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6巻
6-3
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神は全部で七人。
命の神フィリア、光の神ライドルグ、闇の神ダグラス、火の神アグナム、水の神アクリア、風の神ウィルム、土の神アトラグス。
だというのに、人類は四種族。
人間、獣人、シルフィド、メタリオ。
「し、しかしそれは複数の神の影響が一つの種族に出たということではないのですか?」
「なるほど、そういう可能性もあるだろう」
ゴーディの意見にヴェルムドールは頷いた後、だが……と続ける。
「それでは問題が出る。たとえば、命と光の神の影響が人間であったとしよう。キャナル王国が光の神を信奉しているといっても、あそこが様々な人種のいる国であることを考えれば、これは決して暴論ではない。そして、水と風の神の影響がシルフィド、火と土の神の影響がメタリオだとしよう。まあ、仮に……だがな」
ここまできて、ゴーディも理解する。
そう、足りないものがある。
ゴーディの瞳に理解の色が宿ったのを見て、ヴェルムドールは頷いた。
「ならば、闇の神ダグラスの影響は何処にある? 今の人類領域では、闇の神を信奉する者はほぼいないという。闇の神だけは、どの種族にも関わらなかったと言うのか?」
「まさか、それが魔族であると……?」
ゴーディの呟きにヴェルムドールは沈黙し……そして、静かに首を横に振った。
「俺も一時はそう考えていた……が、そもそも我々は人類とは違う枠組だ」
人類と魔族は、同じ大項目のカテゴリである。
人類が人間やシルフィド、メタリオなどに細分化されるように、魔族もゴブリンやビスティアなどの種族に分かれている。
姿形で言えば人類と魔族は似ている部分もあるが、異なるものなのだ。
「ならば、一体……」
「その答えが、イクスラースの中にあった」
ヴェルムドールは、机の中から一束の書類を取り出して机の上に投げる。
それは、諜報員の一人であるアインという名の魔族から受け取った報告書の一部だ。
「ここに、エレメントというモンスターについて記載されている」
エレメントは、ロクナが以前、召喚魔法の研究で人類領域に向かったときに出会ったモンスターだ。
シュタイア大陸にしかおらず、一般的には自然現象の一種であるとされていて、魂すらないとも言われている。
「このエレメントとやらが何か……? まさか、これが闇の神の影響によるものだと?」
ゴーディの眉間の皺はさらに深くなった。
「少し違うな」
ヴェルムドールはそう言うと、報告書をペラペラと捲り始める。
「これは残滓だ。いや、どちらかと言えば呪いの果てという表現のほうが正しいだろう」
何故なら――
「エレメントは過去に実際に存在した種族だからだ」
「……まさか」
「そのまさかだよ、イチカ」
ヴェルムドールは、イチカに頷いてみせる。
「そうだ。イクスラースの始まりは、とある人類……滅びた種族エレメントだ」
5
霊王国ルクレティオ。
かつて、そう呼ばれる国があった。
それは、闇の神ダグラスを信仰するエレメントと呼ばれる種族の住む国であったという。
エレメントは他の人類種族と違い、肉体を持っていなかった。
魔力体と呼ばれる、魔力で構成された非物質体だったとされている。
そのためか、エレメントは魔力の技に非常に長けていた。
ゴーレム生成の術。
鎧などに宿り自分の身体のように動かす術。
自分の魔力濃度を高めて様々な能力を強化する、強化魔法とでも呼ぶべき術。
そういった、他の種族には使えない様々な魔法や能力を扱うことができたのだ。
彼等は常に自由だった。
どの種族よりも長い寿命を持つが故に、生き急ぐ必要はない。
肉の身体に縛られぬが故に、空も簡単に飛んでみせた。
魔力の影響を非常に受けやすいが故に、その身体を火や水にも変えられた。
問題があるとすれば、個体数が少ないこと。そして、肉体を持たぬが故に他種族との交流で不便があることくらいだろう。
しかし、エレメントはそれらを些細なことだとして気にしなかった。
彼等には、長い時間がある。
その中で、いくらでも解決可能なことだと考えていたのだ。
だが、彼等のその悠然とした態度は、他の人類にとっては傲慢にも見えた。
自分達にできないことをやってのけ、自分達に届かない場所にも行ける。
しかも、それらのことを行うのに努力すらしていない。
いや、こちらの努力を嘲笑っているのだ。
そんな妬みが、神々のもとに平等であるはずの人類の中に亀裂を入れた。
そして同時に、他の人類には恐れも生まれた。
エレメントはまるで神々のような力を持っている。
その力をもって、いずれ害を為すのではないか。
もし彼等が攻め込んできたら、我等は対抗できるのだろうか。
彼等は我々を見下しているのだ。
いや、すでに支配した気になっているに違いない。
そういえば、彼等の機嫌を損ねた者が殺されかけたという噂を聞いた。
ああ、なんと恐ろしいのだ。
そんな恐れからくる噂が広がり、次第にエレメントは人類の中で敬遠されるようになっていく。
