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知らない人

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(……どうしよう…しまった、これは完全に…)

「…迷った……」

 家事代行業務の終わりの時間になったら来てくれるはずの迎えの人が、今日は待てども来なかったので、悠也は置き手紙をして帰ろうと廊下に出た。
 けれどここに通って一ヶ月も経つというのに、未だに覚えられない道順は悠也の頭を狂わせた。どこもかしこも似たような景色の廊下に、気がついた頃にはすでに遅し、悠也はすっかり広い邸で迷ってしまったのだった。
 裏口に行きたいだけなのに、なんだか足を踏み入れたことのない奥まで来てしまったようで、これは誰かが通りすぎるのを待とうかと、廊下の柱に凭れて座り込む。

(こんなことになるなら、おとなしく迎えを待てばよかった。けれど声を上げても誰も来なかったし、雪乃さんが今日はお客さんも来るって言ってたし、きっと忙しいんだろうなと思って…)

 人の気配もしない所で、悠也は心細さにぶつぶつと俯く。

「はぁ…雪乃さん、どこかなぁ…」



……ドンッ!

「…え?…っ!うわ!」

 悠也のため息と同時に真横にあった襖がすっ飛んでいって、何が起きたのか分からないまま、悠也は思わず顔と頭を腕で覆う。
 恐る恐る顔を上げた先には、体格のいい男が転がっていて、飛んでいったのは襖だけではなかったのだと気づいた。目の前に転げた男は腰をさすりながら、悠也の横、襖のあった場所を睨みあげている。


「…っこんの、くそあまぁっ!俺に手ぇ出して、相応の覚悟できてんだろうなぁ!」
「ひっ!」

 男の人の大きな怒鳴り声というのは、震え上がってしまう程に恐ろしいのだと、悠也はこの時初めて知った。思わずぎゅっと耳をふさいで縮こまる。早くここから立ち去らないといけないことは分かっているのに、体が震えて動かない。


 その時、すぐ横からぬっと姿を表したのは、雪乃だった。安心できるその人に、悠也は手を伸ばして縋ろうとしたが、下から見えた雪乃の表情は今までに見たことがないほど冷たいもので、背筋が凍っていくのが分かる。

 雪乃は真横にいた悠也に気が付かないのか、ゆっくりと転げた男に近づいて行って、あの透きとおるような美しい声を邸の廊下に響かせた。

「先に手ぇだしたんはてめぇだろ。黙って聞いてりゃぁごちゃごちゃと…つまりはなにか、私らにお前らの傘下に入れって言ってんのか」
「い、いい、いつまでも女組長でやっていけると思うな!俺たちが代わりに島を繁栄させてやろうと思って」
「食いっぱぐれ三男坊のてめーが自分の居場所作りにウチに取り入ろうとしてることくらい百も承知なんだよ」
「なっ」
「ヤク漬のボンボンは、大人しく自分の島で踊ってろよ、なぁ!」

 ドカッとした音と同時に、雪乃は己の足を男の胸に踏み下ろした。

「ぅあ!…っ貴様、それを、っぅ…どこでっ!」
「めでてぇ頭だなぁ、お前も」

 そっと足を離してやった雪乃だったが、男は自身の胸を押さえながら怒鳴り散らした。

「…こんの、女の分際で!困ったら股開いてきたんだろ!この…っあばずれが…、ひっ…」
「………あ?」


 その男の一言で、場の空気が変わったのが悠也にもわかった。肌がぴりぴりと痛くて、まるで微弱な静電気を全身に浴びているかのようで。それは震える悠也の後ろ、背中が触れる壁の奥から感じた。しかし一等びりびりとしていたのは、目の前の雪乃だったと、この直後に知ることとなる。

 雪乃が座り込む男の顔に自身の顔をぐっと近づけて、愉快そうな声を上げた。


「ははっ、いいねぇお前」


 雪乃の腕が、固まったまま動かない男の首にかけられて、そのままひょいと持ち上げた。それはこの小さい体のどこにそんな力があるのかと思うほどで、腹の底から出したような声に、悠也は背筋が凍るようだった。


「お望みならてめーのケツも掘って今すぐ女にしてやろーか?こちとらドデカイのいくつも携えてんだよ」


 苦しそうに藻掻く男にその言葉が届いたのかは分からないが、男は雪乃の腕を掴んで音にならない声を上げてジタバタと体を揺すった。息ができないのか、青白くなっていくその顔を見て、悠也はついに音を上げた。
 恐怖が極限に達して、静かに、けれどその場に響くような悲鳴が喉を通っていく。



「…ひっ…」



 ぴくりと体を震わせた雪乃が、静かにくるりと振り返る。蹲る悠也を見て、雪乃の目が少し見開かれる。腕の力を緩めたらしく、ドスンっと落ちた巨体が大きく咳き込んで、苦しそうに喉を抑えている。

「…お前」
「ひっ、あ…あの、み、道、まよっ、て…!」

 何かを言われるか、はたまた怒鳴られるのか。悠也の声はいつにも増して震えていた。けれどこれが恐怖からくる震えではないことを、悠也は分かっていた。
 不安なのだ。今目の前にいるのは、自身が何よりもかっこいいと、美しいと思った雪乃なのに。いつもの知っている雪乃じゃないということが、こんなにも不安にさせるのだ。
 同時に、これが西に君臨するトップの恐ろしさかと身にしみて感じた。赤い部屋を見た時の非じゃない。ここに来て初めて、腹の底から感じる恐怖を得た。

「…山田。田中様のお帰りだ。丁重に送り届けろ」
「さ、田中様。こちらへ」

 山田、と呼ばれた人を悠也は知らないが、無意識に声のした方を振り向いた。すぐ横に見慣れたスラックスがあることに気が付いて、ハッと息を呑む。それは義久のもので、ずっと自分の横にいたのかと思うと、少しだけほっとした。
 しかし悠也は助けを乞う気持ちで見上げて、そして心底公開する羽目になる。

「っ…ぁ」

 悠也を見下げるその目から感じるソレは、今なお肌に刺さるピリピリとひた空気なんてかわいいもので。喉をきゅっと締められるような息苦しさを感じて、耐えられずに自分の体を抱きしめた。そして気づいた。
 これが、“殺気”というものなんだ。


「さあ、立てますか。参りましょう」

 今までに一度も言葉を交わしたことのない山田という男が優しい声色で声をかける。悠也は静かに涙を流しながら、目の前に出された手にすがりついた。
 山田に腰を支えられて立ち上がった悠也はゆっくり、でも強い力で引っ張られるように立ち上がり、その場を後にする。一度ちらりと振り返った先の雪乃は、もう悠也のことなど見ておらず。ちょうど目の前の蹲る男に向けて大きく腕を振りかぶっていて、悠也はぎゅっと目を瞑って前を向いた。

(あれが、あれが玉城雪乃という人だ…俺が知っていて、知らない、極道の中の極道…西のトップ…)

 雪乃が直接誰かに手を上げるのを、悠也が見たのはこの時が初めてだった。




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