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朝起きたら寝る前までベッド周りに散らばっていた私の服たちがベランダで風に揺れていて、あぁ洗ってくれたんだなと思うと同時に、コーヒーの香りが漂って、いつまでも寝ていちゃいけないと、自分を叱咤した。
気だるい体から、優しくも荒々しい律に翻弄された昨夜を思い出して体が火照る。結局動けなくなった私の体を拭いて服を着せて、スキンケアからヘアケアまでしてベッドに寝かせてくれた律にはもう頭が上がらない。頑張るといった意志はどこに行ったのか。風呂のお湯に溶け出たのかもしれない。ただ、その時の律の顔がとても幸せそうだったから、まぁ私もぼちぼち頑張ろうなんて思っては柔軟剤が香るシーツの中でクフクフ笑っていると、開けっ放しのドアを潜った律がベッドへやってくる。
「透。おはようございます。何を笑っているのですか?」
「おはよー律。ううん、ちょっと…思い出し笑い」
大したことじゃないのにまだニヤけた顔が収まらない私の頬を律の手がするりと撫でる。
「…体の調子はどうですか?」
「…ふふ、そんな顔しなくても大丈夫だよ。むしろしっかり寝れて元気になった。やっぱり、律がいないとだめだね」
ふふふと笑う私に、律は優しく目尻を落とした。
「…それはよかった。なら…」
「…?」
「昨晩の話、じっくり聞かせてもらいましょうか」
「……え?…」
「……土地が、…なんだって?」
さっきまでの甘い空気は瞬時に逃げ出し、絶対零度の空間が秒で出来上がった。もちろん、逃げ場がないことも把握済み。
「…確かにセキュリティのいいところに引っ越せと言ったのは俺だし、なんなら同棲しちゃえよとか言ったけど…まさか結婚して庭付き一戸建てに住むなんざ思ってもみなかったよな」
「織田くんが付いていながら笑顔で「土地買いました」とか言ってた時は、二人して何をトチ狂ったのかと思ったけど、将来性のある話でよかったよね」
「これ、結婚が先なら分かるけどさ、家が先とか、いやほんと横峯さんが貰ってくれてよかったよ。今更いらないなんて言われたら見える未来は孤独死だ」
「下手したら一人でろくに管理しきれない廃屋を生み出した可能性もあったわけだし、そうなったら僕か本田くんが付いていけばよかったなんて後悔しても遅い現実になってたよね」
「いや廃屋以前に、これからこいつ一人で間取り考えて住宅を作っていくなんてできっこないだろ。よく分からないとかなんとか言って、住みやすさからかけ離れた癖に無駄に品質だけは高級品を揃えた、ごりごりのデザイナーズハウスとかになってた可能性あるぜ?恐ろしいにもほどがある」
「掃除しにくい以前に掃除できない春ちゃんがそんな高級住宅を一人で回せるわけないもんね。建てたその場で廃墟決定だなんて家もかわいそう」
「ましてやそんな土地持ち家持ちの作家に嫁いでくれる奇特な人なんてなかなか現れないんだから、ここらで一発決めたのは懸命な判断だったと思うぜ」
「まぁ春ちゃんなら選り取り見取りだったと思うけど、それでも世間一般的には条件の厳しい子であるのは事実だしね」
「なんにせよ、貰い手があってよかったわ~」
「うるさいよ!そこのおっさん二人組!!」
次の週の月曜日、今日は新作打ち合わせのために本田さんと織田くん、それから井上さんが来ている。場所は律のマンションで、大きなリビングに大人4人が膝を突き合わせて座っているのだ。
先週の甘い雰囲気から一転したあの日は、私から洗いざらい話を聞いた律が大きなため息を一つついて不動産屋に電話をした。これからは自分もやり取りに付き合うことを伝え、結婚をするのでそれに伴う名義変更や書類上の処理について細かく確認した後、また後日場を設ける約束を取り付けて電話を切った。
二人で住むと意気込んでいたくせに、いざ律に何も相談しなかったことが今更ながらが不安になる。けれど律は私の頭を撫でながら優しく微笑んでくれた。