ある者は露骨に媚びへつらい、ある者は出会った途端に悲鳴をあげ、またある者はひたすら平伏した。
このときになって、初めてエレメントは危機感を抱いた。
しかし、一体何が起こっているのか……彼等に教えてくれるような者はいなかったのだ。
それでも、エレメント達は必死で考えた。
理由は分からないが、自分達は疎外されつつある。
いったい何が悪かったのだろうか。
派手に物を壊したことはないし、人を傷つけたこともない。
ならば、何が原因なのか。
必死で考えたが、答えは出なかった。
それが些細な嫉妬から始まったとは、まったく思いもしなかった。
そういう感情とは、エレメントは長らく無縁だったからである。
しかし、それでも彼等は考えた。
まずは、他種族とのコミュニケーションを今まで以上に心がけてみよう――しかし、彼等に心を開く者はいなかった。
役に立つ魔法を考案して広めてみてはどうだろうか――何か裏があると疑われ、魔法は広まらなかった。
ならばと、エレメント達は各地に出向き、様々な問題の解決に乗り出した。
問題が解決した人々は喜び、エレメント達はこれだと確信した。
しかし、感謝したのはほんの一握りの者だけ。
関係ない大多数の人々は、ついにエレメント達が侵略を始めたのだと恐怖した。
各国の上層部から、エレメント達のもとに山のような抗議が届いた。
これ以上内政干渉を続けるならば軍を出す、と。
エレメント達は仕方なく、他国の問題解決をやめた。
もう何もできることはない。
もう何もするべきではない。
そして、彼等は諦め、他の人類との交流をやめたのだ。
もとより肉体を持たぬ彼等にとって、それは何の痛手にもならなかった。
僅かに届く助けを求める声にも、もはや彼等は応じない。
彼等にお礼を言っていた人達もいつしか恩を忘れ、無責任な噂話に加担するようになった。
ついに、悪い出来事の原因をすべてエレメントに押しつける風潮が始まってしまったのだ。
そして時は流れ、霊王国ルクレティオは一人の幼き女王の時代へと突入する。
霊王イースティア。
闇の神ダグラスの強い加護を受けた若く才溢れる女王の誕生に、エレメント達は喜んだ。
しかし、エレメント達は気づくこともなかった。
霊王イースティアの誕生が、終わりの始まりであったと。
自分たち以外の種族の心の奥底に沈殿し、グツグツと煮えたぎるマグマのような感情など、他者との関わりを絶った者達が気づくはずもない。
そして、このときは闇の神ダグラスですらも気づくことはなかった。
いや、気づくはずもなかっただろう。
彼もまた、そういう感情とは無縁の存在だったのだから。
「……一体、何が起こったというのですか」
ゴーディは、静かに問う。
エレメントと他の人類の不和については理解した。
この先に起こることについても、何となく想像はつく。
だが、これではまだ足りないはずだ。
エレメント達を殺し、根絶やしにしようと思うからには、何か決定的なきっかけがあったはずだ。
そんな意味を込めた問いに、ヴェルムドールは答える。
「疫病だ。相当タチの悪いものが広がったらしい」
疫病は、当時のシュタイア大陸で猛威を振るい、肉体を持つ者達を侵し、ことごとく死に至らしめた。
疫病の広がりは早く、もはや自国だけでは有効な対策をとれない国も多く、各国は協調態勢をとって疫病の根絶に努めた。
人類は持てる知識を結集したが、それでも疫病はなかなか収まらなかった。
誰もが絶望したそのとき、人々を救ったのは一人の賢人であった。
とある小さな村を訪れたその賢人は、全身鎧とマントで顔すらも分からぬ一人の騎士であったという。
騎士は一つの秘法と幾つかの対策を村人に教え、実践してみせた。
そして、それを広く伝えれば疫病は収まると言い残して去っていったという。
騎士の残した秘法と対策は、疫病の広がりを抑えて根絶した。
各国は疫病騒ぎの終結を喜び合い、賢人の功績を讃えた。
しかしながら、その「各国」に含まれていない国がある。
疫病に侵されるような肉体も持たぬ者達の国。
どの国も関わりを避け、またどの国とも交流を持とうとはしなかった国。
いつしか呪国ルクレティオと他国の者達から呼ばれるようになった、エレメント達の国である。
誰もがその国を恐れ、エレメントは人類ではないという話まで出てきた。
自分達には理解できないような技を持つ、肉の身体を持たぬエレメントという存在。
彼等は自分達とは違う。
人類の敵なのではないか。
そして疫病騒ぎが終わった後、人々の間でまことしやかにある噂が囁かれ始めた。
この疫病は、呪国のエレメント達の実験によるものである、と。
荒唐無稽なその噂は、瞬く間に国々を駆け巡り、次第に尾ひれがついていく。
今回の一件は実は疫病ではなく、エレメント達の開発した邪法である。
賢人の騎士曰く、エレメント達は人類を殺そうと目論む邪悪な存在である。
賢人の騎士はエレメント達の暴虐を悲しんだいずれかの神の顕現した姿である。
全ては事実無根、根も葉もない噂だった。
件の村人達もよく観察すれば、騎士の不自然さに気づけただろう。
全身鎧の騎士の兜の奥に何もなかったことに。
その騎士が、内政干渉と言われるのを恐れ、しかし他の人類の苦境を見過ごせず人間のフリをしてやってきたエレメントであることに思い至ったはずだ。
