さよなら僕のアルカディア

ますじ

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1.「こうやって人は破滅していくんだろうなあ」

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 机に置いていたスマートフォンが震え、一件のメッセージを受信する。差出人はよく見慣れた名前で、その内容は今から家に来いという唐突すぎるものだ。
 男性にしては長く伸びた髪を掻き上げながら、栗栖準夜は深々とため息をこぼした。まだ帰宅して着替えたばかりで、やらなければならないことは山積みだ。君みたいに暇じゃないんだけど――思わずそんな言葉を返しそうになるが、短く「わかった」とだけ送る。ほどなくして既読だけ付いて、それ以上の返信はなかった。
 メッセージの差出人である滋賀舞人は、小学校から付き合いのある人物だ。友人という呼称が正しいのかは怪しいが、ただの知人というには繋がりが強く、かといって恋人などといった甘ったるい関係でもない。身体を重ねた回数は数えきれないほどあるが、互いに恋愛感情があるかと問われるとはっきりノーと言える。子供の頃から二人で悪い遊びにばかり興じていたので、どちらかというと「共犯」と言うほうが正しいのかもしれない。
 そろそろ日も傾き始めた平日の午後。運動部に所属している生徒以外の殆どは遊びに出かけたり、あるいはゲームや勉強などに励んでいるだろう時間帯だ。準夜にも部屋の掃除や洗濯物の取り込み、そして夕飯の支度といった仕事が待っているのだが、呼び出されてしまったら行かなければ後が面倒だ。大幅に予定がずれ込むことになってしまうが、幸いなことに今日から二日ほど父親が帰宅しないことになっている。懇意にしている取引先の社長と小旅行に、と言っていたが、それぞれに若い女の同行者がつくらしい。ご苦労なことだ。

 舞人の住む場所は準夜の自宅からそう遠くない場所にある。ここ一帯にある住宅の中でも極めて大きく、厳重なセキュリティのかかった門はどこか威圧感さえあった。この邸宅を気軽に訪れる「一般人」は、恐らく準夜くらいしかいないだろう。
「あ、準ちゃんどもっす」
 チャイムを鳴らそうとしたところで、背の高い金髪の男が隣に並んだ。彼はやや息を弾ませ、汗もかいているようだ。走ってきたというよりは、なにか運動でもしてきたような具合で、服装もやや乱れていた。
「元輝くんだー」
「舞人くんに呼び出されたんすよね? やー、迎えいけなくてすんません」
 元輝が軽く顔の前で手を合わせる。口では謝っているが、目は少しも申し訳ないと思っていない。準夜もとくに気にはせず、別にいいよと笑って流した。
「んじゃ入ってくださいっす。帰りはちゃんと送るんで!」
「はぁい」
 先を行く元輝に続いて門をくぐり、静まり返った玄関で靴を揃える。誰ともすれ違うことなく屋敷の奥までやってくると、短い渡り廊下が見えて来た。その先にあるのが舞人の自室だ。離れというほどではないが、母屋の生活区域からは距離が開いている。一番近くにあるのは元輝が寝泊まりしている部屋だが、それも隣接しているわけではないので、やはり舞人の部屋だけ妙に遠いことに変わりない。
 元輝から聞いたところによると、彼がこの組織に来るまでの間、まだ未就学児だった舞人の世話は親でなく組織の人間が当番制で見ていたらしい。産まれて間もないころは乳母が面倒を見ていたが、舞人がつかまり立ちをしはじめた頃に高齢のため他界してしまった。実の両親は多忙を理由に面倒を見なかったため、適当に選ばれた人間が世話役を請け負っていたらしい。
