5 / 7
5
しおりを挟む
かつて、聖都リシュタンベルグがまだ聖都ではなく、カプドヴィエルと呼ばれていた頃。
サリムはその地の外れの森にある屋敷で暮らしていた。その頃はまだ周囲に集う魔物もおらず、広い屋敷はサリム一人のものだった。元々は人間の持ち物だったらしいが、サリムが見つけた時には既に打ち捨てられて久しいようで、風雨に晒され朽ちるに任せるといった状況だった。
腹が空けば果実の成る木を探したり、獣を狩って食らうこともあったが、それはまれなことだった。頻繁に食事を摂らなくても、滅多に空腹を感じることはなく、人間のような美食の愉しみも知らない。
ある時、サリムは屋敷の前に少年が倒れているのを見つけた。全身傷だらけで、服も破れ、長い銀髪は泥で汚れていた。
生きているのか死んでいるのか、サリムは少年の前に立ったまま、じっと見下ろしていた。
暫くそうしていると指先がほんの僅か動いた。死体ではなかったらしい。
「何してるの」
無感動な声で訊ねると、少年はひどく緩慢な仕草で頭をもたげて、眼前に立つサリムを見上げた。開けるのも辛そうだった金色の瞳が見開かれ、少年の口から呻き声のようなものが漏れる。
「……申し訳、ありませ……」
掠れた声に、サリムは首を傾げた。
「俺は謝れって言った?」
「……すみませ、ん……」
浅い息の下から少年は再び謝って、震える腕を地面について起き上がった。どれだけ怪我を重ねたのか、地面には血の跡が黒い斑模様を描いている。
「俺の、ような……弱い、魔物が、この地を訪れても……、それだけで迷惑なのだ、と……」
苦しいのか、少年はそこで喉から引きつったような音を出して何度か咳き込んだ。サリムは手を貸すことも心配することもせず、最初と同じように立ったままそれを眺める。
「俺よりも、ずっと強い魔物達、に……、帰る様にと……」
肩で息をしながら、彼は気丈にも立ち上がろうとした。
「帰るの」
「……いいえ……」
「なぜ」
「こんな目に会う度、逃げていたら、俺の居場所なんてどこにも……」
自分より弱いものに目をつけては、憂さ晴らしのように虐げて遊ぶ連中はどこにでもいる。魔物にも、人間にもだ。
あまりにもささやかな力しか持たない目の前の少年が、どこに行っても目をつけられるだろうとはサリムにも分かった。
よろめく足で少年が立ち上がる。顔色は悪く傷だらけで、衣服も酷い有様だが、サリムを見る猫のような瞳に卑屈さは無い。どれだけ虐げられても屈しない、高潔な光があった。今は弱くとも、長ずれば恐らく相当な力を得るだろうと予感させられた。
彼を理不尽な目に遭わせた魔物達は、きっとこの不屈の眼にも苛立ちを覚えただろう。媚びずおもねらず、毅然とした姿勢は、弱者を苛める魔物などには決して手に入らない、美しいものだから。
「なら、来れば」
「は」
喋るのも苦痛であるような怪我をしていても、サリムの質問には答えていた少年が、何を言われたのか分からないといった様子で固まった。
「俺と居れば、そういう目には遭わないと思うけど。いや?」
深く考えたわけではない。ほとんど気紛れのような言葉だった。
少年は数回瞬きをしてから、思い切り首を振った。青白かった顔に僅か血の気が差す。
「とんでも、ないです……、でも、どうしてあなたみたいなひとが、俺なんか……」
彼としては当然の疑問だったろう。傷だらけの弱い魔物と関わったところで、何の得も無い。
サリムは小首を傾げてから、口を開いた。
「だって死ぬじゃない」
見たままを述べただけだった。傷だらけで、顔色が悪く、立つのもやっとの状態で。このまま一人で居ても、また魔物に絡まれたりすれば、そう遠くない未来、いずれ死んでしまう。
心配や同情はない。ただサリムは、少年が同じ屋敷に住んでいたところで特に迷惑ではないし、たとえば少年と一緒に居ることで他の魔物にとやかく言われることがあったとしても、打ち負かすことができる。自信と言うよりは、それが当然で、事実だった。
同居した上で不都合が出てきたなら、放り出すなり殺すなり、その時にすれば良い。
「好きにして」
少年は理解が及ばないのか、納得できない様子だったが、サリムが屋敷の扉を開いて振り向きもせずに入っていくのを見ると、覚束ない足取りで後を追ってきた。
セルジュと名乗った弱い魔物との共同生活は、概ね快適だった。
サリムに恩義を感じているのか、傷もろくに癒えないうちから、荒れ放題の屋敷を掃除したり、食事の支度をしたり。それでいて過度に接触を持つわけではなく、あくまで態度は控えめだった。屋敷内が少し過ごしやすくなったこと以外、サリムの生活は平穏で何も変わらない。
もう一つ変わったことがあるとすれば、寝台の広さだ。
広い屋敷の中使っていない部屋は幾つもあり、セルジュには好きに使えと伝えてあった。しかし敵を警戒しながら眠る生活が長かったのか、よく眠れないようでいつまで経っても顔色が優れない。
そのため、サリムはセルジュと寝台を共にすることになった。強大な力を持つ魔物が、自分の味方として側に居ることで、セルジュは落ち着いて眠れるようになったらしい。共に眠るのが習慣になった頃には、すっかり顔色は改善されていた。
陽の差し込む部屋で、何をするでもなくソファで足を組んで座っていると、サリムの耳に激しい物音が届いた。壁が崩落したような音は、尋常ではない。元々廃墟のような有様の屋敷だが、それでも自壊するほどではなかった。