しかし不幸にも誰一人としてその可能性を指摘することはなかった。
今や他の人類にとってエレメントは邪悪な存在であったし、恩人たる賢人の騎士と結びつける者など、いるはずもなかったのだ。
たとえ気づいた者がいたとしても、賢人の騎士に対する不敬と謗られるのを恐れ、口を閉ざしたことだろう。
そしてエレメント達にとって不幸だったのは、賢人の騎士の正体が若き女王イースティアであったことだ。
まだ人類に絶望しきっていなかった彼女だからこそ、同じ人類の仲間を救おうと動いた。
通常であれば女王の高潔さを讃えられるべき行動だっただろう。
しかし、もはや状況は通常と呼ばれる域を超えていた。
何処の国かは分からない。今の四大国のどれかかもしれないし、他の国だったかもしれない。しかし、何処かの国でその発案がなされた。
すなわち、今回の疫病の大元の原因を根絶するべしという提案だ。
次なる悲劇を防ぐため、呪国ルクレティオを人類の総力をもって滅ぼすべきである。
この誘いに、各国の国民は賛成の声をあげた。
今こそ聖なる戦いのときである。
人類が心を一つにし、協力するべきときであると。
そうして起こった「聖戦」は、もはや戦いなどと呼べるものではなかった。
もとよりエレメントは数が少ない。
いかに彼等に卓越した魔法技術があろうと、人を超える力を持つゴーレムがいようと、関係なかった。
肉体がないといっても、彼等を殲滅する方法はいくらでもある。
エレメントは人類の仲間のつもりであったし、元々戦う術には長けていなかった。
エレメント達の異常な弱さ。戦意で高揚する人々は、その事実にさえ気づかない。
むしろそれを神々の祝福と正義によるものであると捉えたのだ。
燃え盛るルクレティオの街々には人類連合軍の凱歌が鳴り響き、エレメント達の悲しみと怨嗟の声が満ちた。
最後まで人類と和解しようとした霊王イースティアも討たれ、その城にも連合軍は攻め込んだ。
連合軍は霊王イースティアの私室で彼女が疫病の根絶のために研究した資料を発見し、これをエレメントが疫病に関わっている証拠であるとした。
少し調べればすぐに誤解であると分かったはずだが、当然そんな検証はされなかった。
必要なのは悪の証拠であり、それ以外の一切は不要だったのだ。
「そして、エレメントは滅びた」
イチカもゴーディも、発すべき言葉を持たない。
どんな言葉も意味がないと知っているからだ。
それはただの後世の批評に過ぎず、人類ですらない彼女達が此処で何かを言ったところで、エレメント達が救われるわけでもない。
「さて、ここで問題だ。何故俺はこの最後の女王……イースティアの話をしたと思う?」
「……そういう、ことなのですな。アレが……そうであると」
ゴーディの導き出した答えを肯定するように、ヴェルムドールは頷く。
「そう、その通りだ。命の女神の最初の被害者、霊王イースティア……それがイクスラースの正体だよ」
「アレは……イクスラースは、それを?」
「勿論知っている。そういう風に仕向けたからな」
そう言って、ヴェルムドールは未処理の書類を一つ手に取る。
イクスラースから提出された魔王城の修復計画に関する書類だ。
それをペラペラとめくり、ヴェルムドールは満足そうに頷いた。
「イクスラースはああ見えて、いい人材だ。できれば……良好な関係を築いていきたいものだな」
6
それは、無限の暗闇。
どこまで行こうと果てはなく。
何時まで待とうと明けはない。
光があるのは、ただ一点。
闇の中に浮かぶ玉座――その場のみ。
玉座に座すのは黒髪の少女。
赤く輝く目が、少女がただの人間ではないと主張している。
しかし、それが真の姿というわけではない。
もっとも、真の姿があるというわけでもない。
一人の人間の嗜好に合うように姿を成したらこうなったという、ただそれだけ。
名すら放棄したそれは……魔神、と呼ばれるモノだ。
魔神。
あらゆる善と悪の理由。
あらゆる矛盾の因子。
あらゆる理論の争点。
善の起点にして悪の終点。
全てが生まれるこの場所で、魔神は満足そうに笑う。
「なるほど、なるほど。なかなかやるじゃないか、ヴェルムドール」
全てを見ていた魔神は、今回の一件をそう評した。
ヴェルムドールがゴーディ達に語ったイクスラースの話は全て真実だ。
悪に祭り上げられたエレメントは、正義を名乗る他の人類によって滅ぼされた。
そして、命の神フィリアがそれを仕組んだことも事実だ。
理由はひどく単純。
エレメントという存在が、人類の中であまりに異質過ぎたからだ。
そして人類は、神々が思うよりも狭量に過ぎたのだ。
不和という毒は少しずつ広がり、人類を蝕み始めた。
妬み、恐れ。
様々な醜い感情が人類を侵し、暴発することは目に見えていた。
それは人類の抱える弱さであり、いずれ人類自身を滅ぼしかねない欠点。
しかし、ほとんどの神々はこの問題を楽観視し、関心を抱かなかった。
だが、命の神フィリアだけは違った。
彼女だけは、人類のことを憂慮していたのだ。
他の神々が自分の気に入った種族のみを愛しているのに対して、彼女は全ての人類を平等に愛していた。
それ故に、苦悩した。