 とはいえ大人の言うことなど聞かず好き放題、園や学校に通うのは嫌がるくせ、元気だけは有り余っているので落ち着きなく暴れ回る。自分のわがままが通らなければ金切り声で泣き叫び、大人の力をもってしても取り押さえるためには怪我のひとつやふたつは当たり前といった暴走具合は、文字通り小さな怪獣だ。舞人の自室だけがやけに遠い場所にあるのは、出来るだけ接触する回数を減らすためである。どこに出しても恥ずかしく面倒な子猿を屋敷の奥に隠して、適当な餌と玩具を与えて飼い殺す。今となってはその子猿も勝手に外へ出ては暴れまわるようになったのだが、それを親が止めないのだからどうしようもない。我が子の不出来を恥じて厳しく躾けるまではいかずとも、面倒を起こすなら家から出さぬと地下牢にでも放り込めば、結構な人数が助かったことだろう。
 さて、誰も舞人の世話係をやりたがらない中で、白羽の矢が立ったのがこの元輝という男だった。彼がこの組へやってきたのは舞人が小学校に上がる頃で、当時はまだ十代の少年だった。思わぬ「事故」で両親が急死した彼をボスが拾い、舞人の世話役に宛がったのだ。まさしく「子供が子供の面倒を見る」ことになったわけである。
「舞人くん入るっすよー」
 軽いノックのあと元輝が声を掛ける。返事らしい返事はなかったが、元輝は躊躇なく勝手に扉を開いた。初めての場所でもないので、準夜もとくに遠慮することなく中に入る。
 部屋には大きなベッドがひとつと、同じく大きなモニターが一枚、その傍にはいくつかのゲーム機がゴミと一緒に散乱していた。人一人が生活するには余るほど広い空間の中、異様に目を引くのはガムテープまみれになったボロボロの窓ガラスだ。数日前に舞人が暴れて派手に割ったのだが、修理業者を入れるのを本人が嫌がったため、元輝が段ボールとガムテープで補強した状態のままになっている。修理は諦めるしかなさそうなので、ホームセンターで板でも買ってきて封鎖するつもりだと元輝が話していた。
 折角の広さを台無しにするほど散らかった部屋の中心では、コントローラーを握ってモニターと睨み合う派手な紫髪がある。つい先日まで赤だったと思うが、色を足して紫にしたらしい。ピアスも少し増えたような気がするが、唇のラブレットが消えているので、トータルの量は変わらないのかもしれない。
 周囲には空き缶がいくつか転がっていて、煙草の吸殻も散乱している。少し焦げた臭いがしているのは、彼が床で直接煙草を揉み消しているせいだろう。そんな舞人はというとゲームに夢中の様子で、来客があったことに気付いているのかどうかも怪しい。どうやらまた新しいゲームを買ったようだ。はじめて見る映像が大きなモニターに広がっている。
「舞人くーん? 舞人くんってばぁ」
 舞人の左隣、つまり吸い殻のないほうに座って声をかけてみると、邪魔だと言うように肘で強く小突かれた。自分から呼び出しておいて邪険に扱うとはさすがである。あまりしつこくして殴られたくもないので、ひとまず黙って視線をモニターに向ける。準夜にとってはやや情報量の多い画面の中で、とくに目立つのは画面中央で銃火器を手に走り回っているキャラクターだ。上下ともに黒い服と黒い目出し帽という、無駄に悪目立ちする格好をしている。それ以外にも数人同じような恰好をしたキャラクターがいて、各々違う武器を手にどこかの施設内を駆け回っていた。
 しばらく眺めているうちに、なんとなく何をしたいのか把握できてくる。とりあえず舞台は銀行だ。それも大きな場所ではなく、人手の少ない地方銀行の支店かなにかである。とはいえ仮にも銀行だというのに警備があまりにザルすぎだ。準夜の知る限り舞人はこのゲームを始めて間もないため、恐らくチュートリアル代わりの簡単なミッションなのかもしれない。
