百年の夜の先

松原塩

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エピローグ

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 終わらせたかった。
 カプドヴィエルの悪魔と呼ばれた頃、人間を大勢斬った。まずは神官。魔女公主が殺された後は、神官でない人間も、大勢。それこそ手当たり次第に。
 百年前の争いが終わりに近付いた時、魔物を率いて敵の本陣とも言うべき王都の教会に乗り込み、神官を殲滅する勢いで暴虐の限りを尽くした。進んでいく内に仲間とははぐれたが、どれだけ大勢の神官に囲まれても、サリムの前に敵いはしない。瞬く間に教会は死で満ちる。
 神官を斬り伏せ、動くものの居なくなったその部屋で、サリムは立ち尽くした。
 遠くから聞こえる争う音で掻き消されて、聞こえるはずもないのに、右手に握った剣から滴り落ちる血の音が聞こえる気がした。
 胸に虚無が満ちる。
 そんなことは初めてで、死体の山と血溜まりの傍らで途方に暮れた。
「もう大丈夫です、サリム様」
 仲間と共にはぐれていたセルジュが、そう声を上げて部屋に飛び込んでくる。
 そうか、大丈夫なのか。
 セルジュの顔を見たら安心して嬉しくて涙が出た。恐らく生を享けてから初めて泣いた。
 終わらせたいと思った。
 今のままではだめだ、何か分からないけれど何かがだめだ。終わらせなければ――そして次はきっとうまくできる。セルジュが大丈夫だと言ってくれたのだから、きっとそうなのだ。
 漠然とした感情に衝き動かされるまま、セルジュを斬った。その直後、部屋に押し寄せた神官に取り押さえられ、サリムは死を受け入れた。
 もう一度始めるために。
 そして百年の時が流れ、魔物としてよみがえったサリムは知る。まだ終わっていなかったのだと。
 聖人の存在。カプドヴィエルの地に争乱を招いた人物。百年の時を経てなおサリムに執着する彼。まだ今は百年前の続きなのだ、そう、今度こそ終わらせなければ。
 その先は――百年前には全く考えなかったが、今なら分かる。
 その先は、きっとセルジュに優しくできる。



 紅茶を運んできたアズナヴールを見て、ニネットは顔をしかめた。
「思ったより様になってるじゃない」
 アズナヴールは白いシャツに、黒いエプロンをしている。金髪の給仕は目を引く容貌で、客引きにはなっているようだが、神官服以外の姿は見慣れないせいで、違和感があった。
 つい数ヶ月前まで剣を握っていたのに、今はその手で紅茶を淹れている。いくら服が似合えど、給仕なんてとても似合わない。ニネットは改めて思った。
 神官の中でもとりわけ好戦的で、魔物と戦うのを楽しんでいる節があった彼は、国軍の敗北と同時にあっさりと教会を出て行った。
 国軍の敗戦、即ち人々の希望であった聖人が負けたということだ。
 そのまま聖人は行方をくらませてしまった。
 一時はどうなることかと人々は恐怖と緊張に包まれたが、今はこうしてのんびりとカフェでお茶など飲んでいる。
「それにしても、今でも本当に信じられないわ。あの悪魔が」
 事実として負けていたのは人間側だったが、魔物側から停戦の申し入れがあった。百年前と同様の取り決めの下、争いは収束した。
 魔物から人間に手を出さない代わりに、人間も魔物に手を出さない。
 人間と魔物は今度こそ共存していけるのだろうか。それとも、このような争いをまた繰り返していくのだろうか。
 サリムが生きていて聖人の行方が分からない今、再び争いが起こったなら、人間側に勝ち目は無い。
 それでももしも、また聖人のように悪魔を打ち倒す力を持つ人間が現れたら。また人間は魔物を狩ろうとするのかもしれない。
 ニネットの向かいで紅茶を飲むクロティルドの顔は陰鬱だ。
「確かに、サリムは悪魔のようだったけれど……思うんです。彼ももしかしたら、人間のような感情を抱く日が来るんじゃないかって」
 すっかり治った利き手でカップを持ち上げる。
 サリムにも人と同じ温かい感情が芽生えるのでは。自分が生きていること自体がその証拠かもしれない、クロティルド自身も半信半疑ではあったが、そう感じることがあった。
「私は近くで見たわけじゃないから、分からないわ」
 ニネットは溜息を吐いて、それからアズナヴールを見上げる。
「ねえ、本当はあなた、聖人がどこにいるか知っているんじゃないの?」
 青年はにっこりと笑って、答えなかった。
 発言こそ奇抜で頓狂だったものの、誰よりも聖人を崇拝し傾倒していたアズナヴールだ。もしも聖人が本当に失踪していたなら、こんなところで笑って給仕をしているとは思えない。しかし彼から答えは得られず、ニネットは憮然として紅茶を一口含む。
「……なんにしても、紅茶は美味しいわ」



 リシュタンベルグで一番高い丘の上、荒れ放題の雑草のただなかに、忘れ去られた墓碑があった。
 百年前、魔女公主と呼ばれた女性の屋敷の裏手に据えられたものだ。屋敷は壊され跡形も無くなった今でも、墓だけが残っている。
 朽ちることなく佇んでいる墓の墓碑銘に目をやり、ああそういう名前だったかもしれない、とサリムはぼんやりと思った。
 空が抜けるように青い。まだ冷たさを含んだ風が、雲を押し流していく。
 丘の上からは、リシュタンベルグが一望できた。
 神官と魔物との争いが収束してまだ数ヶ月。戦いに巻き込まれて壊れた建物は少なくないが、濃い緑の中に雑然と立ち並ぶ家々の屋根も多く見える。爪痕を残しながらも、街は生気に満ちて、人々が生活を営んでいた。人の姿などここからは視認できないが、恐らく笑顔が行き交い、どこかでは怒鳴り声が響き、そして泣いている人も居るのだろう。いつだってそれは変わらない。
 辺りを埋める雑草の中には、白や桃色の花をつけているものがぽつぽつとあった。
 ことりの墓に花を供えてもいいかもしれない。ことりが花を好きだったかは知らないが、彼女にきっと花は似合う。もう居ないけれど。
 少し離れた場所にセルジュが立っている。銀髪をなびかせて町並みを見下ろす彼は、サリムの視線にはまだ気付かない。見慣れた黒い軍服の腰には二本の剣が提げられ、うち一本は鞘と柄が細い縄で幾重にも縛り付けられて、抜けないようになっていた。
 風が強い。どこまでも空が青い。冴えた空気の中、鳥が一羽飛んでいくのが見えた。
 人と魔物と境なく、幾度となく悲しみと争いを続けていくのだろう。
 それでもきっと世界は美しい。
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