もはやこの問題は、神の介入をもってしても穏便に解決できる段階を超えていたからだ。
フィリア自身が神託という形で調和を伝えたとしても、一体どれほどの効果があるか。
たとえ一度収まったとしても、何かの切っ掛けで爆発すれば、より熟成された不和の種はそれこそ人類全てを焼き尽くす炎となりかねない。
そうなれば、彼女の愛する人類全てが滅んでしまう。
どうにかしなければならない。
しかし、不和の種はもう取り除くことが出来ない。
だからこそ、フィリアはそれを作り出した。
生贄の檻。
悪として滅ぼされる定めを持つ者に与えられる呪いである。
人類の歪みを一身に引き受ける生贄を作ることで、フィリアは人類の調和を保とうと考えたのだ。
無論、これを人類と全く関係のない場所に投じることで、現在のエレメントを中心とする歪みを解消できないかとも考えた。
しかし、それは無理だとすぐに悟った。
すでにエレメントと他の人類との溝は埋まりきらないところまできているのだ。
だから、他の方法をとるしかない。
たとえば――エレメントの指導者を悪とし、人々がこれを断罪する。
少なくとも、これによって他の人類がエレメントに抱いていた恐れは消え去るはずだ。
しばらくエレメントに不遇の時代が続くだろうが、いずれ和解の機会も生まれるだろう。
そのときこそ、フィリアが取りなしてもいい。
そう考えていたからこそ、フィリアは霊王イースティアを完全な悪として作らなかった。
それで解決すると思っていたのだ。
「しかし、まさかが起こったわけだ」
エレメントは地上から消え去った。
そう、それは予想外のことだった。
正義という大義名分を掲げた人類は、同じ人類の仲間であるはずのエレメントを滅ぼし尽くすまで止まらなかったのだ。
フィリアはこの結果を見て、考えを変えざるをえなかった。
人類の歪みは、神によって調整され続けなければならない。
人類には、常に共通の敵が存在せねばならない。
これが、全ての始まり。
イクスラースを巡る一つの真実だ。
しかし――
これを踏まえた上で、今回のイクスラースの一件にはおかしな点がある。
それは、イクスラースの知りうる範囲についてだ。
イクスラースの魂が理解しているのは、その人生において関わった範囲に過ぎない。
彼女が知っているのはあくまで、エレメントは悪ではなかったという事実だけだ。
つまり、女神を巡る真実についてイクスラースが知るはずもない。
だというのに、何故イクスラースは命の神が原因であるという結論に到達できたのか。
その理由を魔神は知っている。
ヴェルムドールが、そう仕向けたのだ。
「くくくっ、本当にタチが悪い。何しろ、全部真実なんだからね」
鍵は、ヴェルムドールがイクスラースの命の種に接続したときに表れた、フィリアの影である。
一部とはいえフィリアの記憶を持っている影の欠片を、ヴェルムドールは無意識のうちに取り込んだのだ。
そこにあったのは精々、イクスラースを巡る真実程度だっただろうが、ヴェルムドールにはそれで充分だった。
何しろヴェルムドールが影からの情報を自覚したとき、彼がいたのはイクスラースの中だったのだから。
あとは、イクスラースの魂にその情報を移植し、真実に気づかせてやればいい。
それは、下手な説得よりもよほど効果的だっただろう。
結果として出来上がるのは、全ての真実と本当の敵を知る少女……というわけだ。
ヴェルムドールはただ、彼女を受け入れてやればいい。
「うんうん。実にいい手だと思うよ、ヴェルムドール」
魔神はそれを悪だとは言わない。
イクスラースを地道に説得するほど、ヴェルムドールに余裕があるわけではない。
強制的にでも、分からせる必要があったはずだ。
だが、魔神にとってはそんなことどうでもいい。
興味があるのは、ただ一点。
その手を使うのに、ヴェルムドールが一瞬も躊躇わなかったということだ。
「余裕がなかったのは事実だろうさ。でもね、ヴェルムドール。君の本質がどうであるかによって、その行動の意味は変わってくるよ?」
それは、イクスラースへの優しさなのか。
それとも、魔王としての冷徹さなのか。
あるいは、悲劇すら利用する狡猾さなのか。
どれが本音なのかによって、ヴェルムドールが今後歩む道は決まるだろう。
グラムフィアと同じような道を辿るのか、それとも別の道か。
「あるいは全部かもね。ふふっ、楽しみだよヴェルムドール。実に楽しみだ」
ヴェルムドールは気づいていないだろうが……実はイチカは、ヴェルムドールが説明しなかった部分も察している。
その上で、何も言わないことを選んだのだ。
彼女もまた、ヴェルムドールの行く末に少なからず影響を与えるだろう。
それほど期待はしていなかったのだが、これもまた嬉しい誤算といえる。
文句があるとすれば、一つだけ。
「ヴェルムドール。いつになったら僕を呼んでくれるんだい? この前いいところまでいったから、きっとすぐだと思ったのになあ」
今のところ、ヴェルムドールにその様子はない。
召喚されたときに備えて折角色々と台詞を考えていたのに、これでは無駄になってしまう。
「まったく、もう。まさか僕のことを忘れてるんじゃないだろうね?」