 仲間が人質を見張る一方で、舞人ともう一人の仲間が金庫から現金を運び出している。当然ながら武装した警察が駆けつけてきたため、ここから先は上手く身を隠しつつ出口へ……となる筈だったのだろう。矢先に舞人のキャラクターが勝手に飛び出して警官の一人を射殺、さらに立て続けに発砲して暴れだしたため、合流したばかりの仲間もろとも警官に包囲される事態に陥ってしまった。そんな「大戦犯」をやらかした舞人のキャラクターはというと、あっさりと警官の銃に撃ち抜かれて倒れ込んでいた。それと共にミッション失敗の文字が大きく映し出され、舞人が苛立ったようにコントローラーを投げ捨てる。
「クッソ! こいつらカスかよ!」
 同じことを画面の向うで言われていると思うよ。そう口にする代わりにコントローラーを拾い、ずれた電池入れ部分の蓋を直す。運悪く彼と同じチームになってしまったプレイヤーには同情を禁じ得ない。なお舞人は、別のゲームのチャット機能で暴言を繰り返した結果アカウントが制限されるという憂き目に遭ったことがあるため、新しいゲームをプレイする前には必ず元輝がその辺りの機能を変更するようにしている。おかげで以前のように喧嘩して通報されることはなくなったが、対人のゲームが壊滅的に向いていないことに変わりはない。
「つか来てたのかよ」
「結構前にね」
 舞人は新しい煙草に火を点けると、ベッドに深く腰掛けて天井を見上げる。それからしばしの間ぼうっとしていた彼だが、突然何か思い出したように「あ」と口を開いた。
「こっち来いよ」
「はいはーい」
 言われた通り隣に腰かけると、肩を抱き寄せられ顔が近づいてきた。妙にニヤついた顔からは先程までの不機嫌さは感じられない。切り替えが早いというよりは、まるで情緒不安定だ。何かよほど楽しいことでも思いついたのだろうか。至近距離から漂う煙たさに思わず顔を顰めそうになった。
「いいもんやるよ」
「えー、お酒も煙草も遠慮したいなぁ」
「ちげーし」
 そういって舞人が枕の下をまさぐっているうちに、いつの間にか部屋のゴミを回収し終えた元輝が部屋の出入口に立っていた。大きなゴミ袋を両手に抱え、半開きのドアを足で支えている。
「んじゃ終わったら呼んでくださいっす。送ってくんで」
「えー、僕もう帰ってもいい?」
「それは舞人くん次第っすね」
 強い力で腕を掴まれ、問答無用でベッドに転がされる。元輝は「そんじゃまた」と軽い調子で言うなりすぐに扉の向うに消えてしまった。分かってはいたが逃げることは不可能だろう。諦めるほか道はない。
 舞人が目の前に取り出したのは、カラフルな錠剤が四粒入ったポリ袋だ。見た目からして怪しさ満点なそれを舞人は当たり前のように開封し、一粒つまんで口に放り込む。
「なにそれ」
「クスリ」
「それは見たら分かるけど。どういう薬なのって」
 質問には答えず押し付けられたので、仕方なく袋から一粒取り出した。薄桃色のそれはやや大粒のラムネのような見た目をしていて、可愛らしいハートマークが刻まれていた。どんなに馬鹿な人間だとしても、これがただの美味しいお菓子や便利なサプリメントではないことくらい分かるだろう。それでも準夜に拒否権はない。躊躇いもなく口に放り込むと、甘苦くなんとも言えない味が広がった。
「……ふは、あはは」