続いて何か争うような声が聞こえてくる。叫ぶような声はセルジュのもの。それと、聞いたことのないだみ声が複数。
セルジュは、荒れた庭を片付けると言って外に出ているはずだった。
しばらくぼんやり座っていても争う声と物音はなかなか収まらない。騒がしい。
ゆっくりと立ち上がり、サリムは音のする方へと向かった。
庭に出ると、見たことのない体格の良い魔物が三人居た。壁を背に座り込むセルジュを取り囲むようにしている。傍らの壁が崩れていた。元々傷んでいたせいで、ちょっとした衝撃で崩れてしまったのだろう。
「サリム様」
セルジュが動揺した声で呼んでくる。服は破れ、最初に屋敷の前に倒れていた時を思い起こさせる風体だ。太腿のあたりが大きく裂けて、血が流れている。
「何してるの」
淡々と聞くと、セルジュを囲んでいた魔物の一人が汚い声を上げる。
「何だお前? 見せもんじゃねえぞ。とっとと失せろ!」
「いいじゃねえか。女でも見たことないぐれえ綺麗な顔してるしよ。こんな上玉そうはいねえぜ」
下卑た笑い声を上げた魔物は、次の瞬間首から血を吹き出して、声にならない奇妙な音を発しながら地面に倒れた。
サリムは、その男の腰から抜いた剣から血を払う。
セルジュを含め、魔物達は何が起こったのか分からない様子で唖然としていた。
「てめ……」
残る魔物がサリムに飛びかかろうと動きを見せたが、サリムの握る刃が煌く方が早かった。
一瞬で魔物達は切り伏せられ、地面に血の染みを黒く広げていく。サリムは剣をぞんざいに放り捨てた。
争う音が消えて、異様に静かになったように感じられる中、剣が地面にぶつかる音が響く。
圧倒的かつ一方的な殺戮にセルジュは茫然としていたが、サリムが視線を向けるとのろのろと口を開いた。
「あ、……ありがとうございます」
「べつに」
「申し訳ありません、手を貸して頂けませんか」
手伝ってセルジュを立たせてやる。太腿から流れる血は止まらず、近くで見ると彼が青白い顔をしているのがよくわかった。
後に知ったことだが、セルジュに絡んでいた魔物は、この辺りでは力のある部類であったらしい。この一件でサリムの名が知れることとなり、自信のある手合いに絡まれることが幾度かあったが、その何れもを軽く退けた。
非情なまでの強さを誇り、けれど害をなさない相手に手を出すことは無い。何事にも無関心な振る舞いは身勝手にさえ見えたが、それさえ含めてサリムには惹かれずにはいられない魅力があった。
傑出した強さと美しさを持つ魔物の名は瞬く間に広まり、やがてサリムを王と崇めるものたちがカプドヴィエルに集まるようになった。
セルジュが青年になった頃、サリムはカプドヴィエルの悪魔と呼ばれるまでになっていた。
仲間たちと剣を交わし、日々鍛錬していたセルジュの成長には目覚しいものがあった。悪魔の片腕として誰からも認められるようになり、最早彼に軽々しく手出しできるような相手は居ない。
アルカデルト国内でカプドヴィエルは最も魔物の多く住まう地になり、それを感じ取った人間たちには緊張した空気が流れるようになった。
両者の間で諍いが起こらなかったのは、当時の領主が単身サリムの屋敷へ訪れるという暴挙に出たからだ。
彼女こそが、後に魔女公主と呼ばれることになる女性だった。
丸さの残る頬に、勝気でありながら聡明さを宿した、少女らしい大きな瞳。波打つ栗色の髪を頭の上で結わえていた。
彼女が初めて訪れた時は、まるで魔物を従えているように見えた。従者もつけず一人毅然として歩く彼女の後ろを、ぞろぞろと大勢の魔物がついてくる。実際には、魔物達は好奇心、あるいは敵意の眼差しを彼女に注いで、後ろから、あるいは横から覗き込んでいたに過ぎない。そんな状況にあっても、彼女は怖気づくことなく背筋を伸ばしていた。
魔物達が彼女に手を出さなかったのは、事前に届けられていた手紙によって、サリムが彼女と会うことを承諾していたからだ。その手紙も、人間に紛れて生活していた魔物の手によって届けられた。
サリムの側に無断で人間が近付くことなど、周囲の魔物が許さない。彼女のやり方は賢明だった。
人間ごときが何の用だと思いながら、サリムが彼女の来訪を認めた以上、魔物達は彼女に手出しできないのだ。
その日、彼女の提案によって、カプドヴィエルに住まう魔物と人間のあいだに協定が取り決められた。
カプドヴィエルに魔物の居住を許す代わりに、魔物は決して人間に害を為さない。
サリムは元来魔物にも人にもほとんど興味がなかった。取り巻きの魔物達の間では、なぜ人間とそんな約束を、と反感を持つ者も居たようだが、大多数に異論は無いらしかった。人間が魔物を迫害しないのなら、敢えて事を荒立てる必要は無い。魔物も人間も、相手が先に手を出してくるから互いを忌むのだという認識は共通していた。
相手が協定を破ることがあれば、その時こそ大手を振って敵を殲滅できる絶好の機会となる。初期こそ両者がそんなことを考え、緊張した空気はあったものの、何事も起こらない日々が続けば打ち解けるのは早かった。元々、人間に紛れて暮らしている魔物が多く居た土地だ。その規模が少し拡大しただけにすぎない。
その協定が交わされてから、カプドヴィエルはアルカデルト国内で最も魔物が集まる地でありながら、両者の関係が最も穏やかな地となっていた。
魔物が無差別に人を襲うようなことは決して無く、人と魔物の間にいざこざがあった時にも、人間間でのそれと同じように裁かれる。理想的なまでに、両者が平等で、良好な関係だった。