不貞腐れた様子で、魔神は玉座から転がり落ちる。
魔神がいる、何処でもない何処かの話である。
命の神フィリア、光の神ライドルグ、闇の神ダグラス、火の神アグナム、水の神アクリア、風の神ウィルム、土の神アトラグス。
だというのに、人類は四種族。
人間、獣人、シルフィド、メタリオ。
「し、しかしそれは複数の神の影響が一つの種族に出たということではないのですか?」
「なるほど、そういう可能性もあるだろう」
ゴーディの意見にヴェルムドールは頷いた後、だが……と続ける。
「それでは問題が出る。たとえば、命と光の神の影響が人間であったとしよう。キャナル王国が光の神を信奉しているといっても、あそこが様々な人種のいる国であることを考えれば、これは決して暴論ではない。そして、水と風の神の影響がシルフィド、火と土の神の影響がメタリオだとしよう。まあ、仮に……だがな」
ここまできて、ゴーディも理解する。
そう、足りないものがある。
ゴーディの瞳に理解の色が宿ったのを見て、ヴェルムドールは頷いた。
「ならば、闇の神ダグラスの影響は何処にある? 今の人類領域では、闇の神を信奉する者はほぼいないという。闇の神だけは、どの種族にも関わらなかったと言うのか?」
「まさか、それが魔族であると……?」
ゴーディの呟きにヴェルムドールは沈黙し……そして、静かに首を横に振った。
「俺も一時はそう考えていた……が、そもそも我々は人類とは違う枠組だ」
人類と魔族は、同じ大項目のカテゴリである。
人類が人間やシルフィド、メタリオなどに細分化されるように、魔族もゴブリンやビスティアなどの種族に分かれている。
姿形で言えば人類と魔族は似ている部分もあるが、異なるものなのだ。
「ならば、一体……」
「その答えが、イクスラースの中にあった」
ヴェルムドールは、机の中から一束の書類を取り出して机の上に投げる。
それは、諜報員の一人であるアインという名の魔族から受け取った報告書の一部だ。
「ここに、エレメントというモンスターについて記載されている」
エレメントは、ロクナが以前、召喚魔法の研究で人類領域に向かったときに出会ったモンスターだ。
シュタイア大陸にしかおらず、一般的には自然現象の一種であるとされていて、魂すらないとも言われている。
「このエレメントとやらが何か……? まさか、これが闇の神の影響によるものだと?」
ゴーディの眉間の皺はさらに深くなった。
「少し違うな」
ヴェルムドールはそう言うと、報告書をペラペラと捲り始める。
「これは残滓だ。いや、どちらかと言えば呪いの果てという表現のほうが正しいだろう」
何故なら――
「エレメントは過去に実際に存在した種族だからだ」
「……まさか」
「そのまさかだよ、イチカ」
ヴェルムドールは、イチカに頷いてみせる。
「そうだ。イクスラースの始まりは、とある人類……滅びた種族エレメントだ」
5
霊王国ルクレティオ。
かつて、そう呼ばれる国があった。
それは、闇の神ダグラスを信仰するエレメントと呼ばれる種族の住む国であったという。
エレメントは他の人類種族と違い、肉体を持っていなかった。
魔力体と呼ばれる、魔力で構成された非物質体だったとされている。
そのためか、エレメントは魔力の技に非常に長けていた。
ゴーレム生成の術。
鎧などに宿り自分の身体のように動かす術。
自分の魔力濃度を高めて様々な能力を強化する、強化魔法とでも呼ぶべき術。
そういった、他の種族には使えない様々な魔法や能力を扱うことができたのだ。
彼等は常に自由だった。
どの種族よりも長い寿命を持つが故に、生き急ぐ必要はない。
肉の身体に縛られぬが故に、空も簡単に飛んでみせた。
魔力の影響を非常に受けやすいが故に、その身体を火や水にも変えられた。
問題があるとすれば、個体数が少ないこと。そして、肉体を持たぬが故に他種族との交流で不便があることくらいだろう。
しかし、エレメントはそれらを些細なことだとして気にしなかった。
彼等には、長い時間がある。
その中で、いくらでも解決可能なことだと考えていたのだ。
だが、彼等のその悠然とした態度は、他の人類にとっては傲慢にも見えた。
自分達にできないことをやってのけ、自分達に届かない場所にも行ける。
しかも、それらのことを行うのに努力すらしていない。
いや、こちらの努力を嘲笑っているのだ。
そんな妬みが、神々のもとに平等であるはずの人類の中に亀裂を入れた。
そして同時に、他の人類には恐れも生まれた。
エレメントはまるで神々のような力を持っている。
その力をもって、いずれ害を為すのではないか。
もし彼等が攻め込んできたら、我等は対抗できるのだろうか。
彼等は我々を見下しているのだ。
いや、すでに支配した気になっているに違いない。
そういえば、彼等の機嫌を損ねた者が殺されかけたという噂を聞いた。
ああ、なんと恐ろしいのだ。
そんな恐れからくる噂が広がり、次第にエレメントは人類の中で敬遠されるようになっていく。
ある者は露骨に媚びへつらい、ある者は出会った途端に悲鳴をあげ、またある者はひたすら平伏した。
このときになって、初めてエレメントは危機感を抱いた。
しかし、一体何が起こっているのか……彼等に教えてくれるような者はいなかったのだ。