「地図上の立地的には特に問題ありませんし、近くにスーパーやコンビニ、薬局等もあって利便性も問題なさそうです。朝夕の周囲の様子や防犯面は少し確認をしたいところですが、見たところ閑静な住宅街の一環ですし大丈夫かと。それに、」
「…それに?」
「…透が…私と一緒に住む未来を想像しながら選んだのなら、それを信じています。もちろんこれからは一緒に決めていきますけれど、ちゃーんと私のことを養ってくださいね、旦那様」
なんて言うから、「ま、任せといて!」と言う声が裏返ってしまったのも大いに情けない話である。
そうやって律は私を甘やかすから、きっとなんでもできてしまうのだ。それ以上は辞めて!と思うけど、その笑顔に何も言えなくなってしまうから困ったものである。
「…どうなるかと思ったけど、春ちゃんと横峯さん、なんだかんだまとまっちゃうんだもんなぁ…」
「…?それってどういう…」
「受賞発表の前後から、二人に何かあったことくらい気づいてるんだよ、こっちは」
「、ええ!そ、れは…なんとも、お恥ずかしい…」
「織田くんくらいだよね、分かってなかったの。僕なんて春ちゃん家に来たときから気づいてたよ」
「そ、そんなにぎくしゃくしてましたか…」
「…んーそんなにあからさまではなかったが、な」
「春ちゃんのことずっと見てきたんだから、すぐに分かるよ」
確かに、特に学生時代からお世話になってる本田さんとは律と同じくらい長い付き合いになるのだ。厳しい人だけど時に兄のように親身なってくれる本田さんには上がらない頭もいくつかある。
井上さんは本田さんと同期で入社したらしく、出版社で本田さんと打ち合わせをしていた時にわざわざ挨拶に来て下さった時以降、何かと気にかけていただいている。そのときは井上さんもコミックス編集者として働いていて、本田さんにきついことを言われて落ち込む私を励ましてくれたり、「専門の畑は違うけどね」なんて言いながらも新御にネタ集めを協力してくれたりしたこともあった恩人である。
二人にはもちろん、今も私の手となり足となり動いてくれる織田くんにはお世話になりっぱなしで、いい出版社に出会えたなぁと思う反面、ズケズケ言ってくる二人には心抉られる思いもしているのだから、やってられない!とうなだれるのも許してほしい。
「…まぁなんにせよ、二人がまとまってくれたんなら俺としてはよかったよ。横峯さんのことはお前からずっと聞いてきたしな。心配してたんだ」
「…ご心配おかけしてすみません…」
「…落ち着くところに落ち着いたんなら、安心だよ。よかったな、春野」
「本田さん…、!ありがとうございます」
やっぱり、私の周りは優しさで溢れている。
そんな風に三人でぎゃいぎゃい話していると、律が書斎から出てきた。今日は午後不動産屋に行く予定なので、律が有給を取ってくれたのだ。律と平日にランチができるかも!と喜んでいたのもつかの間、急な仕事の電話が入り書斎に籠もってしまった。そんなことをしてたら、午前中に終わる予定だった私の打ち合わせも急遽井上さんが同席することになり、時間がお昼に差し掛かってきて、律が仕事なのを良いことに私は今もぐだぐだと本田さんたちと打ち合わせを続けている。同時に織田くんがキッチンから顔を出して、リビングが一気ににぎやかになった。
「あ!横峯さん!お邪魔してます。キッチン勝手にお借りしちゃってすみません!」
「いえ、こちらこそ。来ていただいたのになんのお構いもできず申し訳ありません。織田くん、お茶の用意ありがとうございます。不自由はありませんでしたか?」
「まさか!きれいに整頓されていて、ほんとに素敵なキッチンですね!しかも俺の知らない調味料とか並んでて、どんな料理が出てくるんだろうと思ったらもう俺感動しちゃって!」
「いえ、そのようなことは。作れるものも簡単なものばかりですよ」
「織田。横峯さんこんなこと言ってるけど、簡単なものを、とか言って魚捌きだしたりするからな。なぁ、春野」
「あー、ありましたね。初の映画化祝に本田さんが新鮮な鯛を尾頭付きで持ってきてくれて。捌いて料理にしてもらう予定だった料亭が急遽ダメになって、どーすんだー!って時に、律が鯛のフルコース作ってくれたんですよね」