 急に頭上から笑い声がして目を開ける。いつになく恍惚とした舞人の顔は、飽きるほど見慣れた悪友のはずが、妙に煽情的で性欲を刺激するものに映った。アルコールとはまた少し違う酩酊感が頭を支配しはじめる。ふわふわとしたこれは、多幸感だ。急激に目の前の相手が愛しい存在に思えてきた。ベッドに沈み込んですることなんて一つしかない状況で、何も分別が付かないほど頭が気持ちよくなるような。ああ、この感覚はだめだ。ただでさえ若い性欲が、いとも簡単に暴走しはじめる。
「ぁ……、これ、すご……、ぁ゛ッ、ま、まってまってぇッ、すぐいれちゃだめぇ……っ!」
 下を脱がされるなりすぐに熱いものが中に押し入ってくる。自主的に後ろの準備をしてきたといっても、乱暴な挿入は本来ならば痛みを伴う行為のはずだ。それなのに身体は快感ばかりを拾い上げ、奥まで突き入れられると同時に激しい絶頂を迎えた。目の前がちかちかと点滅して、「気持ちいい」に脳内が全て塗り潰されてしまう。過剰に快感を得てしまうのは、薬物により脳内物質の伝達系統を弄られ、激しい誤作動を起こしているせいだ。それがただひたすらに気持ちよくて、幸せでたまらなかった。
「は、ひ、ひぃ、ぁっ、あ、あ、あ゛っ、ぃいっ、きもちい、あ゛……、~~っ!!」
「ぁ、ハハ……はー、あはっ……すげーイイ……」
 腰を痛いくらい強く掴まれ、腹の奥が破れそうなほど乱暴に揺さぶられる。ろくに慣らさず挿入したうえ、潤滑剤となるのは事前に仕込んできた少量のローションと舞人の先走りだけだ。本来なら受け入れる側も挿入する側も多少の苦痛を伴うはずが、そんな痛みなんかどうでもよくなるくらいに気分が上がっていた。確かに無理矢理内臓を開かれて乱暴に揺さぶられるのは苦しいかもしれない。だがそれ以上に、繋がった箇所から伝わる熱や、性感帯をゴリゴリと擦り上げられる感覚が気持ちよくてたまらないのだ。
「ぁああ゛ッ、ぁ、んッ、ぁ、あぁっ! いぃ、いいよぉっ! きもひ、ぃ、あっ、あっ……」
「ぅ……あ゛」
 快感に顔を歪めながら一生懸命に腰を振る舞人が、なんだかどうしようもなく可愛いひとのように思えてしまう。ああどうしよう、キスしてやりたい。唐突すぎる感情の出現に驚いている暇もなかった。もっと乱されたいし、乱れて欲しい。可愛がりたいし、可愛がって欲しい。きもちいい。うれしい。ああ、だいすきだ。至極シンプルで幸せに満ちたその感情は、薬物によって引き起こされた誤作動でしかないのだが、混沌の最中にいる二人がそれに気付けるはずもないことだった。
「ぁ、あ、あっ、ぃい、きもち、……あっ、あ、すき、もっと、もっとぉっ! もっとしてぇ、ぁ゛、あ、あっ、あ゛っ、あ゛っ……!!」
「っはー、ぁ、あ……ははっ、ぁ゛……」
 唇が触れそうなほど近くに舞人の顔がある。瞳は潤んでいて、頬は紅潮し、快楽に溺れたその姿を見て純粋に「かわいい」と思った。普段はただ乱暴な行為をするばかりの舞人が、今日はまるで恋人同士のようなセックスをする。夢心地……いいや、これがトリップだ。本当に「トぶ」というのは、こういう感覚なのだろう。
「ね、まいとくん、ねえ、ぁ、きもちい、きもち、……ん、んっ」
 気が付くと舞人の顔を引き寄せて、唇を押し付けていた。普段ならばすぐに殴り飛ばされていただろうが今日は違った。舞人の右手がすかさず後頭部に回され、にゅるりと熱いものが唇に押し付けられる。されるがまま口を開いて受け入れると、彼の熱い舌が絡みついてきた。これまで何度も体を重ねてきたが、こんなことは初めてだ。
 キスが気持ちいいと思ったことは一度もない。唾液に媚薬成分がある、なんて話も馬鹿にしていた。けれど今だけは違う。本当に気持ちがいい。絡め合った粘膜同士から流れ込む熱と、甘く痺れるような快楽に理性が壊される。混ざり合った唾液はシロップのように甘く感じて、すべての快感を増幅させていく。本当に媚薬を飲んでいる気になった。今までこんなにも満たされたことがあっただろうか。ああ、もう、ずっとこうしていたい。ずっとこの快楽の中にいたい。