それでも、エレメント達は必死で考えた。
理由は分からないが、自分達は疎外されつつある。
いったい何が悪かったのだろうか。
派手に物を壊したことはないし、人を傷つけたこともない。
ならば、何が原因なのか。
必死で考えたが、答えは出なかった。
それが些細な嫉妬から始まったとは、まったく思いもしなかった。
そういう感情とは、エレメントは長らく無縁だったからである。
しかし、それでも彼等は考えた。
まずは、他種族とのコミュニケーションを今まで以上に心がけてみよう――しかし、彼等に心を開く者はいなかった。
役に立つ魔法を考案して広めてみてはどうだろうか――何か裏があると疑われ、魔法は広まらなかった。
ならばと、エレメント達は各地に出向き、様々な問題の解決に乗り出した。
問題が解決した人々は喜び、エレメント達はこれだと確信した。
しかし、感謝したのはほんの一握りの者だけ。
関係ない大多数の人々は、ついにエレメント達が侵略を始めたのだと恐怖した。
各国の上層部から、エレメント達のもとに山のような抗議が届いた。
これ以上内政干渉を続けるならば軍を出す、と。
エレメント達は仕方なく、他国の問題解決をやめた。
もう何もできることはない。
もう何もするべきではない。
そして、彼等は諦め、他の人類との交流をやめたのだ。
もとより肉体を持たぬ彼等にとって、それは何の痛手にもならなかった。
僅かに届く助けを求める声にも、もはや彼等は応じない。
彼等にお礼を言っていた人達もいつしか恩を忘れ、無責任な噂話に加担するようになった。
ついに、悪い出来事の原因をすべてエレメントに押しつける風潮が始まってしまったのだ。
そして時は流れ、霊王国ルクレティオは一人の幼き女王の時代へと突入する。
霊王イースティア。
闇の神ダグラスの強い加護を受けた若く才溢れる女王の誕生に、エレメント達は喜んだ。
しかし、エレメント達は気づくこともなかった。
霊王イースティアの誕生が、終わりの始まりであったと。
自分たち以外の種族の心の奥底に沈殿し、グツグツと煮えたぎるマグマのような感情など、他者との関わりを絶った者達が気づくはずもない。
そして、このときは闇の神ダグラスですらも気づくことはなかった。
いや、気づくはずもなかっただろう。
彼もまた、そういう感情とは無縁の存在だったのだから。
「……一体、何が起こったというのですか」
ゴーディは、静かに問う。
エレメントと他の人類の不和については理解した。
この先に起こることについても、何となく想像はつく。
だが、これではまだ足りないはずだ。
エレメント達を殺し、根絶やしにしようと思うからには、何か決定的なきっかけがあったはずだ。
そんな意味を込めた問いに、ヴェルムドールは答える。
「疫病だ。相当タチの悪いものが広がったらしい」
疫病は、当時のシュタイア大陸で猛威を振るい、肉体を持つ者達を侵し、ことごとく死に至らしめた。
疫病の広がりは早く、もはや自国だけでは有効な対策をとれない国も多く、各国は協調態勢をとって疫病の根絶に努めた。
人類は持てる知識を結集したが、それでも疫病はなかなか収まらなかった。
誰もが絶望したそのとき、人々を救ったのは一人の賢人であった。
とある小さな村を訪れたその賢人は、全身鎧とマントで顔すらも分からぬ一人の騎士であったという。
騎士は一つの秘法と幾つかの対策を村人に教え、実践してみせた。
そして、それを広く伝えれば疫病は収まると言い残して去っていったという。
騎士の残した秘法と対策は、疫病の広がりを抑えて根絶した。
各国は疫病騒ぎの終結を喜び合い、賢人の功績を讃えた。
しかしながら、その「各国」に含まれていない国がある。
疫病に侵されるような肉体も持たぬ者達の国。
どの国も関わりを避け、またどの国とも交流を持とうとはしなかった国。
いつしか呪国ルクレティオと他国の者達から呼ばれるようになった、エレメント達の国である。
誰もがその国を恐れ、エレメントは人類ではないという話まで出てきた。
自分達には理解できないような技を持つ、肉の身体を持たぬエレメントという存在。
彼等は自分達とは違う。
人類の敵なのではないか。
そして疫病騒ぎが終わった後、人々の間でまことしやかにある噂が囁かれ始めた。
この疫病は、呪国のエレメント達の実験によるものである、と。
荒唐無稽なその噂は、瞬く間に国々を駆け巡り、次第に尾ひれがついていく。
今回の一件は実は疫病ではなく、エレメント達の開発した邪法である。
賢人の騎士曰く、エレメント達は人類を殺そうと目論む邪悪な存在である。
賢人の騎士はエレメント達の暴虐を悲しんだいずれかの神の顕現した姿である。
全ては事実無根、根も葉もない噂だった。
件の村人達もよく観察すれば、騎士の不自然さに気づけただろう。
全身鎧の騎士の兜の奥に何もなかったことに。
その騎士が、内政干渉と言われるのを恐れ、しかし他の人類の苦境を見過ごせず人間のフリをしてやってきたエレメントであることに思い至ったはずだ。
しかし不幸にも誰一人としてその可能性を指摘することはなかった。
今や他の人類にとってエレメントは邪悪な存在であったし、恩人たる賢人の騎士と結びつける者など、いるはずもなかったのだ。
たとえ気づいた者がいたとしても、賢人の騎士に対する不敬と謗られるのを恐れ、口を閉ざしたことだろう。
そしてエレメント達にとって不幸だったのは、賢人の騎士の正体が若き女王イースティアであったことだ。
まだ人類に絶望しきっていなかった彼女だからこそ、同じ人類の仲間を救おうと動いた。
通常であれば女王の高潔さを讃えられるべき行動だっただろう。
しかし、もはや状況は通常と呼ばれる域を超えていた。
何処の国かは分からない。今の四大国のどれかかもしれないし、他の国だったかもしれない。しかし、何処かの国でその発案がなされた。
すなわち、今回の疫病の大元の原因を根絶するべしという提案だ。
次なる悲劇を防ぐため、呪国ルクレティオを人類の総力をもって滅ぼすべきである。
この誘いに、各国の国民は賛成の声をあげた。
今こそ聖なる戦いのときである。
人類が心を一つにし、協力するべきときであると。
そうして起こった「聖戦」は、もはや戦いなどと呼べるものではなかった。
もとよりエレメントは数が少ない。
いかに彼等に卓越した魔法技術があろうと、人を超える力を持つゴーレムがいようと、関係なかった。
肉体がないといっても、彼等を殲滅する方法はいくらでもある。
エレメントは人類の仲間のつもりであったし、元々戦う術には長けていなかった。
エレメント達の異常な弱さ。戦意で高揚する人々は、その事実にさえ気づかない。
むしろそれを神々の祝福と正義によるものであると捉えたのだ。
燃え盛るルクレティオの街々には人類連合軍の凱歌が鳴り響き、エレメント達の悲しみと怨嗟の声が満ちた。
最後まで人類と和解しようとした霊王イースティアも討たれ、その城にも連合軍は攻め込んだ。
連合軍は霊王イースティアの私室で彼女が疫病の根絶のために研究した資料を発見し、これをエレメントが疫病に関わっている証拠であるとした。
少し調べればすぐに誤解であると分かったはずだが、当然そんな検証はされなかった。
必要なのは悪の証拠であり、それ以外の一切は不要だったのだ。
「そして、エレメントは滅びた」
イチカもゴーディも、発すべき言葉を持たない。
どんな言葉も意味がないと知っているからだ。
それはただの後世の批評に過ぎず、人類ですらない彼女達が此処で何かを言ったところで、エレメント達が救われるわけでもない。
「さて、ここで問題だ。何故俺はこの最後の女王……イースティアの話をしたと思う?」
「……そういう、ことなのですな。アレが……そうであると」
ゴーディの導き出した答えを肯定するように、ヴェルムドールは頷く。
「そう、その通りだ。命の女神の最初の被害者、霊王イースティア……それがイクスラースの正体だよ」
「アレは……イクスラースは、それを?」
「勿論知っている。そういう風に仕向けたからな」
そう言って、ヴェルムドールは未処理の書類を一つ手に取る。
イクスラースから提出された魔王城の修復計画に関する書類だ。
それをペラペラとめくり、ヴェルムドールは満足そうに頷いた。
「イクスラースはああ見えて、いい人材だ。できれば……良好な関係を築いていきたいものだな」
6
それは、無限の暗闇。
どこまで行こうと果てはなく。
何時まで待とうと明けはない。
光があるのは、ただ一点。
闇の中に浮かぶ玉座――その場のみ。
玉座に座すのは黒髪の少女。
赤く輝く目が、少女がただの人間ではないと主張している。
しかし、それが真の姿というわけではない。
もっとも、真の姿があるというわけでもない。
一人の人間の嗜好に合うように姿を成したらこうなったという、ただそれだけ。
名すら放棄したそれは……魔神、と呼ばれるモノだ。
魔神。
あらゆる善と悪の理由。
あらゆる矛盾の因子。
あらゆる理論の争点。
善の起点にして悪の終点。
全てが生まれるこの場所で、魔神は満足そうに笑う。
「なるほど、なるほど。なかなかやるじゃないか、ヴェルムドール」
全てを見ていた魔神は、今回の一件をそう評した。
ヴェルムドールがゴーディ達に語ったイクスラースの話は全て真実だ。
悪に祭り上げられたエレメントは、正義を名乗る他の人類によって滅ぼされた。
そして、命の神フィリアがそれを仕組んだことも事実だ。
理由はひどく単純。
エレメントという存在が、人類の中であまりに異質過ぎたからだ。
そして人類は、神々が思うよりも狭量に過ぎたのだ。
不和という毒は少しずつ広がり、人類を蝕み始めた。
妬み、恐れ。
様々な醜い感情が人類を侵し、暴発することは目に見えていた。
それは人類の抱える弱さであり、いずれ人類自身を滅ぼしかねない欠点。
しかし、ほとんどの神々はこの問題を楽観視し、関心を抱かなかった。
だが、命の神フィリアだけは違った。
彼女だけは、人類のことを憂慮していたのだ。
他の神々が自分の気に入った種族のみを愛しているのに対して、彼女は全ての人類を平等に愛していた。
それ故に、苦悩した。
もはやこの問題は、神の介入をもってしても穏便に解決できる段階を超えていたからだ。
フィリア自身が神託という形で調和を伝えたとしても、一体どれほどの効果があるか。