それでも、魔物が多く棲むという事実を、教会は放ってはおかない。実態を調査するための神官が度々派遣されて来たが、人間が魔物を売るような真似をすることはなかった。その頃には最早、魔物と人間は共存できる隣人となっていた。
魔物の巣窟となっているという噂がありながら、街中にそのような荒れた空気は無い。神官達は腑に落ちないものを抱えながらも、教会に帰るしかなかった。
そしてついに送られて来たのが、王都アルケードで聖人と讃えられるリシュタンベルジェルだった。それが正に、カプドヴィエルの運命が狂いだした瞬間だった。
どれだけ人間と同じ姿形で、人間と同じように生活していても、聖人の目には相手が魔物であることなど一目瞭然に違いない。カプドヴィエルの街を見渡して、お綺麗な聖人は今にも卒倒しそうな蒼白な顔をしていたと、魔物が面白おかしく報告してくるのをサリムは聞いた。
その翌日、聖人本人がサリムの屋敷に乗り込んできたのは、誰もが予想していないことだった。
「お初にお目にかかります。私はラヴィス・リシュタンベルジェル。王都の神官です。お名前を伺っても?」
「サリム」
突然来訪してきた聖人を、魔物の誰も咎められなかった。魔物達は、華奢で美しい金髪の少年でしかないはずの聖人に、気圧されていた。サリムの前に聖人が辿り着くまでに、何人もの魔物が聖人に手を出そうとしたが、彼を目にしてそれを果たせるものは居なかった。
魔物とは真逆に位置する聖なる生き物。近くでその姿を目にするだけで、心には畏敬に近いものが芽生える。
それは魔物達がサリムに抱く感情に近いものだった。しかし、サリムには心酔できても、絶対的に敵対している教会の聖人が相手ではそうはいかない。魔物達は、聖人を見たときに己のうちに湧き出た感情を忌み、また少しでも畏れを抱いたことを恥じた。そんな事実を隠すように、遠目に聖人の様子を窺う者達の目は殊更敵意が滲む。
「あなたが、ここの魔物達を束ねているのですか」
サリムには、自分が束ねているというつもりは無かったが、自分を慕って魔物達が集まり、主だの王だのと崇めていることは知っていた。
「そうかも」
曖昧な返事に馬鹿にされていると感じたのか、聖人はほんの僅か眉を顰めた。
「一所にこんなに魔物を集めて、一体どういうつもりですか」
「なにも」
「何も企んでいないということは無いでしょう。カプドヴィエルの魔物の多さは、異常というほかありません。しかも、身を隠すでもなく、堂々と日の下を歩いている」
聖人はどこまでも生真面目な顔で、青い瞳に聖なるものの光を宿して、言葉を重ねる。
疑っても居ない顔だ。己は正しいと、教会は正しいと、己の立つ場所こそが美しいのだと信じきった顔。この世の全ては人間のために存在するのだと当然のように思っている、魔物達が最も嫌う類の人間。
それを嗅ぎ取った魔物達が色めき立ったが、不穏な空気を打ち破ったのは女性の声だった。
「聖人様! おいでになっていたのなら、お声をかけて下されば……!」
ドレスの裾を絡げて、小走りに入ってきたのは魔女公主だった。苛立つばかりの聖人とは違い、魔物も彼女には信頼に似たものを抱いている。彼女の登場によって、その場を包んでいた重苦しさは霧散した。
彼女は聖人の元まで駆けて行くと、膝を折って頭を垂れ、領主としての挨拶をしていた。聖人も丁寧に挨拶を返し、魔物には決して見せることのなかった柔らかな微笑を浮かべる。何人かの魔物がそれに見惚れて、仲間に見咎められた。
「領主殿には、この状況のご説明をお願い致します。これだけの数の魔物を集めては、謀反の疑いをかけられても致し方ない」
「そんな、そんな大それたこと、私どもは考えたこともありません!」
目を丸くした彼女は、本当にただの少女の様相だった。彼女が王に楯突くなど、この顔を見ればありえないことが分かるだろうというほどの、無垢な少女。
しかし領地を統括する人間として、勿論それだけで終わるわけにはいかない。顔から幼さを消し去り、彼女はすぐに弁明した。
「カプドヴィエルの地に住まう魔物は、決して人間に害を為しません。たとえ何事かあったとしても、それは人間が人間を害するよりも少ない割合なのです。聖人様、この地では、人間と魔物の区別など必要ありません。我々は素晴らしき隣人として、分かりあい、共存することができるのです」
心の底から思っているとわかる声音に、聖人は麗しい顔を険しくした。
「その思想は危険です。どんなに飼い慣らされた犬でも、主人に咬み付くことが絶対に無いとは言い切れません。別の種族の生き物と完全に分かり合えるなどというのは、残念ながら夢想に過ぎないのです」
「聖人様、例えだとは分かっていますが、主人と飼い犬という表現は不適切でしょう。先ほども申し上げましたが、彼らは私達の隣人です。決して飼い慣らすべき家畜ではない」
彼女は、領民を守るのと同様に、魔物を守る発言をしていた。
部屋の隅から、あるいは扉付近を固めるようにして見ていた者達が思う。だから彼女は人間であっても信頼に足るのだと。
両者が一歩も引かない言い合いを続けた後、妥協案を提示したのは聖人の方だった。
「分かりました。それでは、本当にここの者達が人間と何ら変わりなく善意を持って行動し、王国の脅威にはなり得ないと判断できるまで、ここに滞在することにしましょう。少しでも問題があるようなら、私は即座に王都に戻って、陛下にご報告致します。異存はございますか」
「ありません。皆様もそれでいいかしら」