「しかも、骨も肝もぜーんぶ使って料理してくれたから、きれーに三人で食べきったんだよな」
「…やば…横峯さんどこまでスパダリなんですか…」
織田くんはすっかり律のことを尊敬していて、律を前にするとあるはずのない耳と尻尾が動いているような感覚に思えてしまうのでなんとも不思議だ。でもそんな織田くんのことを律も気に入っているようで、今もこうしてキッチンにあったイギリスの茶葉について、律儀に質問に答えている。
「律。もうお仕事いいの?」
「はい。おかげさまでうまくまとまりました」
「仕事もできるなんて、イケメンすぎる…!」
何をやっても褒めてもらえる律が羨ましいと思いながらも、本田さんから渡される資料に目をやりながら仕事に集中しようと、織田くんが入れてくれたお茶を飲んで気合を入れた。
「…それで、春ちゃんはこれからしばらく、このマンションに住むんでしょ?」
「あ、はい。土日の間にアパートから必要なものは運んだので、あとは向こうをぼちぼち片付けて、月末には解約する予定です。大きい家具も週末には空にしちゃうし、もうアパートに帰ることはないですね」
「…そう。えらく素早いんだね。これも横峯さんのおかげかな?でもここなら僕も安心だよ。これからは尚更お仕事頑張ろうね、春ちゃん」
新居が出来上がるまで、今のアパートを解約して律のマンションに引っ越すように提案したのは律からだった。そう焦ることはないと私は思っていたが、珍しく律が早く越してくるようにとお願いしてきたのだ。結婚する予定であることと、尚かつ私の住むアパートのセキュリティについては物申したいと常日頃思っていたのたなんて言われたらぐうの音も出ない。私にとっては一国一城の素敵な家なのだが。
「別々の家に帰る為に別れの挨拶をするのが、ずっと嫌だったんです。さよならじゃなく、ただいまを言いたい」
そんなことを言う律に見事ほだされた私はやる気に満ち満ちた状態でアパートを片付けたのだ。律も一緒に手伝ってくれたので大まかな引っ越しは休み中に終わり、今では大きな家具の処分を待つ見である。
それでも仕事に余裕のある今この間に進めるので、解約まではだいぶハードスケジュールだが、律と一緒に進めるとなんでもうまくいくから不思議だ。
律の住むマンションは私のアパートに比べて桁違いに広くきれいで、今日初めて訪れた本田さんも「ここなら安心だな」なんて言って笑っていた。
井上さんの言うように、仕事も今まで以上に頑張らないといけない。作家なんて人気商売だから、世の中においてかれないように、ちゃんと仕事をして稼がないと、と息巻く私に、「なら、早速…」と本田さんが仕事の話を進める。
「昨日送ってくれたプロットだけど、」
「はい!今回自信あります!直すとこあったら直しますけど、あ、でも!作中のヒーローとヒロインの掛け合いは絶対いれたいなって思ってて!」
「全部、ボツ」
「………は?」
「だから、ボツ。掛け合いを入れる入れない以前に、全体的にボツ」
「、え?ちょ、なんで?!」
「面白くないから」
「そんな一言で…っ!ちょっと織田くん!この人なんとかして!」
本田さんの隣に座る織田くんに助けを求めるが、困った顔をしながらこちらを見ている。
「俺はこの二人の出会いのシーンを、もう少し情熱的にすればいいんじゃないかなぁと思ったんですが…」
「お前らはあほか。これのどこが面白いんだ。そもそも主人公の設定から見てられないんだよ」
「そもそも大前提のとこじゃない!ひどい!寝ずに考えた設定なのに!」
「寝ようが寝まいが面白いか否かの話なんだよ。わかったら早々に新しい話を考えろ。織田、スケジュールの確認」
「…はい、えぇーっと…そうですね。エッセイの依頼もきていることですし、明日までに次のプロットを」
「織田くんもだいぶ本田さん並に横暴になってきたよね。明日って何よ明日って」
今度は最近になって横暴さに磨きがかかってきた織田くんも含めて、打ち合わせという名のボディブローを受けることになり、私はまた大きく項垂れた。
