち舞人は飽きたように男の背中から足を退かすと、女の隣にどかりと腰かけた。煙草を口に咥えれば、すぐに隣にいた女がライターで火を点ける。
「見るからに痛そうじゃん」
「俺のほうが痛かったし」
「かわいそ~」
女が茶化すように口を挟んだあと、舞人は口を尖らせながら近くのボトルを手に取る。男の頭上でそれを逆さにすれば、透明の液体が男の頭や上半身に注がれ、きついアルコール臭が漂った。
ここは古びたアパートの一角で、田代喜一の自室だ。舞人の隣に座る女とは短い間ではあるが男女の関係にあった。
今日ここを女が訪れた時、喜び安堵した顔をしていた田代だが、その背後に立つ舞人達を見ると一瞬にして絶望の表情に変わった。女の正体を何も知らない田代にとって舞人達の訪問は予想外のことであり、舞人への恐怖と同等かそれ以上に、女に裏切られたというショックが大きかったのだろう。
舞人は空になったボトルを投げ捨てると、隣の女からライターをひったくり火を点ける。何かを察した田代から引き攣った悲鳴が上がり、必死で逃げようと身体を捩った。両足首を縛られたまま立ち上がった田代は自らバランスを崩して床に転がり、それでも何とか舞人から逃れようと芋虫のように地面を這う。
「そういえばナマズって何食べるの?」
「しらなーい」
唐突な舞人の問いに対して女がどうでもよさげな答えを返す。舞人はキャップを戻したライターを懐に仕舞いながら、窓の前に立つ元輝にも問いかけた。
「俺も知らないっす」
「馬鹿じゃん」
「いや舞人くんも知らないじゃないっすか」
元輝はやや呆れたような顔をして、閉じられていたカーテンを開く。薄暗かった部屋に爽やかな朝日が差し込み、田代の怯えた顔がよく見えるようになった。舞人は早くも田代から興味を失ったようで、部屋の中から勝手に拝借した酒を瓶ごと煽っている。
「あれってナマズなんすか?」
「龍だね。舞人くんはにょろにょろしたものの見分けがつかないんだよ」
元輝の疑問に対して女が薄笑いしながら答える。二人が言っているのは、舞人がナマズと呼んだ入れ墨のことだ。立派な龍をどう見間違えるとナマズになるのか、この場にいる誰にも分からない。
「な~準夜、アレのちんこってどんくらいだった?」
「治美ですぅ」
女、もとい、女装姿の準夜は軽く訂正を入れたあと、親指と人差し指でくの字を作って「このくらい」と言う。それを見た舞人が盛大に吹き出し、元輝も釣られて笑いだした。
「舞人くん今日は機嫌いいね」
「ていうか、何回もヤってんのに男だってばれなかったんだ」
「脱がない、触らせない、電気消す。それで余裕だよ」
舞人が笑いながらナイフを取り出し、いつの間にか扉の近くまで這い出していた田代のほうへと向かう。いよいよ切羽詰まる命乞いを聞きながら舞人が縄を解くと、押さえつけた田代の右手にナイフを突き立てた。醜い悲鳴があがり、たいして時間もかからず小指と薬指がまとめて切り落とされる。
「いたそ~」
「俺のほうが絶対痛かった」
二度目になる台詞を舞人が吐き、飽きたようにナイフを投げ捨てる。それから右手を押さえて身悶える田代を蹴り飛ばし、短くなった煙草をその体に向かって投げ捨てた。アルコールに引火したことで炎が上がり、田代は打ち上げられた魚のようにのた打ち回る。
「舞人くんのはほぼ掠り傷だったじゃん」
「でも痛かったんだっつの」
「ほんと打たれ弱いね。かっこわる~」
茶化すように言い放った準夜の腹に、舞人の重い蹴りが叩きこまれた。内臓がどうにかなったのではないかと思うほどの衝撃に、準夜は耐え切れず膝から崩れ落ちる。
「ぅ゛ぇっ! げほっ、ごほ……っ!」
「田代どうします?」
「適当にボコっといて」
「俺らでやっていいんすか?」
「うん。もう飽きた」
苦痛に喘ぐ準夜は無視して、二人の会話が続けられる。早くも帰るらしく舞人はさっさと玄関に向かっていったが、準夜は立ち上がることが出来ず蹲ったままでいた。
「準ちゃん運びましょうか?」
「優しくだっこしてぇ~」
元輝に顔を覗き込まれ、掠れた声で甘えたことを言う。すぐに身体が浮いて、米を運ぶように担がれた。ただでさえ負傷させられた腹が圧迫され、ぐえ、と潰れた声が準夜から上がる。
「元輝くん、これお腹くるし……」
「我慢してくださいっす」
「もっと僕を大切にしてよぉ」
情けない声を上げながら運搬されていく準夜に、這いつくばっていた田代の目が向けられた。何か言いたげなその視線に準夜が気付くことはない。散々騙して弄んだ男のことなど、準夜の頭からはもうすっかり消えていた。
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