部屋をくるりと見回して掛けられた問いかけに、不満を表す声は上がらなかった。彼らは一様に満足すら覚えていた。自分たちを信頼し、温かく受け入れてくれる魔女公主に。
安寧は短かった。
聖人、リシュタンベルジェルが訪れてから僅か数ヵ月後、王国とカプドヴィエルの争いが始まり、それは魔物側――サリムの敗北で幕を閉じる。
約束を破ったのは魔物ではない。
聖人その人の利己的な感情によって、アルカデルト王国は崩壊の危機に瀕した。
利己的だが、人間も魔物も誰もが持ちえる感情、しかし聖人はサリムと接することで初めて抱いた感情。初めての想いは暴走し、聖人とまで謳われた己をも狂わせ、多くの人間と魔物をその犠牲にした。
それが友情なのか愛情なのか、単なる所有欲、独占欲なのか……本人にさえも自覚は無く、ただ彼は今まで慈しんできた世界よりも、サリム一人を選んでしまった。
カプドヴィエルに滞在するリシュタンベルジェルは、サリムの元を訪れることも度々あった。
サリムの側には常に多くの魔物が居る。また魔物を束ねる者であるサリムを知るのが、カプドヴィエルの現状を把握するのに適していると判断した為だ。
魔物の中にたった一人混じっていても、聖人は恐れをなすことは無かった。自分に本能的に畏れを抱き、魔物が手出しすることはできないという自覚があったからだ。
最初は警戒心も露にしていた聖人だが、幾度かサリムと言葉を交わせばすぐに分かる。
彼は例えば、カプドヴィエルの征服だとか、国家の転覆だとかいうことは狙っていない。
サリム自ら望むことなど何一つない。
ただ王と祭り上げられ、促されるまま椅子に腰掛けているだけ。
常に口元は微笑んでいて、その美しい顔を見ただけで心が蕩けそうになるが、彼は別に何事も楽しんではいない。
ただ美しいかたちをして、そこに座っている。
喋りかければ言葉を返してくる。
左右色違いの双眸と視線が交わる。
触れれば、いきものの体温を持っている。
けれどそれだけだった。
人形と表現するには、生々しすぎる美があり、けれど生き物というほどの渇望を持っていない。
彼が何かを本気で求めることなどあるのだろうか。
そうだとしたら、それは一体何で誰なのだろう。
繊細な指先が自ら求め、その瞳に飽きることなく映し、惜しみない熱のある言葉を注ぐのは、一体どういう存在なのだろう。
幾度か顔を合わせるうち、聖人の心に湧き上がって来たのはそんな疑問だった。
他愛のない疑問のはずだった。
望めば全てを手に入れられるはずなのだ。サリムという魔物は。
多くの魔物を従え、誰もが彼に心酔する。剣を握って戦う姿を見たことが無くとも、魔物たちの態度でサリムがいかに傑出した存在なのかは分かる。
それでも何も望まない彼に、聖人は奇妙な感慨を覚える。
力に溺れたりしない高尚さと、贅の尽くされた豪奢な部屋で何もしない怠惰の権化と。どちらでもあり、どちらでもない。
彼はたった一人で世界が完成しているようだった。
ほかに何もなくても問題が無く、何かがあっても問題が無い。
サリムをサリムたらしめるのはただその存在のみで、他の干渉などあったところで一切の影響を受けはしない。
そんなことあるはずがないのに、サリムを見ているとそうとしか思えないことが、聖人には往々にしてあった。
そんな彼の内側に入り込むことができたのなら、それはどんな心地なのだろう。
それこそ、サリムという世界ひとつを手に入れるのに等しいのではないだろうか。
滞在する日数が増えるにつれて、聖人の思考は一色に染め上げられていく。
リシュタンベルジェルは生まれてこの方、何かに執着をしたことがなかった。
人間全てを愛していたし、世界を慈しんでいた。そのような気質も含めて、聖人と呼ばれるに相応しい生活だった。
何もかもが美しかった。
人が困っていたら助けるのは当然で、自分に何かできるのなら喜んで手を貸した。何もできなかったとしても、悲しみを分かち合うことはできるのだと寄り添った。
賞賛よりも笑顔を貰えることが幸せだった。
何一つ足りないものなど無い。満ち足りている。
そんな聖人の世界は、サリムという魔物の存在を知ったことで、崩壊した。
全てを愛しているというのは即ち、何一つ愛していないに同義でしかないのだと、リシュタンベルジェルは気付く。
たった一つを求める激しい感情の前に、全てなどという大枠で括られた雑多な対象物は無意味だった。
自分でも無意識の内に、少しでも彼に近付こうと様々な話を振り、笑顔を作り、努力をする。
例えその反応が曖昧な微笑で、意味のある返答などほとんど無くとも、拒絶されない、それだけで満足だった。
それが一転したのは、ほんの一瞬のこと。
ある日聖人がサリムの元を訪ねると、そこには先客が居た。
サリムと話をしているのは、魔女公主。傍らにはセルジュが控えていた。
三人で話をしているというよりは、セルジュと魔女公主が何かの話をしていて、それをサリムがぼんやりと聞いているようだった。
ふと、サリムの顔が綻んだ。
彼が微笑むことなど珍しくも無い。本心など読めない、形だけの微笑なら幾度も目にした。
しかしそれとは違う。ほんの僅か、けれど確かに、サリムは笑っていた。
リシュタンベルジェルがそれまで目にしたことのない表情だった。
嫉妬した。
許せなかった。
なぜ。なぜそんな顔を。
きっと自分なんかでは一生かかっても見ることができない顔だ。
あの二人が、なぜそれを得られるのか。
あれが。あの二人が――かつて聖人の考えた、サリム自らが求めるものだというのか?