「ん、ぷはっ、ぁ、あ、ん、んむっ、んッ……ふ、ふーっ……、すき、すきぃ……きもちい……」
「はー……は、ハハ、あ゛ー……さいっこー……」
 自分が自分でなくなっていく。上からも下からも、互いの身体がどろどろに溶けあって一つになるような感じがした。指が食い込むほど強く腰を掴まれ、最奥で深く繋がったままがむしゃらに揺さぶられる。ほどなくして中に熱を注がれ、同時に準夜も白濁で自分の腹を汚した。しかしそれでも身体の熱は収まらず、同じく硬いままの舞人をきゅうっと強く締め付ける。
「ねぇ、も、もっと、もっとぉ……あ゛、あ、ぁ、あぁあっ! すきぃっ、きもひ、きもちい、きもちいよぉっ!!」
「ぅ、あ、あ゛ーっ、うるせえっ、うるせえ!」
 頬に鈍い痛みと熱が走る。叩かれたのだと理解しても濁流のように押し寄せる快感は止まらなかった。体をひっくり返され、腰だけを持ち上げられた状態で背後から揺さぶられる。より深くまで犯されるのがどうしようもなく気持ちよくて、止まらない絶頂の中へと無理矢理引きずり込まれた。
「はひっ、ひぃっ、ひ、……っ、~~、ぁ、ぁ……、ぁ゛……っ」
「ははっ! 漏らしてんじゃねーよ変態!」
 言われてはじめて、シーツに出来た水溜りの存在に気付いた。知らない間に自分で自分の性器を扱いていたらしく、刺激臭のない無色透明な液体がぶしゃぶしゃと小刻みに噴き出している。排泄と似ているようで少し違う感覚と、射精できずに達し続ける時の感覚が混在するようで、もう訳が分からない。それでも腰も手も止まらず、シーツを汚しながら中をきゅうと強く締め付けた。
「ぁ、は、ぇ? えっ? とまんなっ、ぁ゛、とまんにゃい、よぉ……っ、ぁ、ア、あ゛ぁっ、……っ?」
「ふは、はっ、狂ってんじゃん、ハハ、ぁ、ッ」
 舞人もあっけなく中で射精し、背後で荒い呼吸を繰り返している。ずるりと性器が抜け出していくと、なぜか急に激しい喉の渇きに襲われた。もう殆ど力の入らない体で這いつくばるようにしてベッドを降り、足りない水分を求めてふらふらと歩き出そうとする。しかしすぐにまた舞人に捕らえられ、叩きつけるように床に押し倒された。後頭部を強かに打ち付けて意識が激しく揺れる。再び固いものを押し込まれると、大人しく股を開いて降伏するしかなかった。何度も激しく交わったあとともなれば、準夜のそこは少しの抵抗もなく奥まで舞人を迎え入れる。もう身体は限界に近いと思っていたが、あっさりと快楽に支配された。体力はとっくに消耗しているはずなのに、勝手に腰が揺れてしまう。犯されたい、気持ちよくなりたい、頭の中はそればかりだ。
 顔の横に舞人の手が置かれる。至近距離にある整った顔は、まだ幼さの残る子供のそれだ。彼はまだ、つい最近成人を迎えたばかりである。普通ならこれからたくさんの輝かしい未来のため、泥臭い努力をしながら成長していく過程なのだろう。そんな清らかであるはずの若い青年が、こんな堕落した遊びに狂っているだなんて。
「……ぁは、かわい、そー」
 準夜の言葉を遮るように、口元に小さな固形のものが押し付けられた。疑うこともなく受け入れて、舌の上でそれを溶かす。美味しいとは言えない独特の奇妙な味が口内に広がった。視界が反転して海の底にでもいるような不思議な浮遊感に襲われる。それがまたどうしようもなく気持ちよくて、同時に生じたはずの少しの恐怖感は、意識の彼方へと追放されていった。

 
