その女、こじらせること約10年

あまき

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「……今、なんて言ったんだい?」

彼は「耳が遠くなったかな」なんて少し笑って言った。

「…お望みなら何度でも言うわ。あたしたち、もう終わりにしましょう」

廉太郎さんと出会って、お互いに同じ思いを寄せ合って10年。決して短くはない年月を共に過ごした彼との今までを、その未来全てを終わらせるために、今日私はここへ来た。

「なにを言って」
「あたしはいつまでも貴方の愛人として隣に居座るつもりはないの」
「愛人…って」

年が20と離れたあたしたちは、親子にも兄妹にも間違われることはなかった。それでも周囲から恋人と見られたことは一度もなく、すれ違った後に見知らぬ人からも囁かれるのは嘲笑と、それから『愛人』という言葉だけ。
その度に「恋よりも愛だなんて素敵よね」と、高いヒールを履いて距離が近づいた彼の腕に手を絡めて、にっこりと笑っていたのは私。それを見て柔らかく笑ったのは彼。否定も肯定もされないことにいちいち傷ついていた乙女はとうの昔に消え去った。今あるのはただただ熟しきったドロドロの実のようなあたし。甘酸っぱさなんて無くなって、一番の食べ頃さえも過ぎ去った可哀想な果実。残るは廃れきった関係だけだ。


これは本当に愛だったのか、いや恋ですらなかったのだ。そんな祝福めいたものをこれまで甘受したことはあっただろうか。


「なぜ?私たちは今までうまくやってきたじゃないか」
「そうね。本当にうまくやってきたわ」

特にプレゼントをねだったこともない。でも誕生日やイベント毎に必ず身につけるものを贈ってくれた。次に会うときにそれを身につけるあたしを見て、彼はにっこりと笑ってくれるのだ。

「それに、愛人だなんて一度として思ったことはないし、君にそう言ったこともない」
「そうね。言われたことはなかったわ」

愛人、という枠に一人勝手に囚われていたのはあたしだ。なんともないと言いながら、一番周りの目を気にしていたのも、あたしだ。

「私は君を愛している。それでも終わり告げられるのか?」
「………そうね、あたしは愛されてきた」

彼はこの10年、あたし一人を愛してきた。浮気もよそ見も一度もなかった。その唯一の人にあたしも20代の大半を、愛をすべて注いできた。
だからこそ分かる。

「あなたは私を愛してくれるけれど、私に愛を乞うたことは一度もないわよね?」
「…………え?」

あたしが贈ったプレゼントを、彼もすべて身につけてくれた。ネクタイも時計もオードトワレも、私が彼を思って選んだものをとても大事にしてくれている。けれど、

「お金も宝石もセックスも愛も、あなたが与えてくれるもの全てに私は満ち足りていた」
「…なら、どうして」
「あたしは一度でいいから、あなたから愛を乞われたかったわ」

けれど、違ったのだ。彼があたしに求めていたことは、そんなことではなかった。
あたしが彼に愛の言葉を囁かなくなった日のことを、彼は気づいているのか。あたしは彼から「愛してる」と言われれば「あたしも」って、「愛してる」って、返してきた。彼だって、あたしから愛を乞えば必ず返してくれた。

だけどあの時、彼のベッドルームの引き出しをあけた時から、簡単には愛を返せなくなった。
同時に彼があたしに望むものを、あたしは与えられないのだと思い知らされた。だって、無理だもの。

「楓、一体どうしたんだ」
「ふふ。あたしもやきが回ったわね。33もすぎて誰かの女になりたいだなんて」
「…楓は私の女だろう」
「あなたが欲しがっているのは女じゃない………自分の最期の見届け人よ」

引き出しの奥に見つけたものは、封筒に入った手紙だった。見てはいけないと頭で警鐘が鳴り響いたのに、あたしは開かずにはいられなかった。

「あたしは貴方の人生が欲しかった。共に歩むその先の時間を望んでいた」
「私だってそうだよ」

嘘つき、と…その時心が大きく叫んだ。

「違うわ。貴方があたしに望んだことは、自分の人生が終わった後の処理係よ!」
「まさか…手紙を、読んだのか?」
「っ…ええ、読んだわ……勝手に」

遺書ともとれるそれは、自分がいなくなった後の多くをあたしに残すためのものだった。彼には親兄弟もおらず、法律上同じ籍に入るものもいない。
全てをあたしに、好きに使ってほしいと書かれた中に、あたしとの関係性については明記されていなかった。

「それは…私のことをよく知るのは君だから、君のことを書いたんだよ」
「相手のことをよく知っていて、でも明記するほどではない関係性を『愛人』と呼ぶんじゃないかしら」
「っ楓!」

もともと結婚願望も強くなかったし、子どもがほしいと思ったこともない。友人の結婚式で夢を抱いたこともなければ、人に贈る出産祝いを羨ましいと思ったこともなかった。

それでも、あたしが彼を愛する気持ちと、彼があたしを愛する気持ちにズレがあると知ってしまってからは、選んでこなかった多くの道の先には、自分が考えもしない幸せがあったのではないかと思うようになった。ウェディングドレスを着て彼と並ぶ姿や、彼の子を胸に抱く姿を、何故か思い浮かべるようになった。同時に、老いた彼に寄り添う自分の姿も……

「あの手紙に書いてあったこと、あたしには務まらないわ。他をあたってちょうだい」
「…務まらないというのは?」
「貴方のいなくなった後の世話なんて、できないってことよ」

この人はあたしと過ごしながら、あたしの元を去った後のことを考えている。会社のこと財産のこと、自分の後始末と、あたしの今後の行く末まで。そんなくだらない妄想には付き合っていられない。

「この10年、あたしは幸せだったわ。あたしはあたしの思う人生をいくから、貴方は貴方の人性を終えた後も、真っ当に“貴方の女”を務められる人と一緒にいてちょうだい」

立ち上がって荷物をもつ。こうなることは分かっていたから、彼の部屋から私物を持ち出していた。ここにあたしの痕跡は残らない。
キーケースから合鍵を取り出して、彼の目の前に置く。

「さようなら」

彼は引き止めない。あたしの顔を見つめるその瞳から、彼の感情は何も分からなかった。でもこれでいい。何かが分かったところで、あたしはどうすることもできない。






玄関でスニーカーを履く。あたしはいつも高いヒールを履いて、背の高い彼の腕に身を寄せて歩くのが好きだった。ここ最近は低いヒールやスニーカーを愛用している。もともとあたしは"こう"だったのだ。早く大人になりたくて、彼に少しでも近づきたくて、背伸びばかりしていた自分を思い出して、自嘲する。これからは少しゆっくりしたい。何も考えずに、ただ時間だけが過ぎてほしい。とうの昔に熟しきった果実として、芳醇とは言い難い朽ち果てた香りを纏って、ひっそりと生きていきたい。それが今のあたしの願いだ。

振り返った先の彼はいつもより遠い気がした。それは単にあたしが踵の低いせいか、あたしたちの心の距離がそうさせるのかは、今のあたしに考えるだけの余力は残っていなかった。
とにかく、笑え、最後に…最高の笑顔で。とびっきりの優しい顔を、彼に刻んでやれ。



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