激しい混乱と、衝撃で頭が泥色に濁り、荒れ狂い、胸の内に炎が生まれる。
初めて味わう、あまりに激しい衝動。
身の内で猛り狂う炎の鎮め方を、聖人と謳われた少年は知らなかった。
――己の内に湧き上がった炎で、何もかも跡形も無く焼き尽くしてしまうことしか、できなかった。
カプドヴィエルの領主は魔物を率いて国家転覆を狙う魔女である。
聖人の言によって国軍がカプドヴィエル制圧に動き、対する魔女公主も人間と魔物の混合軍で対抗。サリムが戦地に赴いている間に、魔女公主は自軍の兵士である人間の裏切りによって殺害される。
人間に害をなさない、そう約束を交わした人間が居なくなったことを契機に、サリムは暴虐の限りを尽くした。
サリムの前に敵として立った人間は一人残らず殺され、死体の山が築かれる。悪魔と呼ばれるに相応しい、比類なき圧倒的な力でもって、アルカデルト国軍は壊滅寸前まで追い込まれた。
ほとんど虐殺と言うべきその勢いは、サリムが聖女の手によって裁かれるまで続いた。
百年前の戦いの顛末。
そこには意味も正義も存在はしなかった。
サリムはその地の外れの森にある屋敷で暮らしていた。その頃はまだ周囲に集う魔物もおらず、広い屋敷はサリム一人のものだった。元々は人間の持ち物だったらしいが、サリムが見つけた時には既に打ち捨てられて久しいようで、風雨に晒され朽ちるに任せるといった状況だった。
腹が空けば果実の成る木を探したり、獣を狩って食らうこともあったが、それはまれなことだった。頻繁に食事を摂らなくても、滅多に空腹を感じることはなく、人間のような美食の愉しみも知らない。
ある時、サリムは屋敷の前に少年が倒れているのを見つけた。全身傷だらけで、服も破れ、長い銀髪は泥で汚れていた。
生きているのか死んでいるのか、サリムは少年の前に立ったまま、じっと見下ろしていた。
暫くそうしていると指先がほんの僅か動いた。死体ではなかったらしい。
「何してるの」
無感動な声で訊ねると、少年はひどく緩慢な仕草で頭をもたげて、眼前に立つサリムを見上げた。開けるのも辛そうだった金色の瞳が見開かれ、少年の口から呻き声のようなものが漏れる。
「……申し訳、ありませ……」
掠れた声に、サリムは首を傾げた。
「俺は謝れって言った?」
「……すみませ、ん……」
浅い息の下から少年は再び謝って、震える腕を地面について起き上がった。どれだけ怪我を重ねたのか、地面には血の跡が黒い斑模様を描いている。
「俺の、ような……弱い、魔物が、この地を訪れても……、それだけで迷惑なのだ、と……」
苦しいのか、少年はそこで喉から引きつったような音を出して何度か咳き込んだ。サリムは手を貸すことも心配することもせず、最初と同じように立ったままそれを眺める。
「俺よりも、ずっと強い魔物達、に……、帰る様にと……」
肩で息をしながら、彼は気丈にも立ち上がろうとした。
「帰るの」
「……いいえ……」
「なぜ」
「こんな目に会う度、逃げていたら、俺の居場所なんてどこにも……」
自分より弱いものに目をつけては、憂さ晴らしのように虐げて遊ぶ連中はどこにでもいる。魔物にも、人間にもだ。
あまりにもささやかな力しか持たない目の前の少年が、どこに行っても目をつけられるだろうとはサリムにも分かった。
よろめく足で少年が立ち上がる。顔色は悪く傷だらけで、衣服も酷い有様だが、サリムを見る猫のような瞳に卑屈さは無い。どれだけ虐げられても屈しない、高潔な光があった。今は弱くとも、長ずれば恐らく相当な力を得るだろうと予感させられた。
彼を理不尽な目に遭わせた魔物達は、きっとこの不屈の眼にも苛立ちを覚えただろう。媚びずおもねらず、毅然とした姿勢は、弱者を苛める魔物などには決して手に入らない、美しいものだから。
「なら、来れば」
「は」
喋るのも苦痛であるような怪我をしていても、サリムの質問には答えていた少年が、何を言われたのか分からないといった様子で固まった。
「俺と居れば、そういう目には遭わないと思うけど。いや?」
深く考えたわけではない。ほとんど気紛れのような言葉だった。
少年は数回瞬きをしてから、思い切り首を振った。青白かった顔に僅か血の気が差す。
「とんでも、ないです……、でも、どうしてあなたみたいなひとが、俺なんか……」
彼としては当然の疑問だったろう。傷だらけの弱い魔物と関わったところで、何の得も無い。
サリムは小首を傾げてから、口を開いた。
「だって死ぬじゃない」
見たままを述べただけだった。傷だらけで、顔色が悪く、立つのもやっとの状態で。このまま一人で居ても、また魔物に絡まれたりすれば、そう遠くない未来、いずれ死んでしまう。
心配や同情はない。ただサリムは、少年が同じ屋敷に住んでいたところで特に迷惑ではないし、たとえば少年と一緒に居ることで他の魔物にとやかく言われることがあったとしても、打ち負かすことができる。自信と言うよりは、それが当然で、事実だった。
同居した上で不都合が出てきたなら、放り出すなり殺すなり、その時にすれば良い。
「好きにして」
少年は理解が及ばないのか、納得できない様子だったが、サリムが屋敷の扉を開いて振り向きもせずに入っていくのを見ると、覚束ない足取りで後を追ってきた。
セルジュと名乗った弱い魔物との共同生活は、概ね快適だった。
サリムに恩義を感じているのか、傷もろくに癒えないうちから、荒れ放題の屋敷を掃除したり、食事の支度をしたり。それでいて過度に接触を持つわけではなく、あくまで態度は控えめだった。屋敷内が少し過ごしやすくなったこと以外、サリムの生活は平穏で何も変わらない。
もう一つ変わったことがあるとすれば、寝台の広さだ。
広い屋敷の中使っていない部屋は幾つもあり、セルジュには好きに使えと伝えてあった。しかし敵を警戒しながら眠る生活が長かったのか、よく眠れないようでいつまで経っても顔色が優れない。
そのため、サリムはセルジュと寝台を共にすることになった。強大な力を持つ魔物が、自分の味方として側に居ることで、セルジュは落ち着いて眠れるようになったらしい。共に眠るのが習慣になった頃には、すっかり顔色は改善されていた。
陽の差し込む部屋で、何をするでもなくソファで足を組んで座っていると、サリムの耳に激しい物音が届いた。壁が崩落したような音は、尋常ではない。元々廃墟のような有様の屋敷だが、それでも自壊するほどではなかった。