 舞人と出会ったのは小学校の入学式で、彼とは偶然隣同士に座っていた。彼は式の間何度も席を立とうとしたり、周りに話しかけたりと落ち着きのない子供だった。何度注意されても懲りず、結局は式が終わる前に会場を去ってしまったのを覚えている。彼の落ち着きのなさは授業中でも変わらず、注意を受けても改めないどころか拗ねて帰ってしまうことも多々あった。教師からは問題児どころか腫物のような扱いをされ、クラスメートからもなんとなく距離を置かれていた。それは彼の素行のせいだけではなくて、彼の家の事情もある。
 滋賀舞人の家はかなり大規模な反社会組織で、舞人はその組長が愛人との間に産ませた子供だ。その生い立ちはやや複雑で、現在は本家で生活しているものの、生まれてから暫くは存在すら隠されていたそうだ。
 町の子供たちは舞人とは関わらないよう強く言いつけられていたが、準夜の場合はそうではなかった。準夜の父が代表を務める企業が、その組織と裏で繋っていたためだ。自然にとというべきか、準夜と舞人は会話することが増えていった。とはいっても舞人はだんだんと学校へ来なくなったので、会うのはもっぱら放課後や休日だったが。
 準夜から見た舞人は、今まで他に見たことがないほど自由奔放な子供だった。自分のしたいことしかしない、自分の思い通りにならなければ癇癪を起し、時には理不尽に暴力も振るう。まるで赤ん坊がそのまま身体だけ成長したようだった。たいがいの人間とはうまくやれた準夜だが、彼に関してはすぐに諦めた。自分がどうこうできる相手ではない。それでも何故か距離を置こうとは思わなかった。それどころか、準夜は自ら望んで舞人の傍にいるようになった。たしかに扱いづらい人間ではあるだろうが、準夜にとってはその破天荒さが面白くて、魅力的に映ったのだ。
 驚くべきことは、舞人の非常識極まる振る舞いを周囲の大人が許していたことだ。彼がクラスメートを殴って怪我をさせても、教師はおろか親でさえ彼を叱らなかった。彼が学校の備品を何度壊しても、ただ親が金を出すだけで終わりだった。何をしても許されることを舞人も知っているから、彼はどんどん暴走していったし、誰も下手に彼と関わろうとしなくなった。
 そんな彼に準夜が抱いた感想は、「可哀相だなあ」だ。
 誰も止めてくれないし、誰も善悪を教えてくれない。大人たちは悪い部分は見て見ぬふりをして、適当に機嫌だけ取ってあしらっている。見放されているのと同じだ。人の子だと思われていないのだ。ただ、欲しいものは何でも買い与えてもらえるし、ほとんどのワガママは通るという。要するに、躾はされていない、育児されていない、愛されていないが、愛玩はされている。今時、ペットでさえきちんと躾をして子供のように育てるのが普通だというのに、舞人はそうされなかった。
 舞人は準夜すら驚く勢いで荒れていった。中学生にもなれば飲酒と喫煙を覚えて、薬物にまで手を染め、それを準夜にも強要した。もちろん周りの大人も、知っている人間は知っていた。舞人に酒や煙草を買い与えたのは、違法薬物の使い方を教えたのは、彼の周りにいる大人達だ。
 準夜も舞人も、中身は子供のまま身体だけが大人になった。少し変わった点を言うなら、従順で天使のような子供を気取っていた準夜は、人を騙して弄ぶことを覚えた。裏切られて絶望したり、激昂して手を上げる人間を見るのは愉快だ。他人から向けられる、強烈な感情が気持ちいい。
 人の道を外れても誰にも止められなかったし、当然、自ら立ち止まることも出来なかった。坂道を転がり続けることはむしろ快感だった。どのみち長く生きるつもりもないのだから、踏み外した道を楽しんでしまえばいい。中途半端な良心のない環境のおかげで、思う存分好きなだけ転がり落ちていけた。
