最強師弟は歪な愛の契を結ぶ

【第一章】少女、旅に出る

ひらがなと少女（1）

　その日少女は思い出した。
　それは突然、まるで天啓が降り注ぐかのように思い出したのだ。

　自分の過去、いや前世の全てを。


「ねぇ、マリィ」

「いかがなさいましたか？　お嬢様」


　そしてこの日から伯爵家の娘として生まれた現世の人生が、大きく変動していくことになるのだが――少女はまだその事には気づいていなかった。


「わたし、《にほんじん》だったみたい」

「にほ……なんです？　それは、って！　き、きゃあああ！」



　その時、少女とその側仕えのマリィの頭上に《にほんじん》の文字、それも少女が前世で使っていた“ひらがな”のゴシック体が放たれた。
　それは広い部屋の天井を覆うほどに大きく、ふわふわと宙に浮いている。


「なつかしいなんて、なんだか変な気分だわ」

「お、お嬢様！　こちらへ！」


　自身の主である少女を守るべく、マリィは恐怖から震える足を叱咤する。しかしマリィの悲劇はこれで終わらない。


　この後頭上高く浮かび上がるゴシック体のひらがな《にほんじん》がその浮力を失い、マリィを押し潰してしまうまで後、数秒――



　　　　　◇◇◇



　ここは大国ランドローバーの東に位置するフォーデン伯爵領。そこは朝から異様な静けさに満ちていた。

　立派な門前に立つのは、先日五歳の誕生日を迎えたばかりの幼い少女だ。
　少女の顎下あたりで切りそろえられた髪が風に靡いている。それはこの国でも珍しい白銀の色をしていた。


　そんな少女は深藍の瞳を輝かせながら、目の前に立つ門扉とそこにいる者達全員を順番に見上げた。これまでたった五年間とはいえ幼少期の自分を育て、慈しみ、愛してくれた人たちのことを。きっとこの先どれほど年月が経とうと絶対に忘れないと胸に刻みながら。


「ではお父様、いってまいります」

「………………うむ」


　少女にお父様と呼ばれた男、フォーデン伯爵は、その渋い顔の眉間に深くシワを寄せ長い間を空けてから頷きを返した。


「我が娘よ。この国ではその身に魔術の属性が現れたならば、魔術師の里“エイ”へと赴かねばならん」

「はい」


　所々喉を詰まらせながら語る伯爵に少女は至極冷静に返事をした。

　伯爵は目尻に溜まる涙を流さぬよう空を見るように天を仰ぐ。


「そして立派な魔術師と、っなり、この国にちゅ、忠誠をち、ちか……っ、うぅ」

「お父様、ハンカチを」

「ぅ、うむ」


　伯爵はその小さな手から渡された白いレースのハンカチを握りしめる。溢れかえった涙と鼻水でべたべたに濡れた立派な口ひげを美しいハンカチで拭った後少女に返した。

　少女はぐっちょりと濡れたハンカチを気にも止めず、きれいに折りたたんでからスカートのポケットに戻す。


「スーッ……ハァー……そのためにもぉ！　我らこれよりし、っ暫しの！　別れぇっ！」

「はい」

「た、大義を……っ、くぅっうぅぅ……！」

「お父様、ハンカチを」


　伯爵はまたしても少女から手渡されたハンカチを顔に当て、今度はおいおい泣き始めた。言葉にならない激しい嗚咽は涙と鼻水を周囲に撒き散らし、その様子をじっと見上げる少女にも振りかかる。

　しかし少女は微動だにせず、父が次に放つ言葉をじっと待ち続けた。

「スーッ……ハァー……大義を、果たしなさい……！」


　この言葉は自身が魔術を発動させてからかれこれ何百回と聞かされていたものだった。

　父が厳しい顔をして語る度に、少女は自分の中で膨らむ決意を心に宿してきた。


「はい。この命、ランドローバーの名の元に」


　同時に幼い少女の大きな決意を、この場にいる全員がその胸に刻んだのだった。