続いて何か争うような声が聞こえてくる。叫ぶような声はセルジュのもの。それと、聞いたことのないだみ声が複数。
セルジュは、荒れた庭を片付けると言って外に出ているはずだった。
しばらくぼんやり座っていても争う声と物音はなかなか収まらない。騒がしい。
ゆっくりと立ち上がり、サリムは音のする方へと向かった。
庭に出ると、見たことのない体格の良い魔物が三人居た。壁を背に座り込むセルジュを取り囲むようにしている。傍らの壁が崩れていた。元々傷んでいたせいで、ちょっとした衝撃で崩れてしまったのだろう。
「サリム様」
セルジュが動揺した声で呼んでくる。服は破れ、最初に屋敷の前に倒れていた時を思い起こさせる風体だ。太腿のあたりが大きく裂けて、血が流れている。
「何してるの」
淡々と聞くと、セルジュを囲んでいた魔物の一人が汚い声を上げる。
「何だお前? 見せもんじゃねえぞ。とっとと失せろ!」
「いいじゃねえか。女でも見たことないぐれえ綺麗な顔してるしよ。こんな上玉そうはいねえぜ」
下卑た笑い声を上げた魔物は、次の瞬間首から血を吹き出して、声にならない奇妙な音を発しながら地面に倒れた。
サリムは、その男の腰から抜いた剣から血を払う。
セルジュを含め、魔物達は何が起こったのか分からない様子で唖然としていた。
「てめ……」
残る魔物がサリムに飛びかかろうと動きを見せたが、サリムの握る刃が煌く方が早かった。
一瞬で魔物達は切り伏せられ、地面に血の染みを黒く広げていく。サリムは剣をぞんざいに放り捨てた。
争う音が消えて、異様に静かになったように感じられる中、剣が地面にぶつかる音が響く。
圧倒的かつ一方的な殺戮にセルジュは茫然としていたが、サリムが視線を向けるとのろのろと口を開いた。
「あ、……ありがとうございます」
「べつに」
「申し訳ありません、手を貸して頂けませんか」
手伝ってセルジュを立たせてやる。太腿から流れる血は止まらず、近くで見ると彼が青白い顔をしているのがよくわかった。
後に知ったことだが、セルジュに絡んでいた魔物は、この辺りでは力のある部類であったらしい。この一件でサリムの名が知れることとなり、自信のある手合いに絡まれることが幾度かあったが、その何れもを軽く退けた。
非情なまでの強さを誇り、けれど害をなさない相手に手を出すことは無い。何事にも無関心な振る舞いは身勝手にさえ見えたが、それさえ含めてサリムには惹かれずにはいられない魅力があった。
傑出した強さと美しさを持つ魔物の名は瞬く間に広まり、やがてサリムを王と崇めるものたちがカプドヴィエルに集まるようになった。
セルジュが青年になった頃、サリムはカプドヴィエルの悪魔と呼ばれるまでになっていた。
仲間たちと剣を交わし、日々鍛錬していたセルジュの成長には目覚しいものがあった。悪魔の片腕として誰からも認められるようになり、最早彼に軽々しく手出しできるような相手は居ない。
アルカデルト国内でカプドヴィエルは最も魔物の多く住まう地になり、それを感じ取った人間たちには緊張した空気が流れるようになった。
両者の間で諍いが起こらなかったのは、当時の領主が単身サリムの屋敷へ訪れるという暴挙に出たからだ。
彼女こそが、後に魔女公主と呼ばれることになる女性だった。
丸さの残る頬に、勝気でありながら聡明さを宿した、少女らしい大きな瞳。波打つ栗色の髪を頭の上で結わえていた。
彼女が初めて訪れた時は、まるで魔物を従えているように見えた。従者もつけず一人毅然として歩く彼女の後ろを、ぞろぞろと大勢の魔物がついてくる。実際には、魔物達は好奇心、あるいは敵意の眼差しを彼女に注いで、後ろから、あるいは横から覗き込んでいたに過ぎない。そんな状況にあっても、彼女は怖気づくことなく背筋を伸ばしていた。
魔物達が彼女に手を出さなかったのは、事前に届けられていた手紙によって、サリムが彼女と会うことを承諾していたからだ。その手紙も、人間に紛れて生活していた魔物の手によって届けられた。
サリムの側に無断で人間が近付くことなど、周囲の魔物が許さない。彼女のやり方は賢明だった。
人間ごときが何の用だと思いながら、サリムが彼女の来訪を認めた以上、魔物達は彼女に手出しできないのだ。
その日、彼女の提案によって、カプドヴィエルに住まう魔物と人間のあいだに協定が取り決められた。
カプドヴィエルに魔物の居住を許す代わりに、魔物は決して人間に害を為さない。
サリムは元来魔物にも人にもほとんど興味がなかった。取り巻きの魔物達の間では、なぜ人間とそんな約束を、と反感を持つ者も居たようだが、大多数に異論は無いらしかった。人間が魔物を迫害しないのなら、敢えて事を荒立てる必要は無い。魔物も人間も、相手が先に手を出してくるから互いを忌むのだという認識は共通していた。
相手が協定を破ることがあれば、その時こそ大手を振って敵を殲滅できる絶好の機会となる。初期こそ両者がそんなことを考え、緊張した空気はあったものの、何事も起こらない日々が続けば打ち解けるのは早かった。元々、人間に紛れて暮らしている魔物が多く居た土地だ。その規模が少し拡大しただけにすぎない。
その協定が交わされてから、カプドヴィエルはアルカデルト国内で最も魔物が集まる地でありながら、両者の関係が最も穏やかな地となっていた。
魔物が無差別に人を襲うようなことは決して無く、人と魔物の間にいざこざがあった時にも、人間間でのそれと同じように裁かれる。理想的なまでに、両者が平等で、良好な関係だった。
それでも、魔物が多く棲むという事実を、教会は放ってはおかない。実態を調査するための神官が度々派遣されて来たが、人間が魔物を売るような真似をすることはなかった。その頃には最早、魔物と人間は共存できる隣人となっていた。
魔物の巣窟となっているという噂がありながら、街中にそのような荒れた空気は無い。神官達は腑に落ちないものを抱えながらも、教会に帰るしかなかった。
そしてついに送られて来たのが、王都アルケードで聖人と讃えられるリシュタンベルジェルだった。それが正に、カプドヴィエルの運命が狂いだした瞬間だった。