 そういう意味では、舞人の隣は心地よかったのかもしれない。


 目が覚めて最初に見えたのは、自室ではない部屋の天井だ。隣には小さく丸くなって眠る舞人の姿がある。喉の渇きを覚えて部屋を見渡すと、いつの間にか枕元にスポーツドリンクが一本置かれていた。手に取るとまだ冷たく、ボトルの表面には水滴が浮いている。
「おはよぉ、舞人くん」
「う゛……」
 舞人は盛大に顔を顰めると、鬱陶しそうに頭を振って布団の中へと潜り込んでいった。準夜も体中の酷い倦怠感を覚えていたが、帰るためにはシャワーを借りて着替えなければならない。ここでのんびりしているような時間はなかった。
「……くっそだりぃ」
「そうだねぇ」
「さいあく」
「うん」
 短いやり取りのあと、勝手にペットボトルを開封して中身を一気に煽る。初めて舞人に酒を飲まされた翌日とよく似た感覚だった。あまり行為中のことは覚えていないが、意味不明かつ無茶な行動をしていたような気がする。
「でも、きもちよかったね」
 それでも一つ確実に言えることは、それだった。舞人も否定することなく押し黙ったままで、布団の隙間から覗かせた瞳でじとりと準夜を睨んだ。正直このまま隣に倒れ込んで眠ってしまいたいほど疲れ果てていたし、帰宅してからやらなければならないことを脳裏に浮かべるだけで死にたいほど気持ちが沈む。しかし用もなく隣で眠る関係でもないし、自分も出来れば一人でゆっくり眠りたかった。
 枕の下に手を入れると、がさりとした感触が指先に触れる。引っ張り出してみると、同じくカラフルな錠剤の入ったポリ袋が顔を見せた。どれも可愛らしい刻印がされていて、一目見ただけではラムネ菓子との区別がつかない。透明なポリ袋に入っていることでやっとその怪しさが表に出ているといった感じだ。
「ねえ、これ誰から貰ったの?」
「元輝」
 なんの疑いもなく口にされた名前に納得しつつ、部屋のゴミを回収して出て行った彼の何食わぬ顔を脳裏に浮かべる。舞人はともかくとして、元輝はこれがどういうものなのか確実に知っていたはずだ。
 見た目は可愛らしい菓子のような錠剤だが、その裏に隠された毒性はいとも簡単に人間の心身を壊すほどの代物だ。主な作用としては多幸感、気分の高揚、他者との共感があり、そのためセックスとの相性がとんでもなく良いのだ。知識としては耳にしていたが、実際に経験したのは初めてのことだった。
 思い返してみても、あの快楽に取りつかれてしまう人間が後を絶たないことは納得してしまう。それだけ気持ちが良かったし、文字通り多幸感に溺れることが出来た。普通に過ごしていたらまず経験することのないほど強烈な快感だ。そしてこの事後の酷い倦怠感や気分の悪さも相まって、あの時の素晴らしい体験をどうしても忘れられなくなる。
「こうやって人は破滅していくんだろうなあ」
 天井に向かって吐き出した一言は誰にも拾われないまま霧散して消えた。舞人は再び眠りに落ちてしまったようで、軽く揺すったり声をかけても反応はなかった。仕方ないのでベッドから足を下ろして再びペットボトルの中身を煽る。殆ど飲み干してから元の位置に戻すと、連絡先から元輝の名前を見つけて通話アイコンをタップした。
「……あ、もしもーし。元輝くん?」
 スマートフォンの向うからやる気のない返事が聞こえる。そういえばと思って窓に目をやると外は真っ暗だった。この部屋には時計がないので具体的に何時なのかは分からないが、眠たげな元輝の口ぶりからして夜遅いことだけは察することができる。終わったから送って、と言えば、とくに文句を言われることもなく了承される。部屋で待っていればすぐに扉が開き、ジャージ姿の元輝が迎えに来た。
「舞人くん帰るね~」
 最後に一言だけ声をかけてみるが返事はない。よほど深い眠りに落ちているようだ。ふらつきながら元輝の側に向かうが、震える膝では体を支えきれず視界が大きくぶれる。倒れ込みそうになった先にあった腕に掴まると、すぐにふわりと体が浮いて横抱きにされた。
「元輝くんかっこいい~王子様みた~い」
「歩けそうっすね」
「すや~すや~」
 雑すぎる狸寝入りをしていると、外に出たようで冷たい空気が肌をさした。荷物のように後部座席に転がされると、すぐさま車が走り出す。よほど眠いのか元輝は珍しく静かで、準夜もまた口を開く体力が殆どなかった。無言のまま車に揺られている間、その不規則な振動で何度も吐きそうになる。窓の景色が変わって次第に自宅が近づいてくると、いっそう体調は悪化していった。
「ッ、うえ゛ぇッ……!!」
 遠目に自宅の屋根が見えた途端、盛大な吐き気に襲われて座席の下に胃の中身をぶちまけた。とはいえ殆ど固形物はなく、スポーツドリンクで薄められた胃液が吐き出されるだけだ。喉元が焼けるような痛みと口内に広がる苦味、そしてつんとした悪臭によって胃袋は痙攣し続け、嘔吐すればするほど吐き気に襲われる。そんな地獄のループに喘いでいると、そう時間もかからず車が止まった。
「あーあ、大丈夫っすか?」
 滲む視界の向うに忌々しい自宅が映る。後部座席の扉が開き、元輝によってやや強引に手を引かれた。玄関前まで引きずられるようにして連れて来られると、震える手で鞄を漁って鍵を探す。しかしいつまでも目的のものは見つからず、そのうち立っているのもつらくなってその場にへたり込んでしまった。
「うえぇ……かぎ、なぁい……」
「これっすかね」
 元輝によって鞄が取り上げられると、あっさりと鍵を見つけ出された。微動だにせずいる背を無遠慮に叩かれ、勢いのまま倒れ込みそうになる。
「んじゃ、おつかれっす!」
 晴れ晴れとした挨拶を残して元輝が背を向ける。扉の前で呆然としていると、やがて車のエンジン音が響いて遠ざかっていった。直後、中から勢いよく扉が開き、そのまま腕を掴まれて引きずり込まれてしまう。急なことで咄嗟に対応できず、受け身も取れないまま床に投げ飛ばされた。
「う゛っ……」
 頭を強打して気を失いそうになるが、すぐ覆い被さって来た相手に頬を叩かれ、強引に意識を引きずり戻された。その顔を視界に捉え、さっと血の気が引いていく。今日はいないはずじゃなかったの。どうして。脳内が疑問に支配される。
「こんな時間まで何をしていたんだ?」
 ぼやけている視界に映る顔には、意図の読めない薄ら笑いが浮かんでいる。最近また皺が深くなって、白髪も増えてきたなあと、どうでもいいことを考えた。
「……ともだちとあそんでました」
「いけないことをしていたんだね」
「はい」
「こういう時はなんていうんだ?」
 服を脱がされながら、男の肩越しに見える高い天井をぼんやり眺める。体を這いまわる手の感触は、まるで薄い膜越しのように曖昧だった。もはや少しの力も入らない脚を持ち上げられて、内臓を圧迫する熱を感じる。
「ごめんなさい、お父さん」
 自分を揺さぶる相手の姿はもう見えなかった。窓から零れる淡くあたたかい陽が、虚ろな世界を眩しく彩る。物言わぬ光のカーテンが、どこか遠くから聞こえる子供たちの笑い声と共に、停滞する時間を優しく包みこんでいた。
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