その時、律と井上さんが二人で話している内容なんて、知ることもなく。
気だるい体から、優しくも荒々しい律に翻弄された昨夜を思い出して体が火照る。結局動けなくなった私の体を拭いて服を着せて、スキンケアからヘアケアまでしてベッドに寝かせてくれた律にはもう頭が上がらない。頑張るといった意志はどこに行ったのか。風呂のお湯に溶け出たのかもしれない。ただ、その時の律の顔がとても幸せそうだったから、まぁ私もぼちぼち頑張ろうなんて思っては柔軟剤が香るシーツの中でクフクフ笑っていると、開けっ放しのドアを潜った律がベッドへやってくる。
「透。おはようございます。何を笑っているのですか?」
「おはよー律。ううん、ちょっと…思い出し笑い」
大したことじゃないのにまだニヤけた顔が収まらない私の頬を律の手がするりと撫でる。
「…体の調子はどうですか?」
「…ふふ、そんな顔しなくても大丈夫だよ。むしろしっかり寝れて元気になった。やっぱり、律がいないとだめだね」
ふふふと笑う私に、律は優しく目尻を落とした。
「…それはよかった。なら…」
「…?」
「昨晩の話、じっくり聞かせてもらいましょうか」
「……え?…」
「……土地が、…なんだって?」
さっきまでの甘い空気は瞬時に逃げ出し、絶対零度の空間が秒で出来上がった。もちろん、逃げ場がないことも把握済み。
「…確かにセキュリティのいいところに引っ越せと言ったのは俺だし、なんなら同棲しちゃえよとか言ったけど…まさか結婚して庭付き一戸建てに住むなんざ思ってもみなかったよな」
「織田くんが付いていながら笑顔で「土地買いました」とか言ってた時は、二人して何をトチ狂ったのかと思ったけど、将来性のある話でよかったよね」
「これ、結婚が先なら分かるけどさ、家が先とか、いやほんと横峯さんが貰ってくれてよかったよ。今更いらないなんて言われたら見える未来は孤独死だ」
「下手したら一人でろくに管理しきれない廃屋を生み出した可能性もあったわけだし、そうなったら僕か本田くんが付いていけばよかったなんて後悔しても遅い現実になってたよね」
「いや廃屋以前に、これからこいつ一人で間取り考えて住宅を作っていくなんてできっこないだろ。よく分からないとかなんとか言って、住みやすさからかけ離れた癖に無駄に品質だけは高級品を揃えた、ごりごりのデザイナーズハウスとかになってた可能性あるぜ?恐ろしいにもほどがある」
「掃除しにくい以前に掃除できない春ちゃんがそんな高級住宅を一人で回せるわけないもんね。建てたその場で廃墟決定だなんて家もかわいそう」
「ましてやそんな土地持ち家持ちの作家に嫁いでくれる奇特な人なんてなかなか現れないんだから、ここらで一発決めたのは懸命な判断だったと思うぜ」
「まぁ春ちゃんなら選り取り見取りだったと思うけど、それでも世間一般的には条件の厳しい子であるのは事実だしね」
「なんにせよ、貰い手があってよかったわ~」
「うるさいよ!そこのおっさん二人組!!」
次の週の月曜日、今日は新作打ち合わせのために本田さんと織田くん、それから井上さんが来ている。場所は律のマンションで、大きなリビングに大人4人が膝を突き合わせて座っているのだ。
先週の甘い雰囲気から一転したあの日は、私から洗いざらい話を聞いた律が大きなため息を一つついて不動産屋に電話をした。これからは自分もやり取りに付き合うことを伝え、結婚をするのでそれに伴う名義変更や書類上の処理について細かく確認した後、また後日場を設ける約束を取り付けて電話を切った。
二人で住むと意気込んでいたくせに、いざ律に何も相談しなかったことが今更ながらが不安になる。けれど律は私の頭を撫でながら優しく微笑んでくれた。
「地図上の立地的には特に問題ありませんし、近くにスーパーやコンビニ、薬局等もあって利便性も問題なさそうです。朝夕の周囲の様子や防犯面は少し確認をしたいところですが、見たところ閑静な住宅街の一環ですし大丈夫かと。それに、」