どれだけ人間と同じ姿形で、人間と同じように生活していても、聖人の目には相手が魔物であることなど一目瞭然に違いない。カプドヴィエルの街を見渡して、お綺麗な聖人は今にも卒倒しそうな蒼白な顔をしていたと、魔物が面白おかしく報告してくるのをサリムは聞いた。
その翌日、聖人本人がサリムの屋敷に乗り込んできたのは、誰もが予想していないことだった。
「お初にお目にかかります。私はラヴィス・リシュタンベルジェル。王都の神官です。お名前を伺っても?」
「サリム」
突然来訪してきた聖人を、魔物の誰も咎められなかった。魔物達は、華奢で美しい金髪の少年でしかないはずの聖人に、気圧されていた。サリムの前に聖人が辿り着くまでに、何人もの魔物が聖人に手を出そうとしたが、彼を目にしてそれを果たせるものは居なかった。
魔物とは真逆に位置する聖なる生き物。近くでその姿を目にするだけで、心には畏敬に近いものが芽生える。
それは魔物達がサリムに抱く感情に近いものだった。しかし、サリムには心酔できても、絶対的に敵対している教会の聖人が相手ではそうはいかない。魔物達は、聖人を見たときに己のうちに湧き出た感情を忌み、また少しでも畏れを抱いたことを恥じた。そんな事実を隠すように、遠目に聖人の様子を窺う者達の目は殊更敵意が滲む。
「あなたが、ここの魔物達を束ねているのですか」
サリムには、自分が束ねているというつもりは無かったが、自分を慕って魔物達が集まり、主だの王だのと崇めていることは知っていた。
「そうかも」
曖昧な返事に馬鹿にされていると感じたのか、聖人はほんの僅か眉を顰めた。
「一所にこんなに魔物を集めて、一体どういうつもりですか」
「なにも」
「何も企んでいないということは無いでしょう。カプドヴィエルの魔物の多さは、異常というほかありません。しかも、身を隠すでもなく、堂々と日の下を歩いている」
聖人はどこまでも生真面目な顔で、青い瞳に聖なるものの光を宿して、言葉を重ねる。
疑っても居ない顔だ。己は正しいと、教会は正しいと、己の立つ場所こそが美しいのだと信じきった顔。この世の全ては人間のために存在するのだと当然のように思っている、魔物達が最も嫌う類の人間。
それを嗅ぎ取った魔物達が色めき立ったが、不穏な空気を打ち破ったのは女性の声だった。
「聖人様! おいでになっていたのなら、お声をかけて下されば……!」
ドレスの裾を絡げて、小走りに入ってきたのは魔女公主だった。苛立つばかりの聖人とは違い、魔物も彼女には信頼に似たものを抱いている。彼女の登場によって、その場を包んでいた重苦しさは霧散した。
彼女は聖人の元まで駆けて行くと、膝を折って頭を垂れ、領主としての挨拶をしていた。聖人も丁寧に挨拶を返し、魔物には決して見せることのなかった柔らかな微笑を浮かべる。何人かの魔物がそれに見惚れて、仲間に見咎められた。
「領主殿には、この状況のご説明をお願い致します。これだけの数の魔物を集めては、謀反の疑いをかけられても致し方ない」
「そんな、そんな大それたこと、私どもは考えたこともありません!」
目を丸くした彼女は、本当にただの少女の様相だった。彼女が王に楯突くなど、この顔を見ればありえないことが分かるだろうというほどの、無垢な少女。
しかし領地を統括する人間として、勿論それだけで終わるわけにはいかない。顔から幼さを消し去り、彼女はすぐに弁明した。
「カプドヴィエルの地に住まう魔物は、決して人間に害を為しません。たとえ何事かあったとしても、それは人間が人間を害するよりも少ない割合なのです。聖人様、この地では、人間と魔物の区別など必要ありません。我々は素晴らしき隣人として、分かりあい、共存することができるのです」
心の底から思っているとわかる声音に、聖人は麗しい顔を険しくした。
「その思想は危険です。どんなに飼い慣らされた犬でも、主人に咬み付くことが絶対に無いとは言い切れません。別の種族の生き物と完全に分かり合えるなどというのは、残念ながら夢想に過ぎないのです」
「聖人様、例えだとは分かっていますが、主人と飼い犬という表現は不適切でしょう。先ほども申し上げましたが、彼らは私達の隣人です。決して飼い慣らすべき家畜ではない」
彼女は、領民を守るのと同様に、魔物を守る発言をしていた。
部屋の隅から、あるいは扉付近を固めるようにして見ていた者達が思う。だから彼女は人間であっても信頼に足るのだと。
両者が一歩も引かない言い合いを続けた後、妥協案を提示したのは聖人の方だった。
「分かりました。それでは、本当にここの者達が人間と何ら変わりなく善意を持って行動し、王国の脅威にはなり得ないと判断できるまで、ここに滞在することにしましょう。少しでも問題があるようなら、私は即座に王都に戻って、陛下にご報告致します。異存はございますか」
「ありません。皆様もそれでいいかしら」
部屋をくるりと見回して掛けられた問いかけに、不満を表す声は上がらなかった。彼らは一様に満足すら覚えていた。自分たちを信頼し、温かく受け入れてくれる魔女公主に。
安寧は短かった。
聖人、リシュタンベルジェルが訪れてから僅か数ヵ月後、王国とカプドヴィエルの争いが始まり、それは魔物側――サリムの敗北で幕を閉じる。
約束を破ったのは魔物ではない。
聖人その人の利己的な感情によって、アルカデルト王国は崩壊の危機に瀕した。
利己的だが、人間も魔物も誰もが持ちえる感情、しかし聖人はサリムと接することで初めて抱いた感情。初めての想いは暴走し、聖人とまで謳われた己をも狂わせ、多くの人間と魔物をその犠牲にした。
それが友情なのか愛情なのか、単なる所有欲、独占欲なのか……本人にさえも自覚は無く、ただ彼は今まで慈しんできた世界よりも、サリム一人を選んでしまった。
カプドヴィエルに滞在するリシュタンベルジェルは、サリムの元を訪れることも度々あった。
サリムの側には常に多くの魔物が居る。また魔物を束ねる者であるサリムを知るのが、カプドヴィエルの現状を把握するのに適していると判断した為だ。
魔物の中にたった一人混じっていても、聖人は恐れをなすことは無かった。自分に本能的に畏れを抱き、魔物が手出しすることはできないという自覚があったからだ。
最初は警戒心も露にしていた聖人だが、幾度かサリムと言葉を交わせばすぐに分かる。