たとえ一度収まったとしても、何かの切っ掛けで爆発すれば、より熟成された不和の種はそれこそ人類全てを焼き尽くす炎となりかねない。
そうなれば、彼女の愛する人類全てが滅んでしまう。
どうにかしなければならない。
しかし、不和の種はもう取り除くことが出来ない。
だからこそ、フィリアはそれを作り出した。
生贄の檻。
悪として滅ぼされる定めを持つ者に与えられる呪いである。
人類の歪みを一身に引き受ける生贄を作ることで、フィリアは人類の調和を保とうと考えたのだ。
無論、これを人類と全く関係のない場所に投じることで、現在のエレメントを中心とする歪みを解消できないかとも考えた。
しかし、それは無理だとすぐに悟った。
すでにエレメントと他の人類との溝は埋まりきらないところまできているのだ。
だから、他の方法をとるしかない。
たとえば――エレメントの指導者を悪とし、人々がこれを断罪する。
少なくとも、これによって他の人類がエレメントに抱いていた恐れは消え去るはずだ。
しばらくエレメントに不遇の時代が続くだろうが、いずれ和解の機会も生まれるだろう。
そのときこそ、フィリアが取りなしてもいい。
そう考えていたからこそ、フィリアは霊王イースティアを完全な悪として作らなかった。
それで解決すると思っていたのだ。
「しかし、まさかが起こったわけだ」
エレメントは地上から消え去った。
そう、それは予想外のことだった。
正義という大義名分を掲げた人類は、同じ人類の仲間であるはずのエレメントを滅ぼし尽くすまで止まらなかったのだ。
フィリアはこの結果を見て、考えを変えざるをえなかった。
人類の歪みは、神によって調整され続けなければならない。
人類には、常に共通の敵が存在せねばならない。
これが、全ての始まり。
イクスラースを巡る一つの真実だ。
しかし――
これを踏まえた上で、今回のイクスラースの一件にはおかしな点がある。
それは、イクスラースの知りうる範囲についてだ。
イクスラースの魂が理解しているのは、その人生において関わった範囲に過ぎない。
彼女が知っているのはあくまで、エレメントは悪ではなかったという事実だけだ。
つまり、女神を巡る真実についてイクスラースが知るはずもない。
だというのに、何故イクスラースは命の神が原因であるという結論に到達できたのか。
その理由を魔神は知っている。
ヴェルムドールが、そう仕向けたのだ。
「くくくっ、本当にタチが悪い。何しろ、全部真実なんだからね」
鍵は、ヴェルムドールがイクスラースの命の種に接続したときに表れた、フィリアの影である。
一部とはいえフィリアの記憶を持っている影の欠片を、ヴェルムドールは無意識のうちに取り込んだのだ。
そこにあったのは精々、イクスラースを巡る真実程度だっただろうが、ヴェルムドールにはそれで充分だった。
何しろヴェルムドールが影からの情報を自覚したとき、彼がいたのはイクスラースの中だったのだから。
あとは、イクスラースの魂にその情報を移植し、真実に気づかせてやればいい。
それは、下手な説得よりもよほど効果的だっただろう。
結果として出来上がるのは、全ての真実と本当の敵を知る少女……というわけだ。
ヴェルムドールはただ、彼女を受け入れてやればいい。
「うんうん。実にいい手だと思うよ、ヴェルムドール」
魔神はそれを悪だとは言わない。
イクスラースを地道に説得するほど、ヴェルムドールに余裕があるわけではない。
強制的にでも、分からせる必要があったはずだ。
だが、魔神にとってはそんなことどうでもいい。
興味があるのは、ただ一点。
その手を使うのに、ヴェルムドールが一瞬も躊躇わなかったということだ。
「余裕がなかったのは事実だろうさ。でもね、ヴェルムドール。君の本質がどうであるかによって、その行動の意味は変わってくるよ?」
それは、イクスラースへの優しさなのか。
それとも、魔王としての冷徹さなのか。
あるいは、悲劇すら利用する狡猾さなのか。
どれが本音なのかによって、ヴェルムドールが今後歩む道は決まるだろう。
グラムフィアと同じような道を辿るのか、それとも別の道か。
「あるいは全部かもね。ふふっ、楽しみだよヴェルムドール。実に楽しみだ」
ヴェルムドールは気づいていないだろうが……実はイチカは、ヴェルムドールが説明しなかった部分も察している。
その上で、何も言わないことを選んだのだ。
彼女もまた、ヴェルムドールの行く末に少なからず影響を与えるだろう。
それほど期待はしていなかったのだが、これもまた嬉しい誤算といえる。
文句があるとすれば、一つだけ。
「ヴェルムドール。いつになったら僕を呼んでくれるんだい? この前いいところまでいったから、きっとすぐだと思ったのになあ」
今のところ、ヴェルムドールにその様子はない。
召喚されたときに備えて折角色々と台詞を考えていたのに、これでは無駄になってしまう。
「まったく、もう。まさか僕のことを忘れてるんじゃないだろうね?」
不貞腐れた様子で、魔神は玉座から転がり落ちる。
魔神がいる、何処でもない何処かの話である。
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