「…それに?」
「…透が…私と一緒に住む未来を想像しながら選んだのなら、それを信じています。もちろんこれからは一緒に決めていきますけれど、ちゃーんと私のことを養ってくださいね、旦那様」
なんて言うから、「ま、任せといて!」と言う声が裏返ってしまったのも大いに情けない話である。
そうやって律は私を甘やかすから、きっとなんでもできてしまうのだ。それ以上は辞めて!と思うけど、その笑顔に何も言えなくなってしまうから困ったものである。
「…どうなるかと思ったけど、春ちゃんと横峯さん、なんだかんだまとまっちゃうんだもんなぁ…」
「…?それってどういう…」
「受賞発表の前後から、二人に何かあったことくらい気づいてるんだよ、こっちは」
「、ええ!そ、れは…なんとも、お恥ずかしい…」
「織田くんくらいだよね、分かってなかったの。僕なんて春ちゃん家に来たときから気づいてたよ」
「そ、そんなにぎくしゃくしてましたか…」
「…んーそんなにあからさまではなかったが、な」
「春ちゃんのことずっと見てきたんだから、すぐに分かるよ」
確かに、特に学生時代からお世話になってる本田さんとは律と同じくらい長い付き合いになるのだ。厳しい人だけど時に兄のように親身なってくれる本田さんには上がらない頭もいくつかある。
井上さんは本田さんと同期で入社したらしく、出版社で本田さんと打ち合わせをしていた時にわざわざ挨拶に来て下さった時以降、何かと気にかけていただいている。そのときは井上さんもコミックス編集者として働いていて、本田さんにきついことを言われて落ち込む私を励ましてくれたり、「専門の畑は違うけどね」なんて言いながらも新御にネタ集めを協力してくれたりしたこともあった恩人である。
二人にはもちろん、今も私の手となり足となり動いてくれる織田くんにはお世話になりっぱなしで、いい出版社に出会えたなぁと思う反面、ズケズケ言ってくる二人には心抉られる思いもしているのだから、やってられない!とうなだれるのも許してほしい。
「…まぁなんにせよ、二人がまとまってくれたんなら俺としてはよかったよ。横峯さんのことはお前からずっと聞いてきたしな。心配してたんだ」
「…ご心配おかけしてすみません…」
「…落ち着くところに落ち着いたんなら、安心だよ。よかったな、春野」
「本田さん…、!ありがとうございます」
やっぱり、私の周りは優しさで溢れている。
そんな風に三人でぎゃいぎゃい話していると、律が書斎から出てきた。今日は午後不動産屋に行く予定なので、律が有給を取ってくれたのだ。律と平日にランチができるかも!と喜んでいたのもつかの間、急な仕事の電話が入り書斎に籠もってしまった。そんなことをしてたら、午前中に終わる予定だった私の打ち合わせも急遽井上さんが同席することになり、時間がお昼に差し掛かってきて、律が仕事なのを良いことに私は今もぐだぐだと本田さんたちと打ち合わせを続けている。同時に織田くんがキッチンから顔を出して、リビングが一気ににぎやかになった。
「あ!横峯さん!お邪魔してます。キッチン勝手にお借りしちゃってすみません!」
「いえ、こちらこそ。来ていただいたのになんのお構いもできず申し訳ありません。織田くん、お茶の用意ありがとうございます。不自由はありませんでしたか?」
「まさか!きれいに整頓されていて、ほんとに素敵なキッチンですね!しかも俺の知らない調味料とか並んでて、どんな料理が出てくるんだろうと思ったらもう俺感動しちゃって!」
「いえ、そのようなことは。作れるものも簡単なものばかりですよ」
「織田。横峯さんこんなこと言ってるけど、簡単なものを、とか言って魚捌きだしたりするからな。なぁ、春野」
「あー、ありましたね。初の映画化祝に本田さんが新鮮な鯛を尾頭付きで持ってきてくれて。捌いて料理にしてもらう予定だった料亭が急遽ダメになって、どーすんだー!って時に、律が鯛のフルコース作ってくれたんですよね」
「しかも、骨も肝もぜーんぶ使って料理してくれたから、きれーに三人で食べきったんだよな」
「…やば…横峯さんどこまでスパダリなんですか…」
織田くんはすっかり律のことを尊敬していて、律を前にするとあるはずのない耳と尻尾が動いているような感覚に思えてしまうのでなんとも不思議だ。でもそんな織田くんのことを律も気に入っているようで、今もこうしてキッチンにあったイギリスの茶葉について、律儀に質問に答えている。
「律。もうお仕事いいの?」
「はい。おかげさまでうまくまとまりました」
「仕事もできるなんて、イケメンすぎる…!」
何をやっても褒めてもらえる律が羨ましいと思いながらも、本田さんから渡される資料に目をやりながら仕事に集中しようと、織田くんが入れてくれたお茶を飲んで気合を入れた。
「…それで、春ちゃんはこれからしばらく、このマンションに住むんでしょ?」
「あ、はい。土日の間にアパートから必要なものは運んだので、あとは向こうをぼちぼち片付けて、月末には解約する予定です。大きい家具も週末には空にしちゃうし、もうアパートに帰ることはないですね」
「…そう。えらく素早いんだね。これも横峯さんのおかげかな?でもここなら僕も安心だよ。これからは尚更お仕事頑張ろうね、春ちゃん」
新居が出来上がるまで、今のアパートを解約して律のマンションに引っ越すように提案したのは律からだった。そう焦ることはないと私は思っていたが、珍しく律が早く越してくるようにとお願いしてきたのだ。結婚する予定であることと、尚かつ私の住むアパートのセキュリティについては物申したいと常日頃思っていたのたなんて言われたらぐうの音も出ない。私にとっては一国一城の素敵な家なのだが。
「別々の家に帰る為に別れの挨拶をするのが、ずっと嫌だったんです。さよならじゃなく、ただいまを言いたい」
そんなことを言う律に見事ほだされた私はやる気に満ち満ちた状態でアパートを片付けたのだ。律も一緒に手伝ってくれたので大まかな引っ越しは休み中に終わり、今では大きな家具の処分を待つ見である。
それでも仕事に余裕のある今この間に進めるので、解約まではだいぶハードスケジュールだが、律と一緒に進めるとなんでもうまくいくから不思議だ。
律の住むマンションは私のアパートに比べて桁違いに広くきれいで、今日初めて訪れた本田さんも「ここなら安心だな」なんて言って笑っていた。
井上さんの言うように、仕事も今まで以上に頑張らないといけない。作家なんて人気商売だから、世の中においてかれないように、ちゃんと仕事をして稼がないと、と息巻く私に、「なら、早速…」と本田さんが仕事の話を進める。
「昨日送ってくれたプロットだけど、」
「はい!今回自信あります!直すとこあったら直しますけど、あ、でも!作中のヒーローとヒロインの掛け合いは絶対いれたいなって思ってて!」
「全部、ボツ」
「………は?」
「だから、ボツ。掛け合いを入れる入れない以前に、全体的にボツ」
「、え?ちょ、なんで?!」
「面白くないから」
「そんな一言で…っ!ちょっと織田くん!この人なんとかして!」
本田さんの隣に座る織田くんに助けを求めるが、困った顔をしながらこちらを見ている。
「俺はこの二人の出会いのシーンを、もう少し情熱的にすればいいんじゃないかなぁと思ったんですが…」
「お前らはあほか。これのどこが面白いんだ。そもそも主人公の設定から見てられないんだよ」
「そもそも大前提のとこじゃない!ひどい!寝ずに考えた設定なのに!」
「寝ようが寝まいが面白いか否かの話なんだよ。わかったら早々に新しい話を考えろ。織田、スケジュールの確認」
「…はい、えぇーっと…そうですね。エッセイの依頼もきていることですし、明日までに次のプロットを」
「織田くんもだいぶ本田さん並に横暴になってきたよね。明日って何よ明日って」
今度は最近になって横暴さに磨きがかかってきた織田くんも含めて、打ち合わせという名のボディブローを受けることになり、私はまた大きく項垂れた。
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