彼は例えば、カプドヴィエルの征服だとか、国家の転覆だとかいうことは狙っていない。
サリム自ら望むことなど何一つない。
ただ王と祭り上げられ、促されるまま椅子に腰掛けているだけ。
常に口元は微笑んでいて、その美しい顔を見ただけで心が蕩けそうになるが、彼は別に何事も楽しんではいない。
ただ美しいかたちをして、そこに座っている。
喋りかければ言葉を返してくる。
左右色違いの双眸と視線が交わる。
触れれば、いきものの体温を持っている。
けれどそれだけだった。
人形と表現するには、生々しすぎる美があり、けれど生き物というほどの渇望を持っていない。
彼が何かを本気で求めることなどあるのだろうか。
そうだとしたら、それは一体何で誰なのだろう。
繊細な指先が自ら求め、その瞳に飽きることなく映し、惜しみない熱のある言葉を注ぐのは、一体どういう存在なのだろう。
幾度か顔を合わせるうち、聖人の心に湧き上がって来たのはそんな疑問だった。
他愛のない疑問のはずだった。
望めば全てを手に入れられるはずなのだ。サリムという魔物は。
多くの魔物を従え、誰もが彼に心酔する。剣を握って戦う姿を見たことが無くとも、魔物たちの態度でサリムがいかに傑出した存在なのかは分かる。
それでも何も望まない彼に、聖人は奇妙な感慨を覚える。
力に溺れたりしない高尚さと、贅の尽くされた豪奢な部屋で何もしない怠惰の権化と。どちらでもあり、どちらでもない。
彼はたった一人で世界が完成しているようだった。
ほかに何もなくても問題が無く、何かがあっても問題が無い。
サリムをサリムたらしめるのはただその存在のみで、他の干渉などあったところで一切の影響を受けはしない。
そんなことあるはずがないのに、サリムを見ているとそうとしか思えないことが、聖人には往々にしてあった。
そんな彼の内側に入り込むことができたのなら、それはどんな心地なのだろう。
それこそ、サリムという世界ひとつを手に入れるのに等しいのではないだろうか。
滞在する日数が増えるにつれて、聖人の思考は一色に染め上げられていく。
リシュタンベルジェルは生まれてこの方、何かに執着をしたことがなかった。
人間全てを愛していたし、世界を慈しんでいた。そのような気質も含めて、聖人と呼ばれるに相応しい生活だった。
何もかもが美しかった。
人が困っていたら助けるのは当然で、自分に何かできるのなら喜んで手を貸した。何もできなかったとしても、悲しみを分かち合うことはできるのだと寄り添った。
賞賛よりも笑顔を貰えることが幸せだった。
何一つ足りないものなど無い。満ち足りている。
そんな聖人の世界は、サリムという魔物の存在を知ったことで、崩壊した。
全てを愛しているというのは即ち、何一つ愛していないに同義でしかないのだと、リシュタンベルジェルは気付く。
たった一つを求める激しい感情の前に、全てなどという大枠で括られた雑多な対象物は無意味だった。
自分でも無意識の内に、少しでも彼に近付こうと様々な話を振り、笑顔を作り、努力をする。
例えその反応が曖昧な微笑で、意味のある返答などほとんど無くとも、拒絶されない、それだけで満足だった。
それが一転したのは、ほんの一瞬のこと。
ある日聖人がサリムの元を訪ねると、そこには先客が居た。
サリムと話をしているのは、魔女公主。傍らにはセルジュが控えていた。
三人で話をしているというよりは、セルジュと魔女公主が何かの話をしていて、それをサリムがぼんやりと聞いているようだった。
ふと、サリムの顔が綻んだ。
彼が微笑むことなど珍しくも無い。本心など読めない、形だけの微笑なら幾度も目にした。
しかしそれとは違う。ほんの僅か、けれど確かに、サリムは笑っていた。
リシュタンベルジェルがそれまで目にしたことのない表情だった。
嫉妬した。
許せなかった。
なぜ。なぜそんな顔を。
きっと自分なんかでは一生かかっても見ることができない顔だ。
あの二人が、なぜそれを得られるのか。
あれが。あの二人が――かつて聖人の考えた、サリム自らが求めるものだというのか?
激しい混乱と、衝撃で頭が泥色に濁り、荒れ狂い、胸の内に炎が生まれる。
初めて味わう、あまりに激しい衝動。
身の内で猛り狂う炎の鎮め方を、聖人と謳われた少年は知らなかった。
――己の内に湧き上がった炎で、何もかも跡形も無く焼き尽くしてしまうことしか、できなかった。
カプドヴィエルの領主は魔物を率いて国家転覆を狙う魔女である。
聖人の言によって国軍がカプドヴィエル制圧に動き、対する魔女公主も人間と魔物の混合軍で対抗。サリムが戦地に赴いている間に、魔女公主は自軍の兵士である人間の裏切りによって殺害される。
人間に害をなさない、そう約束を交わした人間が居なくなったことを契機に、サリムは暴虐の限りを尽くした。
サリムの前に敵として立った人間は一人残らず殺され、死体の山が築かれる。悪魔と呼ばれるに相応しい、比類なき圧倒的な力でもって、アルカデルト国軍は壊滅寸前まで追い込まれた。
ほとんど虐殺と言うべきその勢いは、サリムが聖女の手によって裁かれるまで続いた。
百年前の戦いの顛末。
そこには意味も正義も存在はしなかった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】毒を飲めと言われたので飲みました。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃シャリゼは、稀代の毒婦、と呼ばれている。
国中から批判された嫌われ者の王妃が、やっと処刑された。
悪は倒れ、国には平和が戻る……はずだった。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
伯爵令嬢の秘密の知識
シマセイ
ファンタジー
16歳の女子高生 佐藤美咲は、神のミスで交通事故に巻き込まれて死んでしまう。異世界のグランディア王国ルナリス伯爵家のミアとして転生し、前世の記憶と知識チートを授かる。魔法と魔道具を秘密裏に研究しつつ、科学と魔法を融合させた夢を追い、小さな一歩を踏み出す。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる